朗読に泣くわけは。

京都で行われた朗読劇の会。
作家本人の実家が営む酒店の一部屋を、会場に仕立てての開催。

地元での開催ということで、作家本人にとっても懐かしく、
ご縁のある方たちが集まり、下北沢で開催する雰囲気とは
ひと味違った、アットホームな空気のなかでその劇は始まった。
本番を待つ時間の緊張も柔らかい感じ。

映画好きな主人公と同級生との再会からはじまるその二人の
やりとりだけでストーリーは展開される。
そう、この朗読劇は二人のやりとりでのみ進んでいく。
直接会っての会話はなく、必ず「何か」を通じてのやりとりだ。
手紙、メール、ライン、フェイスブック、サイトへの書き込み
・・・長い歳月を経てやりとりをするその手段はどんどん変化
しながらも、改まったことを伝えるときは、やはり手紙になる。

手紙は、相手の住所がわかるときは直送されるが、住所がわから
ないときは、相手の行きつけの喫茶店であるとか、バイト先に
預けられたり・・・。可能な限り、あらゆる方法、手段が
使われ、やりとりが続く。

そしてそのやりとりは頻繁に、ある時は何年ぶりに・・・。
とにかくこの二人のやりとりは赤い糸のように生きる間、
ずっと続く。

そのやりとりの中に、数々の懐しい名画が音楽とともに、登場する。
主人公が語る、その映画の魅力が語られる。
あらすじ全部を書くことはここではできないが、
さまざまなコミュニケーション手段のなかで、
男女の心が交わり、ともに生き、そして・・・。
一見、どこにでもありそうな、恋愛物語が
名画の思い出とともに楽しめる、心地よい作品。

朗読は、たんなる音読ではなく、言葉の演技であるため、さすがに
役者の「読み」も素晴らしく、目を閉じて聞いていれば、演技そのものが
浮かび上がり、情景が浮かぶ熱演であった。
作家自身は、折々に入るBGM(各場面に出てくる名画の主題歌等)の
挿入操作に奮朗。
朗読劇では、聴覚に訴える作品であるため、セリフ以外にこのサウンドも
大変重要であるため、入れるタイミングはかなり緊張するはず。
80分ほどの作品が休憩なしに続けられ、そしてストーリーはおしまい。

あたたかい拍手が会場にあふれた。
見えない世界を演者と観客が一緒に創る「作品」が完成した瞬間だ。
朗読劇は、演劇以上に、観客の主体的な関わりが不可欠なのだ。
想像してもらってこそ、楽しんでいただける。

わたしは、静かな会場のなか、途中から涙があふれて、そのすすり声を
消すのに苦労した。
まさか泣くと思っていなかったため、ハンカチを手元にもっておらず、
焦った。

なぜ泣いたのだろう。涙がにじみ、湧き出たのだろう。

その作品の構成や出てくる素敵なセリフや、それぞれ泣ける要因は
あったのだが、作品に透けて見える、作家自身を思い、共感して
感動していたのか。
彼女はどんな思いで、これを企画した?書いたのだろう?
彼女は役者が発する言葉で何を伝えたいと思ったのだろう・・。
などなど、ずっと作品=作家となって、さまざまな思いがあふれた。

作品を通じての、作家としての表現。

どの人生もどんな名画以上に、名画にもなるということ。
どの人生も死に向かっていくという点では、人生は決して喜劇ではない
けれども、単なる悲劇ではなく、その途中で楽しさも歓びもあるのだ
ということ。
誰もが自分の人生という映画の主人公であること・・・などなど。

そんな思いを伝えたく、これを書き、役者に演じてもらったのだろうか。

まるで1本の映画を生で見たような、不思議な感覚に包まれた朗読劇。

作品の後ろに作家がいる。

作家という仕事は素晴らしい。また作品を言葉だけで観客を引き込む
役者の仕事も素晴らしい。

やはり人の力による 生で作られるコミュニケーションがいい。
そのことが琴線に伝わった。
それが涙の理由だったか・・・。

実は理由はわからないが、それでいい。
泣ける作品をこれからもつくってほしいし、演じてほしい。
そして、わたしも 音楽でそれをつくりたい。

作家の実家での朗読会。
見守る作家のご家族、とくにお母さまの笑顔を見たら、
母親を思い出して、また泣けてきた帰り道。

親孝行ができたね。よかった、よかった。


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