どうしても、言っておきたいこと。
言わなきゃいけないこと。
そうでなければ、あとで悔いが残る。
そんな場合は、ちゃんと伝えた方が良い。
ちょっとの勇気や、ダメもとのことはあるかもしれないが、
一度きりの人生、そんなことは一度や二度、いやもっと
あってもいい。
もちろん、相手のことも考えた上で。
伝えたいことがあること自体が、生きている証拠。
一方、これは言わない方が良いと思えること。
そういうことも時にある。
自分の胸にそっとしまっておく。
あるいは、そっと心の消しゴムで消しておく。
これも、相手のことを考えた上で。
今日はこれで良かっただろうか?
毎日、その日のコミュニケーションをふりかえってみる。
毎日、小さなことの繰り返し、積み重ね。
それで1日が過ぎていく。
コミュニケーション不要の日は、ほとんどない。
人と関わると、
恥ずかしいこともあれば、うれしいこともあれば、
まだまだと思うこともあれば・・・。
いろいろあれど、とにかくしっかり相手と向き合うこと。
人と人の間をつなぐものが、コミュニケーション。
生きる限り、ついてくる。
誠実に、自分に素直に。
悔いなきコミュニケーション。
今日もいっぱい人に会う。
すべて笑顔になって、限られた時間をともにしたい。
悔いなきコミュニケーション。
だんだんわかる。
若い時は好きでなかった、興味がなかったものが、
大人になると、今になると、しみじみ良さを感じる。
そんな瞬間は 何か新たな発見をしたようで、
人生お得な気分にもなる。
たとえば、モーツアルトのピアノ曲。
レクイエムは、初めて聴いた高校生のとき、
あまりに衝撃的で度肝を抜かれた。
その後、映画も何回も観たせいか、すっかり体内に沁みこみ、
死への恐怖をもつようになったのは、この曲の影響でもあるほど。
一方、ピアノ曲は、どうもきれいすぎて、軽快すぎて、
人生はつらいもんだと思っている人間にとっては
なかなか入ってこない。
貴族が喜ぶ上品な世界。というイメージで、
自分には関係ない世界?
自称ベートーベン派?の自分には響いてこなかった。
テストの課題曲によく出てきたぐらいで、
好きで弾くのではなく、義務的に練習をしていた。
大人になってから、ほとんど弾かなかった。
ところが、約40余年ぶりにMozartのソナタの楽譜を
辿って、弾いてみる。
なんと、美しいのだろう。あれ?いいじゃん。
鍵盤の上をコロコロと指が舞うような 規則正しいリズムと
よどみのないメロディー。濁った和音はない。
とにかく美しいのだ。
Mozartって、やっぱり天才だったのだ。
若さあふれるけれども、天上の音楽のように別の世界を
感じる。神童だ。まさしく・・・。
と、若い頃は理解できなかった世界が、今はすっと入ってくる。
音楽は時代とともにスタイルを変える。
音楽は世相を反映する。
ベートーベンより少し前に生まれたアマデウス。
世界を知ると、歴史を知ると、その当時の作曲家たち
のことも想像できる。
曲は立体的に、語り掛けてくる。
今回、Mozartとの再会は、とてもうれしい時間となった。
Mozartだけではない。今になってわかるものが増えている。
知られていない曲にも、素晴らしい曲は多数ある。
だんだんわかる。
これは生きる楽しみが増えるということかもしれない。
Mozartに限らず、日本の歌謡曲もだんだんわかる。
音楽は時代とともに、社会とともにある。
これからも、もっと、だんだん!を増やしていきたい。
バラ友からの摘みたてカーネーション

昨日は母の日であった。もうこの5年、贈る人もそばにおらず、買うこともなく
なったカーネーション。カーネーションといえば赤、ピンク。
町の母の日イベントを見るにつれ、時代の移ろいも感じつつ・・・。
ちょっと用事があって待ち合わせをした友人が、
「マーサさん、庭に咲いていたカーネーションを摘んできましたよ」
とティッシュで濡らしサランラップでくるくる巻きにした1輪のカーネーションを
袋に入れて大切に持ってきてくれた。
その人とは、バラのマークのある店の閉店がきっかけで出会ったため、
「バラ友」と呼びあっているが、今日はカーネーション。
「バラ友だけど、今日は母の日なので、カーネーションね」
その人のお母さんではないけれど、積み立てのカーネーションをいただく
とは感動。生まれて初めてもらったカーネーション。
まずは、実家の母親の写真の前に供え、それから持ち帰り、
鹿児島で出会った不思議な縁起物の間に置いてみる。
なんとも愛らしく、やさしい花、心が丸くなる。
大切にさせていただこう。
昨日は日本中で、いろんな感謝の交流があったことだろう。
もちろん、自分も、姿が見えなくても
「ありがとう!」の気持ちで、1日を過ごした。
小さな一輪の摘みたてカーネーションのおかげで、
心も軽く、やさしい気持で過ごせた素敵な1日となった。
バラ友に出会ってまもなく2年になる。出会いに感謝!
哀愁を感じる町 OSAKA。
先日、五木寛之さんが書かれた「暗愁」とポルトガルのサウダージへの
共感について触れたが、それに近い感覚ではあるが、もう少し手前に
存在するような感覚として馴染み深い「哀愁」。
昭和のヒット曲のタイトルや歌詞にも出てくる、音楽と相性が良い言葉。
そういえば、「哀愁のカサブランカ」という曲もあった。タイトルだけで
ドラマを想像し、惹きつけられる。
哀愁・・悲しみや寂しさや懐かしさなどが入り混じった、心の奥底に
眠っているような感覚。若い時代のことを、あとで振り返ったときに
じんわりわいてくるような感覚である。
人それぞれ青春があるように、それぞれの哀愁の町があるかもしれない。
わたしは、最近、大阪の町を思いだし、足を運ぶとこの哀愁を強く感じる。
いろんな町に住み、訪れてきたけれど、大阪は私に新たな世界を
見せてくれたきっかけの町であり、最初の扉のような存在であった。
一人で行った最初の大都会、外国の存在を知った町~アメリカ村や
鶴橋の存在は、大変興味深かった。世界への興味を広げてくれた。
もちろん最初の万博も、民博も世界への扉のひとつ。
大人になると、仕事でもプライベートでもさまざまな出会いや交流も
増えたが、東京とは違う大阪。よりアジア的であり、食も文化も、
笑いも涙もすべて入り混じった、独特な大都会。
大阪で出会った人たちには、何とも言えない人情があり、
親近感を抱く。今もどうしているかなと思う人がいる。
大阪をテーマに歌った名曲も多く、哀愁漂うメロディと歌詞には
何十年経っても、心をとめ、懐かしき時代を思い出す。
私にとって、哀愁の町は、大阪だ。
今も足を運ぶと胸が弾み、そして切ない気持も沸くが、
ずっと非日常の存在であり続け、心に思い出の灯をともし続けて
くれる。
まだまだ知らない大阪をこれからも発掘し続け、
思い出を増やしていきたい。
やっぱ、好きやねん。
「AIに相談相手」がわかる。
1年ほど前のこと。ある知人と話していて、とにかく、何でもAIに相談している
と言う話を聞いて、そういう人がいるのかとちょっと驚いていた。
そんな役に立つ答えを出してくれるのか?解決するのかな?
信じて大丈夫?とも・・・。そんな相談があるならば、友達や仲間に聞いた方が
良いのでは?とも・・・。でも、その知人は、かなり役に立っていると満足気で
そういう使い方、AIとの共同生活もあるのだと興味深く、その体験談を聞き、
でも、自分では他人事と思っていた。
今ではAIもその頃よりさらに進化。話題にならない日はないし、問いかければすぐ
答えが返ってくるその迅速性や答えの質も含め、人間と肩を並べるように
なってきた。いや、そのスピードとクオリティを考えれば人間以上だ。
まずは聞いてみると、確かに自分が思ってもいない答えを出して
くることもあり、発見もあったりするし、自分の知る世界がまだまだ狭い
答えは多様であることも実感する。
さらに、人には聞けないことを聞くのにも役立つ。
知人が相談相手と言っていたのがここだ。
そんなことは、誰にも聞けない・・ということにも、さらっと答えを
出してくる。
それが正解かどうかよりも、「どう思う?」と聞いてほしい。
そして、第三者としての声を聞いてみたい。そんな時に役立つ。
確かに、誰にも聞けない場合は、AIの答えに
救われたり、前向きになれたりするものだ。
もちろん、自分の問いかけ方によって答えも変わってくるので、
注意は必要。
誰にも聞けないとき、誰にも聞けないこと・・・。
AIはまるで、自分だけのために語っているかのように、瞬時に
回答をくれる、頼れる相談相手にもなる。
最近見たある広報誌の特集に、「AIは、いずれまじないツールになるかも?」
という記載があったが、まさしく!と思った次第。
前向きになるために、自分が元気に生きるために、うまくつきあう。
AIは、ときに人間よりもやさしく寄り添ってくれることもあるのかも。
適切に、うまくつきあっていければいい。
そして、AIを見習って、もっと自分自身が、AIに頼らない学習も
重ねていこう。
いいづらいことを言う。
ずっと悩んでいること。
ずっと考え続けていること。
言うか言わないか。
そんなことで紋々とすることもある。
そんな小さなこと、そんなどうでもいい。
言わずに自分の中にしまっておこうか。
いや、それでも、やっぱり・・・。
忙しく日々動き続けていると、
悩む時間もなく、
他事に時間をとられ、気が紛れて、
もういいかと思えてくるが、
それでも、ふと立ち止まったときに、
やっぱり・・と思って また悩む。
そして、やっぱり、言うべきは言う。
という結論。
言わずに紋々とし続け、気分の晴れない
時間を過ごすのではなく、
ひとつづつ、ケリをつけること。
やはりそれが良い。
ということで、なかなか言いづらいことを
言う。
言い方、伝え方、タイミングはとても大切。
そんなこんなで、最近、言いづらいことを
伝えたら、相手から、とても感謝してもらえた。
相手はある店の方だ。サービス業20年のプロ。
「本当に言いづらいことを言ってもらえることが
ありがたいです。それを言わず、去っていかれる
お客さんもおられますので・・・。改善をして
まいりますね。」
この素晴らしい答えを聞いて、安心するともに、
言いづらいことを伝えるには、相手の受け止め方
がとても重要であると実感。
この人に伝えて良かったと、まずそのことで
安堵した。
受けとめられる器である、謙虚である、
それをどうしたらよいかを考えられる。
そんな人が相手であれば、いいづらいことを
言う価値がある。
信頼できる人である。
こちらも、さんざん話をした後で、
「本当に言いづらいことを言ってごめんなさい。
でも、みんなが良くなったらいいので。」
と、笑顔で別れた。
言いづらいことまで言える関係こそ、
本物かもしれない。
勇気が要るけれど、やはり言うべきことは、
しっかり伝えたい。そしてその真意、
心根をしっかり確認しあいたい。
と、この年になっても、
毎日コミュニケーションでもがいている自分。
ま、これも生きてる証拠なんだろう。
日本人的サウダージは・・・
五木寛之さんの近著、すぐ読めそうなのに、結局途中で雑務に追われ
時間がかかってしまった。本は一度読み始めたら、一気にいかねば。
ご本人の半生はもちろん、最近のご様子から93歳でしか書けない
言葉も多く、いつの日も、この方の作品は読者の肩を叩き、ほどよい
安心を与えてくれるものだと今回もそう感じた。
とくに印象に残ったのは、(先日も少し触れたかと思うが)
人は自分のためではなく、誰かのために生きるということ。
五木さんの場合は、早くに亡くなられたお母様のために!生きる
のだそう。とても共感し、勇気づけられた。
さらに、前からずっと気になっていたポルトガルで学んだ
独特の郷愁、憂い。ファドに表現されている、あのけだるいような
悲しいような何ともいえない大人の悲哀・・サウダージについて。
これはロシアでいえば、「トスカ」という言葉があり、韓国ならば
「ハン(恨)」とその民族の歴史や気質などから生まれ、そして
暗黙の間に受け継がれている独特な精神性。
これは日本にはないのか?とずっと気になっていたが、
五木さんは「暗愁」がそれにあたると書かれており、新たな発見
をいただく。
これは若いときには感じない空気、感情、気分。
大人になり、年を重ね、いろんな複雑な経験をしながら、
自らの中に宿っていくもの。
ふっと心に吹く風のようなものともいえるかもしれないし、
ずっと自分の奥底にあり続ける感覚ともいえる。
そう、言葉にするのが難しい。ちょっとけだるく、重く、
憂いを帯びた、とても大人な感覚か・・。
ではあるが、五木さんの記述に触れ、確かに暗愁とは
決してネガティブな存在ではなく、
人生の最終楽章にふさわしい表現なのだとも
感じ、いずれ自分も、受け入れ深く理解する日が
来るのだろうと思った。
人間は言葉にできない感情を歌で表現することがある。
そうすることで、人生そのものを感じることもある。
ポルトガルでは、ファドでこのサウダージを表現
している。確かに伝わる。何とも言えない人生の深み・・。
それにしても、わかりやすい文章を書き続けておられ、
心から尊敬する。
描き続けることで、お母さまの分まで存分に生きて
おられる、素敵な人生を見習いたい。
整える朝。
連休は休んだ分だけ、普段に戻るのがしんどいという方も
おられるだろう。
家族サービスも楽しいけれど、大変だ。
でも、家族の笑顔のためなら、というところだろうか。
明日からの満員電車、通勤渋滞を思うと、今日はそろそろ
平日モードに・・と遠出を控えたり、早めに休んで明日に
備えようという方もおられるかもしれない。
明日からパワー全開にするためには、今日からゆっくり
走り始めるという方もおられるだろう。
いずれにせよ、1日のはじまりは、朝が決め手だ。
朝をしっかり整えること。
どんなお疲れの時も それができると、1日を元気に
走り始めることができると思う。
そのためのツール。私の場合は、
ウェザーニュースなどの天気予報と、ラジオ体操。
天気予報は、今日の自分がいる、あるいは出かける場所の
天気の確認ももちろんであるが、全国各地や世界の天気を
知ることで、ああ、晴れる町も曇る町もあるのだと、
自然とともに生きている実感が湧いてくる。
また、世界の天気など知ると、訪れた街が蘇り、ああ、
今日は寒いんだと思い、ノスタルジーな気持にもなり、
出会った人の顔も浮かんでくる。
一方、ラジオ体操は、どんな時も元気な号令と笑顔と
しゃんとした姿勢の若者たちを見ながら、こちらも
自然に背筋が伸びてくる。
一緒にからだを動かしているうちに、元気が湧いてくる。
ああ、元気が一番だと思える瞬間。
これは、毎朝の儀式ともいえる。
自分を整える朝はとても重要だ。
そんなこんなで、平日モードへスィッチオン!
少し早めに動き始めるのが、気持いい。
夢のエンドロール
高校の国語の授業で、ある文学作品を読んでいるときに、
「夢について」の記述があり、先生に
「これは、将来の夢という時の夢なのか、夜寝ている時に見る
夢なのか、どちらですか?」
だったか、
「夢って、将来の夢と、夜寝ているときに見る夢がありますが、
なんで同じ夢と言うのですか?」
といった質問をして、先生を困らせたことがある。
この問いの答えは、今でも、私にとっては謎のままである。
どちらも、Dreamと言う。
どちらも手に触れることができない世界。という点で共通している。
でも、将来への夢は、自分の行動次第で叶えることもできる。
でも、夜見る夢は、とにかく自分の意識と関係なく、
突然始まり、終わったらそのまま消えていく不思議な映画のようなもの。
今回は久しぶりにしっかり睡眠をとった。
おかげで、夢を2本も観てしまった。
ひとつめは、父と待ち合わせしていたが、会えなかった話。
ふたつめは、なぜかロシア行きの飛行機に乗ろうと知らぬ空港で
人と待ち合わせし、迷子になる話。
いずれも、ハッピーエンドではなく、夢で良かった。と言う話だ。
夢は自分の日頃の行動よりも、無意識と関係があると読んだことが
あるが、とにかくすっと消えていく映画のようで、とてもはかない
気持ちになる。
夢のエンドロールを勝手に想像し、音楽もつけてみたくなる。
こういった類いの夢は、あまり見なくていいかな。
夢で良かった・・・。というお話しは目覚めには良くない。
自分にはやはり、睡眠時間は短くて良いかも。
と思いつつ、父の思い出の余韻が残る朝。
美しい人に。
真・善・美は、人間にとって、もっとも重要な価値だと、
このところ、このことについてよく考える。
世の中に、その逆があふれてきているから、なのかもしれない。
逆とは、偽・悪・醜。うーん。確かに。
これらにまみれていると、生きているのが、不安や不信にさいなまれ、
社会全体が不幸になる・・。とそう考えてしまう。
それでは生きる意味がない。
前向きに生きられる自分でいなければ。
そう考えていくと、行きつくのが、
真・善・美なる生き方だ。
ギリシャ哲学以来、今も受け継がれているこの真・善・美。
昨日記載した、「3」の意味からすると、この三者もつながっている。
それを目指して生きている人は、美しい。
単にビジュアル的にきれい、化粧が上手、という表面的な
ことではなく、生き方の美が内側からにじみ出ているのだ。
最近、ある漆作家さんに出会った。
その人の作品を見た瞬間、何か哲学的かつ宗教的なものを
感じた。まさに真・善・美を追求されているかのような作品
だと感じ取った。
そして、その作家さんご自身も、純粋な思いをもって
ご自身のテーマを大切に表現しようとされており、
そのひたむきさに高潔さと美しさを感じた。
そして、自分はどうかと改めてふりかえった。
自分は美しくなれるか?
なりたいと思う。
真実をもとめ、良きことをし、そして美しい生き方を
目指す。
人それぞれ、その美しさは違う。
その作家さんが、彼女の生きるステージで素敵に輝いて
いるように、
私自身も、自分の生きるステージでそうありたい。
と、追われる日々を俯瞰しながら、反省もしながら、
少しゆっくり考えされる朝に感謝して。
ひとりひとりが、真・善・美を目指したら、
世界は良くなる。そうなるように、まずは自分から。