葬儀会場内のカフェ。
といえば、地元で両親を送るときの火葬の待ち時間に
利用したカフェを思い出す。
そのときは当事者であったため、周囲の景色など目に
入らなかった。一杯のコーヒーを飲み、妹らと世間話をし、
ただ呼び出されるのを待った。
人生の中でもっとも非日常な時間であった。
地元ではないが、斎場内でカフェを運営する知人がいて、
「クリームソーダがよく売れる」
「うどんが美味しいと言われる」
との話を何度かきいて、どんな空間なのだろうかと 素朴に
興味が湧いた。
フードコートのスタイルらしい。
映画の「お葬式」ではないけれど、一体、どんな世界かと。
やっと時間がとれて、そのお店を訪ねてみた。
街から少し離れた山間の場所にある。
その葬祭場のなかにあるお店。
広い食堂のような空間にテーブルとイスがずらり並んでいる。
その奥にキッチンカウンターと券売機。
各テーブルにはメニュー。コーヒー紅茶だけでなく、
たしかにクリームソーダも、各種うどん、カレー、
スイーツまで・・・。A4裏表 写真付きでびっしり
メニューがかいてある。こんなに種類が豊富とは・・・。
最期のお別れを終えたご遺族たちが、ここに案内され、
ほっとして着席して見るメニュー。
もしかしたら、この瞬間にさっきまでの張りつめた
気持が変わるのかもしれない。
運営者である知人が、私に「ほんまに来たね」という
おもてなしを込めて、
コーヒーと「フィナンシェ」をご馳走してくれた。
「このフィナンシェ、結構おいしいんですわ。よく
売れてます」と言いながら、本人も召し上がり、
すすめてくれた。
わたしは、次々と室内に入ってくる遺族たちの
様子を眺めていた。
次々と・・・入室されてくる。
遺影や骨箱をもっての入室の様子も、見ているうちに
慣れてきてしまう不思議な感覚・・・。
自分が滞在した1時間ほどの間に見た
その景色のなかには、笑い声や子どもたちの
元気な声もあり、悲しみはもちろんあるのだろうが、
想像していた世界とは違う、そこに日常の延長を感じた。
最期のお別れをした後、この空間でドリンクや
食事をいただきながら、待つ。
その時間で気持ちの切り替えができるのかもしれない。
故人の思い出話もしながら、悲しみの気持ちが和らぎ
さっきまでの悲しい気持とは少し違う心境になって
いくのかもしれない。
おいしくてあたたかいうどんや、色鮮やかな
冷たいクリームソーダをいただくことで、悲しみを
受け入れ、落ち着きを取り戻せるのかもしれない。
生きていることを実感するのかもしれない。
そんなことを思いながら、知人がおもてなしして
くれたフィナンシェをほうばった。
不思議であるが、普段いただくフィナンシェと違って
なんともいえない味わいがした。
ここで食べたフィナンシェとコーヒー。
もう忘れられない。
同じように、ここでうどんやクリームソーダを
いただいた方は、そのときの味を忘れないのでは。
「毎日ここにいると、死が日常に感じられてしまう。
非日常だった死が日常になってしまうんやわ。
それでいいのかと思いながら、でもそれが現実かな」
飲食業はいろんな場所に存在する。
このような非日常空間にあるお店は、単に人々に
美味しさを提供するだけではなく、
悲しみを癒したり、非日常と日常のスイッチ的な
役割を果たしたり、こういう時しか会えない人との
コミュニケーションの場になったり・・
いろんな深い役割をもっているのだと思った。
街なかで繁盛している飲食店とは違った感動を
与えているお店の存在。
知人がこういった仕事を受け合い 仲間と一緒に
日々奮闘されている姿を誇りに思う。
これから、フィナンシェをいただくたびに、
今回見た光景を思い出すだろう。
うどんやクリームソーダをいただくときにも
思い出すだろう。
超高齢化社会。多死社会の一コマをこのような
カタチで体験させていただいた。
毎日多くの人が旅立たれる。
多くの人の働きにより、送られていく。
そのことを忘れずに。
そして、旅立って行かれるひとり一人の
尊厳を大切に・・・。
実に学びの多い時間をいただいた。
待ち時間のフィナンシェ
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