ファシリテーターの力

株主総会の季節である。問題がある企業にこそ、多くの株主が集まる。
一昔前の株主総会ではお土産目当てで参加する株主もいたが、
今はそういう習慣もなくなり、それでも参加されるのは、
その企業に対して思いがあるか、今後の成長に関心があるか、
もしくは物申したいかである。

とにかくおいでいただいた株主に来てよかった、
この会社の株主で良かったと思ってもらわねばならない。

そういう意味で、その議事進行を司る社長の役目は
重要である。
株主総会は企業にとって大変重要な行事である。

株主の信頼を損なえばその後の影響も大きく、経営にも、
そして従業員にも影響が及ぶ。
そんな責任のある仕事を収めることができるのは、
経営者しかいない。経営者が議長。

この議長のファシリテーションが問われる。
自分の手柄を主張する議長はダメで役員たちの
発言の場をうまく設けたり、組織の力をうまく
伝えるようにするのも
重要な役割。総会を見ていると、組織が透けて見えてくる。
将来性も見えてくる。社長にはいろんな能力が求められるが、
まとめるコミュニケーション能力 ファシリテーション力も重要だ。

世の経営者には本当にたくさんの仕事がある。
心から尊敬!
私には応援することしかできないけれど。

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小さな国際文化交流の時代。

戦後80年ということで、今年は戦争に関する、それに伴う
関わりのあった国の歴史に触れるきっかけが多い。
最近、香港や韓国について戦時、戦後の様子を知る
番組を見た。真の報道資料とは取材を丹念に重ね作られており、
拡散して消失せず、時間を経ても振り返ることができるのが
ありがたい。
生まれる前の世界、幼いころの社会を今改めて見ると、
日本という国がしてきたこと、そしてされたことに
胸が痛くなる。
戦争は改めて絶対にしてはいけない。

それなのに、同じ空の下、歴史は繰り返されている。
それぞれの国が違う歴史、価値観をもって存在し、
せめぎ合い続ける、悲しい人間社会。

そんななか、少女時代の文化交流を思い出す。
それは地元の合唱団に所属していた頃の多くの経験。
そういえば、いろんな国の合唱団と演奏したなあ。
歌を通じて、しばしの交流を楽しんだ。行ったことも
ない憧れの国、未知の世界の同世代の人たちと
一緒に歌った、そんな日々が蘇るのだ。
ともに歌い、たどたどしい言葉で会話をして、プレゼント
交換をして・・・。国際交流が子ども時代にできた
ことは本当に良かった。一気に世界が広がった。
夢が膨らんだ。
すぐに友達ができた、今から思えばろくに英語もわからない
のに、よくコミュニケーションができたものだ。
歌がコミュニケーションツールだったのだ。
演奏会のあと、住所の交換もした。

そのあと、手紙を出し合って、返事がきたらとても
うれしく、しばらくは続いた、がいつの間にか、
途絶えてしまった。
郵便受けを見て、エアメールが届いた時の感動は
忘れられない。
ソウルから、ルーマニアから・・・。
相手の人の住所を見て、地図を見てどこかなあ。
と探した。もちろんみつからなかったけれど。
メールがあれば、ネットがあれば、
訪ねていけたかもしれない。

国際交流は平和の使者。
改めて当時のことを思い出し、そう思う。
世界に友達がいたら、戦争という発想はしないだろう。
今、改めて一緒にステージに立って、合唱していた
異国の人たちはどうしているかなと思う。
同世代だから、いい歳である。
彼らも、日本に、片田舎の岐阜に来たことを
思い出してくれる日があるだろうか。

今もさまざまな国際交流をされている人、団体は
多い。素晴らしいことと思う。
改めて、私もできることを・・と思う。

文化交流こそが、国境を越えて心を結ぶ。
いい思い出づくりこそが、平和への道だ。



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ゴリラとおじさん。


京大元総長で、霊長類学者としても知られる山極壽一さんが
NHKの論点・視点という番組で「老い」について語っておられ、
瞬時に引き込まれた。
ゴリラ研究から、人間社会における老化について論じておられた。
老いとは本来、人間に与えられた豊かな時間なのだという。
老いを悲しみ、ネガティブにとらえるのは、老い方が間違って
いるのだそう。
若さと老いは対極にあるものではない。
若者と張り合う必要もない。
むしろ、老いの時間を有意義に過ごすために、若い時代とは
違う視点で自分の生きやすい環境を求め、また生きやすい
ライフスタイルをつくる。
そういう心構えが必要だとのこと。
ゴリラでも、年を重ねると翁的存在として、周囲の若者とは
違う威厳をもち、周囲から尊敬され、生きるのだそう。

人間はもっとゴリラに学ぶべきだというのだ。

年ととったら・・・
地方に住む、仲間をつくる、我欲を抑え、人に譲る。
趣味に講じ、縁側で語る・・・そんな暮らしがおすすめだと
いう。若者のマネをする必要もなく、また地方に住めばお金が
かからない。自分のペース、リズムで動ける・・・。

この話を聞きながら、昨日会った叔父のことが浮かんできた。
叔父は両親が弱ってきてからずっと、実家の庭の手入れを
自分の趣味として、健康のために続けてくれている。
そして、それを自分の生活の一部として、取り入れながら
ボーリングやゴルフなど他の趣味の時間、モーニングの時間、
孫との時間など充実した日々を過ごしている。
何曜日はこれ・・と毎週毎週予定が決まっている。

「1年1年、体が変わっていく。できるはずのことが
できなくなっていくことを感じるな~」
と言いながら、毎日のようにイオンの中にあるミスドに
行って、ドーナツとコーヒーをいただき、読書をする
のが日課。元気なものだ。

「今、流行っているドーナツあるやろ。それをみんな
買おうとして行列ができているんやけど、最初に
並んだ人たちがいっぱい買って、後ろの方の人に
回ってこない、この前、自分に順番が回ってきた
ときもう3個しか残っていなかったので、
自分は1個買って、後ろの人たちに譲った。
店の人に、『他の店では、ひとりいくつと制限している
のに、ここはそうしない?若い人は急いで並べるけど
年寄りや赤ちゃんがいる人は、そんなに早く並べない。
そういう人はいつも買えない。それはおかしい。
公平にすべきだ~』というようなことをお店の
スタッフに言ったそうだ。
毎日通っているので、まあ、言いやすい関係も
あったのかもしれない。
そうしたら、翌日からそのドーナツ購入には
おひとり様〇個という制限がされたそう。
後ろの方に並んだ人も買いやすくなったわけだ。

わがおじさん、あっぱれだと嬉しく思ったが
まさに、山極さんの話と通じる。

我欲ではなく人に譲るという心。

さらに、縁側という存在が老人の暮らしには
良いそうだ。
家と外との接点をつくるコミュニケーションの
場。
そう、昔はお年寄りが縁側でひなたぼっこして
いた。
ゆっくり時間を過ごす。隠居の時間の尊さ。

老い方が正しいとか間違っているとか
考えたこともなかったが、
山極さんの話を聞きながら、わが叔父の
生き方は本当に理想だと改めて思った次第。

「庭にさつまいも、植えたよ」
と嬉しそうに話す叔父。

まだまだ元気に庭いじりもお願いしたいし、
私の出前演奏の機材搬入・搬出もお願いしたい
し、叔父さんの人生をみつめたい。

我欲を捨て、人に譲る。
そして、
年を重ねるほどに、頭をたれる稲穂のように
なっていきたい。

久しぶりに犬山モンキーセンターに行ってみるか。
ゴリラに会いたくなってきた。

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歌はともだち。

歌を歌って、歌をきいて、
人びとが心穏やかになったり、しあわせをかみしめたり、
気持ちを切り替えたり、じんわり感動したり、
心洗われたり、元気になったりする。
懐かしい日々を想い出したり、昔の自分や若い日の
出会いが浮かんできたり、
生きる時間が長くなると、そんなことも多くなる。

歌が好き。
という人が周囲にも大勢いる。
趣味や活動で合唱をされる方も、
ひとりカラオケに行く人も、
職業として歌を歌い、教える人も
歌が好き。
ジャンルや表現方法が異なっても、
歌うことで、それぞれ生きる力を得ているのだと
思う。

嬉しいときに歌う。
楽しいときに歌う。
寂しいときも歌う。

どんなときも、歌があれば、と思う
少女時代に、所属していた合唱団で出演したことがある
NHKの歌番組のタイトルが
「歌はともだち」
だったことを思い出す。

本当にそうだ。
歌は生涯の友達だ。

心の赴くままに、歌をつくり、歌う。
できたら、残りの人生もう少しそちらにも力を
注ぎたい。
つくり、歌う。

生きるために、歌う。

生きているから、歌う。

そうして、心豊かに生きたい。

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時空を超えた自分と。

日々、瞬間瞬間を生きていると、いろんなことが
ふりかかってくる。
楽しいこと、ちょっと息苦しいと思うこと、
まあ、いろいろある。何もない日はない。
それが生きているということ。

自分をとりまく世界をぐるりみてみると、直接、間接・・と
いろんなかかわりがある。
つながっているからこそ、今の自分がある。
現時点でつながっている関わりと、過去からのかかわり。
時空を超えて、今がある、今の自分がある。

すべての人とコミュニケーションをとりつづけ、
理解しあえることは難しい。
伝わっていなかったかもしれない。と思うこともある。
今となっては、伝えようがない場合もある。
でも、
自分としては、悔いがない行動をとっていたならば、
それで良い。

その時その時をとにかく全力で、やってきた。
そういう道であれば、まずは良い。
わかる人はわかる。
見ている人は、見ている。
と、思えば良い。

自分が歩んできた道。過去から今。
今の自分の取り巻き。周囲から世界。

小さな世界でもがくのではなく、
未来に向けて、自分はどう進みたいのか?
自分の視座をしっかりもち、自信をもってすすむ。

ブレずに生きること。
そのためには、時々、時空を超えた
自分という存在を意識すると良い。

いいことも、どんなこともある。
だから、充実した1日、人生になる。





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ザビエルのコミュニケーション力

鹿児島市内にあるザビエル公園。ザビエルが鹿児島(日本)をたずねて400年を
記念して1949年に開園。この石造りの記念碑はかなりのインパクトがある。
戦時中に空襲で焼け落ちた旧ザビエル教会の残った玄関部分で作られたとの
こと。刻まれた力強い文字が印象的だ。
ザビエル来鹿記念碑として、ザビエルとこの町との関係、永遠の繋がりを
伝えている。このたたずまいから、旧教会の威厳を感じることができ、
戦争がなければ・・・と悔しい思いになるが、一部でも残っていてよかった。
マカオの巨大な聖門を見たときの感動が蘇る、そんなたたずまいだ。

ああ、ザビエルが本当に日本に来たのだ、ここにいたのだ、ここで活動を
はじめたのだ。
想像もしていなかった、日本という異国での滞在は夢と希望だけではなかった
はず。戸惑いも苦労もあったはず。

その強い意志が、人々の心を動かした。
どんなコミュニケーション力に長けた人だったのだろう
と想像すると、わくわくしてくる。
当時、聖書もなく、そこに出てくる言葉を使って、
しかもその宗教に出会ったこともない、神様の概念も
わからない人たちに、どうそれを伝えたのか。
言葉がわからない人同士で、どのように、信仰について
語り合えるのだろう?語学の問題だけでなく、教養は?
鹿児島の人たちも、すぐれた受容力を持っていたのだろう。
そうでなければ、伝わらない。
伝わるということは、誰かが聴いて終わりではなく、
その人がまた他の誰かに話す、その口コミが重要だ。
しかも聖書もなく、スマホもない…そんな時代。
470余年前のこの地でのザビエルの対話を想像すると
不思議なことは多い。

でも、その積極性、高いコミュニケーション能力は確か。
それがなければ、キリスト教は日本に定着しなかった。
後に禁止されるほどに、力をもつようになった
日本でのキリスト教。これはザビエルの発信力の高さに
ある・・・。
と、妄想を重ねる。
そのザビエルをここに連れてきたヤジロー(アンジロー)
という少年の存在が気になる。この人がいなければ、
ザビエルと出会っていなければ、今の日本は違っていた。
改めてその存在、その行動力に勇気をいただく。
人間の行動力は、計り知れない。
このザビエル公園の向かいに、20世紀末に立てられたザビエル聖堂がある。
中に入らせていただいた。美しい聖堂。ザビエルの教えがここで、今も
伝え続けられている。赤い照明にパイプオルガン。強く印象に残る。

ザビエルに会える場所。またみつけた。また訪ねる。必ず。

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災害に比べれば、なんのその。

近年発生した世界の災害の様子をとらえた、ドキュメンタリーが
放送されており、時々目を伏せながら、でもこれが現実だと、
その惨状を心に刻んだ。
阪神淡路大震災や東日本大震災だけでなく、世界各地で
実に多くの天災が発生。それがきっかけで人災や戦争に発展
した例もあり、人はいざとなったら、どうなるかわからない
と改めて、恐怖を感じた。

ひとたび津波やハリケーンがきたら、土石流がきたら、
お手上げである。
パニックになることもある。

日本人はもともと災害の多い土地で生まれ育っている
のと、おとなしく我慢強い国民性もあるせいか、天災の時に
争いごとが起きるのではなく、助け合いが生まれる。
ボランティアにと駆けつける方も多い。
ここは日本人の素晴らしいところだ。
災害との付き合い方から、身を守る、生きる術を
習得してきたのかもしれない。

でも、ひとたび災害が起きたら、平和な日常が失われる。

今のところ、昨日まで無事に生きてこられた。
今日はどうか?
災害だけはないように、平和で過ごせるようにと
心から願う。
ただ、平和であっても、人との交わりの中で
真剣に生きていれば、こじれることもあれば、
ストレスもたまり、ときに四面楚歌のような
状態に追い込まれることもあるかもしれない。

でも、そんなときこそ、いのちまで取られない。
と思いたい。心の傷も必ず癒えると信じたい。

仕事や普段の暮らしのなかでは、
どんなに悩んでも、必ず道は開ける。
時間が解決することもあるだろう。

だから、思う存分 前向きに生きればよい。
つらいとき、しんどいときこそ、前を向く。

もちろん、災害に出会わないとは言えない。
天災、人災・・・巻き込まれる不運は
起きるかもしれないが、
その恐怖に比べたら、日ごろのもろもろは、
生きてる証し。
そう思えばよい。

今日も元気に、生き生きと1日を過ごしたい。
一生懸命やっていれば、必ず道は開ける。
と信じたい。

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希望の証し、新たな旅のはじまり。

こちらは鹿児島市の祇園之洲。フランシスコ・ザビエルが上陸した地である。
訪れたのは、1549年8月15日だったとのこと。
今の夏と比べたら・・とは思うが、それでも暑い季節、しかも冷房もない。
厳しい環境のなか、鹿児島出身の信徒ヤジローに案内され、マラッカから
この地へ、はるばるおいでになったザビエルさん。
ポルトガルのリスボン、インドのゴア、マラッカを経て、日本へ・・・。
476年前といえば、日本では室町時代。もう信長も生まれていた。
そして、16世紀半ばのヨーロッパは、ルネサンス、宗教改革、そして大航海時代
が同時進行と、大きな転換点にあった。そんな中でのザビエルの布教の旅、挑戦。

ザビエルの日本での布教活動は、まさにここから始まった。
もっと前に来てもよかった場所、来るべき場所であったのに、大分、長崎、
山口、堺、京都が先になってしまったが、今回ご縁があり、やっとたずね
ることができた。
おお、ここか~。言葉にならない、静かな感動が湧いてきた。

今は市街地もほど近く、便利な町になっているが、当時はどうだったのか。
いろんなことを想像する・・。

ふと、自作の「フランチェスコの夢」の歌詞を思い起こす

♪ああ 光る海は 希望の証しだと
私は今 立っている きみが歩き 見た街に・・・♪

で始まるが、まさにこの地に立つことができた。
しかも、日本で最初に足を踏み入れたその地に・・・。

この歌詞が現実となり、なんとも不思議な感覚にもなる。
自分の行動を予知していたのかと?

La Grande Roue:Poem & Songs

とにかく、もっと早く来るべきであった。
でも、ちゃんと来ることができてよかった。

鹿児島の人たちは、自分の取り組みに好意的でいて
くださって、協力的で、関心ももってくださり、
それもうれしかった。

鹿児島では、西郷さんや、島津藩の功績が大きく、
観光やシティプロモーションとしても、そちらに注力
されており、ザビエルにはあまりスポットがあたって
いないようであるが、それはそれでいい。
ただ、日本に西洋の宗教、文化、産業、生活様式が
伝来したきっかけがザビエルという存在であり、
その日本での出発点がここであることを、
誇りに思い、大切に記憶に残し続けたい。
と改めて、強く思う。

それにしても、ヤジローという信徒がザビエルに
出会っていなかったら、今日の日本はどうなって
いたのだろう。

いろんな想像がさらに膨らむ。
歴史は奇なり、真なり。

鹿児島。
長崎や博多とはまた違う、日本の南玄関。
ザビエルの日本での布教の旅はここからはじまった。

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今年も咲いたよ。と声かけたい

梅雨から夏にかけては、毎年ここから苦行が始まるかのように感じる。
私にとっては気合の必要な季節となる。

そんな緊張を解きほぐしてくれるのが、紫陽花。まさに字の如く、紫の花。雨の雫が
季節感をより表している。
実家の庭に咲いたこの花。
「今年も咲いたよ。おかあさーん。」
と声をかけたくなる。

生きている頃は、この花たちがそんなに気にならなかった、帰宅しても目に
入らなかったくせに、母がいなくなってから、この紫陽花が存在感を増して、
毎年この季節になると、会いたい気持ちが募ってしまうのだ。

そういう意味でも、気合いの必要なこの時期。
雨にも負けず、暑さにも負けず、紫陽花のように、豊かに生きるよ。

と、そう言い聞かせる。

今月のコンサートでは、この花から生まれた「あじさい日記」を歌いたい。

今しばらくは、実家に帰るたび、花ひらく紫陽花を数えることになる。


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都暮らしから 都暮らしへ

会社員時代に出会い、もう40年近く交流いただいている
京都のジェントルマン。
会社勤めをされているときから、定年されてからも
ずっと応援していただいて、本当にありがたいと
いつも思っていた。
時々いただくメール1通、ハガキ1枚に書かれた言葉は
意味深く、楽しく、笑みがこぼれる。
また年に1~2回お会いするときの会話も教養に満ちて
いるだけでなく、ユーモアに富んで・・・。
どこか悟りを感じるような不思議な空気をお持ちの方
であった。

さて、久しぶりに京都でお茶でもとメッセージを送ると、
なんと、
「来週、東京に引っ越します!」との返信で、心底びっくり。
へえ?なんで?これから?

御年は、おそらく70代半ばである。
ずっとこれまでも、これからも静かな京都郊外にお住まいの
こと、何とうらやましいこと・・と思いこんでいたが、
なんと、これから東京暮らしを始めるのだそう・・。
お子様が在京のため、近くに引っ越しておこう・・と
夫婦でのご検討から、決断に至ったとのこと。

東京に住んでいた方が、京都を終の棲家に・・というのは
容易にイメージできるが、その逆とは・・・。
「もうね、京都も昔と違ってインバウンドがいっぱいで
暮らしづらいし、まあ、こういう選択もありかと結果的に
そう思って・・・。」

落ち着いたら、東京で会いましょう。と久しぶりに電話で
話した。元気なままで良かった。

京都が終の棲家とは限らない。
すべては元気なうちに動けるうちに、ということか。
それも確かにあり。

なぜか少し寂しいような、いやいや東京も京都も同じ。
遠い場所ではない。
でも、京都の方がよりご近所さんと思っているせいか、
引っ越されるんだな~と改まった気持ちになる。

引っ越し。
私は残された人生で、あと何回引っ越すのだろう。
そのときは終の棲家へ・・になるのか?
そんなことも頭をよぎった。

西の都から東の都へ。
新たな出発を心より祝福したい。


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