もっと丁寧に、一日を生きる。

勢いで流してきたような、とにかく駆け抜けてきたような
そんな時代を過ぎ、ふと立ち止まる。

先への見えない不安がどんどん増すなかで、
ただひとつ確実なのは今日ここにいるということ。
この現実と向き合い、
元気に仕事をし、ものを食べ、眠ることができる。
そんな これまで、当たり前と思ってきたことに対し
改めて感謝をしながら、
とにかく、丁寧に丁寧に生きなければと思う。

1日をかみしめる。
そんな意識をもつことで、自分の行動も変わってくるはずだ。

毎日毎時、この瞬間を見過ごさないように、
とにかく丁寧に、精一杯生きたい。

もちろん楽しく、明るく、元気にをベースには
変わらない。

という心積もりで一日を始めると、気持ちも穏やかで
パワーも満ちてくる。

今日も丁寧に、心を込めてスタートする。

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ネット時代の世論形成

昔は選挙でも、何でも一方的な発信が基本。
人びとはそれを熱心に受容した。
街頭演説も、ポスターもそれなりの意味があり、新聞記事を読み、
政見放送などを見ながらその人や政策を判断。
組織力がある候補者は、その人脈で票集め。
これが昔からのニッポンの選挙スタイルだったと思う。

それが今や、ネットの時代となり、、、。
いろんな立場の人が、それについての意見を出し合うものだから、
見えないうちに世論が変わっていくということにもなっている。
論点はそこだけじゃないはずなんだけど・・と思っても、ある1点だけが
集中的にチェックされて、その一言で民意が動いてしまうこともあり・・。

広報とは世論形成であるといった人がいるが、まさにネットでは
それが容易にできてしまう、ある種の怖さがある。

またトータルに観るのではなく、部分的に見て全体を判断して
しまう傾向もあるかもしれないのも、個人的には気になるところ。

日本だけでなく、アメリカも同じこと。
ネットというメディアに、翻弄されながら、注意深く発信を
していかねばゴールにはたどり着けない。
何が正しく、何がそうでないのか。
見極めが難しい昨今、見る目だけはきちんと養っておきたい。

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方言に泣く。

今、大ヒット中のアニメ大作「きみの名は。」を劇場で観る。
アニメを映画館で観た記憶はほとんどないが、これは舞台がわがふるさと?らしい。
ということもあり、どんな風に描かれているかの興味も沸いて、劇場に向かう。

最初のセリフから、岐阜弁が流れてくる。
そして、岐阜の片田舎に住んでいた少女が、東京に行く夢を見る・・・
そこで映る、東京の風景・・。
方言は、昔の私自身。親元を去ったときの自分の状態。
そして、東京は20年以上住んできた自分のホームグラウンド・・。
この両者が自分の中にぐいぐいっと入ってきて、私は映画の最初から
泣きっぱなし状態になってしまった。

この映画は様々なメッセージが込められた、そしてとくに、
レクイエム的な要素を含んだ、今だからこその作品だ。

世の中にとってもそうであり、私自身にとっても、今だからこその作品
として楽しませてもらった。

方言に泣ける。思い出しても・・また・・。

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ボーダーレス、混沌から何が生まれるか?

先に書いた、ノーベル文学賞のこと。
音楽の歌詞は、文学か?という問いの答えは、実はとても難しい。

文学は目で文字を読み、言葉を耳で聞く。
音楽では、サウンドに乗って言葉を聴く。

文学が音楽を含むのか?いや、重なる部分もあるということか?
いや、もうそういった境界線はないということなのか?

じゃ、なんでもありの時代になるのでは?

今、社会は性差も、障がいも乗り越えて、ノーマライゼーションの方向に
進んでいる。
マイノリティの人が住みやすく、生きやすい世の中はいいこと。
と思う反面、
さまざまなボーダレスが混沌にもつながっているようにも感じる。

いろんな価値観が変わるなか、自分はそういうつもりじゃないのに。
と置いてきぼりになる人も増えていくのかもしれない。
そして、さらに混沌が広がる?

なんでもあり。これもあり、あれもあり。
本当にそれでいいのかな?
自由に感謝しながらも、どこか落ち着かない自分がいる。

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そうか、文学なんだ~。

毎年思うが、いつまで続く?ノーベル賞。
ノーベル財団、本当に恐るべし。
しかも、世界中が注目する、まさしくダイナマイト級の賞だ。

マスコミや業界の人が予想しているのと外れるのが
また興味深い。
そんななか、今回は文学賞を「歌手」のボブ・デュランが受賞とのこと。
へ?なんで?
賛否両論あるようであるが、まさに予想と反する結果であったことは
間違いない。
歌詞をメロディに乗せて・・。プロテスタント・ソングなるものを作り、歌い継いだ。
反骨の精神だとか、飾りことばではない「メッセージ性」が文学賞として
ふさわしいのだとか・・。

私も歌詞は書く。これと他の言葉紡ぎとどう違うのか?と考えることはある。

ただ、言葉に何かをプラスして(今回の場合はメロディ)伝えることも
広義の文学だとすれば、かなりのアートも文学に含まれることもあるかもしれない。
定義づけが難しくなってくる。もちろん文学そのものも変遷するということなのだろう。

歌詞だけ取り出しても、立派なメッセージになっていれば、やっぱり文学といえるのかな。

いずれにせよ、言葉とメッセージに関わる賞なのだろう。

そういえば、文学部を卒業しても、社会の役に立たないよ。と30年前いわれていたのを
思い出した・・。

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空で踊る、応援団。

立ってピアノを弾き、歌い出す。
オリジナル曲になると、なぜか自分の頭の上に踊る人たちの存在を
感じる。これはあくまでも私の妄想であるが、でもその像がくっきり浮かぶ。

何人かが、輪になって、私の歌にあわせて、笑顔で踊っている。
まさに観覧車のようにくるくるとみんな、回っている。

その輪になっているのは、もう会えない友人・知人たちだ。
彼たちは生前知り合いではないはずであるが、今は私の頭上で
手を繋いでいる。みんな友達になっているのだ。

作家のあの人も、俳人だったその人も、アーチストの彼女も
そして昨年末、今年初めに亡くなった人たちも・・。
皆、私の歌にあわせて踊っている。
「ほら、がんばって~♪応援していますよ~」
といっているようだ。

ここ何年か、演奏中に、このような絵が浮かぶことが増えている。
悲しいのは、毎年そこに加わる人が、ひとりふたり・・・増えていること。
なんだか、これこそ、曲になりそうだ。

彼ら彼女らは、間違いなく私を応援してくれている。空の上から・・。

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生きた経験こそが、表現の素材。

文章や曲作り、話がうまかったとしても、そこにネタがなければ、何もはじまらない。
表現のネタとは、自分が積み上げてきた経験のこと。

人との出会い、別れ。さまざまな土地への旅。遠くか近くかは関係なく、そこで自分がとった行動やそこで得た化学反応・・・。すべてがネタなのだ。

何も経験していないならば、何も発信することはできない。

楽しい経験だけでなく、ショックを受けたことや悲しい経験も、すべてあとになればネタになる。

ネタを心の引き出しにどんどんしまっておく。

豊富なネタづくりは行動力に匹敵する。
その上で、イマジネーションも加われば、自分らしい
最高の作品を生み出すことができる。

と思うから、今日の新たな出会い、今日しかできない経験を
大切に重ねたい。

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悔しいと思うのは、若き証拠?

50代になっても、未だに悔しいという気持ちが時々沸くという
自分に驚くことがある。
たとえば、テレビで歌を歌っている自分より若い女性。
ましてやアイドルではなく、共感をもてる曲を自分で創り、歌っている
いい感じの歌手を発見したとき、ああ悔しいと思うのである。
若い人がこんなにがんばっているのに、わが身は!という感じだ。

日経新聞などでキャリア女性の記事をみつけても、そこにはそういう
感情は沸かない。
多分、そこらはすでに自分の関心領域でもなく、関係ないと思って
いるのだろう。

中村紘子さんがあでやかにショパンを弾いている映像を見ても
これまた悔しいと思ってしまう。

そうなるかどうかは別として、自分が何か全力を出し切り、
挑戦をしきっていないことが、悔しいという感情になるのだと
想う。

人はいくつまで、悔しいと思うのだろう。
年寄りになるにつれ、諦めがつくのか?
個人差はあるのかな。
悔し涙は何歳まで出るのかな?

少なくとも、今の自分はまだ悔しさをもつことがある。
だから、がんばろうと思う。

もしかしたら、悔しさは青春の象徴か?
もしかしたら、悔しさは夢の裏返しか?

どこかズレているかも、人様からすれば随分と愚かなる
わが青春・・は、まだ終わっていないようだ。

まだまだいける、挑戦を続けよう。

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人生の最期にお詫びかお礼か。

大好きで尊敬する画家のひとり、藤田嗣治の生誕130周年ということで、各地で展覧会が開催されている。そのひとつが府中市で始まったと知り、初訪問も兼ね市立美術館に足を運ぶ。これまで断片的に見てきた藤田の作品が、生まれてからランスで亡くなるまでの人生を時系列にまとめ、その時代時代の作品を展示してあり、
大変わかりやすく、展示自体にも、もちろん藤田の人生そのものにも深く感動した。

その中でも、一番感動したのは、やはり戦後、かつて活躍したフランスへ逃げかえるかのように移り住み、そこで永住をしてからの作品。
戦争画でも有名な藤田は、戦争プロパガンダとしての作品づくりをしながら、私的には心の平安を描く作品づくりを求めた。この矛盾した時期は相当に苦しかったと
推察する。戦後、藤田は「絵描きは絵だけをかいてください」というメッセージを残したという。アーチストは政治や思想に巻き込まれるなということであろう。

そして、晩年、藤田は80年の人生の懺悔、お詫びのために、洗礼を受け、その後は神のために生きたのだという。
戦争で傷つき、死にゆく人を眼前にしながらも、手助けすることなく、筆をとっていたのかもしれない。そのことがあとになって後悔の念として現れたのかも・・。あの激しく緻密な戦争画をみるとそう思えてならない。

この展示会を見た前夜、
偶然にも、最近亡くなった写真家の晩年のドキュメンタリーを見た。
その方は原爆の被爆者の傷跡や暮らしを執拗に撮り続けた。
それは反戦のメッセージを伝えるための撮影であったが、被写体となる人々に苦痛を与え続けていた。
写真家はそのこともわかって撮影していた。

そして、彼は亡くなる前にベッドの上で
「人を苦しめたから、自分も苦しんで死ななきゃあかん」
と言った。その言葉が印象的であった。

天命、天職。いろんな仕事がある。
ときには人を苦しめながら、意と反することをしなければ
ならない局面もある。
そのことを自分の内面にずっと貯めながら、人は生きていくのかも
しれない。

そして、最後に
お詫びとして、反省として、何か純粋な選択をしたり、
痛みに耐えて、死にゆくのかもしれない。

さて、振り返ればお詫びしたいこと、しなければならないことがある。
生きていき続ければ、もっとそんなことが増えていくのかも
しれないが、できる限りそうならなくて良い道を
選び、生きていきたい。

お詫びよりは、感謝しながら人生を終えられるように。
難しいことのようにも思える。

この二人のアーチストの仕事ざまを見て、改めて
生み出すことは苦悩なのだと・・。
凡人には及ばない道だ。

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「たまごが中に入るようにね。」

この言葉は、子供のころ、ピアノの先生から教えられたピアノを弾くときの
手の形だ。手のひらのなかに、あたかも「たまご」が中に入るように、丸く
して鍵盤に向かいなさい。という意味だったと記憶する。
なぜか、そのことはピアノを離れていた時代を経た今も、よく覚えており
ピアノを弾くときはそのことを意識するようにしている。

先日亡くなられたピアニストの中村紘子さん。生前のドキュメンタリーで
その手の形のことが出てきて、釘付けになった。
少女時代から天才ピアニストだった中村さん、ジュリアード音楽院で
そこの先生に、手の形を厳しく指導され、スランプになった時期があった
そうだ。
そのアメリカでの教えを乞うまでの弾き方は、ぺしゃんこに指を倒して
弾いていた。ジュリアードでそれでは、いい音が出ない、まるい手に
して弾きなさいと言われ、ずいぶんとそれまでの奏法に自信をもって
いたのでショックを受け、直すのが大変だった・・という話。
そう、おそらくその丸みを帯びた手とは、たまごが中に入るように・・
という話に近いのだと推察する。

ぺシャンとした手の形だと、強い音になる。よく言えばストレートに響く。
でも、丸い形は、伝わり方が違う。もちろん強い音も出せる。
手の形ひとつで、伝えたい音が変わる。

このことは、今、コミュニケーションの勉強・仕事をする現場でも
大変役に立つ。
どんな言葉で、どんな音で、どんな色で伝えたいか・・。
音楽家の場合は、技術だけでなく、音色が大切だ。

技術はもうかなり低空飛行の私であるが、音色は意識していきたい。

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