すべては「何のために」

さまざまな情報に取り囲まれ、気を付けないと浸食されがちな
日々を生きている。
と、そんなことを考えることなく、毎日毎時、スマホに向き合う暮らし
が当たり前のように存在している。

電車に乗り、ほとんどの人が手のひらの世界に向き合っている現実は
異常と感じる。ガラケーが普及したときもそう感じたが、今はもっと
さらに。異常が日常の風景になってしまった。
前を見ないのですか?と、思う。でも、自分も気が付けばその手の
ひらに目を向け、そうでなければこのデスクトップの世界で格闘。

パソコンの場合は、仕事目的であるので、ある意味緊張感もある。
スマホは、公私を越え、一番身近な存在になってしまっているのかも
しれない。もしかしたら人間の友達以上という人もいるのかもしれない。
これは危険だ。どんどん狭い世界に入り込んでいくことにも、気づかない。
それが当たり前になる。

自分にとって、要らない情報が無数にある。
何のためにこんな情報が存在するのだろう。
と、いつも思う。
何のため?単なる金儲けか?と思うことは多い。
量だけでなく、情報の質の低下も気になる。

この問いかけは 日々、いろんな場面で浮かんでくる。
AIを使うことも時にはある。そのAIがそれなりの回答を出してくれる。
そのことに慣れてしまうと、危険だとも思うようにしている。
自分は何のために、これを使っているのか?という問いを常に
持っていることが大切。
使ってもよいが、それを自分の知見や感性で磨いたり、ブラッシュ
アップしたり、あるいは参考に見る程度に収めるか。
あくまでも、参考のため。の活用でないといけないと私自身は
思っている。
自分でコントロールする必要がある。

本来は、使わなくてもいい。
自分の力でやるべきことなのだ。
基本はここだ。

便利なものに慣れていくと、考えなくなる。
AIは、自分が考えなくなるために使ってはよろしくない。と
思う。

すべては何のため?

何のために使うのか?
何のために働くのか?
何のためにこんな暑いのにがんばるのか?
何のために生きるのか?

毎日、この問いかけがあって、その答えを模索しながら
生きている。考えて生きるからこそ、人間ではないかと
思う。

考えない人は淘汰される時代になってきたと
感じる。
そして、利己的であっても(たとえばお金のため)
目的意識がはっきりしている人が知恵(悪も含め)を
出し、情報を駆使しながら、考えない人を飛びつく人を
飲みこんでいく。そんなことも意識しておきたい。

流されないように。
小さなことでも、「何のため」を問いかける習慣を
身につけていかねば。
若い頃に、哲学にほんの少しであるが、
触れておいて本当に良かった。

と、AIに向き合わねばならない日々、強く思う。

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