幸せの観覧車を目指して・・・。

グラン・ルー誕生は1998年9月17日。
そんなに気負ってのスタートではなく、1週間前に脱サラ
をして、小休止して走り始めた日である。

とにかく、あゆみを止めず、ずっと走り続けてきた。
気が付いたら、一人で走り始めていたというのが正直
なところ。
くいなき(917)毎日を、人生ということで9月17日。
後付けのような感じもするが、一応そんな意味もある。

今日で創業27年を迎える。
あっという間である。あっという間すぎる。
でも、時計を27年前に戻してみると、あれからずいぶんと
いろんな経験をさせていただいた。
東京、台湾、新潟、京都、そして地元・・・。
海外へどんどん出かけた40代までの頃から、グローカル、
そしてジローカル(今浮かんだ、「自分のふるさと」の造語)へ。
大きく、小さくぐるぐる回り、さまざまな出会いをいただいた。
目を閉じれば、思い出があふれ出る。

人生は観覧車のように。
時代は変われども、創業時とコンセプトは変わらず。
コミュニケーションの力で平和と愛を。
この思いは、近年、さらに強くなったと思う。
そして、give and take を越えて、またWin &Win も
越えて、惜しみなく与えるゆとりをもてたらと思う。
どこまでgiveできるか?

まったく足元にも及ばない、マザーテレサの存在。
一生及ばないままであるけれど、それでも憧れをもち続け、

私は私の観覧車を回していきたい。
小さな存在であっても、大海の一滴であっても、
意味のある存在でいられるように。

27年前に出会ったパリの観覧車に、
27年間、出会ったすべての皆様に、
そして、今も最強の応援者でいてくれている両親に
感謝と愛を込めて

「人生は、幸せの観覧車」を目指して、ここから回り始めよう。




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高いところから失礼します。

改めてこの写真を見ると、スゴイなあ。と思う。
日の丸、祝長寿 の旗の前に、グランドピアノ。
なかなか お目にかかれない舞台である。
こんなおめでたい場所で、演奏させていただけるなんて、
なんという幸せ者かと思う。

このステージには、会場(小学校の体育館)の後方から歌いながら
入場し、歩きながら前方に進み、階段で上がって壇上へ。階段は数段。
ずっとお客様に見られている。

しばらくこの高いところから、演奏を続けていた。
途中で、クイズメドレーを行い、客席で答えを聴くために
ステージの下に降りて、お客様のところにマイクを持っていった。
このフラットな状態で、皆様のお顔を見ながら、話していると
とても落ち着いた。こちらも安心感があったし、お客様の表情も
柔らかくなった。距離が縮まるのは、とてもいい。一体感が生まれる。

一方、ステージは、大勢の方に見ていただくには適している。
演奏するにも、ステージは気持ちよい。全力で演奏しても
大げさにはならない。やりすぎるぐらいでちょうどいい。
全力でリズムをとり、弾き、歌うせいで、鍵盤に汗が落ちる。
それぐらいステージでは、パワーを使う。
気が付けば1時間。休憩なしでお客様もよく付き合ってくださって
終わるころには、客席に笑顔がいっぱい増えていた。

「高いところから失礼します」の敬老の日コンサート。
昭和20年生まれの人生の先輩方へ、感謝と敬意をお伝えし、
そして、どうぞこれからも元気にお過ごしください。
と私なりのメッセージを贈らせていただいた。

80歳ってとても若い。今回のお客様を見てそう思った。
まだまだ元気!いろいろ楽しんでいただきたい。
それぞれの人生に寄り添えたかどうかわからないけれど、
一曲でも、一言でも記憶に残していただけていたら、うれしい。
楽しかったな、まだまだ元気にがんばろうかな、と。

祝 長寿。この昭和スタイルの敬老会、いつまで続くか
わからないが、形はともかく、演奏でお祝いできるならば
どこでも、いつでもまいります!
たとえ、自分自身が80歳になっても?!



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その存在に向き合う「ひと」時。

今日は、敬老の日。長く生きてこられた人生の先輩への感謝と敬意を
現し、その存在を大切に思う日。と、そう理解している。

といいつつ、正直若い時は、そんなことも考えたこともなかったし、
親に対しても「敬老の日」に花を送ったり、プレゼントをあげると
いうのも、親が年老いていくことを認めているようで、避けていた。

親は老人ではない・・と思っていた40代までの自分。
そう、親は死なない、老いない。と勝手に思っていたのだ。
いつまでも元気に口喧嘩をする。うるさい存在・・・と思っていた。

しかし、さすがに70代後半になってきたら、会うたびに老いを感じることも
あり、複雑な気持ちにもなり・・・。
敬老の日とは、どこかヨソのおじいさん、おばあさんのことだと
思っていたのに、いつの間にか、両親も行政からシニア向けのサービス
を受けていた・・・。

本日は地元での敬老会でコンサートをさせていただく。
昨年も演奏させていただいたが、ステージが終わった後、
今年の担当幹事の方に声をかけられた。
「来年、私が担当ですので、ぜひお願いします!」
1年前からのオファー。有難い限り。
そして、本日。
80歳限定の敬老会。それ以外の方も歓迎したいところであるが、
地域ごとのルールがあるようで・・・。

暑さ、健康上の都合もあって、集まれる人は限られている。
そんななか、わざわざおいでいただける方に、自分ができること。
まずは、
「今日暑かったけれど、出かけて良かったなあ」
と思っていただけるようなパフォーマンスをすること。
せっかく出かけてきたのに、がっかりさせてはならない。

そして、音楽とトークを通じて、それぞれの人生を少しふりかえり
そして生きてきた道をよかったと思い、これからも元気にがんばろう。
と思っていただけたら・・・。

集まってこられるお客様ひとり一人の人生に寄り添えたら
いいけれど、どこまでできるか?
いろんな共通点から喜んでいただける曲を用意し、
備える。
今朝になっても、曲目を追加したりしている。

音楽は人生の鏡ともいえる。
それぞれの生きた時代をそこに映し出して、懐かしんだり
楽しんだり、心躍らせていただけたら・・・。

50名であろうが、100名であろうが、ひとり一人に寄り添いたい。
そんな気持ちで、衣装選びをして、そして出発。
代理のない仕事、ちょっと緊張感をもって全身全霊でつとめたい。

敬老の日。
人生の先輩のみなさんの存在に感謝を伝えたい。

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「敬老」に寄せる思い。

コンサートはひとつの作品として考える。
映画を観るような、物語を読むような・・・
そんな時間であると良いと思っている。
限られた時間、条件のなかでの表現になるため、
そんな大それたことはできないけれど、
その時その時のお客様にどんな風に楽しんで
いただきたいか・・を考える。

だからテーマが重要。
たとえば、「人生は観覧車のように」であったり、
ときには「心のふるさと愛」や「愛と平和」・・・
などなど。
振り返ってみると、自分が大切にしたいことを
表現していることが多い。
だからこそ、自分らしい作品になる。

さて、明日開催されるコンサートは敬老の日のお祝いの
場での演奏となる。呼んでいただき、ありがたいことだ。
80歳の方々にどんなストーリーを描いていただくか。
何を伝えたいか。
そのストーリーに沿って、何を語り、演奏するかに
なる。

80歳のお祝い。まさしく戦後80周年であるから、
メモリアルな年にご誕生された方たちである。
どんな戦後を生き、育ってこられたのだろう。
と興味も沸いてくる。
戦後80年と聞くたびに、思いを新たにされる方も
多いかもしれない。

元気に会場に足を運ばれる方に、
それぞれが歩んでこられた道をふりかえり、
青春時代を懐かしみ、あんな時代も、こんなこともあった。
よかったな~。そして、まだまだ元気にがんばろう!と
思っていただけるように。

両親がお世話になった方々もまだまだおられるはずだ。
私のパフォーマンスを見て、父母と触れ合った時代を
思い出していただけたら うれしい。

敬老。
本当にそう思っているならば、
後期高齢者という括りはやめてほしいと切に思うが、
増え続ける高齢者を敬い、ひとり一人を大切にすることも
難しくなってきている現在、さらに将来はもっと・・。

と、先を想うと複雑ではあるが、それはそれとして
まずは、いただいた機会のなかで存分に、
敬老の気持ちを表現したい。

ストーリーとメッセージ。
明日の準備をすすめるとしよう。


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ただ、それだけのこと。

敬老の日が近づいているせいか、きんさんぎんざんの
映像を流すコンテンツに出会った。
きんさん、ぎんざんは名古屋出身の双子の姉妹。
名古屋の人だったのか。そういえば、方言が・・・。
若い日は名前と、双子のかわいらしいおばあちゃんと
いう印象しかなかったが、自分も齢を重ね、また父母の見送り
や、高齢者の方との交流を多くいただく今となっては、
きんさんぎんざんの存在を知ると、本当に偉いな。
ただその一言に尽きる。

明治の時代、農家に生まれ、家の仕事を手伝いながら
学校に1日お気に通い、姉妹仲良く遊びながら育つ。
若くして近所の農家に嫁ぎ、出産。当時は子だくさんの
時代。子育てと野良仕事。その忙しい日常を過ごすだけ
でなく、息子や弟を戦争にとられ、弟さんを失くされた。
その後は伊勢湾台風で家がすっかり流されてしまった・・。
インタビューでは「戦争より怖かったわ」と台風で瞬間に
してすべてを失くした経験について語られた一言も心に
響く。

まさしく市井の人であるが、時代は明治、大正、昭和
に平成・・・。各時代のなかを、こつこつと生きてこら
れた100年人生。

以前はすごいおばあちゃんたち。と思うだけであったが
今となれば、母が重なり、今も元気にしておられる母の
友達~100歳に近い方~のことが重なり、長寿とは
大変なことだと改めて感心する。

人生はいいときもあり、悪いときもある。
気にせず、生きること。
夜が明ければ1日がはじまり、日が暮れれば1日が終わる。
人生は、ただ、それだけのこと。
生きた人だからこそ言える重い言葉である。

笑いながら話されるから余計に重く感じてしまう。

田んぼ仕事をしながら、おひさまの動きとともに、
日々を暮らした。そんな普段の様子が目に浮かぶ。
母にもそんな時代があった。
ふと、今はマンションになった田んぼ仕事をしていた
両親とともに田んぼで食べたごはん・・のことを
思い出した。ああ、そんな時代もあった。

寿命とは、わからない。
わからないけれど、一生懸命生きていたら、気が付いたら
100歳を迎える。そんなことだろうか。

自分がいつまでの寿命なのかわからないけれど、
コツコツ生きることで、寿命はつくられるのか?

笑顔で感謝。かわいらしさ。
あの姉妹からにじみ出ていた、長寿のオーラ。
生きているだけで人を幸せにする。

ただ、それだけのこと。

そう、人生は、大したことではないのだ。
そう思えば気も楽になる。

敬老の日コンサートの話題がまたひとつ増えた。

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インストルメントなわたし。

先日、キーボードを持ち込み、会議室でコンサートをやっている
様子をご覧になった方が、
「コンサートって、こんな簡単にできるのかと勉強になりました。」
と言われた。ご自身が運営される福祉施設でコンサートをずっと
やりたいと思っていたけれど、大がかりなことはできないのでと
諦めていたけれど、これならば・・・ということで、今そのスタ
イルでのコンサートの相談をいただくようになった。
出前コンサートの案内をすることにより、楽器を持ち込むケース
も増えてきた。

そりゃ、グランドピアノがある会場のようなわけにはいかないけ
れども、施設に来られている方たちにはキーボードでの演奏でも
十分に楽しんでいただける。
その場合は、ピアノを存分に楽しんでいただくというのではなく、
どちらかといえば、トークと歌を中心に、キーボードはあくまで
も伴奏だ。
まだ楽器があるだけいい。

「ちゃんとした楽器がないと、できません」と言っている以上は
音楽の敷居は下がらない。何を弾いていても心がグランドピアノ
でちゃんと伝わる。

さらに、楽器がない場合でも、演奏はできる。
昨日は、個室レストランでの少人数での会食を開いた。
そのときに、アカペラで歌わせていただいた。
ピアノやそのほかの楽器で伴奏がなくても、それはそれでいい
演奏ができる。
お客様は、目を閉じて歌に集中してくださるのだ。
歌だけであるので、歌詞も入ってきやすいのかもしれない。
まさに、自分自身が楽器になる瞬間である。

何も持っていなくても、自分が楽器になる。
人間は歌い、手拍子、足拍子をとれる生楽器である。

何もなくても、体一つで感動をお伝えすることができる。
個室であれば、歌も歌える。
ふと、昔、飲み屋さんを回っていた 流しの人を思い出した。
ギター1本、バイオリン一台あれば・・いやいや何もなくても
アカペラ演奏もなかなか味わい深い。

ところで、人類が初めて歌を歌ったのはいつ頃なのだろう。
今度、みんぱくで調べてみようか。
嬉しい時、悲しい時、歓びを表現したいとき・・・。
祈りの場面、お祝いの場面、葬送のとき・・・。
歌は一番身近な、心を現してくれる生楽器なのである。
話すよりも、もっと感情を込めて伝えたい。
そんなときに、歌があるのだろう。
歌は感動を伝えるコミュニケーションツール。

インストルメントなわたし。もっと磨かねば♪


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あれから24年。

1枚の紙焼き。本棚の写真立てに入れてある。
今朝はこの写真を眺め、24年間の歳月を振り返る。
写真は、まだワールドトレードセンターが存在していたときの写真。
だから四半世紀以上前に撮影したもの。
25歳での初NY訪問から、すっかりこの町に魅せられ、何度も何度も足を
運んだウォール街。トリニティ教会の前から撮影したツインタワーだ。

それが24年前の今日(時差を考えると今日の夜になるが)、この高層ビルに
ユナイテッド機が突っ込んだ。
世界中がかつて見たことのない光景を見ることになった。
誰もが一瞬、映画か?と思ったに違いない。
シカゴ経由でNYに向かっていた私は、この事件のおかげで、
予定どおりアメリカに入国できず、アラスカのフェアバンクスへ飛び、
現地のホテルであの衝撃の映像を見た。実感が湧かなかった。
帰国後、予定していた3周年の感謝の会ができなくなると、現地の
公衆電話から何度も日本に電話していたことを思い出す。

あれから、世界が変わった。
分断はあのときから、始まった。
いた、前から分断していたけれど、明確になったということだ。
あれから、世界はさらに悪化した。

この写真を見て、ワールドトレードセンターに上ったときにガイド
してくれた黒人の男性のことを思い出した。
その人は、今はどうされているだろう?元気ならいいけれど・・。
あのとき、このビルから眺めたNYの夜景は美しかった。
アメリカンドリームを感じた。

しかし、あの事件ですべては一変。
このビルが倒壊し、1か月後に訪れたこの周辺は異臭漂う
異様な光景であった。
1日ズレていたら、自分も事件に巻き込まれていたかもしれない。
そんなことを、全身で感じた事件後のNY。
家族を探す人々が貼ったポスターをセントラル駅構内や街中で
多く見かけたこと、町中で流れるアメイジンググレイス。
これまで見たことのない恐怖心と、異様な高揚感を感じた。

あれから24年。
先日、あのフライトに同乗していた方と久しぶりに再会した。
少し記憶が薄らぎかけていたけれど、あの日から、
再び、あの時の記憶が鮮明によみがえり、
幸運に感謝するようになった。

戦後80年の中で、テロとの戦いが始まったのはここから。
人間は何をする動物なのかよくわからない。
人間同士なのに、憎しみ合って、奪い合って・・・。
今も続いているし、ある意味、情報化が進んだことで
よくない方向へ進んでいると感じる。

911のことは、忘れない。
あのビルがあった時代のことも、一生忘れない。

憎しみから慈しみへ、怒りから笑顔への転換、昇華は
不可能か?
いや、可能だと思いたい。

世界から戦いがなくなるように、祈る1日にしたい。

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昭和がまたひとつ・・・

橋幸夫さんに続き、吉行和子さんが亡くなったとのこと・・・。
子どもの頃から馴染みのある方たちが、次々と・・・。
実際にお会いしたことがないけれど、とても寂しい気持ちになる。

昨日、ある方からいただいたメール。
「友人と食事をしていて、平成や令和ならアウトなこと
をたくさんしてきたね。昭和で良かったと話していたところ。
経営者も今は大変だと思う」

今は、とことんつるし上げられる。人を許さない時代。
メディアが変わったということも含めての表現だ。
人を信じない、悪いことばかり追求する。
まあまあ。ということが今は通じない。
その方は長年、経営に携わっておられた方。
今、自分が経営者ならば・・・と思うことが多いのだと
思う。
人と人が交わり合う、ぶつかり合う、そんな
昭和の時代は、ある意味仕事もしやすく、生きやすか
った。

これらはデジタルの普及とも関係あるだろう。
働き方の変化もあるのだろう。
コミュニケーションのありようが変わったことで
人と人の関係が変わった。
あたたかさとか、人情とか を懐かしく思ってしまう。

一方、戦争があった「昭和」であるから、その経験が
あるととらえ方は全く違うと思うが、
敗戦後、日本が這い上がっていこうと努力し、
活力にあふれた時代。勤勉にモーレツに働いた時代。
戦争の苦しみから解放され、自由に向かって
努力した時代。
結果、経済成長も遂げられた。
その時に開催された前回の万博。

昭和に生まれ、愛されたさまざまな文化、
芸能・・・。
吉行さんも橋さんも戦争を経験しながら
戦後の時代を生き抜いた人たちだ。

昭和は良かった。
素直にそう思うことが多い今日。
ひとつづつ、ひとりづつ姿を消していくのが
寂しい。
訃報に接するたびに、そんなことを改めて
思う。

後戻りはできないけれど、心に昭和の火を
ともし続け、戦後の緊張感と躍動感と・・・
忘れずに生きたい。

人生をまっとうした先輩方に心から哀悼の
祈りをささげたい。

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台湾を忘れない

マーケティングコミュニケーションの実務家たちの国際交流組織
MCEI。Marketing Communications Exective of International
の略である。
20代の会社員時代からお世話になってきた。
勉強会の委員、国際大会の実行委員、いろいろさせていただいた。
独立をする自分にさまざまな面で影響を与えてくれた組織。
30代になっての国際大会で台湾の企業と知り合い、そこから
人生を変える大きなチャンスもいただいた。
台湾へ毎月通った30代後半。
今から思い出しても、本当に楽しく、貴重な経験をさせていただいた。
台湾の企業の皆さんに本当にかわいがっていただいた。
日本人の女性ということでの親しみももっていただけたのかも
しれない。

台湾で出会う日本企業、駐在員の人との出会いも、独時であった。
今から思えば、日本にとって、世界にとって良き時代であった・・・。
台湾とのつながりは、香港、上海の関心へと広がった。
私のアジア交流時代であった。

台湾の人々は、本当にあたたかく、陽気。
「加油!」(がんばろう、がんばって!)が合言葉。
台湾での仕事を終えてから、もう10年以上が経過する。
当時一緒に仕事したり、交流した仲間たちも高齢化、親友は早くに
旅立ち、心は変わらないけれど、交流の場が減っていた。
コロナでさらに、足を運べず、気になっていたけれど、ずっと
ご無沙汰。

そんななか、このMCEIの台湾支部の皆さんが万博視察で大阪に。
その夜に歓迎パーティーが開催された。
再び台湾の仲間に会えるならばと、会場に向かう。
世代交代も進んだので、もう知り合いはいないかも・・・それでも
台湾の皆さんに感謝の気持ちを伝えたい、歓迎の気持ちを表したい。
そんな気持ちでパーティーに参加。

なんと、20年以上前に出会った仲間。名前も覚えていないが、
それでも顔はしっかり覚えており、相手も同じで、顔を見た途端
懐かしく、握手、ハグした。そして改めて名刺交換をしながら、
当時とは違う職場におられることもお聞きし、20年の歳月を想う。

お互いたどたどしい言葉で会話しながら、当時を懐かしむ。
今回、新しい出会いも生まれた。たまたま隣のテーブルに座られた方。

なんと英語名が「Martha」マーサ。という女性。
(台湾の皆さんは英語名ももっている)
私のマーサ綴り(mahsa)は、オリジナルであるため、
ちゃんと英語的に読もうとすると「マーサ」と読めず「マーシャ?と」
となるが、そんなことはお構いなしで、マーサ同士一気に打ち解ける。

短い交流時間であったが、共通の知人の話題、台湾の話、そして音楽の
話題にも・・・。「台湾に来てください。」と何度も誘われた。
すっかり友達になった。
そう行かないといけないとずっと思っているが、コロナ禍後、
足が遠のいていた。
このMCEI台湾の創立者、頼さん。お世話になり、交流も長く続いた。
でも、ご無沙汰してい間に体が弱ってこられているとお聞きして、
これは近いうちに会いに行かねば。
彼に日本の歌を聴いてもらって、元気になっていただかねばと
強く思った。90歳を越えておられると聞く。会いに行きたい。

などなど走馬灯のように、私の台湾時代が蘇り、
もう会えない、先に旅立った親友のことも改めて思い出し、
自分の人生の成長に台湾の皆さんの応援、力は本当にかけがえの
ないものであった・・と感謝の意が湧いてきた。

長崎のコンサートに行く!
と言ってくれた台湾のマーサさん。
コンサートを行う場所は孫文の記念資料館もあるから、
ちょうどいい。
感謝の気持ちと、新たな交流のはじまり。

台湾のことは忘れない。
楽しい思い出、数えきれず。
恩返しができていないな。

近々、出かけようと思う。そして頼さんに会って歌を贈りたい。

台湾がずっと平和でありつづけるように、
心から願っている。
台湾 加油!
無理して出かけて良かった。



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自由席の不自由

交通機関を利用するとき、多くは指定席を予め予約する。
計画通りに動ける前提であれば、予約しておく方が
安心だ。
飛行機は全席指定であるし、新幹線や特急も全席指定という
時期、列車もある。
混雑を避けるため、また安全面を考えての施策であろう。

自由席。
名古屋~京都間の自由席は慣れている。
こだまや、ひかりを利用すれば、自由席もゆったりしている。
しかし、のぞみの場合でも、
京都~名古屋間であれば、立っていても大丈夫。
それぐらいは平気。

東京~名古屋間の場合は・・・。
インバウンドも含め、コロナ後、乗客が増えたせいか、
自由席は1号車と2号車だけになった。
以前は3号車も自由席であったため、この変更は大きい。

始発であれば大丈夫かと思い、東京~名古屋で自由席を初めて
試してみた。
少し早めに行ってホームに並ぶ。まだ数名しか並んでいないので
これなら座れる。
と安心して、到着後の掃除を待って1号車に乗り込む。
希望する通路側の席もとれて、自由席でも座れたと安心していた。
すると、出発時間が近づくにつれ、どんどん人が乗り込んできた。
へえ。もう席もないのに・・・。それでも乗り込んでくる。

自由席の通路に立つ人もいる状態で、東京駅を出た。
品川、新横浜でどんどん人が乗ってくる。
すでに席はないどころか、通路にまで人があふれている。
しかもそれぞれ帰路につくので、大きな荷物をたくさんもっている。

私は通路側に座っていたため、横の通路に多くの人が立つ状態
になり、緊張状態になった。
へえ、新幹線でこんな通勤電車みたいになるのか?
普段、指定席しか利用しないので、こういった現象に慣れていない。
新横浜~名古屋間は90~100分。
その間、ずっとその状態?トイレにもいきづらい状態。

でも、立っている人の方が大変だ。1日動き回って疲れて座りたい
ところ、休みたいところ、立つしかない・・・。
荷物を通路に置く人、通路に座り込む人、しばらくして立ったまま
弁当を食べ始める人・・・。
さすがに、自分の目の前に座り込んで、眠っている若い女性を見て
これが新幹線の光景かと思った。その女性の背中を見ながらの
移動という異常な光景。

スマホを見ると、立っている人に見られてしまうので、それも
遠慮がちに。
とにかく早く着くようにと目を閉じ、時間が経ち、無事に
目的地に着くことだけを祈る。

ここで事故でもされたり、大雨で列車が止まったら、さらに
困ったことになる。
新幹線の満員状態は危険を感じる。

浜松、豊橋、そして三河安城・・・。
流れるように駅を通過するごとに、早く着いてくれ~。
到着時間を何度も確認して、あと何分、あと何分・・・。

立っている人もしんどかっただろう。
途中で席を代わってあげられたら良かったけれど、
こちらも疲れていたので申し訳ないと思いつつ、
じっと目を閉じて座っていた。
座っているのも心苦しい、自由席。

アナウンスと音楽が流れ、まもなく到着・・・。
やっと着く、この混雑から解放される・・・。

人混みの列車を無事降りて、多くの荷物をもって
改札に向かい、タクシーに乗り込む。
ふー、タクシーは混雑がない。快適だ。

こんなに疲れた新幹線移動は久しぶりだ。
自由席はどの列車にも駆け込める点ではまさに
自由であるが、時期や時間によっては大変不自由な
列車になり、決して快適とはいえない。

指定席の通路に人が並ぶことはないため、自由席
の不自由さを痛感し、正直、懲りた。

これはあくまでもエリアや時期、時間帯にも
よる。
飛び乗れる便利さを優先する場合は、自由席で
良いだろうが、東京からの移動は要注意。

立ったまま、うなぎ弁当を食べていた人を
思い出す。
本当は、座って、よし!と意気込んで一口
づつ味わいたかっただろうな・・・。
と勝手に想像。他にも立ったまま弁当を
食べる人もいた。
自由席ならではの光景。

JR東海に言いたい。
のぞみの自由席は以前のように
1号車から3号車に!と。

そんな不自由で疲労がたまる移動は
そのうち、何か起きそうだ。



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