とりあえず元気!が一番。

日本の首相が女性になった。初の選出。
その手腕や、中身はこれからの評価になるであろうし、
思想についても、別の話として、
ともあれ、これまでの人々と違うのは、
どうであれ、元気、活発に見え、そしてどうであれ
終始笑顔でいる。その徹底ぶりが、これまでと大きな違い。
スゴイ努力をしているだろうと想像してしまう。

毎回見せてくれる衣装の色も、明確に印象に残る
ブルー系を基調にしている点。ここは女流政治家
(あえてそう呼ぶ)ならではの演出。
サッチャーも、メルケルも、クリントンも、ハリスも
色での印象が強い。
一方、男性の政治家での色の印象は、ネクタイぐらいで
しか残っていない。
(そういう点ではトランプは成功しているかも)

見た目も、言葉もはっきりしない、そんな歴代のグレーっぽい
おじさんと比べると、確かに若い人たちから見ると、
とりあえずいいという話になるのはわかる気がする。
だからといって、政治的価値、信条に共感するという
ところまでは理解できていない人も多いのではという点は
危惧するところであるが、ひとまず、無理やりであろうが
なんであろうが変えてやる!という気迫は伝わってくる。
いいか悪いかは別である。

最近、10代の学生さんと接する機会もあるせいか、
この若者たちに伝わるには?と考える、
興味を持ってもらうには、元気、希望が伝わる印象が良さそうだ。

女性だから・・・・ではなく、
その人がたまたま女性であった、男性であったということで
良い。
ただ、確かになんとなくこれまでとは違う空気を感じる。
間違った方向に行かないようにということは、冷静に見つめ
つつ、大国ではないけれども、重要な尊敬される国である
ことを願うのみ。

笑顔が、元気が一番。
これらは、世界の共通言語である。


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ふれない、ふれあい。

最近、AIとの共生が話題になることが多い。
職場でも家庭でも社会でも、これからの人間社会に必要なことを
AIが様々な場面で、助けてくれるそうだ。

AIとは人工知能。膨大な情報を分析しながら、学習し、それなりの
回答を与えてくれる。
過去の情報さえあれば、それなりにわかった風な回答をしてくれる。
また過去の情報が正しければ、そのアウトプットも正解に近い。


情報が知能をつくる。
これは、実はコンピュータの世界だけではなく、人間自体もそうだ。
ちゃんと勉強して情報を蓄えていれば、考える力が表現する力が
身につく。
しかし、簡単に情報が得られる時代になってしまい、人間は
「検索する動物」になりつつあり、考えずにすぐ答えをAIに求めて
しまう。また、膨大な情報から学習したAIが人間社会に物申す
時代になってきたことも衝撃であるが、これがもう既成の事実に
なってしまっている。
便利ではあるが、人間社会自体が変貌していくことへの危機感は
持っている方が、ある意味健全であると考えたい。

さて、今はAIのいい面を見る。
これからの高齢化社会を考えると、対話する相手がいないお年寄り
にはAIが話し相手になってくれる。
また亡くなった家族への思い(寂しさ)をAIが紛らしてくれることも
あるようだ。先日も亡くなった奥様の情報をもとに、AI奥様が作詞を
され、夫婦で演奏。AI奥様と旦那さまのデュオが実現。
「もう会えないけれど、こんなカタチでも一緒にいられることが
いい」と旦那さんの感想。

最愛の人がいなくなったら、AIの力を借りて、対話をしたいだろうか。
正直、その気持ちは今はわからない。
葬儀業界でも、最近では故人がAIの力で蘇り、会話をされる
ようなサービスも始まったようであるが、これも、今の自分には
よくわからない。

悲しいときは悲しい。泣くときはなく。
そして元気に立ち直る。
これが人の一生であると思うが、AIの愛?の力は、どこまでも
疑似的でしかない感じがする。
疑似的なものとのふれあいは、さらに本物への思いが募って
余計に悲しくなるのではないかと想像してしまう。

一方、ビジネスの場面では、AIの力をもっと活かすことが
できるだろう。
一言でいえば、「ビッグデータの活用による、情報処理の時短」。
これは多くの現場で求められる課題。

ホワイトカラーとブルーカラーの給与が逆転する時代も
きているそうだ。
AIを使いこなせる人は必要とされるが、AIに使われるだけの
人間であれば不要となってしまう。
むしろ、AIにはできない体を張って行う仕事の方が貴重となる。
それもロボットでもできる仕事となれば、人間は不要となる。

小手先の頭を使っているだけではいけない。ということだ。
だから、AIに依存しすぎてはいけない。

話を戻す。
AIは頭がいい。次々と言葉を予測する。
相談にものってくれる。(私は相談しないけれど)
過去の情報をもとに、一定の回答をくれる。

でも、AIは生身の相手に会ったこともなければ、ふれたことも
ない。ただ、情報という箱のなかで、言葉を出し続けているだけ。
そのことで、人間は本当に満足できるだろうか?

ふれあいのないコミュニケーション。
こればかりが加速しないことを祈る。

あくまでも、道具であり、手段である。
とはいえ、
デジタルは人間をかなり変えてしまった。

変えられてしまうのではなく
自ら変えていく気概と学習と行動こそが、
今こそ、求められる。


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南国のパリの夜への誘い

移動中に聴く音楽はその日のさまざまな状況や気分により異なる。
自作の曲から、世界の名曲、お気に入りのシンガーの曲・・・。
ほんとうにスティーブ ジョブズさんには感謝しかない。

昨日は演劇の曲の打ち合わせ後、ショパンのノクターンで初めて
の曲を弾き、そこからアドリブであれこれピアノと戯れ、最後は
タンゴを弾き、13日に開催するディナーショーのことも考えつつ、
まとまらないままピアノタイムを終了し、移動を始める。
いろんな曲が頭に残っていたなか、ずどんと強い音楽を吸収したい。
と思ったら、アルゼンチンタンゴの名曲アルバムCafe de los Maestros
が浮かび、スマホから選曲。
名鉄電車の駅にいるのに、たちまち世界は南米のパリ、ブエノスアイ
レスの夜に変わった。
バンドネオン、バイオリン、そしてピアノ。そして歌。
アルゼンチンタンゴは100年ほど前が黄金時代の第一期と言われている
ようであるが、瞬間にその世界にタイムトリップした。
生まれてもおらず、その当時のことは映像や写真でしか見たことが
ないが、音楽がくっきりとその当時の様子を自分に描かせてくれる。

写真はもう10年以上前に撮影した、ブエノスアイレスの市内にある
7月9日通りに立っている建国400周年を記念したオベリスク。
白い塔が夜になるとこんな世界になる。

アルゼンチンタンゴは夜の世界だ。
はあ、懐かしすぎる。
夢中になって何度も足を運んだタンゴの店たち。出会った演奏家。
憧れだった女流歌手、ビルヘルニア ルーへ。晩年に彼女の生きる
歌声を聴いたことで自分の歌への意欲に火が付いた。
シンガーとは魂を表現すること。

ああ、再びあの街に会いたい、触れたい。
音楽というのは、どこまでも人の心を高揚させ、ドラマチックな世界を
魅せてくれる。
気が付けば、電車をおりてから、道を歩きながら。ステップを
踏んでいる。

幸せな瞬間は、こんなときなのかもしれない。
わがブエノスアイレスは、魂のふるさと。
ダイナミックなタンゴオーケストラの音色が、写真とともに
蘇ってくる。

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「強さ」よりも大切にしたいこと

最近、「強い」という言葉を耳にすると、改めてその意味と
使用する意図を考えてしまう。
その「強い」からは、いろんなイメージが湧く。
音楽の場合は、クレッシェンドとディクレッシェンド。
音をだんだん強くしていく、大きくしていくのがクレッシェンド、
逆にだんだん弱くしていく、小さくしていうのがディクレッシェンド。
作品を表情豊かに演奏するために欠かせない、音楽記号。
だんだん・・・・というところが気に入っている。

一方、最近、強い国・・とかという言葉も耳にするが、これは
何を指すのか。
瞬間的に成長をしても、安定しなければ、本当の強さとは
いえない。相手を打ち負かす意味での「強さ」も想像したくない。

自身の考えをしっかり持ち、社会に役立ち、存在感が伝わって
世の中に必要とされ続ける存在が、強いといえるのではないか。
そして、長く安定していること、持続的に活性化していることが
強さではないか。

さらに、強さとは外に向けるよりも、自らの中にもつものでありたい。
そして、むしろ強さよりも、しなやかさを大切に生きたい。
何があっても、倒れない、壊れない。

そして、本当の強さとは、自分の力を誇示したり、相対的な
数、量の優劣ではなく、
相手を大切にできること、相手に寄り添えることが
真の強さではないかと、思っている。
自分のなかのクレッシェンドを大切にしながら、
しなやかな生き方をさらに学び、意識していきたい。

強さを誇示するよりも、
さりげなくしなやかに生きる。
そして、もっと突き詰めると、

真の強さとは、人を大切に、愛することができる力だと
思うし、そう思い続けたい。

と思っていたら、武器は要らないはず。



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自分との対話のために。

70代後半で活躍中のピアニスト、クンウー・パイプ氏の
演奏を聴いた。生ではなく放送ではあるけれど。

演奏されていたのはショパンのノクターンの数々。
もちろん有名な2番や遺作も含まれていたが、初めて
聴く作品もあり、ながら視聴でありながら、思わず
手をとめ、耳を澄ました。

なんと静かにゆったりとした演奏だろう。
クラシックの名曲は弾き手によってまったく違う
解釈、表現になるが、パイプ氏の演奏はとても深淵だ。

ノクターンは長く弾いてこなかったけれど、
自分との対話のためには、とても適した作品だと
インタビューで語っていたが、確かに自身と対話を
しているような、静かで染み入る音色である。
一音一音が、弾く本人の心に溶けていくような、
そんな感じともいえるだろうか。

若いころは、速く弾く。指の動きを競う。
そんな時代。いかに間違えないか、いかに楽譜通りに
弾くか。
ジャズやポップスにも親しんできた自分は、クラシック
の世界は自分らしく演奏してはいけない。と思っていた。

しかし、実際はそうではない。個性は出せる。
出すべきだ。ただ、自分らしい演奏にいきつくまでに
一定の技術は必要だ。
速く弾かなくてもいい。ゆっくりゆったり丁寧に心を
込めて弾くことで、作品の魅力がより伝わる、そんな
演奏もある。

パイプ氏は幼少期から演奏をはじめ、著名な音楽コン
クールで受賞し、世界の舞台で大活躍されてきた、
アジアのピアニストとして先駆け的な存在。
長年ピアニストを続け、年齢とともに円熟と深みを
増し、自身との対話を重ね、最後は祈りへ・・・。
まさに演奏しながら、人生を旅しているような。
自分が目指したい生き方のひとつのお手本だと
演奏を聴いていてそう思った。

ピアノを弾きながら、静かに自分との対話を。
世間では、高齢者といえば、認知症という話題が
多く、その対策に世間は追われているが、その
世界とはまるで無縁のように、
ピアニストたちの晩年はとても素敵だ。

自身との対話を続けることができる生き方を
し続けたい。
自分というひとつの世界を大切に生きるということ
ができたら、それ以上の幸せはない。

パイプ氏のように深い音が出るまでには まだまだ
練習や経験が必要であるが、
ノクターンを今度、全曲なぞってみたい。

ノクターンとは夜想曲。夜に想う曲。
2番に歌詞をつけて、オリジナル曲を作ったことがあるが
それも確かに自分との対話の曲だ。

どこまで技術を求めるか。
それ以上にいかに、心を込めるか。

ベートーベンは音楽の中に神が見えると残しているが、
ショパンの楽曲にもそれが見える気がする。
結局、神とは自分との対話から現れる存在なのだろう。

と、そんな自分と対話する時間は貴重である。

静かな朝がまもなく動き始める。

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好きに、きらいになるきっかけ


もう8年以上前になるのか。時が経つのは早い。
東京から名古屋への移転。日本のまんなかを拠点に、活動をする
生活が始まった頃。コロナもなく、好調が永遠と勝手に思い込み
バブルな気持ちのままで生きていた、東京オリンピックを控え、
なんとなく高揚していた東海道沿線・・・。

名古屋の町は、正直、苦手だと思っていた。
その頃、腱鞘炎がまだ治っておらず、まだ手が痛い。
東京のクリニックに毎日行けないので、地元の医者を不動産屋
さんのおすすめで行ってみた。有名だと言われ、であれば安心
かと。
すると、まったく印象が良くなかった。
診察をした医者の態度が横柄。に加え、患者がお客様という
心得がまったくない対応で、偉そうの一言。
「まあ、50も越えたら、ポンコツやわ。車も一緒。長く
乗った中古車と一緒」とこの言葉に二度と来るかと思った。
それから、この町が嫌いになった。
言葉遣いも、態度も・・・。だんだん八丁味噌まで嫌いに
なる。
と、たった一人の人の応対で町の印象は変わるのだ。
それから、基本的にそのときの嫌悪感は消えていないが、
この1年ほど通い続けているリハビリのスタッフたちの
応対を見て、この町への印象は変わりつつある。
とてもきさくで、親切で。ひとり一人の患者さんに寄り
そっている。
まあ、患者さんに対して、敬語で話せないのはどうかと
思うが、地方の医療、福祉系の人々は、敬語よりも
友達感覚で話した方が喜ばれると思っておられるので
これは仕方ない。(ここは、共感していないが)

ともかく、そのリハビリのスタッフや、時々診察を
してくださるドクターも、説明をしっかりされ、
丁寧な対応をされるので、ここのおかげで、
私の名古屋への嫌悪感は、好感度に転換しつつある。
「あ、いい人もいるんだな」
街は人なり。

企業も人なり。
そう、全部人、ひとり一人の存在、力がその社会の印象
や価値を変える。

好きな町は、国は、人が良い。
そして、
好きな人は、愛のある人、自分中心でない人。
相手を思いやれる人。

そんなことを思うと、今の世の中はどうだろう?

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解像度があがってきた。

ある企業でリーダー研修を行った。
そのテーマでは同じメンバーに対して
これまでも何度か取り組んできた。
そのたびごとに、アプローチも変える。

意識づけと行動変革。
リーダーとは、リーダーシップとは。
時間をおいて、この言葉の定義についても
何度か問うてきた。
時間をおいた分、現場での経験が増えるため、
リーダーという言葉についての現実味が増す。
仕事ができないと指示もできないから、仕事
ができる人でないといけない、みんなが
ついてくる人でないといけない。
自分は今は、どんなタイプのリーダーか。
今後はどんなタイプを目指すのか。
並走タイプか、フォロータイプか、キャプテンタイプか、
監督タイプか、はたまた支配タイプか。

「うーん、自分の性格からすると今はフォロータイプだけど、
並走のところもあるかな」
「今はキャプテン型。でもゆくゆくは監督にならないとな」
ひとりひとりが、自分はどんなリーダーを目指すべきかに
ついて、より具体的に思い描いている様子が伝わってくる。

会社が示す理想のリーダー像がある。
それを踏まえ、自分はどんなリーダーを目指すのか。
そしてそうなるために、何をするのか?

チームで意見交換をしながら、それぞれの職場での
状況も聞きながら、仕事内容は違えど、それぞれ同じ
現場のリーダーとしてがんばっている仲間との対話も
いい刺激になる。

今回の研修を終えたあとにいただいた声。
「何度かこれまでリーダー研修受けてきたけれど、
自分も変わってきたのかもしれないけれど、どんどん
自分が目指すリーダー像について、解像度があがって
来た気がする」
こんな感想をもらえた。

解像度があがるということは、その人の中でより
そのイメージが鮮明になり、具体的になってきた
という証しかとうれしく思う。

研修に限らず、一緒に何かを取り組む時間を重ねることで
ひとり一人が現場での経験を通じ、多くのコミュニケーション
の中で、間違いなく成長されていることを実感する瞬間。

前は言わなかった言葉が出てくる、前とは違って
自分から発言するようになっている。
相手の話をよく聞くようになっている。笑顔が増えている。
いい意味で、小さな変化を感じるとき、成長を実感し、
うれしくなる。

解像度があがるとよく見える、わかる。だから次に進める。

解像度は自分であげる努力も必要だ。

研修は自分で走り出すためのきっかけのツール。
今日からの皆さんの動きが、何か新しくなっていることを
期待している。

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どらやき付きバースデーツアー

父の誕生日。父のことを共有できる人にふと
会いたくなる。

誕生ケーキではないが、どらやきを買って、
地元の商店や叔父宅・・・をまわり、
「今日はお父さんの誕生日なので、ケーキの代わりの
お裾分け」といって、配る。
誕生日?ということで、笑みがこぼれる。
命日というと悲しいが、誕生日の方がやはりいい!

そんなことで、お世話になった人たちと
父母にまつわる会話をして、父が長年歩き続けた道を
てくてく歩く。
そして、いろんなことを思い出す。
人はいなくなっても、道は残る。
道がある限り、思い出すことができる。

途中、元気な姿を最後に見た、父が毎日通った喫茶店で
父が好きだった、焼きたまごサンドをテイクアウト、
そのまま、お墓に向かう。
そして、ハッピーバースデーの歌を一人歌い、
その後、実家に寄って、父母の過ごした日々を改めて
感じながら・・。

以上が父89歳のバースデーツアー。
束の間のスペシャルツアー。

なんてことはない、日常のなかに少しだけ
思い出を辿る時間をつくる。
それだけで、また父の存在が色濃くなる。

こんなことをしながら、父と生きた自分のことも
ふりかえる。
そして、今日からまた歩き始める。

思い出す限り、人は生きている。
やはり、そうだと思う。



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米寿を越える日。

今日は父の誕生日。
この日に立ち会ったことはないので、想像するしかないけれど、
昭和11年、1936年。
国内外ともに激動の時代であったのではないかと・・・。
あのヒトラーが生きた、ベルリンオリンピックが開催されたと
聞くと、穏やかならぬ世に、父は生まれたのだと改めて思う。
その後、戦時に育ち、戦後に働き・・・昭和、平成、令和まで。
まさに、現役時代が昭和であった。その時代に育ててもらった。

最近、戸籍を取り寄せることがあり、それを見ながら、
改めて父の存在があって、自分がいると実感した。
消えない、つながり。

父は言葉で生きた人ではなく、手業で生きた人。
そう、職人であった。またスポーツが好きだった。
字が上手だった。
そして、車の運転も父の売りであった。
「わが家のアッシーくん」。
感謝状を渡した10年前のイベントが懐かしい。

時代が違っていたら、父の苦労はもっと少なかったと思う。
父の人生はまったく変わっていただろう。
となれば、わたしはいなかったかもしれないので、
あの時代だからこそ、あの環境だったからこそ、あの人生があり、
結果、わたしも存在することになった・・。
命日より誕生日の方が、心が軽く、しあわせな気持ち。
でも、もっとこうできたのでは、いう思いは消えないまま。
父が何気なく残した一言が、心に湧いてきて、ため息も出る。
ああ、申し訳なかったな・・と。

10月15日で今年も終わった、長良川の鵜飼のフィナーレの花火。
この風物詩は父の誕生と結びに、花を添えてくれる。
毎年、鵜飼の余韻とともに、父の面影が蘇る。

お父さん、誕生日おめでとう。そしてありがとう!
生きていれば89歳か。米寿を越える日か。
想像すると切ないけれど、永遠の存在だから。

感謝を込めて、歌のブーケを贈ります!

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「こんな感じ」、「こんな感じ?」の対話

ピアノの譜面台にタブレットを置いて、そこに映る楽譜を見て
演奏するピアニストは最近増えているけれど、そのタブレットが
ZOOMにより繋がれて、相手の顔を見ながら、話をしながら弾きながら
という、一風変わったリモート会議。
いやはや、コロナのおかげで、スゴイことができるようになった。

そして、その傍らにパソコンを置いて、台本を見ながら、その脇に
スマホを置いて、時々録音して・・・。ZOOMでも録画できるが、
どうもスマホの録音機能の方が音質よく録れるようだ・・・。
などなど、いろんなことを一度に試す。
全ては試行錯誤。

来月上演する演劇で使う音楽の打ち合わせ。
脚本は一応読んだ。だいたいイメージはできる。
劇のオープングとクライマックスはもちろんであるが、
その間の場面転換などで使う音を一緒に探す。

「ここは主人公はこういう心情で、周囲はこうで、このあとこうな
るので、明るいけれど、弾みすぎず・・という感じで」と作家が
リクエストを言ってくれるので、それに対して、自分の曲から
「こういう感じかな。」「こんなのはどうかな」
といろいろ弾いていく。作家はそれを聴きながら、ステージでの
場面転換の様子をあれこれと想像。役者の動き、照明の変化・・・。
それに音楽がマッチするか、効果はあるか?など タブレットに映る
作家は時に目を閉じ、下を向き、曲を聴きながら、考えている。
「あ、そこまで、元気じゃなく。」「ちょっとしっとりしすぎかな」
「じゃあ、こんな感じかな」「あ、そうかな。そういう感じかも」
同じ曲であっても、弾き方や曲調、テンポを変えることで別の曲
のようになる。普段は歌いながら演奏している曲もピアノだけでの
演奏となるとまた違う表情を持つことに気づく。
また全体だけでなく、部分を活かすこともできるという発見も。

2時間余り、脚本に沿って各場面の音をあれこれ話し合いながら、
弾きながら、聴きながら、決めていく。

これを一度録って、明日からの稽古で一度当て込んでもらい、
実際に合うかどうかを試していただき、さらに修正をして、
再度録音して・・・。

何事も対話でつくられる。
カタチあるものも、ないものも。

私は作家が表現したい世界を、どう自分の音楽で盛り上げること
ができるか。役者のセリフや演技をさらに素敵に魅せることが
できるか。それがスタッフの役割だ。

打ち合わせ後に届いた作家からのメッセージ。
「優しく、温かく、包み込まれるようなステキな曲ばかり。
歌詞があると歌詞を聞いてしまうのですが、音だけだと
また違う伝わり方をしますね。素晴らしいです。
ステキな曲をお借りして、いい作品になるようがんばります。
生演奏を聴きながらの打ち合わせ贅沢でした。」
なんだか嬉しくなる。

確かに本当に贅沢な打ち合わせ。
このような新たな課題に、また挑戦できることに感謝したい。
そして、自分の音楽性を理解いただけるクリエイティブな
仲間との出会い、気が付けば10年近くの親交に
この上なき幸せを感じる。

ともに創る。力をあわせて、素敵な作品になるように。
どんな仕事でも、活動でも同じ。
対話を重ねて、信頼を重ねて、カタチになっていく。

手探りから生まれるものは、面白い。
どんな感じ?こんな感じ?
いっぱい、対話を重ねた分だけ、いいものが
できるのだろう。

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