新しい挑戦、はじまる秋。

今年もあと3か月余り・・・。と時間の経つのを
惜しんでいる暇もなく、毎日いろんなことがおきる。
そんななかで、思わぬ新たな相談が舞い込む。

仲間の脚本家が11月に下北沢で上演する作品に挿入
する音楽についての相談。
これまでは朗読劇、演劇で生ピアノ演奏をと
いうオファーをいただいたことがあった。

その初舞台は東京暮らしを締めくくる貴重の
体験ともなり、今も忘れることができない。
神楽坂の自宅にあった電気ピアノを下北沢まで
劇団仲間が運んでくれた・・・。ふとあの
非日常の光景が頭に浮かび、懐かしくなる。

今度の相談は生演奏ではなく、自分がつくった
楽曲の録音した音源を劇中で使いたいというもの。
これまでに作った作品から今回作家が書くお芝居の
オープニングや幕間、エンディング、効果音等も
含め、何か所かで使いたいとのこと。

へえ。そんな活用もありか。
と自分の作品を普段使いと違う目線で切り取ろう
としてくれるその発想に感動した。

もちろん二つ返事でOK。
やってみよう!という話になる。

11月後半の本番に向けて、東京~岐阜?間で
オンラインでその準備をすることになる。
実家のピアノルームがしばしスタジオに?

音響はまったく無知の世界であるので、
そこはその分野にも明るい作家との協業。
わたしは、楽曲を提供する係。

ちょっと楽しい、新しい秋がはじまる。
実家のピアノが演劇に出演できるとは、
これまた感動。

いろんなことが、できる。やれる。
わくわくの秋を元気に進むとしよう。

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またいつかNY気分で。

ある友人の誕生日。
その人には長年、いつも応援してきてもらった。
ほんとうに親身になってくれる人。

クリエイターであり、もともと音楽家であることもあり、
でも、感性豊かなマーケッターでもあり、
生みの苦しみも共感できるし、アイデアが浮かぶ天才的な瞬間の
歓びも理解できる・・・そんな仲。
自分を理解してくれる人がいるということは、
生きていく上で本当に支えになる。
とことんマイノリティであるところも、お互い親近感を
もっていたところかもしれない。

いろんな意味で共通点があり、出会えたことをうれしく
思った。そういえば、初めて出会ったのは新潟の講演会。
お互い、東京から出張してきていた。
東京でであれば、出会っていなかったかも。

何年ものおつきあいのなか、
いつも、わたしにとってありがたき、応援団であった。
私も彼女を応援しつづけた。

彼女の誕生日は、覚えやすい日付で、
今年もすぐ思い浮かんだ。

最近はちょっと会えていない。
どうしているかな。

いつもどおり、お祝いメッセージだけは送る。

よく年末になると、恒例行事として、
それぞれに思い出があるNYの空気を
少し感じたくて、東京駅近くのDean&Delucaで
待ち合わせし、ちょっとグルメな食事で乾杯した。

という何年か前までの楽しい時間を思い出す。

元気ならうれしい。

友というのは、いつも近くにいるだけでなく、
遠くにいても、会えなくても 思える存在だと
改めて思う。

またいつか、ちょっとだけNY気分の時間を
もてたらいい。

友の健康と幸せを心から願う。
HAPPY BIRTHDAY TO YOU!

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どんな表現者でありたいのか?

最近、初めてお聴きいただく方に声をお褒めいただく機会が増えており、
ちょっと恥ずかしくもあり、とても嬉しくもあり・・・。
特に歌手と言って歩んできたわけではないのであるが、
なんとなくこのように歩んできてしまったのだ。

今でもピアニストという響きもあこがれはあるが、
さまざまな環境での演奏会となれば、ピアノありの演奏機会は
難しい。
ピアノがない会場であっても、とりあえず鍵盤されあれば歌が歌える。
なくても歌える。
その方が活動はしやすく、敷居も低い。

歌手?シンガー?ボーカル
どっちなんだ?
いやはや一応曲もつくるし、詩も書くからシンガーソングライター?
声楽家とは違うなあ。
そうだ、弾き歌いをするので、弾き歌イスト
というのはどうだろう?聞いたことないなあ。
と、いろんな表現は頭をよぎる。
同じ歌を歌う人でも意味合いが異なるのだろう。

自分は一体何か?
しゃべる、歌う、弾く、作る、書く・・・で何?

本当は〇〇家という職業に憧れがあるから、
音楽家がいいのか?それも違う。
あるいは?

いろいろ考えながら、これからも自分なりの世界を自由に
描き、新たな出会いの中で感動の和を作れたら・・と思う。

いつか屋外で歌えるのも良い。
自由さが一番。

とにかく五体満足で自分を表現するできる今に感謝。
いつまでも、これでいい。ではなく
あるべき姿を描きながら、どんな表現を、コミュニケーションを
したいのか模索し続けたい。

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表情はにじみ出る

昨日の岐阜新聞のコンサート。
毎回新たにおいでいただける方も増えて、
とてもありがたい。
気が付けば10年前と客席の顔ぶれは変わった。

今回、地元の仲間が演奏の様子を撮影してくれた。
スマホでいいよと言っていたが、それでは良いのが
撮れないからと、こだわりのカメラを持参して
撮ってくれた。

私の表情が面白い。
へえ、こういう顔してやっているんだ。
自分では演奏中、自分の顔はわからない。
正直、演奏がちょっとうまくいかなかった瞬間は
ちょっと眉間にしわ?かもしれないが、それも含め
顔の表情も含め、お客様は見ているのだろう。
演奏を聴き、表情を見る。

「わたし、こんな表情しているんだ~」「マーサさんの
表情は撮り甲斐があります」とうれしい言葉。

正直、今回はパーフェストといえない演奏だった
が、それでもこうやってみていると、演奏ミスなど
些細なこと。
表情は作れない。自然とわいてくるものだ。
そんなことを今回しみじみと感じ、これらの写真から
いいコンサートだったと実感。
お客様が本当にうれしそうに帰っていかれたことが
うれしい。
最近、初めて聴かれる方が歌(声)を褒めてくださる
のが励みになる。
いつまでも聴いていただける、ふと立ち止まりたくなる
そんな演奏を届けたい。
そこにはもちろん表情もついてくる。

豊かな表情は、生きている証し。
喜怒哀楽、いろんな人生が詰まっているから
それが表情になる。

今回撮影してくださったブルマンさんに感謝を込めて

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一期一会のコンサート。

地元で演奏できる場所はないかと探していたあの頃。
もう10年以上前のことになる。
毎年何回かの演奏の機会をいただいた。
はじめは、親孝行のつもりで始めた。
当時は親が仲間に声をかけて、近所の人たちも
駆け付けてくれた。
そのうち、コロナになり演奏会も中止、そして
少人数予約制での再開、その後、両親もいなくなり、
あれから4年経つが、今も続けさせていただいている。
今は、この岐阜新聞の場所があることで、
それぞれ新聞の告知や口コミからおいでいただける
方が中心になってきた。
そのコンサートだけでお会いするお客様も多い。
でも、毎回来られているから、演奏時間が人生の
共有時間。
これこそが、一期一会。

今日も本番がある。
毎回30分ほどの短いコンサートではあるが、
季節性や時事ネタも含め、毎回テーマを考えて
選曲をする。
今回は、
グラン・ルー27周年の記念月であるため、
それも含め、
「人生は観覧車のように~愛と平和を胸に~」
がテーマとなる。
今年が戦後80年であることにも心を寄せ、
今日への感謝と世界平和を祈りたい。

さあ、今日はどんな方たちに出会えるだろう。
わざわざ足を運んでくださる方に
喜んでいただけるように。

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ゼロから生み出す仕事。

クリエイティブな仕事には、いろいろある。
アウトプットの形は違っても、ゼロから形を生み出す仕事。
かなりの想像力、発想力、豊かな感性、表現力、そして
その人ならではの個性があって、作品が生み出される。

経済活動が伴う場合でも、やはり生み出されるものは
商品でもなく、「作品」である。

作ればいい。形になればいい。ではなく、
もちろんクライアントがいる仕事では、その要望を満たさねば
ならないが、形にあらわす理由、なぜそれにしたか。
が伝わってくる必要がある。
まさに作り手としての思い、である。

言われたことだけをする仕事は、作業。
創造はまさに仕事であるが、相手があっての創造はいろんな
目を持たなければならず、そこは単なるアートではない。

とにかくゼロから生み出す仕事は、日ごろからどれだけの
情報量と研ぎ澄まされた感性をもっているか、が決め手になる。
ある日、ふとひらめくにも、見えないプロセスがある。

今も同時進行でさまざまなクリエイターとかかわっているが、
切磋琢磨しながら、つくりあげる仕事を生みの苦しみとともに
楽しんでいる。
いろんな意味で、夢にまで見る仕事。

なんでもゼロから生み出す人がいて、人類は発展し、成長する。

もちろんゼロかイチかではなく。
生み出される世界の可能性は無限大である。

創造できる人間って、素晴らしい。
自分もクリエイターという名前を冠していたことを
改めて思い出し、背筋を伸ばす。

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受容力、判断力をしっかりと。

ファクトチェックが必要となる世界も悲しいが、それをも必要と
しなくなる世界は嘆かわしい。

もともと、発信される公的な情報はプロが責任をもって取材をし
プロとしてのチェックを受けて、発信、配信されていた。
そこに書いてあるから、大丈夫。という時代が懐かしい。
もともと知識層のためのメディアであった新聞はとくにそうで、
新聞記者といえば、揺るぎのない正確な情報を提供してくれる
プロフェッショナル。メディアを通じて、社会に正しい、役に立つ
情報を。すべては公共のために。尊敬すべき職業であると思って
きた。
一部の権力者のためではない。公共のために存在する。

しかし、このところ、SNSの普及もあり、政治世界でこのツールを
乱用され、情報は操作されているのが前提と、疑いの目を
持たざるを得ない世の中になっている。
選挙もSNSの力で決まってしまう。
このことに疑問をもたない人々も増えているとすれば、
本当に危機的な状態であると考える。

毎日ネット検索をするたびに、さまざまな情報がごっちゃに
なっており、考えてみていかねば、誘導されていくことに
気づく。
面白そう、とっつきやすそう、ワンフレーズでわかりやすい・・・。
こんな情報が飛び交い、人々はそこに乗っかる。
それは本当か?
AIは便利であるけれども、真偽に関係ない膨大な情報から答えを
導くため、これ自体もファクトかどうかは??である。

こんなに真偽混在の世の中で、何を頼りに生きていくのか。

これまでジャーナリズムの勉強を続けてきてよかったと
思うのは、その答えは受け手側(自分)にあるということを
再認識できたこと。

どんなに派手で、反復されるそれらしき情報であっても、
まずは疑ってみている。
そして、その元をたどる。その情報は何を根拠に?
そういった意識をもち、受けとめ、その処理を適切にすること。
これが、情報まみれの社会では重要だ。

正しく受けとめ、そして判断し、行動すること。

受け手が主役でなければならない。
いいね、いいね。数で安心するのではなく、
少数派であっても、真理を求める情報こそが
自分の役にも立つはずだ。

アメリカ社会ではファクトチェックが効かない流れに
なりそうだ。
国がどんなもの必要ないと。
そして、伝統ある信頼のメディアも活動停止されるかも
しれない?

間違った情報、操作されている情報を見極められる人で
ありたい。そのためには、やはりどうあるべきか?
を考え続けることだと思う。

伝えることは責任がある。
コミュニケーションは、本当にむつかしい永遠の
テーマである。
コミュニケーションクリエイターなんて言っているのが
恥ずかしいぐらい、自分の非力を思う日々である。

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笑顔で再会のアニバーサリーデザート

神田にあった焼きとん屋さん。東京暮らしの週末も、出張で通いとなってからも
行けるときに足を運んできたが、コロナの影響を受け、その後復活したが、
まもなく都市開発の影響で立ち退き、閉店となった。
東京で指折り数える大変少ないお気に入り店であったので、とても残念。
あの閉店のときの惜しむ気持ちは今も覚えている。

社長はもちろん、そこで働く店長さん兄弟や若きスタッフたちが大好きで
あり、別の場所でぜひ営業再開してほしいと願い待っていた。
昨年、別の場所でようやく新たに営業再開をしたと聞きながら、なかなか
行けずにいたが、やっとやっと足を運べた9月17日。

久しぶりのスタッフの笑顔がうれしくて、懐かしくて、お店とは不思議な
ものだと実感。
お客さんと店の関係。そう、店は関係性があって続く。なければ続かない。
この店は、おいしい料理を提供しながら、笑顔の接客を実践。
マニュアルにないぬくもりあるサービスを感じる店。
タブレットでの注文になった今も、結局は「生二つ」とオーダーするのが
許されるのが、よい。

久しぶりの料理をおいしくいただき、しばし東京時代を懐かしく思い出し、
でも今日は新幹線乗るので、そろそろ帰るわ・・・と言ったら、
店長が厨房から写真のプレートを運んできてくれた。

「マーサさん、ぼく こういうの作ったことないんですけど。
おめでとうございます!」
特製のアイスプレートだ。
この店はカフェでもケーキ屋さんでもない。もつ焼き屋さんだ。
いつも、備長炭で串を焼いてる店長がつくってくれた限定スイーツだ。

うれしくて、うれしくて。
人生は観覧車のように。グラン・ルーは27年間、いろんな方に
支えられ、応援していただいてきたのだ・・・と改めて。

「これ、食べるのもったいないね」
「でも、とけますよ。早く食べないと」
笑顔のアイスに
「ごめんね。いただきます!」とアイスにスプーンを入れる。


暑い夜に、ひんやり。でも、じんわりとあたたかいおもてなしが
口の中に広がり、溶ける。感激の儀式のようだった。

笑顔のアイス。今も、店長やスタッフの笑顔と重なる。
心からの感謝を込めて。

27周年アニバーサリー。
多くの方に心寄せていただき、あたたかいメッセージや
お気遣いをいただいた。
幸せの観覧車が新たに回り始めている。
余韻を大切に、感謝を忘れずに進んでいこう。

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パンの肖像画との出会い。

まるで写真。でも、絵画である。
インパクトもあり、立体感もあり、触りたくなり、食べたくなる。
すごい!パンのまさに肖像画なる作品を描く画家さんがおられるのだ。

展覧会の告知を一目見た時から、作品はもちろんであるが、
独学で絵画をはじめられたというこの作家さんに興味がわいた。
そして、展覧会にも足を運ぶ。

パンの写真は無数にある。
でも、これは絵なのである。
瞬間の美をとらえる写真とは違い、緻密に繊細に時間を重ねて
仕上げられた絵画なのである。
写真は瞬間、絵画はプロセスを感じる。

写真は被写体そのものをとらえるので、見た瞬間に想像力が働くか
といえばそうではなく、むしろ後になってその写真がきっかけとなって
記憶が呼びおこされ感動する・・・そんなアートであると思う。
一方、絵画は作家がゼロから描き出す世界であるため、無数に
想像が広がり、いろんな感情が沸き上がる。
写真は現実を拠点にし、絵画は空想から始まるといってもよいかも
しれない。

今回拝見した、パンの絵は、まさに肖像画。まるで、パンにいのち
が宿っているかのように、その豊かな表情を感じ、味わうことが
できる。

大好きなコロンビアの画家、ボテロのふくよかな作品に刺激を受け、
パンの絵を描こうとされたという動機自体もとても興味深い。

とにかく見ているだけで、幸せになる作品。
腐らない、かびないパン。
だから、一生 焼き立てなのである。なんと!

もしも、いつの日か、食事ができない日が来たとしても
この1枚があったら、元気が湧いてきて、パンが食べられるように
復活しよう!と思えるような気がしている。
もしかしたら、実際にパンを食べなくても、見ているだけで
十分、満ち足りるとも思う。

久しぶりに独創的でありながら、わかりやすく、見る人に幸せを与えて
くれる素晴らしい作品たちに出会え、新たな発見と心地よい刺激をいた
だいた。

なんだか、パンの歌でも書きたくなってきた・・・🎵
(そういえば、その昔、そんな曲も昔あったかも・・・。)

この作品展は、9月22日まで横浜の高島屋で開催中。

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幸せの観覧車を目指して・・・。

グラン・ルー誕生は1998年9月17日。
そんなに気負ってのスタートではなく、1週間前に脱サラ
をして、小休止して走り始めた日である。

とにかく、あゆみを止めず、ずっと走り続けてきた。
気が付いたら、一人で走り始めていたというのが正直
なところ。
くいなき(917)毎日を、人生ということで9月17日。
後付けのような感じもするが、一応そんな意味もある。

今日で創業27年を迎える。
あっという間である。あっという間すぎる。
でも、時計を27年前に戻してみると、あれからずいぶんと
いろんな経験をさせていただいた。
東京、台湾、新潟、京都、そして地元・・・。
海外へどんどん出かけた40代までの頃から、グローカル、
そしてジローカル(今浮かんだ、「自分のふるさと」の造語)へ。
大きく、小さくぐるぐる回り、さまざまな出会いをいただいた。
目を閉じれば、思い出があふれ出る。

人生は観覧車のように。
時代は変われども、創業時とコンセプトは変わらず。
コミュニケーションの力で平和と愛を。
この思いは、近年、さらに強くなったと思う。
そして、give and take を越えて、またWin &Win も
越えて、惜しみなく与えるゆとりをもてたらと思う。
どこまでgiveできるか?

まったく足元にも及ばない、マザーテレサの存在。
一生及ばないままであるけれど、それでも憧れをもち続け、

私は私の観覧車を回していきたい。
小さな存在であっても、大海の一滴であっても、
意味のある存在でいられるように。

27年前に出会ったパリの観覧車に、
27年間、出会ったすべての皆様に、
そして、今も最強の応援者でいてくれている両親に
感謝と愛を込めて

「人生は、幸せの観覧車」を目指して、ここから回り始めよう。




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