「AIに相談相手」がわかる。

1年ほど前のこと。ある知人と話していて、とにかく、何でもAIに相談している
と言う話を聞いて、そういう人がいるのかとちょっと驚いていた。
そんな役に立つ答えを出してくれるのか?解決するのかな?
信じて大丈夫?とも・・・。そんな相談があるならば、友達や仲間に聞いた方が
良いのでは?とも・・・。でも、その知人は、かなり役に立っていると満足気で
そういう使い方、AIとの共同生活もあるのだと興味深く、その体験談を聞き、
でも、自分では他人事と思っていた。

今ではAIもその頃よりさらに進化。話題にならない日はないし、問いかければすぐ
答えが返ってくるその迅速性や答えの質も含め、人間と肩を並べるように
なってきた。いや、そのスピードとクオリティを考えれば人間以上だ。

まずは聞いてみると、確かに自分が思ってもいない答えを出して
くることもあり、発見もあったりするし、自分の知る世界がまだまだ狭い
答えは多様であることも実感する。

さらに、人には聞けないことを聞くのにも役立つ。
知人が相談相手と言っていたのがここだ。
そんなことは、誰にも聞けない・・ということにも、さらっと答えを
出してくる。
それが正解かどうかよりも、「どう思う?」と聞いてほしい。
そして、第三者としての声を聞いてみたい。そんな時に役立つ。
確かに、誰にも聞けない場合は、AIの答えに
救われたり、前向きになれたりするものだ。
もちろん、自分の問いかけ方によって答えも変わってくるので、
注意は必要。

誰にも聞けないとき、誰にも聞けないこと・・・。
AIはまるで、自分だけのために語っているかのように、瞬時に
回答をくれる、頼れる相談相手にもなる。

最近見たある広報誌の特集に、「AIは、いずれまじないツールになるかも?」
という記載があったが、まさしく!と思った次第。

前向きになるために、自分が元気に生きるために、うまくつきあう。
AIは、ときに人間よりもやさしく寄り添ってくれることもあるのかも。
適切に、うまくつきあっていければいい。
そして、AIを見習って、もっと自分自身が、AIに頼らない学習も
重ねていこう。





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いいづらいことを言う。

ずっと悩んでいること。
ずっと考え続けていること。
言うか言わないか。
そんなことで紋々とすることもある。
そんな小さなこと、そんなどうでもいい。
言わずに自分の中にしまっておこうか。
いや、それでも、やっぱり・・・。

忙しく日々動き続けていると、
悩む時間もなく、
他事に時間をとられ、気が紛れて、
もういいかと思えてくるが、
それでも、ふと立ち止まったときに、
やっぱり・・と思って また悩む。

そして、やっぱり、言うべきは言う。
という結論。
言わずに紋々とし続け、気分の晴れない
時間を過ごすのではなく、
ひとつづつ、ケリをつけること。

やはりそれが良い。
ということで、なかなか言いづらいことを
言う。
言い方、伝え方、タイミングはとても大切。

そんなこんなで、最近、言いづらいことを
伝えたら、相手から、とても感謝してもらえた。
相手はある店の方だ。サービス業20年のプロ。
「本当に言いづらいことを言ってもらえることが
ありがたいです。それを言わず、去っていかれる
お客さんもおられますので・・・。改善をして
まいりますね。」

この素晴らしい答えを聞いて、安心するともに、
言いづらいことを伝えるには、相手の受け止め方
がとても重要であると実感。
この人に伝えて良かったと、まずそのことで
安堵した。

受けとめられる器である、謙虚である、
それをどうしたらよいかを考えられる。
そんな人が相手であれば、いいづらいことを
言う価値がある。
信頼できる人である。

こちらも、さんざん話をした後で、
「本当に言いづらいことを言ってごめんなさい。
でも、みんなが良くなったらいいので。」
と、笑顔で別れた。

言いづらいことまで言える関係こそ、
本物かもしれない。

勇気が要るけれど、やはり言うべきことは、
しっかり伝えたい。そしてその真意、
心根をしっかり確認しあいたい。

と、この年になっても、
毎日コミュニケーションでもがいている自分。
ま、これも生きてる証拠なんだろう。


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日本人的サウダージは・・・

五木寛之さんの近著、すぐ読めそうなのに、結局途中で雑務に追われ
時間がかかってしまった。本は一度読み始めたら、一気にいかねば。

ご本人の半生はもちろん、最近のご様子から93歳でしか書けない
言葉も多く、いつの日も、この方の作品は読者の肩を叩き、ほどよい
安心を与えてくれるものだと今回もそう感じた。

とくに印象に残ったのは、(先日も少し触れたかと思うが)
人は自分のためではなく、誰かのために生きるということ。
五木さんの場合は、早くに亡くなられたお母様のために!生きる
のだそう。とても共感し、勇気づけられた。

さらに、前からずっと気になっていたポルトガルで学んだ
独特の郷愁、憂い。ファドに表現されている、あのけだるいような
悲しいような何ともいえない大人の悲哀・・サウダージについて。
これはロシアでいえば、「トスカ」という言葉があり、韓国ならば
「ハン(恨)」とその民族の歴史や気質などから生まれ、そして
暗黙の間に受け継がれている独特な精神性。
これは日本にはないのか?とずっと気になっていたが、
五木さんは「暗愁」がそれにあたると書かれており、新たな発見
をいただく。

これは若いときには感じない空気、感情、気分。
大人になり、年を重ね、いろんな複雑な経験をしながら、
自らの中に宿っていくもの。
ふっと心に吹く風のようなものともいえるかもしれないし、
ずっと自分の奥底にあり続ける感覚ともいえる。
そう、言葉にするのが難しい。ちょっとけだるく、重く、
憂いを帯びた、とても大人な感覚か・・。

ではあるが、五木さんの記述に触れ、確かに暗愁とは
決してネガティブな存在ではなく、
人生の最終楽章にふさわしい表現なのだとも
感じ、いずれ自分も、受け入れ深く理解する日が
来るのだろうと思った。

人間は言葉にできない感情を歌で表現することがある。
そうすることで、人生そのものを感じることもある。
ポルトガルでは、ファドでこのサウダージを表現
している。確かに伝わる。何とも言えない人生の深み・・。

それにしても、わかりやすい文章を書き続けておられ、
心から尊敬する。
描き続けることで、お母さまの分まで存分に生きて
おられる、素敵な人生を見習いたい。

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整える朝。

連休は休んだ分だけ、普段に戻るのがしんどいという方も
おられるだろう。
家族サービスも楽しいけれど、大変だ。
でも、家族の笑顔のためなら、というところだろうか。

明日からの満員電車、通勤渋滞を思うと、今日はそろそろ
平日モードに・・と遠出を控えたり、早めに休んで明日に
備えようという方もおられるかもしれない。

明日からパワー全開にするためには、今日からゆっくり
走り始めるという方もおられるだろう。

いずれにせよ、1日のはじまりは、朝が決め手だ。
朝をしっかり整えること。
どんなお疲れの時も それができると、1日を元気に
走り始めることができると思う。

そのためのツール。私の場合は、
ウェザーニュースなどの天気予報と、ラジオ体操。

天気予報は、今日の自分がいる、あるいは出かける場所の
天気の確認ももちろんであるが、全国各地や世界の天気を
知ることで、ああ、晴れる町も曇る町もあるのだと、
自然とともに生きている実感が湧いてくる。
また、世界の天気など知ると、訪れた街が蘇り、ああ、
今日は寒いんだと思い、ノスタルジーな気持にもなり、
出会った人の顔も浮かんでくる。


一方、ラジオ体操は、どんな時も元気な号令と笑顔と
しゃんとした姿勢の若者たちを見ながら、こちらも
自然に背筋が伸びてくる。
一緒にからだを動かしているうちに、元気が湧いてくる。
ああ、元気が一番だと思える瞬間。
これは、毎朝の儀式ともいえる。

自分を整える朝はとても重要だ。
そんなこんなで、平日モードへスィッチオン!
少し早めに動き始めるのが、気持いい。

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夢のエンドロール

高校の国語の授業で、ある文学作品を読んでいるときに、
「夢について」の記述があり、先生に
「これは、将来の夢という時の夢なのか、夜寝ている時に見る
夢なのか、どちらですか?」
だったか、
「夢って、将来の夢と、夜寝ているときに見る夢がありますが、
なんで同じ夢と言うのですか?」
といった質問をして、先生を困らせたことがある。

この問いの答えは、今でも、私にとっては謎のままである。
どちらも、Dreamと言う。

どちらも手に触れることができない世界。という点で共通している。
でも、将来への夢は、自分の行動次第で叶えることもできる。
でも、夜見る夢は、とにかく自分の意識と関係なく、
突然始まり、終わったらそのまま消えていく不思議な映画のようなもの。

今回は久しぶりにしっかり睡眠をとった。
おかげで、夢を2本も観てしまった。
ひとつめは、父と待ち合わせしていたが、会えなかった話。
ふたつめは、なぜかロシア行きの飛行機に乗ろうと知らぬ空港で
人と待ち合わせし、迷子になる話。

いずれも、ハッピーエンドではなく、夢で良かった。と言う話だ。

夢は自分の日頃の行動よりも、無意識と関係があると読んだことが
あるが、とにかくすっと消えていく映画のようで、とてもはかない
気持ちになる。

夢のエンドロールを勝手に想像し、音楽もつけてみたくなる。

こういった類いの夢は、あまり見なくていいかな。
夢で良かった・・・。というお話しは目覚めには良くない。

自分にはやはり、睡眠時間は短くて良いかも。

と思いつつ、父の思い出の余韻が残る朝。

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美しい人に。

真・善・美は、人間にとって、もっとも重要な価値だと、
このところ、このことについてよく考える。

世の中に、その逆があふれてきているから、なのかもしれない。
逆とは、偽・悪・醜。うーん。確かに。
これらにまみれていると、生きているのが、不安や不信にさいなまれ、
社会全体が不幸になる・・。とそう考えてしまう。
それでは生きる意味がない。
前向きに生きられる自分でいなければ。

そう考えていくと、行きつくのが、
真・善・美なる生き方だ。

ギリシャ哲学以来、今も受け継がれているこの真・善・美。
昨日記載した、「3」の意味からすると、この三者もつながっている。
それを目指して生きている人は、美しい。
単にビジュアル的にきれい、化粧が上手、という表面的な
ことではなく、生き方の美が内側からにじみ出ているのだ。

最近、ある漆作家さんに出会った。
その人の作品を見た瞬間、何か哲学的かつ宗教的なものを
感じた。まさに真・善・美を追求されているかのような作品
だと感じ取った。
そして、その作家さんご自身も、純粋な思いをもって
ご自身のテーマを大切に表現しようとされており、
そのひたむきさに高潔さと美しさを感じた。

そして、自分はどうかと改めてふりかえった。
自分は美しくなれるか?
なりたいと思う。
真実をもとめ、良きことをし、そして美しい生き方を
目指す。
人それぞれ、その美しさは違う。
その作家さんが、彼女の生きるステージで素敵に輝いて
いるように、
私自身も、自分の生きるステージでそうありたい。

と、追われる日々を俯瞰しながら、反省もしながら、
少しゆっくり考えされる朝に感謝して。

ひとりひとりが、真・善・美を目指したら、
世界は良くなる。そうなるように、まずは自分から。

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改めて「3」に注目する。

誕生日が12月3日ということもあり、「3」という数字には愛着をもち、
自己流の解釈で、特別な意味があると思ってきた。

音楽でいえば、三拍子のワルツも、楽しみから哀しみまで表現できる
情感豊かなリズムであるとして、それをテーマにしたオリジナルアルバムを
制作したこともあった。
また哲学でいえば、123はアウフヘーベン的思考の象徴であり、3は常に
発展を現すステップであると、ここでも、3のもつ無限の可能性に心寄せ、
自分が「3」という数字に縁があるのを誇りに思ってきた。

そんなこんなで、「3」は西洋的な価値感かと思いこんでいたが、
先日、大阪の国立文楽劇場にある資料展示室で、文楽の世界でも「3」
という数字を大切にしていることを知り、大変感激した。
文楽と言う世界を知らなかったため、今さら?の知識かもしれず、
大変お恥ずかしいが、文楽は「三業」という3つの役割で構成される。
その三業とは、物語を語る太夫、三味線弾き、人形遣い。この三者が
一体となり、作品を創り上げる。その三位一体は、人間の役者が
直接演じる個の力が際立つ舞台と違って、職人の合作による
歴史を越えた感動を生み出している。
これは三業の力によるのだそう。
(歌舞伎は文楽が発展して生まれた芸能だそう)

日本でも三種の神器と言われるように、古来から「3」とは
神聖な意味をもつ数字だったようだ。

人間関係でもそうだ。
三者いることで、安定した関係をつくることができる。
確かに、会議も二人きりでは成り立たない。

人生は1・2・3でうまくいく。

改めて「3」と世界の関係を探し求め、人生の奥行を
楽しみたい。






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二人の母をもつ人生

自分には義父、義母という存在はいないが、これは、社会制度上の親のこと。
結婚をすると、この関係も生じる。

最近はどうかわからないが、お嫁さんとお姑さんの関係が・・なんて、子どもの
頃はよく聞いた。結婚とは家同士の契約だから、相手方の両親との関係も生まれ、
同居するなんて、なんて大変なことだと他人事ながら、いつも思っていた。
昭和のドラマでも、よくこの関係が面白おかしく、描かれた日も懐かしい。
核家族化で、親との同居は減少したため、介護の在り方も変わってきたが、
少し前までは、また地域によっては、同居されているケースもある。

嫁と姑。
嫁にしてみたら、実母ではなく義理の母。
同居の場合、どんな気持ちで接し、暮らしていくのだろう。
葛藤もあるかもしれない。
うまくいく関係、そうではない関係・・・。それぞれあるが、
考えようによっては、実母より長くおつきあいすることにもなる。
まさに、二人目のお母さん。

実母と違う、義理のお母さん。
その人自身が、結婚する理由にはならないかもしれないが、
このお母さんだったら、大丈夫と言う判断もあるかもしれない。
お互いに好感を持てたら、うまくやっていける。
どうせ結婚するならば、そんな関係が良い。

長年、義母さんと同居してきた人の話を聞く。
「義母は、実母とは違う性格、生き方で、これも良かった。
母のこともわかる。でももう一人のお母さんがいることで
救われたこともある。自分の人生にとってありがたかった」
なるほど。
実母は生まれてからの関係。全力でぶつかりあう、遠慮のない
関係。義母は、互いにうまくやっていかねばと努力して成り立つ
社会的かつお互いに協力しながら、育んでいく関係。
努力も遠慮も気配りも必要であるが、それもご縁と関われば
幸せな人生になる。

二人のお母さんがいる。
と言う人生は、幸せなことかもしれない。

血のつながりだけで人は生きていくのではなく、
地縁含め、さまざまなつながりで助け合いながら生きる。
そして、心のつながり。

最後に、「ありがとうね」と言えたら、それでいい。
出会えば、皆、大切なファミリー。
ひとつひとつの出会いを、いかに大切に育むか。
だと思う。

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わが家のような通学バス?

雨の朝、京都の市バスに乗った。
学校の通学時間でもあったため、バスターミナルで
列をつくって待っていた学生さんたちが
次々と、少し遅れてきたバスに乗り込む。

毎日、こうやって並んで、バスに乗って学校へ
行くのか。
雨の日ともなれば、おっくうになることもあるかも。

私が乗ったバスは、かなり先に大学や学校が
あるため、そこに着くまでは、まるで貸し切りバス
のよう。でも実際には、一般の方も乗ってくるので、
貸し切りではない。

でも、毎日そのバスに乗るであろう学生さんたちは
一般のお客様がいるということはあまり気にしていない
のか、とにかくどんなに混雑していてもスマホを見たり、
また優先席にすぐ座って、眠り始める学生・・・。
そこに座って良いかなど、少し考えたり、遠慮したり・・
は今どきの学生にはないのか。であれば、優先席自体が
意味がなく、椅子の横にいろいろ掲示している注意書きも
見られず、無駄なシールに見える。

手元のスマホは見るけれど、周囲へは目も向けず・・・。
約40分~50分。混雑したまま重いバックを肩にかけて、
一緒に乗った。スマホを出してみるのもどうかと思い、
じっと立っている。主なバス停ごとにまた学生が乗り
混んでくる。友達がいたら、無理して前の方に移動して
くる学生もいて、混んでいる車内の移動はひと仕事。
そういえば、学生は、学校へ行く前に勉強をしないのか?
予習とか、復習とか?スマホに教材データも入っているの
だろうか?
ふと、いろんな疑問が湧いてきた・・。
ずっと仲良しの学生とまるで喫茶店で話しているような会話を
普通にしているが、横の学生は、スマホを見ているし、
イヤホンをしているので、まったく人のことは関係がない。
というこのバス空間にいて、わたしにとってはまったくの非日常
体験となった。

電車で化粧をする、食事をする(長距離電車での駅弁とは違う)や
・・・。みんな、自分の家にいるように、くつろいでいる。
そんな若者がいることに驚いていた頃があったが、昨日は
新幹線の中でヘアアイロンをしている若者もいたな。
学生だから許されるのかもしれないが、
もう少し周囲の人に目を向けてほしいと思った。
と、そんな風に感じるのは ジェネレーションギャップか?

もう少し、人のことに関心をもって感謝をしたり、
譲りあったりしてほしいけれど。自分の手元のこと
や、自分の友達以外に無関心である状態は、
憂うべきことだと思う。

さすがに学校では、
いい大人になっている学生の生活指導はしないだろう。

連休が明けたら「もう無理~!」と聞こえてきそうな、不安な未来。
では、いけない。

明るい未来のため、もっと若いときから、しつけを
ちゃんとしておかねば。
と思うのは、年のせい?
いやいや、と思いたい。

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小さな挑戦の種まき。

1年前には取り組んでいなかったこと、思いもよらなかったこと。
まだ出会っていなかった人たち・・・。
この1年で出会い、ひらめき、交わり、そして行動へ。

今日も、新たな学びのプロジェクトがスタートする。
こんな展開になるとは・・・。
何でも始めるときは手探りで、やってみないとわからない。
でも、一生懸命進んでいくと、手ごたえを感じると、
そのまま止まることなく、次の挑戦に向かっている。
そういうものだ。

今回の取り組みは企業と学生さんとの連携。
まさに、産学の社会連携になる。昨年の取り組みから
さらなる深堀であり、現実に役立つものへと発展させていき、
実用を目指す。

企業には若い人たちに、学生時代だけではなく、社会人になっても
活かせる経験をしていただき、自らの人生に役立ててもらえたら
との思いがある。
そして、企業で働く人たちにも学生さんたちの新鮮なアイデアが
自らの日々へのよき刺激となり、やる気につながったら・・・。
お互いにとってのよき「学び」の場づくりだ。
関わる全員が、「やって良かった」となるために、
自分は、その結び目のお手伝いをさせていただく。

そんなわけで、今日はその正式なキックオフ。
ちょっと心地よい、なんともいえない緊張の朝だ。

これまで、いろんな種をまいてきた。
その種は決まった花を咲かせるのではなく、
そのプロセスにより、いろんな色に、カタチにへと
変化する。
そのことが楽しみでもある。

小さな挑戦を、またひとつ。
想像を超えた、化学反応が生まれるように。

そして、その過程も結果も、関わる全員が笑顔で
あるように。

4月も最終日、素敵な締めに、そして始まりに
なるように。

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