冷凍食品でタイムトリップ?

実家の冷蔵庫には、まだいくつかの食品が残っている。
j住人は今いないが、日々、自分たちが時々使用するため、わずかな飲料や食品が入っている。
生ものは、もうない。
冷凍庫には、食品が今尚、少しある。
そこにおにぎりがいくつか、凍ったまま保存されている。
何気なく、冷凍庫を開ける。
「あ、あの日、作って持ってきたものだ」
おにぎり型のチラシ寿司。ああ、まだあったんだ。
小腹がすいていたので、それを取り出し、レンジで解凍し、いただくことに・・・。

このおにぎりは、母が緊急搬送された当日の朝につくって、
持ってきたもの。
持ってきたときに、母はすでに入院となっていたため、
とりあえず、急いで、おにぎりをここに入れた。
それっきりになっていたのだ。
そう、母に食べさせられなかった、おにぎりだ。
あたためたら、酢の香りが漂い、3か月前の朝が蘇った。

ゆっくりと、フーフーといいながら、
このチラシ寿司をつくった日からの時間を思い出した。
食べながら、胸がいっぱいになった。
これを、母は食べずに逝った。

冷凍食品のおかげで、少しタイムトリップをしたのだ。
もう同じものはない。食べずにもっとおいておけばよかったか?と自問する。

これからも、きっとチラシ寿司や、炊き込みご飯でおにぎりを作ると
母を思い出す。
食べ物で、タイムトリップ。
「おいしかったよ。ありがと」
喧嘩していても、こんなメールが届いた日々のことも思い出す。

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残った者が生きる。

母が親しくしてもらった方たちは、20代から90代と幅広い。
とくに同世代、年長の方にとって、母の旅立ちは、本当に寂しいようだ。
今も日々の会話で、母の話題が出たよと、よく電話やメールをいただく。
お墓にお参りいただく人もあり、ありがたい限り。
残った人にとって、大切な人、親しんだ人が日常から消えるというのは
なかなか・・・言葉に表しづらい。

そんななか、93歳のおばあさま。母の親友というか、母が母親のように慕っていた方だ。そして、私からすると高校の先輩。半世紀ほど前の大先輩だ。
その方、母が亡くなってから元気がない。
気になって何度か足を運んで、顔を見て、声をかけたり、電話をしたり
していたが、2~3週間間が空いた。
あれこれ、報告もせねば・・と久しぶりに電話をかけると、
いつもどおり、仕事場にはおられるようであるが、声が消えかかっている。
どうしたんだろう?
どうやら、さらに最近・・悲しいことが続いたようで、
こんなに年寄りが長生きして・・・と電話口で 力抜けた感じが伝わる。
「〇〇さん、元気に生きてくれんとダメですよ。」
元気を伝えたくて、電話を切ってから、
そのおばあさまが今も電話番をする会社まで急いで出向く。
少しでも元気になってほしい、何かないか?何かないか?と、
母の遺品の一部をもって、花をもって、お菓子も・・・。
とにかく元気に。笑って生きてほしいのだ。

母の代わりにはなれないけれど、
私だって90歳のおばあさんと何時間でも話せる。
とにかく激励をする。
最初、力抜けていたその方、みるみる笑顔になって、頑張って生きるわ!と
応えてくれる。
「残っているというのは、長生きするというのはそういう運命やな。
そう思って元気に生きなあかんな。」
そのように、普段の元気印に戻り、私が持って行ったものを楽しく見て、
そして母の写真をみつめる。
「そうや、母の分までお願いしますよ。また来るから」
そういって元気いっぱい何度も何度も手をふって、おいとました。

元気に長生きされている方を応援しよう、激励しよう。
だんだん孤独になっていかれるから。
元気というのは、ひとりではなれないこともある。
残った者が、生きる。
それが宿命。

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受け取る側が全て

コミュニケーションは双方向である。

最近思うのは、確かに双方向ではあるが、受け手が全てということ。
送り手の意図どおりに伝わることもあるが、そうではないこともあり、
またそのことに気づかないまま、双方の関係が思いもしない方向に
進んでしまうこともある。
伝える側は、受け取る側がどんな風に自分の言葉を受け取っているか。
そこを見抜く力を常に持ち続けることは難しい。
対面であれば、それはまだしやすい。
オンラインでのコミュニケーションでは、伝わっているかどうかを確認することはできるが、十分にわからないときもある。
メールでのコミュニケーションは、内容、タイミングともに気を付けないと
しかも記録が残るため、責任も伴う。
受け取る側に立って何度も確認できるのは良いが、それでも相手が自分が意図したとおりに受け取るとは限らない。

しっかり受け止めてもらえていなければ、心通う双方向にはなれない。

双方向といっても、
お互い言いたい放題の応酬では、いいコミュニケーションとは言えない。

自分の発する言葉、文字が
相手の心にちゃんと響いていることから 届いてるいるか。

言ったつもりで終わるのではなく、相手がちゃんと受け止めているかをわかった上でコミュニケーションが続けば尚、相互理解につながる。
コミュニケーションは自分発信であっても、主役は相手にある。
そのことを改めて、頭において、まずは聴く、そこから始めたい。
発信することで満足しがちな、最近の世の中の傾向。
自分の言葉がいかに不十分で、未熟で、恥ずかしいものか。
ということを知ってから行動しなければ。
伝わってこそ。
この点を十分に気を付けて、信頼のコミュニケーションを育みたい。
受け取った側から、御礼や喜びや感動の声をいただく。
このことほど、嬉しいことはない。
おそらく、誰もが同じだろう。

伝わってこそ。
肝に銘じて今日もスタート!

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先人から学ぶことを止めない。

先人。自分より先に人生を歩まれた方々は、すべて先人。
その人たち全員と会うことは到底できないが、直接会う人、作品で会う人、いずれにせよ、自分の意識次第で、多くの先人の人生に触れることは可能だ。
そして彼、彼女たちの生きた道から、自分の進む道のりへのヒントになることをいただくことができる。なんとありがたいことだ。

今は、さまざまな媒体がある。それを通じて、今は空にいる先人たちに会うことができるのだ。
そう思うと、世の中には生の教材が溢れている。

私にとって、長崎は 自分にとっての良き先人が多くみつかる場所である。
だから、いつの間にか心のふるさとになっている。
たとえば、隠れキリシタンの里として、その祈りを守った長崎の辺境の地を明治時代後、この地を開墾、自立の町へと導き、その仕事に生涯を支えた、フランス人 ド・ロ神父。この方は、明治時代、信徒発見で知られるプチジャン神父から招かれ、訪日、なんと印刷をはじめて手掛け、布教活動を推進した人であり、医師であり、建築家であり、事業者・・・。マルチタレントな宗教者である。
彼がフランスから取り寄せてくれた、オルガン。これがこの地に今も大切に存在しているが、このド・ロさんは、今やフランシスコ・ザビエルに続く、私にとって興味ある人物。生きざまがヒントになっている。

そして、遠藤周作。こちらも長崎出身ではないが、創作活動に長崎の歴史、宗教的背景、文化は多くの影響をもたらしたようだ。
と、キリスト教を主題とした純文学・歴史文学のイメージが強い面があるこの作家、実は人生の先輩としても
わかりやすく、参考になるエッセイ・言葉を多く残されている。

最近、気に入っている言葉は「人生には、無駄なことはひとつもない」ということ、そして、「生活と人生の違い」ということ。

遠藤周作文学館の20周年記念事業のチラシにある言葉を借りると
このようにある。

「不幸があるから、我々は、生活ではなく、人生を考えるのだ」
生活の挫折は、人生の糧にすることができる

かなり、うまく、生きた
人生の夕映え

老いてからの楽しみがなくてはならない

マイナスをプラスに。

・・・・・

なんと安心して元気が湧く言葉かと思えてくる。

自分にとって素敵な先人をみつけ、そこからヒントをいただき
前進しよう。
常にそこに目を向けること。

学びながら生きる。
人はそれができる。

ありがたい1週間が、またはじまる。

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しなやかに分岐点を進む。

どんなことも、常にいいところ、悪いところがある。
ピンチになることも、チャンスになることも。

今回のコロナ・・・。
業界、職種によって、大変な状況になっておられる方も多い。
まずは医療関係者の皆さまにとっては、大変な負担とリスクの日々が続いている。
また、コロナの影響で仕事がなくなる、そのために多大なストレスを抱えることになる人も多い。
これも他人事ではない。

Iまた、コロナの影響で、おなくなりになったり、あるいは うちの母のように
間接的な影響ではあるけれど、寿命が縮まったという人もいる。

一方、コロナの影響で、忙しくなっている業界もある。
食べることに関わる仕事といっても、外食は難しいが、自家需要は好調だ。
嬉しい悲鳴を上げる企業も実際に存在している。

さて、私の場合はどうだろうか?
今のところ、変わらず、元気に仕事を続けさせていただいている。
本当にありがたいことだ。
今だからこそ、困っている企業さんに役立つことはないか。
地道にやってきたことが、今に生きているのであれば本当にありがたい限り。
そして、音楽活動はさすがにシュリンク気味であるが、
もう立ち止まらない。もう前に進もうと決めた。

コロナだからダメ。と言い出せばきりがないし、まだまだこの共生は続かざるを得ない。だから、
プラスの分かれ目に行けるように、自分の背中を押したい。
その工夫ができる仕事であることがありがたい。

どんなことにも分かれ目がある。分岐点。
よく考えながら、しなやかに笑顔でいこう。

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ここで「会える」は、永遠に。

初めてのことづくしの、この三か月のクライマックスイベントは、納骨。
雨が心配されたが、天気予報は大きく外れて、予定どおりの運びとなった。
地域の墓地内にある、実家のお墓。
先日、無事、墓石に母の名前も彫っていただき、準備も整い、3か月お寺にあずかっていただいたお骨を受け取り、墓地に向かう。
妹と二人、墓地を掃除しながら、お寺さんが来られるのを待つが、なんせ慣れていないから、指示をいただくためスタンバイ。
3月26日から何度もお世話になってきた、いろんな交流をさせていただいたご住職が登場される。
そして、準備の指示をいただき、それに従う。
「では、お骨をここに入れてください」
墓石の手前の部分を移動させると、生まれてはじめてみる空間。土の上に先代のお骨のようなものが見える。へえ、こういう世界?初めてみるお骨ワールドにしばし手が止まる。そして、
容器から、母のお骨をひとつづつ取り出して、そこに納める。
「へ?手で触っていいんですか?」
そんなことも不思議に思いながら、母のお骨に素手で触る。不思議な触感だ。
これが、母??という感じ。
「のどぼとけは分骨されます?」と、言われ、これは容器に残す・・など、
住職に導かれ、その儀式は進み、墓石の下に、母のお骨が無事移動。
そして、法要。晴れた空のもとに響くお経と線香の煙に包まれ、妹と二人、手を合わせる。
実家から歩いて数分のところにあるこの墓地。
今日から母はここに眠る。

「納骨されたらいつでも、お参りに行けるね」と、近所のみなさんがお待ちかねだ。
千の風になって・・のブーム後、お墓不要説も生まれたらしいが、お参りしたいと思う人にとって、またお参りされたい人にとって、墓地という存在は必要な再会の場なのだろう。

この3か月の数々の行事を無事に終え、妹と「お疲れ様でした」のランチ。
いつもライブをしてきた思い出の、そして遺影となった写真の撮影場でもある、なじみのカフェレストランで。
しみじみと思い出しながら、この3か月をよく駆け抜けたと思いながら、
さっき、初めて触れた母のお骨の感覚を思い出しながら、結局は、
どこにいても57年間、一緒に生きてきたんだということを実感。

お墓であり、実家であり、このカフェであり、どこであっても、母に会える。
そういう気持ちがある限り、これからも、一緒に生きていくのだろう。

3か月間、お寺の皆様、ご近所の皆様、そして親戚の皆様・・・母がお世話になってきた周囲の皆様には大変大変お世話になりました。
そして、私たちを応援しつづけてくださっている皆様にも、心からの感謝をお伝えしたい。

母と会える。
それは自分次第。
会える・・・。それは、生きている人に対しても同じだ。
そのことを大切にしよう。ということを学ぶ大切な時間ともなった。

皆様、大変ありがとうございました。




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新しい経験を重ねた3か月に。

3月からの3か月は、自分の人生にとって大きな学びの時間になっている。
これまで踏み入れたことがない世界=親との別れを経験することで、
これまで考えたこともなかった出会いやおつきあい、調整など、さまざまな関係と向き合うことになった。
どれもこれも、わからないことばかりで、それでも判断しながら前に進んできた。間違いなく、母の死が与えてくれた新たな出会いも生まれている。

ひとりの人の人生は終わったら、周囲の人に、記憶として受け継がれるということもわかった。
残った人が、その人を忘れないで大切に思っていれば、その人の存在は永久に消えることはない。
との言葉をこれまでにも多く聞いてきたが、今はそのとおりだと思う。

今朝は、母の好きだった炊き込みごはんを作った。
久しぶりだ。母のために買ってあった食材を使い、あのあわただしかった介護生活の時間をふりかえる。元気で会ったあの朝も、喧嘩したあと、
「おなかすいたな」
と言って、おいしそうに食べていた姿がくっきりよみがえる。
今日はお世話になった人に召し上がっていただきながら、母の旅立ちに改めて思いをはせるとしよう。
雨が降らなければ、納骨となる。
また、ひとつ新たな経験を積む。

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生きてる限り、ゴールはない。

政治を変えたい。物事の決め方を変えたい。
との思いの、熱き女性に出会う。
正しくは、出会い直している。


10年ほど前にお会いしていたが、最近あるきっかけで再会。
初めてゆっくり話をする機会を得て、こういう生き方もあるのだと
刺激を受ける。

経営の仕事に携わりながらも、30歳から、政治の道に
進むことを夢見て、邁進されている。
政治家になるには、まずはおカネがいるから、
稼いできたとのこと。

世の中を変える。女性の力で変える。
そのために、動き出している。
ひとりではなく、複数で一斉に動き出したいとの考えだ。
ひとりの力では、世の中はなかなか変わらない。
群れることが大切だという。
なるほど。
そして、
死ぬまで、世の中のために生きる。
「ゴールはないのよ。」
彼女との言葉で、そこがとても印象に残った。
人生が終わるときがゴールかもしれないが、
生きているときにそんなものはない。
とにかく、やり続ける。

自分の思いと通じる部分もあり、わが人生の今後も
考えるきっかけになりそうだ。
ふるさと岐阜にも、こんな生粋のパワフルレディがいることを
うれしく思う。

夢に向かって進み続ける。
定年で働くことをやめる人もいるが、生涯進み続ける、働き続ける人もいる。
どうせ生きるなら、後者がいい。そう、ゴールはない。

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自分の言葉、仕事に責任をもつ。

改めて、オリンピック、この時期に本当にやるのだろうか?
なぜ、こんなにも国民が反対しているのに、危険性を感じているのに、賭けのようなことをしなければならないのだろう?まるで、別の世界の出来事のように準備が着々と進んでいくんだろう。
この大きな仕事の責任はだれが、どうとるんだろう。
この数年間、いろんな問題が山積、疑念が消えないこの世界のお祭り騒ぎ。
コロナが終息していないこの日本でなぜ、今、しなければならないのか、
本当にわけわからない。という気持ちでいるのは私だけではないだろう。

どんな大勝負をするにせよ、理由があるならば、大儀があるならば、
それが納得できるならば、まだいい。
しかし、今回は、いまだに、何のために今やらなきゃいけないのか?
が伝わってこない。
とんちんかんな答弁を繰り返し、現実から逃避しているような
対応しか見せられない人に、大きな仕事はできるのか?

どうでもいいが、とにかく 責任をもってほしい、とってほしい。

自分の言葉。自分の行動に対して。
責任をとれないで、人のせいにし続ける人は、
お願いだから、人の上にたつ仕事はやめてほしい。

理解に苦しむ、大人たちの小手先の立ち回りを見て、
若者たちは悪い影響をされてほしくない。
責任。
人間は生きている以上、それぞれが責任をもってその役割を
全うしなければ…と思っている。
それにしても、なんのために、誰のために、なぜ?
が見えないまま、物事が進んでいく。
こんなところに、共感や感動が生まれるのだろうか?
権力とマスコミ。この責任をみつめながら、
自らの生き方をしっかり確認したい。
コロナは、もしかしたら、また新たな警告を人類に示しているのかも。
この夏は、振り回されず、しっかり世のなかをみつめ、身の処し方を考えよう。無責任に振り回されないように。



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マケルナ、マーサここにあり。

今、一番しんどい言葉、そして私を奮い立たせる言葉は
「お母さんがいなくなったので、大変やね~」。
母と仲良くしていただいた皆さんが、何気なく言われるこの一言が
実は、とても苦しい。
別に、大変じゃないけど、大変だったのは、生きているときのこと。
とそう思う自分と、そうなんだ、大変に見えているんだ~。

この周囲の目がたまらない。
しかし、
その言葉は周囲の心配であると善意に解釈するようにつとめ、
そして、よし、それを乗り越えてやる!
と気持ちを切り替え、前に突き進むことにした。

いなくなったから大変。確かにそういう面もあるかもしれないが、
明らかに人生は前に進んでいる。
いつまでも、そんなこと言ってる場合じゃない。

と、何事も乗り越えていこうと改めて心に誓う。
そうすることを、母も喜ぶはずだ。
母がいないから、できない。
そんなことはない。
いなくても、いないからこそ、やる、やれる。

自由に存分。狭い世界にいないで、自分を解き放ち、どんどん挑戦しよう。
人さまのなにげない一言で、触発され、がぜんパワーが湧いてくるものだ。

周囲のプレッシャー、視線に負けず、
私は私なりに、突き進む。
ふと、「ファイトいっぱ~つ」と、「・・・まけるな一茶、ここにあり。」の句が頭に浮かんだ♪

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