未完の防災サービス、手作り発信。

DX支援をすすめる企業の社長さんとしばらくの時間をかけて、二人で取り
組んでいる防災プロジェクト。
自分たちの問題意識を、自らができることでカタチにし、少しでもお役に
立てたら・・ということで、はじまったこの活動。
まだ実は完成ではないけれど、IT業界でいえば、まさにアジャイル方式の
?と勝手に解釈して、作りながら世に問い、また改善をしながら完成
に向けていく。いや、モノではないシステムの世界では完成はないのかも
しれない。どんどん進化していくのであるから。

ということで、本日から開催される新潟国体と併催のにいがた防災産業展。
そこにまさにシニアプロジェクトが発表するサービス名がこちら。
(上と下)
IT企業の社長の四半世紀の経験と技術力を見える化し、反応を見る。
被災経験をお持ちの方だけに、思いも籠る。そのプロセスに寄り添いたいと
思った。

ドローンもAIも、そして「ローリングストック」も防災の世界では重要な
テーマ。「いざに備える」ために求める方のお役に立てれば何よりだ。

せっかく考えたネーミング。新潟で生まれたサービスでもあるし、
新潟のアーチストに依頼してみよう。ということで、親しくさせていただ
いている書家のこうすいさんに筆をとっていただいた。
(わがアルバムのジャケットなどでも、いろいろお世話になっている)

デジタルコミュニケーションが優先される世界で、手書きのポスター
は映えると確信しての挑戦。何度も打ち合わせして、仕上げていただ
いた。書を展示会に、しかもITの商品告知に使ってみるのも新たな
経験。

未完成のまま世に問うのもあり。
恐れず公開する。この太っ腹な社長に、共感と寄せ、エールを送る。
そんなわけで、今日明日は新潟で防災づくりの2日となる。
https://niigata-bousaisangyoten.pref.niigata.lg.jp/

一人でも多くの方に出会いたい。新潟での週末は久しぶりで心も踊る。

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ボテロなるものへの思慕。

母が生きた最後の年、せめて楽しいカレンダーを飾って
あげたいと思い、大好きなフェルナンド ボテロの絵の
カレンダーを壁にかけていた。
「これ、おもしろいなあ~」
心身ともに弱りかけていた母にとっても、あの丸っこい
まさに名前のごとく「ぼてっとした」ユーモラスな
絵は、癒しと楽しみになっていたようだ。
太った男女がタンゴを踊っている絵がとても好きだった
ので、今もカレンダーはそのままにしてある。

ボテロの作品を初めて見たのは、海外の美術館だった
かもしれない。釘付けになりながら笑みを浮かべる。
この不思議な感覚。
一度見たら忘れない ふくよかな形とやさしいタッチ。

南米の作家だからなのか、それまでの西洋画とは違う
庶民的な人間の暮らし、人々の生きる活力をも感じる。
私もタンゴを踊る男女や、楽器を奏でている作品が、
とても好きだ。

平和を愛を感じる、まるっとしたボテロの作品。
残念ながらその画家は昨年この9月15日に生涯を終えた。
でも、作品がある限り、ボテロは愛好家にとって永遠だ。

話は少し変わるが、ここのところ朝レタスが気に入っている。
岐阜で仲卸をされている会社が運営する八百屋さんでいつも
調達する信州のレタス。とても大きくて、丸っこくて・・・。
レタスは包丁でではなく、手で1枚づつはがして、ちぎる。
丸いレタスに触れながら、ボテロの絵を思い出す。
毎朝の儀式になりつつあるが、ほんわか幸せを感じる瞬間だ。
丸いモノには平和と愛の神様が宿っているのかと思うほどに
この形に惹かれる。

レタスとボテロ・・・。
面白い関係だと一人で楽しんでいたら、
ある画家の方が、「ボテロを見ていたらパンを描きたくなった」
ということで、まるっこい、大きなパン、まさにパンの肖像画を
描いておられることを知り、興味を抱く。
その方が描く丸いフランスパン(ブール)の絵を写真で見たら、
なんとも焼きたての美味しそうなパンが永遠の命をもちつつ、
そして見る人に幸せを与えているように感じた。
この画家にも今、興味を抱きはじめている。
ボテロとパン。
これも、大変面白い。

ボテロなるもの。
ふくよかさって、しあわせとやすらぎを感じる。

これはきっと叶わない夢に終わるが、
ボテロが生まれたコロンビアのミュージアムを訪ねて
全身ボテロなるものに包まれてみたい。と思う。

愛と平和の証し。
西洋美とはひと味違う、人間愛を感じる。
ボテロから見た、目指す世界があのユニークなカタチに
込められているのだろう。

と、今朝もレタスをちぎりながら、ボテロを想う。

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自分から離れ、相手に近づく。

日々、さまざまな人との面談、交流が続く。
多業種、異なる世代、違う職場、環境、国籍・・・。
とにかくいろんな人とコミュニケーションし続けることは
「人間を知る」という点で、何年やっても飽きることがなく
自分自身学びが多い。

たとえば悩む人がいるとする。
多くは自分の思いが相手に伝わっていないこと、
自分の思いと現実が違う、思うように進んでいかないことへの
焦りや不安があって悩まれることが多い。
私は悩むことはとても良いことだと思っている。
それは、良くしたい、なんとかしたいという思いの現れであるから。

この状態で相談を受けたら、いろんな角度から言葉をかけることで
気づきを得てもらえることも多い。
自分中心であった考えを、相手の立場に立ってみる。
すると、どうして伝わっていないか、どうしたら伝わるかのヒントも
得られる。

一方、もう悩みを越えて、結論を出してしまった人。
この人はこういう人だから、と自分なりの答えを出して、
悩まないように自分の行動をコントロールし、相手と距離をおいて
生きていく人もいる。
自分と合わない人、違うと思う人とはわりきって、積極的に関わらない。
それもよく理解できる。冷静になるために、その方がよい瞬間もある。

ただ、見方を変えれば、相手の良いところも見えてくるので、
それも忘れずにいたい。。
良好な関係を築くことを、意識し続けたい。

自分の殻のなかから相手を見る、世間を見るだけでなく、
ときに自分を自分の外に出してみて、相手にはどう伝わっているだろう、
どう見えているだろうと
「見られている、見えている自分」を想像してみたい。

それは少し勇気がいるかもしれないけれど、
きっと答えがみつかる。
うまくいかない理由は、自分が見えていないことにあるのかも。

一歩外へ。そうすれば心も軽くなる。

と、日々、学びをいただけることに感謝したい。


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もぐらたたき、ぐるぐる登山。

毎日、何かしらの課題解決に向かい、時間とにらめっこ
しながら動いている。
いつまでに書かなければならない、いつまでに終わらせなければ
ならない、いつまでに決めなければならない。
このミーティングのゴールはこれ。だからこうしなければ
ならない。

もちろん一歩先のことまで考えて生きている意識はあるけれど、
結局目の前のことに追われる日も多い。
こっちをやっていると思えば、あっちから連絡が入り、
そうかと思えば、なに~?と思うようなこちらからすれば
言ったはず、合意したはずなのになんで?と話が逆戻り。
トンチンカンに思える相手の反応に首をかしげながらも、
前に進もうと踏ん張る。
メールもチャットもZOOMも便利であるが、ひとたび壊れると
環境が悪いと、コミュニケーションにも支障が出る。
結局、電話する。毎日、ぐるぐる もぐらたたきの暮らし。

思えば、ここしばらくそういう日々を過ごしている。
仕事は、人生はつくづくコミュニケーションだと思う。
やりとりの中で起きる、ズレはあって当然。
人の理解は、自分が思っていることと違う場合も多い。
だから何度も伝えあう、念を入れての確認は必要。

そんなこんなで、時に血液が逆流しそうなときも
あるが、少し落ち着いて
一杯の炭酸水。あるいは濃いめの紅茶。
一息ついて、相手は相手でがんばっている、一生懸命
なのだと相手のことを想像してみると、まあいいか。
と落ち着き、次の手を考える。

毎日それぞれの仕事のゴールを思い浮かべながら
それぞれの山が、ちゃんと頂上までたどり着けるように
ぐるぐる回りながら、昇っていく。
は?なに?なんで?そうなんだ。ま、いいか。
そんなことを毎日繰り返し、それぞれのゴールに向かい
背中を押し続けている。

それがすべてうまくいくことが、力になり、信頼につながる。

さあ、今日もぐるぐる。




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最初の1000歩。

朝早く、元気にスタートするために新たなアクションを追加。
あまりに暑い日々なので、外出を控えたい。でも体を動かしたい。
というころで時間が少しでもあれば、室内を気分転換に歩く
ことにしている。
狭い部屋でも、やりようはある。

とくに朝目覚めてまもないうちに、最初の1000歩を始める。
猛暑のおかげで、生まれたこの新習慣。
朝の1000歩は、今日の予定を確認しながら、頭を整理するにも
良い時間だ。歩いているうちに頭がさえてくる。

小さなことでも、新しい挑戦は必ず発見につながると
今回も確信。

歩きながら、考える。
ベートーベンも散歩しながら、楽想を練ったりしてようであるし、
また親しかった作家のNさんも生前、毎日 散歩をされていたが、
執筆にも効果的なエクササイズだったと思う。もちろん街を歩けば
目に飛び込んでくるものも新たな発見になるので、これはこれで
効果的。
室内でも何かを聞きながら歩けば、インプットの時間としても
一石二鳥となる。

と、今朝もすでに1000歩済ませて、本格稼働。
毎朝やることが、どんどん増えている。

さらに早起きすることになるが、
朝が長い分には、良い。
朝は1日の活動の源泉だ。

「3歩歩いて2歩下がる♪ 」という歌があったが
1000歩も歩けば、もう後ろへは下がらない。
前進あるのみ。

という発想で今日を、新たにはじめる。
行けるところまで、行こう!

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もし、自分だったら。と考える。

8月は戦争に関する話題に多く接することができ、
新たな世界をさらに知る機会に恵まれた。
まだまだ、知らないことが多すぎる。
半世紀以上生きてきているのに、なんという無知なのだと
学校の教育にも疑問はありつつ、自分の不勉強も反省しきり。

もし、自分が当時生きていたら、こんな立場であったなら・・・
と考える。
もし、自分が戦争未亡人であったなら・・・。
父親が戦争に行かされ、そのまま現地で亡くなり、
遺骨もみつかっていなかったら・・・。
もし、自分がシベリアで抑留されていたら・・・。
戦争孤児になっていたら・・・。
もし、自分が中国人だったら、アメリカ人だったら、
ユダヤ人だったら、ドイツ人だったら・・・。

いろんなことを想像してみる。
どんな20世紀であったのだ。知れば知るほど驚き、
ショックをうける。
戦争がもたらす、取り返すことのできない苦痛、苦難・・。

経験された先人が絶対戦争はいけないと言っているのに
広島や長崎がその悲惨な例を示しているのに、
それでも、まだ今、人間業と思えない悪行が続いている。

そんな現状のなか、ご自身の御父上が戦死されたジャカルタ島に
何度も通い、遺骨収集を続けておられるご婦人の存在を知る。
もう80歳を越えておられる。自分の親たちと同世代。
ご自身の親だけでなく、同じく同じ場所で戦死された方たちの
遺骨も一緒に収集されているそうだ。
大変な作業であるのに、それを何年も続けておられるその
思いを想うと、もし、自分が同じ立場だったら・・・と思う。
同じことをしているかもしれない。

80年経っても家族の元に帰ることができない多くの人々。
戦争が奪った多くの命のひとりが、自分の愛する、かけがえの
ない存在であったら・・・。

戦争を体験していないことは幸せなことであるが、
その現実を知らないと、平和のありがたみは理解できないと
思う。
だから、もし自分だったら・・・と想像してみよう。
そして、できることを始めよう。

今日から9月であるけれど、終戦80年は終わらない。
引き続き、事実を学び、平和を希求し続けたい。

今日は母の誕生日。生きていたら85歳か。
もし生きていたら・・・となっていることは寂しいけれど、
ずっと忘れない記念日である。
時々戦後まもない時代の話をしていたなあ。
と改めて思い出す朝である。

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「和敬清寂」を心に刻み・・・

8月が今日で終わる。戦後80年の8月。終戦記念日15日を踏まえ、
さまざまな戦後の情報に接し、考える夏となった。

そんななか、茶道家の千玄室さんが14日に102年の生涯を閉じられた。
特攻隊として戦争を体験されてきた千さんが伝えられてきた、茶道
を通じての平和への願いは、改めて多くの人々の心に刻まれたこと
であろう。

千さんが生前話されていた映像のなかで、「和敬清寂」という言葉
が大変印象的だった。なんでも千利休が残された言葉だそうで、
その精神を代々受け継いでこられている、そしてその言葉を時代の
変化に対応しながら体現されてきたその活動、その生涯に改めて
頭が下がる。
この言葉の意味は、
「誰とでもと仲良く、相手を敬い、清らかな心で、何事にも動じず。」
簡単にいえば、そういうことであろうが、それを千玄室さんらしい表現、
京都弁を交えながら、笑顔で若者たちに語っておられた。
ああ、生前にもっと知っておけばよかったという無知への反省もあるが、
偉大なお方と同時代生きることができたことへの歓びも沸き上がった。

茶の心とは平和への伝道の道であることを学び、それを貫かれた
人生を素晴らしいと、心から思う。

今日で8月が終わるが、終戦という節目を決して忘れず、戦争なき日本で
いられるように、そして世界中が平和であるように、願いを込めて
生きていきたい。

千さんのように大きなことはできないけれど、自分もできることを
やり遂げ、平和な社会を目指し続けたい。
「和敬清寂」の心をもって・・・。


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防災×にいがた×〇〇

9月1日は母の誕生日であるが、その日は防災の日だ。
102年前、関東大震災が発生した日・・・。
そんなこともあり、その日は忘れられない記念日として
いつも覚えている。

その「防災」。
新潟に通いはじめる前に、あの中越地震があり、その後
中越沖地震も・・・。その前に新潟の知人は少なかったが
この震災経験がきっかけとなり新潟で多くの人々、企業の
皆さんに出会うことになった。
新潟での被災経験を活かそう・・と、がんばってきた
地元の皆さんの努力、奮闘を見ながら、広報面等でできる
お手伝いをしてきた。
今から思えば、それがあったから、自分のなかで防災
意識もそれなりに芽生えた。
その後、東日本大震災もあり、さらに危機意識をもって
生きるようになった。

防災士という役割を知ったり、災害食の認知向上に関心を
もったり・・・。これらはすべて新潟での出会いのおかげ。
来週、新潟では「ぼうさい国体」が開催され、同時開催で
にいがた防災産業展も行われる。
私のなかで「防災」×「新潟」×「〇〇」のイメージが
広がる。そんななか、ローリングストックという考え方が
浸透しつつあるが、それに着目されている人たちとの新たな
出会いもあり、さらにはITの力で何かできないかという発想
にもなる。そして商品開発や啓発活動にもかかわることになる。

思いがあれば、問題意識をもっていれば、いつどこで、どんな
出会いがあるかわからない。
今、防災×にいがた×〇〇というテーマで新たな観覧車が
回り始めている。
今日は岐阜で防災に取組む方にお会いする。ここもまた
つながっていくかもしれない。

思っていれば、つながる。行動すればつながる。
やはり、ここでも人生は観覧車のように。

楽しみながら、心通う人と、共感できる人たちとつながって
いきたい。

9月6日・7日は新潟にまいります。
こちらの会場にいます。
にいがた防災産業展↓
https://niigata-bousaisangyoten.pref.niigata.lg.jp/

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成長の傍らにいる幸せ。

20代、30代、40代、50代。いずれも自分が辿ってきた道。
時代は違えど、その道を今歩んでいる人たちと関わる時間
に恵まれ、多くのコミュニケーションの機会をいただいて
いる日々。
社会人になったばかりの人、2年目の人、数年、10年、
20年・・・。
いろんな悩みもある。
それを聞きながら、今自分が言えることを伝える。
メモを一生懸命とって聞く人、目を輝かせて頷く人。
その反応はさまざま。
自分の話をしっかり吸収しようと思っていただけること
がうれしい。

そして、その会話のあともずっと彼ら、彼女らの行動を
見守る。
会話が生かされている、変化していると感じる時が
本当にうれしい。

人の成長は、その人自身の気づきと速やかな実践の
積み重ね。
小さなことでも、ちゃんと改善されていけば、それは
成長につながる。

若き人達が生きる将来に、少しでも役に立つように
彼ら彼女らが、人生は観覧車のように生きる
ことに共感し、動き始めてくれたら・・。
自らが観覧車に乗るだけでなく、自らがその輪を
回す人になってくれたら・・・。

コミュニケーションクリエイターとは、
結局のところ、未来に生きる人づくりなのかも。
と最近感じ始めている。
成長する人たちの傍らにいられることが
幸せと思う。

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すべては「何のために」

さまざまな情報に取り囲まれ、気を付けないと浸食されがちな
日々を生きている。
と、そんなことを考えることなく、毎日毎時、スマホに向き合う暮らし
が当たり前のように存在している。

電車に乗り、ほとんどの人が手のひらの世界に向き合っている現実は
異常と感じる。ガラケーが普及したときもそう感じたが、今はもっと
さらに。異常が日常の風景になってしまった。
前を見ないのですか?と、思う。でも、自分も気が付けばその手の
ひらに目を向け、そうでなければこのデスクトップの世界で格闘。

パソコンの場合は、仕事目的であるので、ある意味緊張感もある。
スマホは、公私を越え、一番身近な存在になってしまっているのかも
しれない。もしかしたら人間の友達以上という人もいるのかもしれない。
これは危険だ。どんどん狭い世界に入り込んでいくことにも、気づかない。
それが当たり前になる。

自分にとって、要らない情報が無数にある。
何のためにこんな情報が存在するのだろう。
と、いつも思う。
何のため?単なる金儲けか?と思うことは多い。
量だけでなく、情報の質の低下も気になる。

この問いかけは 日々、いろんな場面で浮かんでくる。
AIを使うことも時にはある。そのAIがそれなりの回答を出してくれる。
そのことに慣れてしまうと、危険だとも思うようにしている。
自分は何のために、これを使っているのか?という問いを常に
持っていることが大切。
使ってもよいが、それを自分の知見や感性で磨いたり、ブラッシュ
アップしたり、あるいは参考に見る程度に収めるか。
あくまでも、参考のため。の活用でないといけないと私自身は
思っている。
自分でコントロールする必要がある。

本来は、使わなくてもいい。
自分の力でやるべきことなのだ。
基本はここだ。

便利なものに慣れていくと、考えなくなる。
AIは、自分が考えなくなるために使ってはよろしくない。と
思う。

すべては何のため?

何のために使うのか?
何のために働くのか?
何のためにこんな暑いのにがんばるのか?
何のために生きるのか?

毎日、この問いかけがあって、その答えを模索しながら
生きている。考えて生きるからこそ、人間ではないかと
思う。

考えない人は淘汰される時代になってきたと
感じる。
そして、利己的であっても(たとえばお金のため)
目的意識がはっきりしている人が知恵(悪も含め)を
出し、情報を駆使しながら、考えない人を飛びつく人を
飲みこんでいく。そんなことも意識しておきたい。

流されないように。
小さなことでも、「何のため」を問いかける習慣を
身につけていかねば。
若い頃に、哲学にほんの少しであるが、
触れておいて本当に良かった。

と、AIに向き合わねばならない日々、強く思う。

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