雨あめ、あがれ!本日初日!

いよいよ、念願の長良川を前に、岐阜城を見上げての
コンサートがはじまる。
昨日は楽器や機材を搬入。現地は初夏を思わせる暑さ
でありながら、川風が吹いて、爽快。
鵜飼も11日からはじまった。それから最初の土曜。
今年も長良川夜市がはじまり、同じ会場での開催。
長良川夜市2025の開催について|岐阜市公式ホームページ

鵜飼のはじまりを待つ、夕暮れどき。
道行く人に、主催者いわく「チル」なひとときを過ご
してほしい。
まったりを時を過ごす。ゆっくりとくつろぐ。という
時間。

そう、日ごろ頑張って生きているとたまってくる心の
澱も清流に流して、すっきりした週末になるといい。

とにかく、私にとってはこの最高のロケーションで、
長良川の鵜飼をテーマにつくった「やがて・・・」や
信長、ふるさとにまつわる曲を演奏できるということ
が奇跡。生きていて良かった。ここに生まれて良かっ
た!を改めてかみしめる。

ふるさとのみなさんに感謝しながら、そして、
今日もまたきっと新たな出会いが?

と書きつつ、追いついていない準備を急ごう。

どうか、雨があがるように!
鵜飼が予定どおり実施されるように!

鵜飼開き!
ふるさとの、世界の平和を祈念して。

カテゴリー: Essay (Word) | 雨あめ、あがれ!本日初日! はコメントを受け付けていません

どこで出会うかより、どうつきあうか?

人との出会いは、ある意味くじ引きのようだ。
残念ながらというか、宝くじではない。
直接、間接さまざまな出会いを得て、そこからおつきあいが
始まり 時間を共に重ねる。
大切なことは、どれだけのコミュニケーションがとれたか。
どれだけ相手に信用され、自分も信頼できる関係になれたか。
時間の長さではなく、やはり心を通わせて関わることが
できたか。

公私いずれの場合でも、共感できる相手と巡り合えたら
それは長いおつきあいになる。
人として、相手を大切にしたい気持ち。
それが生まれてくるのが、人との出会い、おつきあいの
本来のあり方かと思う。

今はオンラインだけの関係も増えている。
その人を本当の意味で知ることなく、限られた情報の
なかで一方的に相手のことを決めつけたり、ときに
相手の立場も考えずに、伝わらない行動をとって
しまうこともあるかもしれない。
そういう環境では、良好な、健全な人間関係は
育まれないと思う。

出会いの仕方はいろいろあれど、まずは謙虚に
関係を大切にしながら、
小さな感謝を重ねながら 信頼の関係を
育てていけたらと思う。

世代の差、環境の差、人と自分との間には
つねにさまざまな違いがある。
そのなかで、お互い学び合い、生かしあい
長く付き合いたい人をみつけていくこと。
が、成長や幸せにつながると信じたい。

毎日、いろいろあれど、
出会いはある日突然に。
それが吉になるか、凶になるかは、
運しだい。ではなく、自分次第でもある。
と思う今日この頃。

生涯の友。
これからも、大切にしたい。

大切に思ってくださる方がいる限り、
応援してくださる方がいる限り、

ときにはから元気であっても、
つらいことがあっても、大丈夫!

と、その人たちの顔が浮かぶ。

人を大切にしたい。
それがわかる人と、
長くおつきあいをしたい。

カテゴリー: Essay (Word) | どこで出会うかより、どうつきあうか? はコメントを受け付けていません

やっぱ、いいまち、にいがた。

新幹線が新潟駅に到着。ドアが開くと、何とも言えない開放感を感じる。
そして、「お帰り」と言われているような気がしてくる。
ここ、ふるさと?そんな錯覚になる。
そして、
10数年前、一緒に新潟にたどり着いた台湾の仲間達が、
「空が広い〜」と感動していたのが、昨日のことのように思い出される。


そう、新潟はやはり空が広い。心が大きくなる。
今回もそう思った。気分がいい。歩いていこう。
歩いていたら誰かに会うかもしれない。

駅から萬代橋に向かう。少し時間があったため、橋の途中まで歩く。

ああ、来た来た。この景色が大好きだ。よく歩いた。
万代橋は私にとって思い出がいっぱい。
わがふるさとを想う曲「みず・つち・ひと」はここを歩いているときに
生まれた。そして、新潟出身のマジシャン クロッキーさんゆかりの端。
いろんなことを思い出すと胸が熱くなってくる。新潟はそういう町。

私はこの町になんと、18年も通ったのだ。通わせていただいたのだ。
いつか、上越新幹線 新潟~東京に乗る最後の日が来るのだと思っていたが、
今も時々載せてもらっている。
そう、新潟との縁は切れない。まだまだ終わらないのだ。

万代橋を見て信濃川に挨拶してから、新潟の仲間と次々に会う。
仕事の課題を聞く。これ困っているから頼む。そんな相談を受ける。
歳月を経て、お互い年を重ねたけれども、変わらない親友は今も現役。
新潟での活動の機会を与えてくれた仲間には、足を向けて眠れない。

引き続き、25年前に起業されたIT企業の社長に会い、その企業の社員とも
しばし交流。
新潟というだけで、親しみを感じる。
なんだろう。

京都と同じ感覚だ。
新潟は、いつの間にか私の心のふるさとになった。
京都、東京に並ぶ自分のふるさと。

気が付けば、まだすぐ帰れないのに、新潟の野菜を買って
いる自分がいる。
そう、東京に住んでいるときも、新潟で野菜を調達するのが
楽しみだった。

にいがた。
なんで、こんなに愛しいのか。
みず・つち・ひと。そう、人だ。

新潟の地、人の魅力をこれからも私なりに伝え続ける。


カテゴリー: Essay (Word) | やっぱ、いいまち、にいがた。 はコメントを受け付けていません

日々の悩みは生きてる証拠。

親の代わりに、草ひきや小枝の伐採等など庭の手入れをして
くれる叔父。健康のためにと、親たちがそれをできなくなって
から、すすんで担ってくれている。もう数年になろうか。
自分の仕事として、自身のペースで週に何度か時間を決めて
やっていただける。本当にありがたい限り。
庭がきれいだと、家も喜んでいる。

こちらの健康にも気を配ってくれ、気遣いの声をかけてくれる。
「よー、はたらくなあ。」
といい、「無理するな」と草をむしりながらの会話。
「時には、ストレスもたまるわ。」
「そりゃ、仕事してたら、ストレスはしようがないなあ」
「もうこっちは引退したから、気楽なもんや。ストレスはない。
自分ひとり、こうやって庭いじって、自分のペースで」

そんな言葉をくれる。なぜか癒される。
庭いじり、孫たちの送迎、ボーリング、ときにゴルフ。
毎日しっかり予定を組んで、計画的に生活している叔父も
気が付けば70代半ば・・・。
自分を生まれてから知っている数少ない一人。
貴重な存在だ。

そう、仕事をしているといろんなことがある。
日々、この人間社会で生きていればそうである。

いろんな人間関係を乗り越え、自分らしく生きていくには、
それなりの葛藤もある。思い通りに行けないこともある。
流されていく辛さを抱えている人もいるだろう。
まあ、人間関係の悩みやストレスとは、まさに生きて
いる証拠。現役である証しなのかもしれない。

それに反し、高齢者施設での光景が浮かんでくる。
父が病に倒れ、病院から施設に移ったときは、まだ元気も
あり、普通の生活に戻りたいという欲求もあり、いろいろ
やんちゃをしてくれた。施設の方にも何度も謝りに行った。
父なりのストレスの発散であったのだろう。
おれは生きているぞ!俺は好きにやるぞ!何が悪い!
という感じだった。

でも、だんだん元気がなくなると、そういうこともなくなり
おとなしくなった。
他の入居者も同じように、おとなしくなり、反応が鈍くなる
方もおられた。そこには人間関係というのはあまり見られず
個々の高齢者が介護してくれる人の世話になっているだけ
という関係であった。
働く側にはストレスはあると思うが、被介護者には、
そんな力もなくなっているように見えた。

人間関係で悩んでいるうちは、まだ元気なのだ。

仕事していれば、ストレスはある。
ほんとうに、そうだ。
その葛藤とどうつきあうか、折り合いをつけて前に進むか。
人間関係を避けての仕事もあるが、
多くは人と人とのかかわりのなかで、生産したり、販売
したり・・。
人の力がもたらす、プラスとマイナスの両面を活かしながら、
ミッションをいかに果たすか。すぐに〇〇ハラと言われる
世の中、うまくコミュニケーションをとりながら、仕事を
するのも難しい時代。変化に対応していかねばならない。

生涯現役を目指すならば、ストレスともおつきあい
し続けねば。もちろん程よいストレスのなかでの
持続性を求めていくのが良い。

庭いじりをしてくれている叔父には、本当に
教えられる。
人生の先輩を大切に、感謝して学ばせていただこう。

カテゴリー: Essay (Word) | 日々の悩みは生きてる証拠。 はコメントを受け付けていません

確かにイケてるだけに。

最近、身近なところでchat GPTなどの生成AIを使うケースが
増えている。
その言葉は、毎日のように耳にするようになった。
2年ほど前、「生成?」その用語も聞き慣れず、へんな
ネーミングだと思っていたが。

先日もある企画書を作るときに
「このイラスト、生成AIで作ったんですよ」とある方。
自分が指示した内容と出来上がった作品について、
説明され、まあまあですねとの評価。
「これぐらい作れるならばいい」という感じ。

私も実際にどの程度の文章作成力なのかを実感したく
問いかけをしてみる。
この問いかけの仕方こそが、ポイントのようだ。
人間とのコミュニケーションとも共通する。

相手をどういう存在として位置づけるか。
どういう役割を担ってほしいか。

最初にその定義づけをしておくと、chat GPTも
それに従って学習した言葉で目的に沿った
アウトプットをしてくれる。

驚くのはその時間の速さだ。
ひとつの問いかけをすれば、瞬時にその答えが
出てくる。
問いかけの意図が相手(あえてそう呼ぶ)に
伝われば、期待した文章が時間と手間をかける
ことなく入手できるのだ。

生みの苦しみを伴わない創造とは?
ここは考えねばならないが、使う側の
力量によって、使いこなせるツールであることは
確かなようだ。

学生がレポートや論文でよく使うのもわからなく
はない。
もちろん先生からすれば、これは「使ったな」
とまだわかるレベルだそうだが、いずれ
見分けがつかないほどに、精度アップする
日も遠くないだろう。

感情もなく、血も涙もないが、
それでもコミュニケーションの相手になりうる。
仕事のパートナーにもなりうる。
期待と怖さを同時に感じつつ、
あくまでも、使うのは人間だ。
使われてはいけない。
と自らに言い聞かせる。

それにしても、AIの成長は凄すぎる。
これを活用しながらも、人間にしか、自分にしか
できないことを真剣に問い、自己研鑽しなければ。

その人がゼロからやったことか、
AIとの共同作業か。
見分けがつかなくなる日が来るのは
心配もある。
それでいいのか?と。

魂、思い。伝えたいという意志。
感動、共感・・・。
これを大切にしたい限り、自力で書かねばならない。
と私は思うが、それも人それぞれか。

改めて、
便利な使える、イケているツールだからこそ、
人間が主役でなければならない。


カテゴリー: Essay (Word) | 確かにイケてるだけに。 はコメントを受け付けていません

旅先でも平和を祈って。

GW後の1週間、京都は少し人出も少なめ。とはいえ、
一般の観光客ではなく、修学旅行生のご一行は元気に入洛。
京都駅コンコース内で座って先生の話を聞く姿は、今も
健在。
これは、今も昔も変わらぬ京都の風物詩的光景のひとつ
かもしれない。
(内外ともに他の町では、見たことがない)
京都を訪ねる生徒たちの姿を見て、次の観光シーズン到来
を感じる。

インバウンド客はといえば。円安が続いているため、日本の
人気は高いまま。日本人観光客が少し落ち着いた先週、外
国人の姿が目につく。
それにしても、いろんなところを歩いているものだ。どこに
行っても外国人がいる。個人旅行では一人旅も、カップル、
3~4人のグループも多い。

四条通を歩いていたら、声をかけられた。
なぜか、声をかけられやすいのか、そういう機会が多い。
4人ほどのグループだ。
英語が話せるか?と聞かれ。少しならというと、
「ワタシハ ドコ ニ イマスカ?」
と日本語で質問された。ああ、道に迷われたのだ。
そのあとは、つたないながらも英語でやりとりする。

錦市場に行きたいようであるが、どこかで間違って西に
来てしまったのだろう?
歩いたら、ちょっと遠いですよ。というと、スマホを
見て、「1キロメーターだから。遠くないよ」。
そう、世界中のツーリストにとってスマホは大切な
お供である。
そこは、四条大宮であったので錦市場までの行き方を
伝えると、一同 よく分かったご様子。
お礼を言われた後、どこから来たのかと尋ねてみたら
「ワタシハ イスラエル人です」とまたもや日本語で回答。

そうなんだ。
平和を祈ります。早く戦争が終わるように祈ります。
というと、一同、笑顔で頷いた。

イスラエルの人々にとっても、今の世界情勢は決して
嬉しいことではないはず。
国と国民はイコールではない。
平和な日本に来れば余計にそれを感じるだろう。

旅先では、危険を感じる国もあるが、
日本ならば、まだ安全で、平和を感じることができる
はず。

穏やかに1日を過ごせる幸せ、それを守ることの大切
さを京都で 日本で感じ、その平和の心を自国に
持ち帰ってほしい。

グルメや観光地の楽しみだけでなく、
その楽しみを守り続けるための努力について
感じ、学んでいただけたら。
世界遺産を破壊していく心ない国もある。
そう思えば、今の日本は平和を学べる貴重な場
でもある。

瞬間にでも出会った人と平和を願い、誓う
ことができる。

こんな小さなコミュニケーションからも平和は
生まれると信じて。

カテゴリー: Essay (Word) | 旅先でも平和を祈って。 はコメントを受け付けていません

30代の今、昔。

最近、30代の人たちとの交流が続いている。
個別に話を聞く機会、一緒に食事をしながら交流する時間。
仕事の話では、それぞれの課題ややりがいなど聴きながら、
改善、解決できることについて助言をし、あとで上司にも
共有し、今後の職場環境改善や指導に生かしてもらうこと
にしている。自分が彼らの真上の関係ではないところが、
言いやすさにつながるのか、上司ではないけれど、人生の
先輩として気軽に相談してもらえたり、打ち明けたりして
くれるのでこちらとしても有難い。

仕事の話をしていると、その人の生き方の話になってくる。
仕事とプライベートは切り離せない。
その上での悩みもあるし、仕事を覚えて、組織で役割を担う
ようになると、周囲からも頼りにされ、仕事も増え、残業も
増えたり、結婚をすれば出産、育児をどうするのか?もしくは
結婚すべきかどうか・・・。
などなど、よく考えれば30代は、人生の分岐点のひとつとも
言える。
就職して、社会人としてのキャリアを積み、そしてさらにステ
ップアップしていこうとするタイミング。
そうだ、自分も35歳には脱サラをしていた。30代前半に
いろいろ考え始めていた。
その時と同じだ。

「自分も30代の頃は考えたよ。わかるわかる」
と言って話を聞きながら、
この人たちの親が自分と同世代ということに気づき、
そうか、子どもがもしいたら、親としてこんな風に話を
聞いていたのかな。
いや、違う道を歩んできたから、聞けるのかな。

など思いながら、
これからこの青年たちが、しあわせに心豊に生きていける
ように自らの経験を活かしながら、応援し続けることが、
自分たち先に生まれた者の責任であると思う。

人生の先輩と後輩。
この関係は血縁、地縁に関係なく、存在する。
自分が多くの先輩に守られてきたように、
今度は自分がそうする番だ。

30代、実り多き良き時代、もちろん、今だって。

カテゴリー: Essay (Word) | 30代の今、昔。 はコメントを受け付けていません

人を大切にする、当たり前。

連日悲しいニュースが朝いちばんに流れると、
「またか。へ?なんで?」
信じられない気持ちでいっぱいになる。
若い人は、ある意味ゲーム感覚で、その罪の重さを
理解できず、取り返しのつかないことをするのか?
バーチャルな暮らしになれてしまい、人の存在が
わからない、痛みがわからなくなってしまって
いるのか?
高齢になると、介護疲れでどうしようもなく・・
なのか?

殺人はあり得ない。と思う人がほとんどであろうが
それでも、最近はそんなニュースがトップに取り上
げられる。
容疑者、被害を受けられた人の画像が何度も何度も
ネットに、テレビに露出すると、被害者が気の毒だ
と思うと同時に、同じ報道ばかり・・・と目をそむけ
たくなる。

悲しすぎる世の中だ。
自分勝手な一方的な思いで、過ちを犯してしまう。
それまでに何か相談したり、考え直したりさせる
ことはできなかったか・・・。
いのちの大切さを、伝え説く機会が減っているのかも
しれない。
教育の問題だと思う。

葬儀の広告が増え、その表現ひとつをとっても、
近年、死の扱い方が変わってきている。
ネット社会の存在自体も、その傾向をより強めている
一因だと思う。

何でも簡単に知ることができるが、あくまでも疑似体験
であり、画面を見ているだけでは、本当の学習には
ならず、誤った行動に走って、取り返しのつかないこと
になることもある。

改めて「人のいのち」の大切さをもっと学んでおく必要がある。
恨んだり、憎んだり、諦めたりせず、
助け合って、相手を思いやって お互いに助け合って
生きることができる社会。
裏切ったと思われない社会。
相手を思いやれば、解決できることも多いはず。
と思いたい。

グルメや旅の情報番組だけでなく、必要なことは
人の命の大切さ、生きることの意味を問う
そのきっかけを与えてくれる情報ではないか。

悲しい事件がない世の中が良い。
そうでないと、世の中が殺伐したものとなり、
人は警戒心をもち、自分だけを守るようになる。

人のことを大切にできる。
子どもの頃は、まだそれが当たり前だった。
そういう意味でも、良き時代であった。

行き過ぎた自分主義の恐ろしさ。
スマホで個の社会がこんな風に確立してしまうと
隣の人に目を向けることができなくなってしまう。
分断は世界中に広がっていることを防ぎたい。

電車に乗っても、駅にいても、いつ何が起きるか
わからない。
いつから、こんな世の中になってしまったのだろう。

少しでも取り戻したい。
自分自分から、人のこと。を想う気持ち。

少しでも自分から動きたい。
できることは、ちっぽけすぎるけれど。


カテゴリー: Essay (Word) | 人を大切にする、当たり前。 はコメントを受け付けていません

ロケハンして、イメージづくり

鵜飼開きを待つ長良川は、その代名詞である「清流」に
ふさわしい青さと、よどむことのない流れを見るものに
与えてくれる。
「ほんとうに、きれいだなあ」
少し温暖化で山の色がおかしいが、山とこの川が
両方楽しめる長良川河畔はふるさとで最も好きな場所
のひとつ。
ここで、鵜飼開きのシーズンにコンサートを行う。
あっという間にその日が近づいてきた。
5月17日、24日、31日の夕暮れ。
鵜飼が始まるまでの間、賑わう長良川夜市とともに、
鵜舟の登場を待ち、歓迎したい。

ということで、夕暮れの屋外コンサートということで
改めてその場所に向かい、どんな景色に見えるか
どんな構成にしたらよいかなどをイメージしてみる。
撮影などのロケハンはあるが、コンサートのロケハンとは。

信長のいた岐阜城を見上げ、歴史を越えたロマンチックな
気分と、この清流の恵みを与え続けてくれるふるさとへの
愛をここで表現できたらと思う。

外で演奏するのは、久しぶり。(そのときは雨の信濃川・・・)

最高のステージ。
生きていたらいいことがあるもんだ。
両親がいたら、最高に喜んだであろう、
いやいや、彼らは岐阜城から、信長たちと一緒に
見ているに違いない。
と、思うことにする。
ここで、鵜飼のイメージソング「やがて・・・」も
もちろん演奏する。

鵜飼びらき 愛の夕暮れコンサート | うかいミュージアム

カテゴリー: Essay (Word) | ロケハンして、イメージづくり はコメントを受け付けていません

会える人に、会えるときに。

若い時にお世話になってきた人生の先輩方。
社会人としての自分を育て、見守ってくださって
来た皆さん。
高齢になり、コロナもあって、年賀状も卒業され、
その後、ご様子もわからないまま時間が経って・・・。
という方が、実は少なくない。

連絡がつけば、会話が再びできれば、安心。
元気があれば、どこかでお会いする。
外出ができなさそうであれば、お手紙やお見舞いの
花を送る。
顔が見れなくても、コミュニケーションが続けられる
ことは幸い。

音信不通になってしまっている場合は、心配。
そのまま永遠に・・・ということもある。
怖くて確認することも、ためらわれる。
きっとお元気でおられるだろうと思いたいが、
どうも心が騒ぐ・・・。

と、こんなことが多くなってくる。
悔いのないように、
お世話になった方には、ちゃんとお礼を
言っておきたい。

フランシスコ教皇宛ての手紙と歌詞の訳文を
手伝ってくれたKENさん。
「マーサのその挑戦に乗るわ」
ご自身は、敬虔なクリスチャンであるのに、そうではない
私の突拍子もない相談に真剣に応えてくれた、もともとは
マーケティングの勉強会の仲間。
もう30年以上のおつきあい。
ありがたい貴重な存在。
businessについて、宗教観について、いろいろ
議論した、カラオケも楽しんだそんな日々を懐かしむ。

会いに行きたいけれど、叶わない。
何もできないから、花を送った。
今回は、マイカラーの紫や赤ではなく、
元気が出るビタミンカラーで。

「心のこもった花が届きました。
外出できるようにがんばります。
会えるようになったら連絡します。」
とのメッセージが届く。
その日を毎日、待ち続けたい。

会いたい人に、会える人に、会える時に。
それこそが、人生でとても大切なけじめ。

お世話になった方たちに、心からの感謝と祈りを。

カテゴリー: Essay (Word) | 会える人に、会えるときに。 はコメントを受け付けていません