先週末、全米を取材し続けてきた毎日新聞の記者の
話を聞いて、もっとも印象に残ったこと。
社会の分断の根底にあるのは、情報源の分断ということ。
その人がどんなメディアに日ごろから接しているかによって
それが真であろうが、偽であろうが関係なく、その身近な
情報を信じるようになる。
どんな情報に接しているかで、いろんな判断が変わる。
同じ事象も全く違う世界に見えてしまうから、恐ろしい。
新聞の誕生。日本では江戸時代。瓦版のようなものが
ルーツと言われ、今でいう新聞は明治になり、海外の
新聞に倣っての誕生となったらしい。当然、印刷したもの。
それをわざわざ買いに行く、わざわざ見にいく。
と自分の意志で自らが情報を入手した時代。
人びとはもっと世間を知りたい、世界を知りたいと、
新聞による新たな情報は、さぞかし楽しかったことだろう。
伝え手はあくまでもプロであり、受け手は受け手。
そして、メディアとはあくまでも権力の監視をすることが
その大切な役割であった・・・。
世の中が間違った方向にいかないようにと、第三者の目で
客観的な情報を伝え、読者が考えるきっかけを与えた。
と、そんな時代はどこへ行ったのかと思うほどに、
メディアはその質も、量も変化し続けてしまった・・・。
今は、いつでも手に入る、目に飛び込んでくるものが
とりあえず良し。
どんどん飛び込んでくるものに、次第に親近感を抱くように
なる。
何を見ているか、により、その人の価値判断は変わる。
自分と違う世界を見ている人とは、相容れなくなる。
今やグローバルとは程遠い、大変狭い視野の中で、
生きる人が増えている。
これは、ネット社会、SNSの影響が大きいと言えるだろう。
自分が知る世界以外のものを受け入れない社会。
ここから、今の愚かしい事態も生まれていると思う。
いろんなものを見る。そして、より確かな目をもつ。
その情報はどこから来ているのか?それは確かであるか?
それをすぐ信じるのではなく、俯瞰しながら、
ときにクリティカルに、冷静に受け入れる姿勢が
相手を真に知ること、理解することにつながる。
分断という言葉が日常化すること自体に危機意識をもつ。
自分と他者の間に壁をつくることは 人類の幸福に
つながるだろうか。
いいかげん、〇〇ファーストをやめないと。
改めて、情報という存在の怖さとその責任の重さを思う。
情報源の分断が招くもの。
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