人を大切にする、当たり前。

連日悲しいニュースが朝いちばんに流れると、
「またか。へ?なんで?」
信じられない気持ちでいっぱいになる。
若い人は、ある意味ゲーム感覚で、その罪の重さを
理解できず、取り返しのつかないことをするのか?
バーチャルな暮らしになれてしまい、人の存在が
わからない、痛みがわからなくなってしまって
いるのか?
高齢になると、介護疲れでどうしようもなく・・
なのか?

殺人はあり得ない。と思う人がほとんどであろうが
それでも、最近はそんなニュースがトップに取り上
げられる。
容疑者、被害を受けられた人の画像が何度も何度も
ネットに、テレビに露出すると、被害者が気の毒だ
と思うと同時に、同じ報道ばかり・・・と目をそむけ
たくなる。

悲しすぎる世の中だ。
自分勝手な一方的な思いで、過ちを犯してしまう。
それまでに何か相談したり、考え直したりさせる
ことはできなかったか・・・。
いのちの大切さを、伝え説く機会が減っているのかも
しれない。
教育の問題だと思う。

葬儀の広告が増え、その表現ひとつをとっても、
近年、死の扱い方が変わってきている。
ネット社会の存在自体も、その傾向をより強めている
一因だと思う。

何でも簡単に知ることができるが、あくまでも疑似体験
であり、画面を見ているだけでは、本当の学習には
ならず、誤った行動に走って、取り返しのつかないこと
になることもある。

改めて「人のいのち」の大切さをもっと学んでおく必要がある。
恨んだり、憎んだり、諦めたりせず、
助け合って、相手を思いやって お互いに助け合って
生きることができる社会。
裏切ったと思われない社会。
相手を思いやれば、解決できることも多いはず。
と思いたい。

グルメや旅の情報番組だけでなく、必要なことは
人の命の大切さ、生きることの意味を問う
そのきっかけを与えてくれる情報ではないか。

悲しい事件がない世の中が良い。
そうでないと、世の中が殺伐したものとなり、
人は警戒心をもち、自分だけを守るようになる。

人のことを大切にできる。
子どもの頃は、まだそれが当たり前だった。
そういう意味でも、良き時代であった。

行き過ぎた自分主義の恐ろしさ。
スマホで個の社会がこんな風に確立してしまうと
隣の人に目を向けることができなくなってしまう。
分断は世界中に広がっていることを防ぎたい。

電車に乗っても、駅にいても、いつ何が起きるか
わからない。
いつから、こんな世の中になってしまったのだろう。

少しでも取り戻したい。
自分自分から、人のこと。を想う気持ち。

少しでも自分から動きたい。
できることは、ちっぽけすぎるけれど。


カテゴリー: Essay (Word) パーマリンク