共有すること、しないこと。

SNSの普及以降だろうか。「シェア」ということばが日常語になり、
今やビジネスの現場でも「共有」という用語が、毎日のように
使用されている。共有という言葉を使わない日はないかもしれない。

ひと昔前までは、こういうときは、どんな言葉を使っていたのか、
もしくは、共有していなかったのか?
以前ならば、「報告します」と言っていたところが
「共有します」に置きかわっているところもある。
言葉が変わると関係や、責任の所在も変わるような気もするが
いかがだろうか。

とにかく、「共有する」は便利な言葉ではある。
とくにビジネスの場合は、情報の共有。
同じ情報を関係者が同時に有している。そのメリットが確かに
多い。

一方、共有された情報の扱いは、実は難しいと思っている。
共有されたら、見ておかねばならないという義務、
あるいは、見ても問題ないという自由さ(どちらでも良い)
もしくは、見ても良いという権利?

共有という言葉は、便利ではあるが、受け取る際に、この
共有された意図を考えなければならない。

ときに、今共有してくれなくてよいことも、共有される。
そう感じることもあるかもしれない。
このときは、なぜそう感じるのかを自分なりに考えてみる
ことが必要だ。
また、そう感じることを自分が発信する際に役立てたいとも
思う。

何を共有するのか、しないのか。
なんでもCCすればよいということはない。

コミュニケーションは、ときにこれはこの人だけに。
という選別も重要だ。
共有することのメリットと、デメリットを改めて考えながら
選んで、必要な共有を行いたい。
意識しないと線引きが難しい今日である。

単なる情報の共有から、共感が生まれ、共創に発展していくことを
目指したい。そこには心の交わりが必要だ。

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