希望の証し、新たな旅のはじまり。

こちらは鹿児島市の祇園之洲。フランシスコ・ザビエルが上陸した地である。
訪れたのは、1549年8月15日だったとのこと。
今の夏と比べたら・・とは思うが、それでも暑い季節、しかも冷房もない。
厳しい環境のなか、鹿児島出身の信徒ヤジローに案内され、マラッカから
この地へ、はるばるおいでになったザビエルさん。
ポルトガルのリスボン、インドのゴア、マラッカを経て、日本へ・・・。
476年前といえば、日本では室町時代。もう信長も生まれていた。
そして、16世紀半ばのヨーロッパは、ルネサンス、宗教改革、そして大航海時代
が同時進行と、大きな転換点にあった。そんな中でのザビエルの布教の旅、挑戦。

ザビエルの日本での布教活動は、まさにここから始まった。
もっと前に来てもよかった場所、来るべき場所であったのに、大分、長崎、
山口、堺、京都が先になってしまったが、今回ご縁があり、やっとたずね
ることができた。
おお、ここか~。言葉にならない、静かな感動が湧いてきた。

今は市街地もほど近く、便利な町になっているが、当時はどうだったのか。
いろんなことを想像する・・。

ふと、自作の「フランチェスコの夢」の歌詞を思い起こす

♪ああ 光る海は 希望の証しだと
私は今 立っている きみが歩き 見た街に・・・♪

で始まるが、まさにこの地に立つことができた。
しかも、日本で最初に足を踏み入れたその地に・・・。

この歌詞が現実となり、なんとも不思議な感覚にもなる。
自分の行動を予知していたのかと?

La Grande Roue:Poem & Songs

とにかく、もっと早く来るべきであった。
でも、ちゃんと来ることができてよかった。

鹿児島の人たちは、自分の取り組みに好意的でいて
くださって、協力的で、関心ももってくださり、
それもうれしかった。

鹿児島では、西郷さんや、島津藩の功績が大きく、
観光やシティプロモーションとしても、そちらに注力
されており、ザビエルにはあまりスポットがあたって
いないようであるが、それはそれでいい。
ただ、日本に西洋の宗教、文化、産業、生活様式が
伝来したきっかけがザビエルという存在であり、
その日本での出発点がここであることを、
誇りに思い、大切に記憶に残し続けたい。
と改めて、強く思う。

それにしても、ヤジローという信徒がザビエルに
出会っていなかったら、今日の日本はどうなって
いたのだろう。

いろんな想像がさらに膨らむ。
歴史は奇なり、真なり。

鹿児島。
長崎や博多とはまた違う、日本の南玄関。
ザビエルの日本での布教の旅はここからはじまった。

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今年も咲いたよ。と声かけたい

梅雨から夏にかけては、毎年ここから苦行が始まるかのように感じる。
私にとっては気合の必要な季節となる。

そんな緊張を解きほぐしてくれるのが、紫陽花。まさに字の如く、紫の花。雨の雫が
季節感をより表している。
実家の庭に咲いたこの花。
「今年も咲いたよ。おかあさーん。」
と声をかけたくなる。

生きている頃は、この花たちがそんなに気にならなかった、帰宅しても目に
入らなかったくせに、母がいなくなってから、この紫陽花が存在感を増して、
毎年この季節になると、会いたい気持ちが募ってしまうのだ。

そういう意味でも、気合いの必要なこの時期。
雨にも負けず、暑さにも負けず、紫陽花のように、豊かに生きるよ。

と、そう言い聞かせる。

今月のコンサートでは、この花から生まれた「あじさい日記」を歌いたい。

今しばらくは、実家に帰るたび、花ひらく紫陽花を数えることになる。


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都暮らしから 都暮らしへ

会社員時代に出会い、もう40年近く交流いただいている
京都のジェントルマン。
会社勤めをされているときから、定年されてからも
ずっと応援していただいて、本当にありがたいと
いつも思っていた。
時々いただくメール1通、ハガキ1枚に書かれた言葉は
意味深く、楽しく、笑みがこぼれる。
また年に1~2回お会いするときの会話も教養に満ちて
いるだけでなく、ユーモアに富んで・・・。
どこか悟りを感じるような不思議な空気をお持ちの方
であった。

さて、久しぶりに京都でお茶でもとメッセージを送ると、
なんと、
「来週、東京に引っ越します!」との返信で、心底びっくり。
へえ?なんで?これから?

御年は、おそらく70代半ばである。
ずっとこれまでも、これからも静かな京都郊外にお住まいの
こと、何とうらやましいこと・・と思いこんでいたが、
なんと、これから東京暮らしを始めるのだそう・・。
お子様が在京のため、近くに引っ越しておこう・・と
夫婦でのご検討から、決断に至ったとのこと。

東京に住んでいた方が、京都を終の棲家に・・というのは
容易にイメージできるが、その逆とは・・・。
「もうね、京都も昔と違ってインバウンドがいっぱいで
暮らしづらいし、まあ、こういう選択もありかと結果的に
そう思って・・・。」

落ち着いたら、東京で会いましょう。と久しぶりに電話で
話した。元気なままで良かった。

京都が終の棲家とは限らない。
すべては元気なうちに動けるうちに、ということか。
それも確かにあり。

なぜか少し寂しいような、いやいや東京も京都も同じ。
遠い場所ではない。
でも、京都の方がよりご近所さんと思っているせいか、
引っ越されるんだな~と改まった気持ちになる。

引っ越し。
私は残された人生で、あと何回引っ越すのだろう。
そのときは終の棲家へ・・になるのか?
そんなことも頭をよぎった。

西の都から東の都へ。
新たな出発を心より祝福したい。


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「後期高齢者」のパワー炸裂


前期も後期も要らない。
この括り方は、本当に失礼。どころか意味がわからないので、
早く消滅することを願い続けている。

本当にセンスのない、おかしなネーミングを考える人、通す人。
行政の仕事か何かしらないけれど、本当にやめてほしい表現の
ひとつ。ではあるが、この括りを逆手にとって、
パワフルに活躍されている方もおられる。

30年のNY暮らしから60歳になるのを機に、ふるさと博多へ
帰国されたジャズシンガーの知人。
久しぶりに電話で話す。
相変わらずのお元気な声。1年半までは飲食店も夫婦で
切り盛りされていたため、「ママさん」としてのの顔も懐かしい。
1年ぶりのコンサートを先週やったばかり。手術をされたため、
しばらくできなかった。
でも、おかげさまで無事に終えて、元気にやってるよ!との報告。

「もう、後期高齢者なんで、本当に医療が安くて助かるわ」
さっきまでコンサートの話をしていた時は、年齢のことは
忘れていた。
へえ?78歳ですか?
ずっと歌い続けておられるとはすごい。

後期高齢者・・・。
そういえば、最近聞いた落語家。福笑さん。
こちらもなんと、77歳?
だみ声は、お酒の飲みすぎかと思ったけれど、ポンポン
出てくる言葉のテンポは、40代・50代に負けていない。
根っからの芸人さんである。
その話術に舌をまくとはこういうことだ。

頭も口もフル回転。
後期高齢者とはご本人は言われないし、言う必要も
ない。ステージの上では、ひとりの芸人さんである。
ただ、それだけ。

後期高齢者という言葉を恥ずかし気に言われる方も
言われるが、どうぞ、そんな言葉は無視して、
いつまでも自分ができることを、とことんやり続けて
いただきたい。

先輩にあたる芸人さん、アーチストの方々を見るたびに、
自分の15年後、20年後をかっこよく想像してみる。

生涯現役で自分にしかできないことをやり続ける人。
そうありたい、そうなりたい。

センスのない言葉は相手にせず、
自分のセンスで自分を表現したらいい。

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エアメールの感激、再び。

この数年、エアメールを出したり、いただく機会が減った。
コロナの影響もある。自分が海外に行かなくなったこともあり、
またネットの普及で、どこに行ってもメールで連絡がとれるように
なったということも理由のひとつだ。おそらく絵葉書の売り上げも
激減し続けているのだろう。

そんななか、海外視察企画を業務とされている方が、時々、
世界の店舗の写真を入れて、その解説とともに送って下さる。
その1枚も毎回ありがたく、見て終わりにするには
勿体無いと、暫く手元に置いている。

営業的にみれば、実際にその店舗に出かけたいでしょう。
というお誘いかもしれないが、それよりも毎回毎回
送っていただいてありがたく、そのお手間に気持ちを
受け取る。それがこの何年かの間にいただくエアメールであった。

と、そのような海外渡航のプロからの
エアメールではなく、今回届いたのは、
ロンドンの名所の写真が入った観光絵ハガキ。
なんと、観覧車の写真も入っている。

誰から?
いつも通っている美容院の20代のスタッフさんからだ。
そういえば、研修でロンドンに行くとは聞いていたが、
まさかその出張先から?
お店のスタッフとお客様のひとり
という関係であるので、ちょっとおどろいたが、それ
以上に感心。
へえ、Z世代の人も、海外に行ったらエアメールを出すんだ。

とにかく久しぶりの観光絵葉書のエアメール、捨てないで
飾っておく。
美容院に行った時。その絵葉書のお礼を言う。

すると、なんとそのお店では、スタッフが海外研修に出た際には、
必ずお客さんに絵葉書を描き、現地から投函してくる。という
ことを研修期間中の課題のひとつとされているとのこと。

しかも、その絵葉書は、前の年に研修に行った先輩が、次に
研修に行く後輩が書く分を現地でまとめて購入してきて、
念願の海外出張の機会を得たスタッフに託すのだそう。
なんと素晴らしい、研修だろう。

「カットの本場ロンドンで最先端の技術を学んでいます!」
というメッセージが書かれた絵葉書を受け取ったお客は
きっと特別な気持ちになるだろう。
今度、そのスタッフにやってもらいたい、話を聞きたいと
思うだろう。その前に、わざわざロンドンから自分にハガキ
をくれるなんて・・と感激することは間違いない。
心から、なんと素晴らしい研修プログラムかと感心した。
せっかく費用をかけて海外に行くならば・・・。
いろんなことを体験してきてほしい、日々に生かしてほしい
という経営者の思いも見えてくる。

久しぶりに受け取った絵ハガキのエアメール。
以前は、海外にでたら必ず、実家の両親に送っていたなあ。
そういえば、自分に宛てて出したこともあったなあ。
いろんなことを思い出し、楽しい気持ちが甦った。

Eメールよりエアメールの方がロマンがある。
はるばる届いたという感動がある。

ネット社会主流の現代でも、1枚のハガキが生み出す
コミュニケーションの力は素晴らしい。
と、今朝もその1枚を眺めている。

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一杯の味噌汁が救うもの。

報道に振り回されているかのようにも見える、
今回の米騒動。
多くの国民が知らなかった備蓄米の存在を知る
きっかけにはなり、また米という主食が、
今の時代も、独特な扱いを受けて存在する
モノであることも認識する機会となった。
ふと、そういえば、江戸時代などは年貢米。
税金の代わりにお米だった・・・。
米とは本当に日本人にとって特別な存在・・。

それは確かにそうであるが、
米といえば味噌汁。
ごはんといえば、この一杯。
コーンスープでもオニオンスープでもなく
味噌汁である。

各家庭でお母さんがつくってくれる
味噌汁の味。
それを大人になっても懐かしく思い出す
人も多くいるだろう。
味噌汁があれば、ごはんも美味しく
いただける。

最近、フリーズドライの味噌汁を
つくる会社の方のお話しを聞く機会があった。
味噌汁がフリーズドライになり、
本当にどこにでも持ち運べるようになり、
長く保存できるようになり、
本当に!この上なき便利な時代になった。


今でこそ、当たり前と思っているが、
わが子ども時代は、まだその技術はなかった。
今はコンビニでも、通販でも、どの売り場でも
お馴染みのアイテム。
個食化が進み、ひとり分の味噌汁を
つくらない現代の食卓に、このフリーズドライ
の味噌汁は本当にありがたき存在!

さらに、日常だけでなく、いざというときにこそ
味噌汁は役に立つだろう。
自分はまだ今のところ、被災経験がないけれど、
いざというときこそ、あたたかい食事がほしい。
味噌汁はそんな時にためにこそ、備えておきたい。
甘い菓子パン、硬い乾パンではなく、あたたかい
食事。そのなかでも、元気が湧いてくる味噌汁は
まずは必要だ。

今、ローリングストックという考え方が
ジワリ浸透してきている。
日ごろから一定期間日持ちする食品をそろえ、
それをこまめにいただきながらまた補充をし、
いざという時に備える。

そのフリーズドライ味噌汁のメーカーの方の
お話しによると、その商品が生まれた背景には
創業者の奥様の「お味噌汁」の存在があった
という。
まさにソウルフードを、家庭の味をいつでも
提供できる。
ナント、素晴らしい発想か。

味噌汁は日本を、地球を救う。
もちろんお湯は必要であるが・・・。

ふと子ども時代に食していた 八丁味噌の
味噌汁が浮かんできた。おふくろの味は
永遠だ。
いざ!という時にこそ、その味を思い出せば
人は元気になれるのかもしれない。

改めて一杯の味噌汁。いつも手元に。

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つながりと一体感。

コロナが私たちに与えてくれたものは何だったのかと
時々ふりかえるときがある。

当たり前の日常が突然失われた、生活様式が、コミュニケーションが
全く変わってしまったあの日々・・・。
今から思えば、あれはいったい何だったのだろう?
と思うほどに、今はもうあの頃には戻れないし、戻りたくもない。
失ったものは多い。両親も、コロナがなかったら・・・・とも
思うが、今さら・・である。

そんななかで、オンラインでのコミュニケーションは
コロナのおかげで普及し、それが日常になった。
リモートも然り。
会社に行かないでも仕事ができる…そんな仕事も多いことが
わかった。

リモートは会社にも個人にも一見都合が良い。
仕事もはかどる。感染のリスクもなく安全だ。
ストレスも少なくていいかもしれない・・・。

でも、組織人であるのに、個人で仕事をする時間が増えると、
組織としての一体感は薄らいでしまう。
つながりが、どうしても弱くなる。
相談したくてもしない。自分で考えて判断をする。
オンラインでは相談しづらかったりもする。
上司からしても部下の様子が画面だけでしかわからず、
心の中までは見えづらい。

気が付けば、急に退職願を申し出るというケースも出てくる。
上司にしてみたら、驚き・・困惑・・・。せっかく
入ったばかりの若い社員がオンラインコミュニケーションのなかで
組織に身を置きながら、違うことを考え、行動しはじめる。
ということも現実にある。

組織である以上、一体感・つながりはとても大切だと
思う。
部下がどんな状況でいるか、顔色も空気感も含めて
把握するには、オンラインでは限界がある。

効率を優先するあまりに、人の心が読めないと
残念な結果になることもある。

今、オンラインで付き合ってきた人こそ、
しっかり温度を感じられるコミュニケーションを
とらなくてはと思っている。

ここでずっと働きたい。と思ってもらえるには?

よく会話しなければ。

人間には、生のコミュニケーションが大切だ。

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スーパーポジティブな友。

台湾に毎月通っていたときに出会ったホテルマン。
(ホテルマンという表現が現在も通用するかは?であるが)
本当にこの方こそ、究極のサービスのプロだと最初の出会い
で感激し、あれから約20年のつきあい。
職業もホテルだけでなく通信系の仕事も含め、拠点を
台湾からシンガポール、タイそして東京へと移しながら
常に120%のテンションで頑張り続けてきた友。
何年かに1年しか会うことはなくとも、会えば、ともに
その生き様を認め、激励しあってきた。
20代後半から単身で海外に飛び出し、マイノリティと
してがんばってきただけあって、なかなかのタフマン、
バイタリティあふれる人。
やってきたからの自信も生まれる。
とにかく、何があってもめげない、振り返りながらも
瞬間には前に向かっている。
悔いのない人生を生きたいから…という点で自分と一致
している。
いつも、何があっても「いいように考え、すぐ実行する」
その行動力がまぶしい。ずっと青春を生きている感じだ。

世界に出て、多様な人と出会い、一緒に仕事をしたり
遊んだり・・・。とにかくこの人は!と思う人へは
とことん尽す。

学校を出て、そのまま就職して定年まで生きる60年とは
違う、その人しか経験していないような思い出をたくさん
もつ人生。

1時間ほど近況報告を聞きながら、笑顔でハグ。
ここも国際的なのだ。

次会う時は、どんな仕事をしているのだろう?
変化をし続ける彼のこれからも見守る。

「スーパーポジティブですから」
会話の中で出たことば。
確かに。
いろんな経験を糧にしながら、すぐ切り替えて、
次に、前に向かう。

単身で長く世界で生きてきた豊かな経験が
全身ににじんでいる。

スーパーポジティブ。
どこまで自分を信じられるかどうか?

時々自分を見直せる相手が存在してくれることが
ありがたい。

この心友が切り開く、彼らしい未来を
これからも応援していきたい。

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負けるなわたし、ここにあり。

ふと、時々、著名な俳人たちの作品が浮かぶことがある。

痩せガエル まけるな一茶 ここにあり。

この句は中学生の頃に学んだものだろうか。
インパクトもあり、リズム感がよく、記憶している。

あまり考えたこともなかったが、誰を何を励ましているのかな
とはずっと気になっていたが・・。
これは、一説によると、カエルを励ましているのではなく、
元気なカエルたちを見て、病気がちだった息子を励ました
作品ということで、父親としてのわが子への愛情が表現されて
いる。

なぜか最近、この句が頭に浮かぶ瞬間がある。
この季節だから、カエルだからというわけではないが。

負けるな。負けるな。

小さなピンチになんか負けるか。そんなものは打ち負かせ!
という自分がいるのだ。

ピンチはチャンス。
生きていたら、いろんなことが起きるけれど、ひとつづつ全力で
善い心で行っていけば、必ずそれは新たな道につながる。

自分の周りにも、いろんなピンチを切り抜けてきた人が多くいる。
ここぞというときに、踏ん張るのだ。
仕事もプライべートも、長く生きていればそれなりに事件も
葛藤も起きるだろう。

でも、負けるな。自分自身に。
自分を一番認められるのは自分だ。
だから、自分に認められるように 進めばよい。
自信・・・。自らを信じるということ、

これが、ピンチを救うことにもなる。
いろいろあっても、命までとられない。
悩みも葛藤もすべて、生きていればこそ!の活動にすぎない。

今日も、
負けるなわたし、ここにあり。
でいこう!

改めて、
「ここにあり」のフレーズが力強く、小気味いい。

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不滅の人。

あの長嶋茂雄さんが旅立たれた。
「ああ・・」と多くの人が、そう反応されたのではないだろうか。

子どもの頃から、大人になっても、ずっと親しみを抱いていた。
現役時代よりも、引退されてからの方が記憶に残っているけれど、
選手として活躍されていた頃のことも、もちろん知っている。
日本戦後の高度成長時代、テレビの普及の時代に呼応して、
王選手とともに日本中に勇気を与えてくれた方。
現役を引退されたときのインタビューに
「今日で長嶋茂雄は引退しますが、巨人軍は不滅です」
と言われたあの言葉が、今回も何度も報道された。

不滅。

永遠なる存在。

改めて今回、生前の映像や写真を何回か見ながら、
なんと素敵な笑顔なんだろう、豊かな表現力なんだろう、
人を元気にする力を持っている方なんだろう。
と思った。

ある調べでは、憧れの上司のランキングでトップになって
いた時代もあったようであるが、確かに人を育てるのが
上手いし、懐も深いし、この人にだったらついていきたい。
そう思えてくる。

告別式の様子を少し映像で見た。
泣かせる弔辞。
王さんも、中畑さんも、そして松井さんも・・・。
それぞれが関わった長嶋さんその人が伝わってきて、
その場にいるような気持になり、胸がいっぱいになった。

日本中から愛されてきた人。
昭和の日本を盛り上げてくれた人。

父が中日ファンであったにもかかわらず、
自分は巨人の方が好きであった。
長嶋さんの存在が大きかったのかもしれない。
父は、ドラゴンズを応援しながらも、長嶋さんのことは
好きだっただろう。そういえば、同世代だ。
野球が好きだった父にすれば、私以上に親近感を
寄せていただろうと、
子ども時代のテレビでの野球を観戦する父の姿を
を懐かしく想い出したりもする。

不滅。
姿形が見えなくなることは、悲しく、ずっと
寂しいけれど、
その分、あの笑顔は、残された言葉たちは、
これからも生き続ける。
愛した人たちが、思い出す限り、忘れない限り、
その存在は不滅だ。

巨人は不滅。と言い遺した
長嶋さんこそが、不滅の人である。

日本中に感動と勇気を届けてくれた方。
みんなの上司、みんなの監督だ。

心から感謝を送り、ご冥福を祈りたい。

昭和の1ページが、また・・・。

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