自分から離れ、相手に近づく。

日々、さまざまな人との面談、交流が続く。
多業種、異なる世代、違う職場、環境、国籍・・・。
とにかくいろんな人とコミュニケーションし続けることは
「人間を知る」という点で、何年やっても飽きることがなく
自分自身学びが多い。

たとえば悩む人がいるとする。
多くは自分の思いが相手に伝わっていないこと、
自分の思いと現実が違う、思うように進んでいかないことへの
焦りや不安があって悩まれることが多い。
私は悩むことはとても良いことだと思っている。
それは、良くしたい、なんとかしたいという思いの現れであるから。

この状態で相談を受けたら、いろんな角度から言葉をかけることで
気づきを得てもらえることも多い。
自分中心であった考えを、相手の立場に立ってみる。
すると、どうして伝わっていないか、どうしたら伝わるかのヒントも
得られる。

一方、もう悩みを越えて、結論を出してしまった人。
この人はこういう人だから、と自分なりの答えを出して、
悩まないように自分の行動をコントロールし、相手と距離をおいて
生きていく人もいる。
自分と合わない人、違うと思う人とはわりきって、積極的に関わらない。
それもよく理解できる。冷静になるために、その方がよい瞬間もある。

ただ、見方を変えれば、相手の良いところも見えてくるので、
それも忘れずにいたい。。
良好な関係を築くことを、意識し続けたい。

自分の殻のなかから相手を見る、世間を見るだけでなく、
ときに自分を自分の外に出してみて、相手にはどう伝わっているだろう、
どう見えているだろうと
「見られている、見えている自分」を想像してみたい。

それは少し勇気がいるかもしれないけれど、
きっと答えがみつかる。
うまくいかない理由は、自分が見えていないことにあるのかも。

一歩外へ。そうすれば心も軽くなる。

と、日々、学びをいただけることに感謝したい。


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もぐらたたき、ぐるぐる登山。

毎日、何かしらの課題解決に向かい、時間とにらめっこ
しながら動いている。
いつまでに書かなければならない、いつまでに終わらせなければ
ならない、いつまでに決めなければならない。
このミーティングのゴールはこれ。だからこうしなければ
ならない。

もちろん一歩先のことまで考えて生きている意識はあるけれど、
結局目の前のことに追われる日も多い。
こっちをやっていると思えば、あっちから連絡が入り、
そうかと思えば、なに~?と思うようなこちらからすれば
言ったはず、合意したはずなのになんで?と話が逆戻り。
トンチンカンに思える相手の反応に首をかしげながらも、
前に進もうと踏ん張る。
メールもチャットもZOOMも便利であるが、ひとたび壊れると
環境が悪いと、コミュニケーションにも支障が出る。
結局、電話する。毎日、ぐるぐる もぐらたたきの暮らし。

思えば、ここしばらくそういう日々を過ごしている。
仕事は、人生はつくづくコミュニケーションだと思う。
やりとりの中で起きる、ズレはあって当然。
人の理解は、自分が思っていることと違う場合も多い。
だから何度も伝えあう、念を入れての確認は必要。

そんなこんなで、時に血液が逆流しそうなときも
あるが、少し落ち着いて
一杯の炭酸水。あるいは濃いめの紅茶。
一息ついて、相手は相手でがんばっている、一生懸命
なのだと相手のことを想像してみると、まあいいか。
と落ち着き、次の手を考える。

毎日それぞれの仕事のゴールを思い浮かべながら
それぞれの山が、ちゃんと頂上までたどり着けるように
ぐるぐる回りながら、昇っていく。
は?なに?なんで?そうなんだ。ま、いいか。
そんなことを毎日繰り返し、それぞれのゴールに向かい
背中を押し続けている。

それがすべてうまくいくことが、力になり、信頼につながる。

さあ、今日もぐるぐる。




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最初の1000歩。

朝早く、元気にスタートするために新たなアクションを追加。
あまりに暑い日々なので、外出を控えたい。でも体を動かしたい。
というころで時間が少しでもあれば、室内を気分転換に歩く
ことにしている。
狭い部屋でも、やりようはある。

とくに朝目覚めてまもないうちに、最初の1000歩を始める。
猛暑のおかげで、生まれたこの新習慣。
朝の1000歩は、今日の予定を確認しながら、頭を整理するにも
良い時間だ。歩いているうちに頭がさえてくる。

小さなことでも、新しい挑戦は必ず発見につながると
今回も確信。

歩きながら、考える。
ベートーベンも散歩しながら、楽想を練ったりしてようであるし、
また親しかった作家のNさんも生前、毎日 散歩をされていたが、
執筆にも効果的なエクササイズだったと思う。もちろん街を歩けば
目に飛び込んでくるものも新たな発見になるので、これはこれで
効果的。
室内でも何かを聞きながら歩けば、インプットの時間としても
一石二鳥となる。

と、今朝もすでに1000歩済ませて、本格稼働。
毎朝やることが、どんどん増えている。

さらに早起きすることになるが、
朝が長い分には、良い。
朝は1日の活動の源泉だ。

「3歩歩いて2歩下がる♪ 」という歌があったが
1000歩も歩けば、もう後ろへは下がらない。
前進あるのみ。

という発想で今日を、新たにはじめる。
行けるところまで、行こう!

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もし、自分だったら。と考える。

8月は戦争に関する話題に多く接することができ、
新たな世界をさらに知る機会に恵まれた。
まだまだ、知らないことが多すぎる。
半世紀以上生きてきているのに、なんという無知なのだと
学校の教育にも疑問はありつつ、自分の不勉強も反省しきり。

もし、自分が当時生きていたら、こんな立場であったなら・・・
と考える。
もし、自分が戦争未亡人であったなら・・・。
父親が戦争に行かされ、そのまま現地で亡くなり、
遺骨もみつかっていなかったら・・・。
もし、自分がシベリアで抑留されていたら・・・。
戦争孤児になっていたら・・・。
もし、自分が中国人だったら、アメリカ人だったら、
ユダヤ人だったら、ドイツ人だったら・・・。

いろんなことを想像してみる。
どんな20世紀であったのだ。知れば知るほど驚き、
ショックをうける。
戦争がもたらす、取り返すことのできない苦痛、苦難・・。

経験された先人が絶対戦争はいけないと言っているのに
広島や長崎がその悲惨な例を示しているのに、
それでも、まだ今、人間業と思えない悪行が続いている。

そんな現状のなか、ご自身の御父上が戦死されたジャカルタ島に
何度も通い、遺骨収集を続けておられるご婦人の存在を知る。
もう80歳を越えておられる。自分の親たちと同世代。
ご自身の親だけでなく、同じく同じ場所で戦死された方たちの
遺骨も一緒に収集されているそうだ。
大変な作業であるのに、それを何年も続けておられるその
思いを想うと、もし、自分が同じ立場だったら・・・と思う。
同じことをしているかもしれない。

80年経っても家族の元に帰ることができない多くの人々。
戦争が奪った多くの命のひとりが、自分の愛する、かけがえの
ない存在であったら・・・。

戦争を体験していないことは幸せなことであるが、
その現実を知らないと、平和のありがたみは理解できないと
思う。
だから、もし自分だったら・・・と想像してみよう。
そして、できることを始めよう。

今日から9月であるけれど、終戦80年は終わらない。
引き続き、事実を学び、平和を希求し続けたい。

今日は母の誕生日。生きていたら85歳か。
もし生きていたら・・・となっていることは寂しいけれど、
ずっと忘れない記念日である。
時々戦後まもない時代の話をしていたなあ。
と改めて思い出す朝である。

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「和敬清寂」を心に刻み・・・

8月が今日で終わる。戦後80年の8月。終戦記念日15日を踏まえ、
さまざまな戦後の情報に接し、考える夏となった。

そんななか、茶道家の千玄室さんが14日に102年の生涯を閉じられた。
特攻隊として戦争を体験されてきた千さんが伝えられてきた、茶道
を通じての平和への願いは、改めて多くの人々の心に刻まれたこと
であろう。

千さんが生前話されていた映像のなかで、「和敬清寂」という言葉
が大変印象的だった。なんでも千利休が残された言葉だそうで、
その精神を代々受け継いでこられている、そしてその言葉を時代の
変化に対応しながら体現されてきたその活動、その生涯に改めて
頭が下がる。
この言葉の意味は、
「誰とでもと仲良く、相手を敬い、清らかな心で、何事にも動じず。」
簡単にいえば、そういうことであろうが、それを千玄室さんらしい表現、
京都弁を交えながら、笑顔で若者たちに語っておられた。
ああ、生前にもっと知っておけばよかったという無知への反省もあるが、
偉大なお方と同時代生きることができたことへの歓びも沸き上がった。

茶の心とは平和への伝道の道であることを学び、それを貫かれた
人生を素晴らしいと、心から思う。

今日で8月が終わるが、終戦という節目を決して忘れず、戦争なき日本で
いられるように、そして世界中が平和であるように、願いを込めて
生きていきたい。

千さんのように大きなことはできないけれど、自分もできることを
やり遂げ、平和な社会を目指し続けたい。
「和敬清寂」の心をもって・・・。


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防災×にいがた×〇〇

9月1日は母の誕生日であるが、その日は防災の日だ。
102年前、関東大震災が発生した日・・・。
そんなこともあり、その日は忘れられない記念日として
いつも覚えている。

その「防災」。
新潟に通いはじめる前に、あの中越地震があり、その後
中越沖地震も・・・。その前に新潟の知人は少なかったが
この震災経験がきっかけとなり新潟で多くの人々、企業の
皆さんに出会うことになった。
新潟での被災経験を活かそう・・と、がんばってきた
地元の皆さんの努力、奮闘を見ながら、広報面等でできる
お手伝いをしてきた。
今から思えば、それがあったから、自分のなかで防災
意識もそれなりに芽生えた。
その後、東日本大震災もあり、さらに危機意識をもって
生きるようになった。

防災士という役割を知ったり、災害食の認知向上に関心を
もったり・・・。これらはすべて新潟での出会いのおかげ。
来週、新潟では「ぼうさい国体」が開催され、同時開催で
にいがた防災産業展も行われる。
私のなかで「防災」×「新潟」×「〇〇」のイメージが
広がる。そんななか、ローリングストックという考え方が
浸透しつつあるが、それに着目されている人たちとの新たな
出会いもあり、さらにはITの力で何かできないかという発想
にもなる。そして商品開発や啓発活動にもかかわることになる。

思いがあれば、問題意識をもっていれば、いつどこで、どんな
出会いがあるかわからない。
今、防災×にいがた×〇〇というテーマで新たな観覧車が
回り始めている。
今日は岐阜で防災に取組む方にお会いする。ここもまた
つながっていくかもしれない。

思っていれば、つながる。行動すればつながる。
やはり、ここでも人生は観覧車のように。

楽しみながら、心通う人と、共感できる人たちとつながって
いきたい。

9月6日・7日は新潟にまいります。
こちらの会場にいます。
にいがた防災産業展↓
https://niigata-bousaisangyoten.pref.niigata.lg.jp/

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成長の傍らにいる幸せ。

20代、30代、40代、50代。いずれも自分が辿ってきた道。
時代は違えど、その道を今歩んでいる人たちと関わる時間
に恵まれ、多くのコミュニケーションの機会をいただいて
いる日々。
社会人になったばかりの人、2年目の人、数年、10年、
20年・・・。
いろんな悩みもある。
それを聞きながら、今自分が言えることを伝える。
メモを一生懸命とって聞く人、目を輝かせて頷く人。
その反応はさまざま。
自分の話をしっかり吸収しようと思っていただけること
がうれしい。

そして、その会話のあともずっと彼ら、彼女らの行動を
見守る。
会話が生かされている、変化していると感じる時が
本当にうれしい。

人の成長は、その人自身の気づきと速やかな実践の
積み重ね。
小さなことでも、ちゃんと改善されていけば、それは
成長につながる。

若き人達が生きる将来に、少しでも役に立つように
彼ら彼女らが、人生は観覧車のように生きる
ことに共感し、動き始めてくれたら・・。
自らが観覧車に乗るだけでなく、自らがその輪を
回す人になってくれたら・・・。

コミュニケーションクリエイターとは、
結局のところ、未来に生きる人づくりなのかも。
と最近感じ始めている。
成長する人たちの傍らにいられることが
幸せと思う。

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すべては「何のために」

さまざまな情報に取り囲まれ、気を付けないと浸食されがちな
日々を生きている。
と、そんなことを考えることなく、毎日毎時、スマホに向き合う暮らし
が当たり前のように存在している。

電車に乗り、ほとんどの人が手のひらの世界に向き合っている現実は
異常と感じる。ガラケーが普及したときもそう感じたが、今はもっと
さらに。異常が日常の風景になってしまった。
前を見ないのですか?と、思う。でも、自分も気が付けばその手の
ひらに目を向け、そうでなければこのデスクトップの世界で格闘。

パソコンの場合は、仕事目的であるので、ある意味緊張感もある。
スマホは、公私を越え、一番身近な存在になってしまっているのかも
しれない。もしかしたら人間の友達以上という人もいるのかもしれない。
これは危険だ。どんどん狭い世界に入り込んでいくことにも、気づかない。
それが当たり前になる。

自分にとって、要らない情報が無数にある。
何のためにこんな情報が存在するのだろう。
と、いつも思う。
何のため?単なる金儲けか?と思うことは多い。
量だけでなく、情報の質の低下も気になる。

この問いかけは 日々、いろんな場面で浮かんでくる。
AIを使うことも時にはある。そのAIがそれなりの回答を出してくれる。
そのことに慣れてしまうと、危険だとも思うようにしている。
自分は何のために、これを使っているのか?という問いを常に
持っていることが大切。
使ってもよいが、それを自分の知見や感性で磨いたり、ブラッシュ
アップしたり、あるいは参考に見る程度に収めるか。
あくまでも、参考のため。の活用でないといけないと私自身は
思っている。
自分でコントロールする必要がある。

本来は、使わなくてもいい。
自分の力でやるべきことなのだ。
基本はここだ。

便利なものに慣れていくと、考えなくなる。
AIは、自分が考えなくなるために使ってはよろしくない。と
思う。

すべては何のため?

何のために使うのか?
何のために働くのか?
何のためにこんな暑いのにがんばるのか?
何のために生きるのか?

毎日、この問いかけがあって、その答えを模索しながら
生きている。考えて生きるからこそ、人間ではないかと
思う。

考えない人は淘汰される時代になってきたと
感じる。
そして、利己的であっても(たとえばお金のため)
目的意識がはっきりしている人が知恵(悪も含め)を
出し、情報を駆使しながら、考えない人を飛びつく人を
飲みこんでいく。そんなことも意識しておきたい。

流されないように。
小さなことでも、「何のため」を問いかける習慣を
身につけていかねば。
若い頃に、哲学にほんの少しであるが、
触れておいて本当に良かった。

と、AIに向き合わねばならない日々、強く思う。

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てくてく、今日も。

どんなに暑くても1日一万歩を歩きたい。歩かねば。
つまらないこだわり?かもしれないが、毎朝この
ブログを書き続けることも、毎朝のラジオ体操と
プチヨガも、目覚めの一口アイスも、オリジナル
コーヒーも、自分で決めた習慣であり、それをし
ないと気持ち悪い、1日が始まらない。
1日一万歩もそのひとつとなった。もちろん
多少の凸凹はあるが。

暑すぎて外出できない日には自宅を歩く。
小さなプールを折返し及ぶスイマーのごとく、
狭い部屋のなかを歩く。
ただ歩くのはもったいないので、聴くだけで
インプットできる情報を耳に入れながら
足を動かす。おかしな動物のようではあるが、
こういうときの「ながら」は充実気分になる。

屋内ウォークといえば、ショッピングモールの
中をぐるぐる歩き回るのも暑い日にはおすすめ。
普段見ない店に入ってみたり、奥の方まで
突き進み、ついでにリサーチをする。
ああ、この店ではこんなものまで扱っている。
こんな売り方をしているのだ。
目的をもって買い物をするときは目に入らない
情報に触れることができるのも、面白い。
屋外に出ないで、いかに室内だけで歩くことが
できるか。
都会ではある程度それが実践できる。
ショッピングモールは涼みたいお年寄りで
いっぱいだと、毎日そこに通う叔父は言う。
年配者のセカンドプレイス?イオン恐るべし。

とにかくもうしばらく、インドアてくてくを
続ける。音楽を聴きながら、考えごとをしな
がら、電話をしながら・・・。
歩きながらいろいろできる。

もちろん、そろそろ涼しくなってほしい。
気力で生きているこの2か月。

今日はビルのない場所をてくてく。暑そうだ。
修行、修行。もうしばらくの辛抱を少しでも
楽しく!

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いのちの危険がいっぱい。

この暑さ。
エアコンがない夏を過ごしていた知人がさすがにエアコンを
設置したと聞き、安心したのが数年前。当時もかなり厳しい暑さ
であったが、まだ地域や場所によっては、確かにそれがなくても、
扇風機を使えばなんとかしのげる・・・という段階であった。
しかし年々夏の訪れとともに、気温は上昇、天気予報やニュースで
記録を更新と告げられることにも慣れてしまった。
子どもの頃は、30度越えだけでも、暑い暑いと騒いでいた。
当時はまだ熱中症という言葉もなく、日射病に気を付けて、
日かげを求めて過ごしていた。
学校にもエアコンもなかった。

近年のような体温以上の気温は異常で、その状態で過ごし続けることは
本当に危険である。

先日一人暮らしの80代の方が、自宅で熱中症になり、ケアマネージャー
の連絡で医者が在宅診療されている様子をニュースで見た。
エアコンのない生活をずっとされている。扇風機もない。
見かねた医者が、扇風機を1台、その方の自宅に運び、貸しておられた。
ご本人には、暑さがあまり感じられない様子で、インタビューにも
「我慢するので大丈夫」と力なく応えておられた様子が痛々しかった。

おそらく育った環境や時代も関係あるのだろう。
我慢すればなんとかなる。
そのように生きてこられたのだろう。
でも、この暑さばかりは我慢してしのげるものではない。

このような一人暮らしのお年寄りは全国に多数おられる
のであろう。
ケアマネさんや在宅医療をされている先生たちも、気が抜けない
大変な日々をお過ごしだと思う。頭が下がる。

母には、晩年酷暑をひとりで過ごさせるのが怖くて、本人の希望
もあって、夏の間 施設に入ってもらったことを思い出す。
あれはあれで良かったけれど、但し、自分で生活をする習慣を
忘れてしまったのが良くなかった。と反省もするこの季節。
まあ、毎日熱中症でくたばっていないかと心配するよりも
良かったのだと自分なりの言い訳をする。

暑さとの闘いは本当にいのちがけだ。

人間だけでなく、池の鯉たちも・・・。
昨日、観賞用に飼育されている美しい鯉の一匹が
酸欠で苦しそうに泳いでいるのを見つけた。
ほんとうに、苦しそうで異常な動きをしていた。

そのことを、その池を管理されている方に、
それを伝えたが、ずっと気になっている。
水温の上昇から、魚たちも生きづらいのだ。
池の中にもエアコンが必要なのだ。

と、我慢するだけでは、自分の努力だけでは
生きられない環境になってしまった。

先行きが見えない厳しい日々。

いのちがけの夏。早く終わってほしい。
酷暑に大雨に、地震に、噴火に・・・。
命がけで生きる時代になってしまった。

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