そこそこ、満足でいい。

原材料、光熱費、物流費、人件費の高騰・・・。
あらゆる業種、業界で良質な商品やサービスを安定供給し
続けることが大変困難、かつ先行き不透明という、かつて
ない恐ろしく不安なこの頃。
不安という気持ちは、先が見えないことから生まれる。
規模に限らず、どの企業の経営者にとっても、本当に
悩ましい事態。いかに生き抜くかについて、知恵を絞り
勇気をもって、自ら旗を振り続ける。本当に頭の下がる
役割である。
そして、不安を感じながら、日々仕事をし、家族を養い
暮らしている人々。
それぞれ葛藤がある。
みんなで乗り越えねば!一体感こそ、今の世の中には
求められる。分断は不要。


先が見えなくても、今を楽しく生きよう!と思うには、
今できることで、小さな楽しみをみつけること。
家族で、職場でささやかな歓び、共有のひとときを
もてることで、明日に向かってまた動き出せるのでは。
そこに今、注目しているし、自分自身も、
小さい発見、感動を意識しながら、生きたいと強く
思っている。

日々の暮らしで一番大切なことは、
食べること。
生きる限り食べなければならない。毎日、である。
「食」はその字のごとく、人に良いこと。人を良くすること。
からだにも、心にも、暮らしにも良い食を考えたい。
からだにいいモノ、健康になる食品を取り入れたい。
なんといっても、美味しく食べたい。楽しく食べたい。
これは誰と食べるか・・・が大きな要因。
お金をかけなくても、満足できる食事は可能だ。

久しぶりに大変お値打ちなイタリアンレストランに
出向く。近場のSCの中にある。
そこは全国チェーンでファーストフード並みに全国に
店舗を構えているが、正直 何十年も利用したこと
がなかった。
大きく括れば、ファミレスであるが、イタリアンで
ある。
利用してみようと思ったのは、店先でみたメニューに
刺激されたから。へ?エスカルゴやムール貝やワイン
がこんなありえない価格で?
どんなものを提供するのか、知りたくなった。

金曜の夕方。平日ではあるが、休みの前日ということ
なのか、ほとんど満席で驚いた。
同じSC内に入っている和食の店舗などはガラガラで
あるのに、この店だけが満員。
休日になれば、混雑し、空席待ちも当たり前かも
しれないが、平日なのに満席とは意外!
そして、家族連れ、ビジネスマン、外国人と客層も
幅広い。
オーダーはもちろんテーブルからスマホで。
とにかく料理が安すぎて、多めに注文しすぎても
罪悪感はないぐらい。
もちろん もったいない食事をしてはいけないので、
食べられる量を考えて、オーダーする。
ホールはディナータイムでも3名ほどのスタッフで
切り盛りする。料理を運び、皿を下げる。
かなり作業もシンプルに見える。
徹底的に計算されたオペレーションでこの価格が
実現できているのかと、店内すみずみまで、
感心することが多い。
そして、安価な料理を家族全員でわいわい言いながら
食べている風景を見ながら、いろんなことを思った。

エスカルゴも、ムール貝もそこそこ。
そりゃあ パリのレストランでいただく料理とは
食材も、調理も、食器も、雰囲気も、すべて
違うけれど、この価格ならば、満足。という気持に
なれるほど良い質。
ピザも200円台からとびっくりプライス。
もちろんサイズもトッピングも特大ではないが
種類も選べて、そこそこ。
隣のテーブルでは、パスタをとりわけして、家族で
たいらげる光景もあり、
いろんな人が、それぞれこの店へきて、財布にやさしい
食事を楽しんでいることを体感する。

同じエスカルゴでも、ピザでも、パスタでも、ワイン
でも、業態により、まったく違う。
それは当然であるけれど、お金をかけなくても
それなりの料理を楽しむことはできる。
もちろん、からだにいいものを選び取っていく
必要はあるので、安心できる店であるかの事前確認は
しなければならない。

たまに行くファミレスではなかなか満足できるメニュー
に出会えないけれど、このイタリアンは、相変わらず
の企業努力を感じる。
何十年も前、神楽坂の店に何度か通ったが、
今も、元気に全国で営業を展開している。

値段が違っても、食器が違っても
同じピザ、同じパスタ。
もちろん違うが、そこそこ美味しい。という世界を
知っておくことは必要だ。

いろんな家族の笑顔を見られたことも大きな
収穫となった。

同じピザでも、違う。
でも、そこそこ満足できる。
日常では、これで十分。

これに限らず、
小さな歓びをみつけ、日々を楽しく、生きられたらいい。

カテゴリー: Essay (Word) | そこそこ、満足でいい。 はコメントを受け付けていません

心の天気予報。

今週もあっという間に、終わっていく。
1週間前をふりかえってみると、今と違う心持ちで
過ごしていた。そして、あれから数日、毎日いろんな
場所で人に出会い、交流を経て、気が付けば、
先週とは違う自分がいる。

毎日、朝天気予報を見て、今1日の動き方を参考にするが、
天気は常に変わる。晴れる日も、雨降る日も、暑い日も、寒い日も。
常に変化のなかで、生きている。

同じように、心も変化しながら、生きている。
誰に会ったか、どんな会話をしたか、どんな時間を過ごせたによって、
心も天気のごとく 毎日変わっていく。
重くなったり、軽やかになったり・・・。

この1週間、顔を合わせ、話ができた人は、何十人。
オンラインでのコミュニケーションを加えたら、もっと増える。
そのひとり一人との時間により、自分の心も日々変化する。

あの人に会って、こんな言葉をいただいた。ともに笑った。
話しをきいてもらった・・・。思い起こすと、この1週間も
とても幸せな時間をいただいているなあと、感謝の気持ちが
あふれてくる。つらかったあの日が遠い過去・・・となる。
動くことが、人と会うことが、自分に変化をもたらすのだ。

心を天気にたとえてみる。
予報はなかなかむつかしいけれど、今日は曇りのち晴れ。
と、そんな風に1日1日を振り返ると、どしゃ降りの日があっても、
晴れの日も来ると思えてくる。
今日は降りそうだな。と思ったら、傘を用意する。
コミュニケーションの備えをする。
こんな風に言葉をかけてみようか、あれを話題にしてみようか・・
とコミュニケーションが傘になることもある。

心の天気は、常に周囲との関係で決まり、変化する。

今日を心晴れやかに、さわやかに過ごしたい。


カテゴリー: Essay (Word) | 心の天気予報。 はコメントを受け付けていません

共感と育む時間。

最近、30年以上おつきあいいただいているクリエイターの方たちと
久しぶりにお会いする機会を得ている。
頻繁に会うことはできないが、1年に何度か コーヒーでも飲みながら
仕事のこと、それ以外のこと、時間を忘れて、たくさん話す。

一緒に苦労してきた仲間とは、不思議なもので、わかりあっている
安心感がある。嬉しいときも、悔しいときも、励まし合って仕事を
してきた。
プロとして受けた仕事をやりきる。信念をもって進む。
自営業として、30年もやり続けている人たちとは、仕事に対する
姿勢も共通しており、妥協しない点も同じ。

いっぱい語り合った後は、いい笑顔でわかれる。

ほっこりしたり、すっきりしながら、帰る足どりも軽くなる。

長くつきあえる人とは、共通点が多いと思う。
人生への向き合い方、仕事への姿勢、プロ意識・・・。

そして根底に、揺るがぬ信頼関係がある。

20代のときの出会いを思い出しながら、
これからもずっとお互いに成長しながら、人生を楽しめたらと
思っている。
あの人がいるから、この人が自分も生きられる、がんばれる。

共有よりも、共感。を心から大切に。


カテゴリー: Essay (Word) | 共感と育む時間。 はコメントを受け付けていません

悔いなきコミュニケーション。

どうしても、言っておきたいこと。
言わなきゃいけないこと。
そうでなければ、あとで悔いが残る。
そんな場合は、ちゃんと伝えた方が良い。
ちょっとの勇気や、ダメもとのことはあるかもしれないが、
一度きりの人生、そんなことは一度や二度、いやもっと
あってもいい。
もちろん、相手のことも考えた上で。
伝えたいことがあること自体が、生きている証拠。

一方、これは言わない方が良いと思えること。
そういうことも時にある。
自分の胸にそっとしまっておく。
あるいは、そっと心の消しゴムで消しておく。
これも、相手のことを考えた上で。

今日はこれで良かっただろうか?
毎日、その日のコミュニケーションをふりかえってみる。
毎日、小さなことの繰り返し、積み重ね。
それで1日が過ぎていく。
コミュニケーション不要の日は、ほとんどない。
人と関わると、
恥ずかしいこともあれば、うれしいこともあれば、
まだまだと思うこともあれば・・・。
いろいろあれど、とにかくしっかり相手と向き合うこと。
人と人の間をつなぐものが、コミュニケーション。
生きる限り、ついてくる。

誠実に、自分に素直に。
悔いなきコミュニケーション。

今日もいっぱい人に会う。
すべて笑顔になって、限られた時間をともにしたい。

カテゴリー: Essay (Word) | 悔いなきコミュニケーション。 はコメントを受け付けていません

だんだんわかる。

若い時は好きでなかった、興味がなかったものが、
大人になると、今になると、しみじみ良さを感じる。
そんな瞬間は 何か新たな発見をしたようで、
人生お得な気分にもなる。

たとえば、モーツアルトのピアノ曲。
レクイエムは、初めて聴いた高校生のとき、
あまりに衝撃的で度肝を抜かれた。
その後、映画も何回も観たせいか、すっかり体内に沁みこみ、
死への恐怖をもつようになったのは、この曲の影響でもあるほど。

一方、ピアノ曲は、どうもきれいすぎて、軽快すぎて、
人生はつらいもんだと思っている人間にとっては
なかなか入ってこない。
貴族が喜ぶ上品な世界。というイメージで、
自分には関係ない世界?
自称ベートーベン派?の自分には響いてこなかった。
テストの課題曲によく出てきたぐらいで、
好きで弾くのではなく、義務的に練習をしていた。
大人になってから、ほとんど弾かなかった。

ところが、約40余年ぶりにMozartのソナタの楽譜を
辿って、弾いてみる。
なんと、美しいのだろう。あれ?いいじゃん。
鍵盤の上をコロコロと指が舞うような 規則正しいリズムと
よどみのないメロディー。濁った和音はない。
とにかく美しいのだ。
Mozartって、やっぱり天才だったのだ。
若さあふれるけれども、天上の音楽のように別の世界を
感じる。神童だ。まさしく・・・。

と、若い頃は理解できなかった世界が、今はすっと入ってくる。

音楽は時代とともにスタイルを変える。
音楽は世相を反映する。
ベートーベンより少し前に生まれたアマデウス。
世界を知ると、歴史を知ると、その当時の作曲家たち
のことも想像できる。
曲は立体的に、語り掛けてくる。
今回、Mozartとの再会は、とてもうれしい時間となった。

Mozartだけではない。今になってわかるものが増えている。
知られていない曲にも、素晴らしい曲は多数ある。

だんだんわかる。
これは生きる楽しみが増えるということかもしれない。

Mozartに限らず、日本の歌謡曲もだんだんわかる。

音楽は時代とともに、社会とともにある。

これからも、もっと、だんだん!を増やしていきたい。




カテゴリー: Essay (Word) | だんだんわかる。 はコメントを受け付けていません

バラ友からの摘みたてカーネーション

昨日は母の日であった。もうこの5年、贈る人もそばにおらず、買うこともなく
なったカーネーション。カーネーションといえば赤、ピンク。
町の母の日イベントを見るにつれ、時代の移ろいも感じつつ・・・。

ちょっと用事があって待ち合わせをした友人が、
「マーサさん、庭に咲いていたカーネーションを摘んできましたよ」
とティッシュで濡らしサランラップでくるくる巻きにした1輪のカーネーションを
袋に入れて大切に持ってきてくれた。

その人とは、バラのマークのある店の閉店がきっかけで出会ったため、
「バラ友」と呼びあっているが、今日はカーネーション。
「バラ友だけど、今日は母の日なので、カーネーションね」

その人のお母さんではないけれど、積み立てのカーネーションをいただく
とは感動。生まれて初めてもらったカーネーション。

まずは、実家の母親の写真の前に供え、それから持ち帰り、
鹿児島で出会った不思議な縁起物の間に置いてみる。
なんとも愛らしく、やさしい花、心が丸くなる。
大切にさせていただこう。

昨日は日本中で、いろんな感謝の交流があったことだろう。
もちろん、自分も、姿が見えなくても
「ありがとう!」の気持ちで、1日を過ごした。

小さな一輪の摘みたてカーネーションのおかげで、
心も軽く、やさしい気持で過ごせた素敵な1日となった。

バラ友に出会ってまもなく2年になる。出会いに感謝!

カテゴリー: Essay (Word) | バラ友からの摘みたてカーネーション はコメントを受け付けていません

哀愁を感じる町 OSAKA。

先日、五木寛之さんが書かれた「暗愁」とポルトガルのサウダージへの
共感について触れたが、それに近い感覚ではあるが、もう少し手前に
存在するような感覚として馴染み深い「哀愁」。

昭和のヒット曲のタイトルや歌詞にも出てくる、音楽と相性が良い言葉。
そういえば、「哀愁のカサブランカ」という曲もあった。タイトルだけで
ドラマを想像し、惹きつけられる。
哀愁・・悲しみや寂しさや懐かしさなどが入り混じった、心の奥底に
眠っているような感覚。若い時代のことを、あとで振り返ったときに
じんわりわいてくるような感覚である。

人それぞれ青春があるように、それぞれの哀愁の町があるかもしれない。
わたしは、最近、大阪の町を思いだし、足を運ぶとこの哀愁を強く感じる。
いろんな町に住み、訪れてきたけれど、大阪は私に新たな世界を
見せてくれたきっかけの町であり、最初の扉のような存在であった。

一人で行った最初の大都会、外国の存在を知った町~アメリカ村や
鶴橋の存在は、大変興味深かった。世界への興味を広げてくれた。
もちろん最初の万博も、民博も世界への扉のひとつ。

大人になると、仕事でもプライベートでもさまざまな出会いや交流も
増えたが、東京とは違う大阪。よりアジア的であり、食も文化も、
笑いも涙もすべて入り混じった、独特な大都会。
大阪で出会った人たちには、何とも言えない人情があり、
親近感を抱く。今もどうしているかなと思う人がいる。
大阪をテーマに歌った名曲も多く、哀愁漂うメロディと歌詞には
何十年経っても、心をとめ、懐かしき時代を思い出す。

私にとって、哀愁の町は、大阪だ。
今も足を運ぶと胸が弾み、そして切ない気持も沸くが、
ずっと非日常の存在であり続け、心に思い出の灯をともし続けて
くれる。

まだまだ知らない大阪をこれからも発掘し続け、
思い出を増やしていきたい。
やっぱ、好きやねん。



カテゴリー: Essay (Word) | 哀愁を感じる町 OSAKA。 はコメントを受け付けていません

「AIに相談相手」がわかる。

1年ほど前のこと。ある知人と話していて、とにかく、何でもAIに相談している
と言う話を聞いて、そういう人がいるのかとちょっと驚いていた。
そんな役に立つ答えを出してくれるのか?解決するのかな?
信じて大丈夫?とも・・・。そんな相談があるならば、友達や仲間に聞いた方が
良いのでは?とも・・・。でも、その知人は、かなり役に立っていると満足気で
そういう使い方、AIとの共同生活もあるのだと興味深く、その体験談を聞き、
でも、自分では他人事と思っていた。

今ではAIもその頃よりさらに進化。話題にならない日はないし、問いかければすぐ
答えが返ってくるその迅速性や答えの質も含め、人間と肩を並べるように
なってきた。いや、そのスピードとクオリティを考えれば人間以上だ。

まずは聞いてみると、確かに自分が思ってもいない答えを出して
くることもあり、発見もあったりするし、自分の知る世界がまだまだ狭い
答えは多様であることも実感する。

さらに、人には聞けないことを聞くのにも役立つ。
知人が相談相手と言っていたのがここだ。
そんなことは、誰にも聞けない・・ということにも、さらっと答えを
出してくる。
それが正解かどうかよりも、「どう思う?」と聞いてほしい。
そして、第三者としての声を聞いてみたい。そんな時に役立つ。
確かに、誰にも聞けない場合は、AIの答えに
救われたり、前向きになれたりするものだ。
もちろん、自分の問いかけ方によって答えも変わってくるので、
注意は必要。

誰にも聞けないとき、誰にも聞けないこと・・・。
AIはまるで、自分だけのために語っているかのように、瞬時に
回答をくれる、頼れる相談相手にもなる。

最近見たある広報誌の特集に、「AIは、いずれまじないツールになるかも?」
という記載があったが、まさしく!と思った次第。

前向きになるために、自分が元気に生きるために、うまくつきあう。
AIは、ときに人間よりもやさしく寄り添ってくれることもあるのかも。
適切に、うまくつきあっていければいい。
そして、AIを見習って、もっと自分自身が、AIに頼らない学習も
重ねていこう。





カテゴリー: Essay (Word) | 「AIに相談相手」がわかる。 はコメントを受け付けていません

いいづらいことを言う。

ずっと悩んでいること。
ずっと考え続けていること。
言うか言わないか。
そんなことで紋々とすることもある。
そんな小さなこと、そんなどうでもいい。
言わずに自分の中にしまっておこうか。
いや、それでも、やっぱり・・・。

忙しく日々動き続けていると、
悩む時間もなく、
他事に時間をとられ、気が紛れて、
もういいかと思えてくるが、
それでも、ふと立ち止まったときに、
やっぱり・・と思って また悩む。

そして、やっぱり、言うべきは言う。
という結論。
言わずに紋々とし続け、気分の晴れない
時間を過ごすのではなく、
ひとつづつ、ケリをつけること。

やはりそれが良い。
ということで、なかなか言いづらいことを
言う。
言い方、伝え方、タイミングはとても大切。

そんなこんなで、最近、言いづらいことを
伝えたら、相手から、とても感謝してもらえた。
相手はある店の方だ。サービス業20年のプロ。
「本当に言いづらいことを言ってもらえることが
ありがたいです。それを言わず、去っていかれる
お客さんもおられますので・・・。改善をして
まいりますね。」

この素晴らしい答えを聞いて、安心するともに、
言いづらいことを伝えるには、相手の受け止め方
がとても重要であると実感。
この人に伝えて良かったと、まずそのことで
安堵した。

受けとめられる器である、謙虚である、
それをどうしたらよいかを考えられる。
そんな人が相手であれば、いいづらいことを
言う価値がある。
信頼できる人である。

こちらも、さんざん話をした後で、
「本当に言いづらいことを言ってごめんなさい。
でも、みんなが良くなったらいいので。」
と、笑顔で別れた。

言いづらいことまで言える関係こそ、
本物かもしれない。

勇気が要るけれど、やはり言うべきことは、
しっかり伝えたい。そしてその真意、
心根をしっかり確認しあいたい。

と、この年になっても、
毎日コミュニケーションでもがいている自分。
ま、これも生きてる証拠なんだろう。


カテゴリー: Essay (Word) | いいづらいことを言う。 はコメントを受け付けていません

日本人的サウダージは・・・

五木寛之さんの近著、すぐ読めそうなのに、結局途中で雑務に追われ
時間がかかってしまった。本は一度読み始めたら、一気にいかねば。

ご本人の半生はもちろん、最近のご様子から93歳でしか書けない
言葉も多く、いつの日も、この方の作品は読者の肩を叩き、ほどよい
安心を与えてくれるものだと今回もそう感じた。

とくに印象に残ったのは、(先日も少し触れたかと思うが)
人は自分のためではなく、誰かのために生きるということ。
五木さんの場合は、早くに亡くなられたお母様のために!生きる
のだそう。とても共感し、勇気づけられた。

さらに、前からずっと気になっていたポルトガルで学んだ
独特の郷愁、憂い。ファドに表現されている、あのけだるいような
悲しいような何ともいえない大人の悲哀・・サウダージについて。
これはロシアでいえば、「トスカ」という言葉があり、韓国ならば
「ハン(恨)」とその民族の歴史や気質などから生まれ、そして
暗黙の間に受け継がれている独特な精神性。
これは日本にはないのか?とずっと気になっていたが、
五木さんは「暗愁」がそれにあたると書かれており、新たな発見
をいただく。

これは若いときには感じない空気、感情、気分。
大人になり、年を重ね、いろんな複雑な経験をしながら、
自らの中に宿っていくもの。
ふっと心に吹く風のようなものともいえるかもしれないし、
ずっと自分の奥底にあり続ける感覚ともいえる。
そう、言葉にするのが難しい。ちょっとけだるく、重く、
憂いを帯びた、とても大人な感覚か・・。

ではあるが、五木さんの記述に触れ、確かに暗愁とは
決してネガティブな存在ではなく、
人生の最終楽章にふさわしい表現なのだとも
感じ、いずれ自分も、受け入れ深く理解する日が
来るのだろうと思った。

人間は言葉にできない感情を歌で表現することがある。
そうすることで、人生そのものを感じることもある。
ポルトガルでは、ファドでこのサウダージを表現
している。確かに伝わる。何とも言えない人生の深み・・。

それにしても、わかりやすい文章を書き続けておられ、
心から尊敬する。
描き続けることで、お母さまの分まで存分に生きて
おられる、素敵な人生を見習いたい。

カテゴリー: Essay (Word) | 日本人的サウダージは・・・ はコメントを受け付けていません