珈琲カップで夢を見る、旅をする。

実は、ここんところ、コーヒーカップにこだわっている。
決して、高価なものをということではなく、

あの場所を、あの町を、あの時を思い出す器で
美味しいコーヒー、ときには紅茶をいただき、
旅に出かけた気分になってみよう
というものだ。

たとえば、しばらくNYやパリに出かけていない。
そして、今しばらく訪れる予定はないが、
その空気に触れたくなる。
そんなときに、手っ取り早く、とても満足度が高いのが
その街に纏わる珈琲カップだ。

たとえば、スタバのマグ。シティマグといって、世界の
代表的な都市のオリジナルのカップをその街限定で
販売している。
以前、ワシントンやシカゴや・・・気にいったデザインが
あると購入していた。ちょっとごつくて、重いのが特徴。

以前、ニューオーリンズのアーチスト宅に伺ったとき、
珈琲・紅茶をすすめられた。そのとき彼女が
「どのマグがいい?」
と引き出しを開けて見せてくれたのが、世界のスタバのシティマグ。

そう、彼女はそれをコレクションし、日々のコーヒータイムを
楽しんでいるのだ。

そんな彼女のことも思いつつ、つい先日、ネットで気になるNYとパリの
シティマグを調達する。
ネットオークションなるものを、ほとんど利用しないが
今回は、試してみた。

どこかの誰かが、出かけたときに買ったパリとNYのシティマグ。
それをゲット。NYやパリを思い出しながら、
朝に午後に夕に時になったら使い、いい気持ちで味わっている。

行けないときの旅の楽しみ方。
お気に入りカップでのコーヒー一杯。お茶一杯で、世界が広がり、旅に出かけた
気持ちになれる・・。

豊かな時間の楽しみ方はこんなところにも・・。

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世界中の夢命(むめい)なピアニストに拍手

最近、ちょっと気になるBS番組がある。
それは、「空港ピアノ」「駅ピアノ」なるもので、
イタリアのシチリア空港にあるピアノ、アムステルダムのある電車駅にある
ピアノ・・。そこに通行人や住民が次々演奏にやってくる姿を撮影したという
シンプルな番組。

まずは、公共の交通機関にグランドピアノが置いてあるということ、
そして、自由に誰もが演奏できるということ、
何より、いろんな人が1曲弾きに来る。そして、それがとてもうまい!
ジャンルもクラシックからジャズ、映画音楽まで・・聴いたことのない
民族音楽も出てくる・・。

そして、他の通行客や利用者が、足を止めてその演奏を聴き、
拍手をくれたり、
ある人はスマホで撮影・録音したり・・・。

と、まあすべてが自由。

まず、空港や大きな駅にフリーで弾けるピアノがあるという
この文化的レベルの高さ、開放感がたまらない。

ふと、以前泊まったナポリのホテルの宴会場に置いてあったピアノを
どうしても弾きたくて、ホテルのスタッフに頼んで
演奏したことを思い出した。
そこで働く人やお客さんが喜んでくれた・・。という嬉しい思い出が
今も蘇る。

音楽は、格式張って、特別な顔をして、上から目線で
お高くとまっているものであってはならない。
そして、立派なホールで、高いお金を払って聴くか
聴けないか・・という敷居の高い音楽の世界、
有名なピアニストが奏でる演奏だけがすべてではない。
内側から湧いてくるアーチスト魂からあふれる音色は
この空港や、駅で出会う演奏と、会場で聴くものと本質は
変わらない・・と感じる。

何より空港や駅で演奏している人々は演奏中、とても
楽しそう。
音楽がすべて。音楽があるから、生きていられる。
そのひとときを満喫している。縛りがないせいだろうか。
そこで演奏する人々のカンタンなインタビューを聴いていると、
その素晴らしい演奏と言葉が一体となり、その人の人生が透けてくるようだ。
それぞれの人生から生まれるピアノ。選曲も奏法も多様で、空港ならでは
駅ならでは。実に世界中の人が行きかうから、味わえる演奏会。

老人から移民、留学生から旅行者、近所に住む人・・・
そこで今10分前に出会った男女が、いきなりデュオで演奏して
いる姿にも感動。
プログラムもなく、出演者リストもない。

世界には、無名でなく、夢命の素敵な
ピアニストたちがたーくさんいる。
自由に、自分らしく、自分を表現できる
夢のピアニスト。

日本にもこんな自由な空間があれば・・・。
いつか、実家のピアノをこんな風に活用できたら、
ピアノが生き続けることになると・・・いいな。
またもや、妄想。

ああ、シチリアへ、アムステルダムに行きたくなった。

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失望を希望に変えるもの。

ある方からいただいたメールに以下のような文面をみつけた。

「・・・・・わたしは、世界のどこにいてもそうなのですが、
失望しているときには花や山や海や空や「自然」と向き合います。」

なぜか、この言葉を何度も何度も読み返した。

どこかへ行かずとも、近くにある公園や庭園で十分、それが体験できる。

そう、常に人間社会だけをみつめていると、そこにどっぷりつかっていると
人間同士の小さないさかいや、欲にまみれた汚い世界に染まりそうになったり
生きることへの不安が募ったり、希望を失ったりすることもある。

しかし、そんなとき、「自然」たちは言葉こそ発しないが、それ以上の
チカラで私たちに生きる力を与えてくれるのだ。

「ああ、きれいだな~」
私は、最近、野花をみつけると幸せな気持ちになれる。
そう、小さな存在たちが、がんばって地に根を張って生きようとしていること
小さくともそこに咲く花の美しさに感動を覚え、希望をいただくのだ。

自然と向き合えば、おのずと、自らの存在を、素直にみつめることができる。
自分の小ささを自覚することも、時にはとても大切だ。

人間と対話するのに疲れたら、自然に向き合う。

これは、とてもいい対処法だ。

失望しても生きていかねばならない。
そんなときには、自然が自らを救い、生きる勇気と希望を
与えてくれるのだ。

さて、今日はどんな花を咲かせようかと考える。
希望が生まれる瞬間だ。

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「真のジャーナリスト」に出会う。

現行の報道社会では、記者やライターなどの「ジャーナリスト」
と呼ばれる職業に就く人たちのほとんどは、「報道する」という行為に終わっており、
自らが「ジャーナリズム」を語らない。
そして、ジャーナリズムを語るのは、学者や評論家たち。

あるジャーナリストからこのことを聞かされ、
確かにそうだ。と納得すると同時に、その現実に少し違和感を抱いた。
その多くの語らないジャーナリストたちは、日ごろから「ジャーナリズム」とは何かについて、
考え行動しているのだろうか?
そして、自らの仕事について、どんな意識・使命感をもっているのだろうか?
という点も気になってきた。

おそらく、自分の仕事へ強い信念がある、ジャーナリズム観をもっている記者たちは
組織内での取材・執筆という仕事にとどまれず、いずれ独立するのだろう。
とくに戦地など厳しい現実社会に向かってきた人はそんな環境でさまざま葛藤を
もつだろうし、
経験を重ね、自分の考えをもてばもつほど、世界を知るほどその選択をされる
ことが自然だと思う。
(他の業界でも同じだ)

以前、ある新聞社に勤務される人に職業を英語で訪ねたら
自らを「ジャーナリスト」と言ったので、
いや、ライター・レポーターであり、会社員じゃん。と思ったことが
あった。
そう、ライターやレポーターとジャーナリストは違う。

「ジャーナリスト」とは、権力を観察しながら、真実を伝える仕事であると
学んだ。加えて、その仕事を全うした生き方だとも思う。
単に対象を取材し、上司の顔を見ながら原稿を書くだけの人は、もはや
ジャーナリストとは言えないと思う。

真のジャーナリストでない人には、ジャーナリズムを
語れないはずだ。
知識がある、文字を書く、文章が上手いだけでは、ジャーナリストではないのだ。

今、勉強させていただいている「国際報道」に関する講義の先生こそは、
ホンモノのジャーナリストだと思う。
生のニュースを通じ、ジャーナリズムを語ろうとされているのだ。
私は地政学をもとにしたその世界観に共鳴すると同時に、
世界地図の上の大国の綱引きをつねに想像するようになった。
と同時に、日本のような小国のありよう、世界との繋がりに方についても
危機感をもちながらこれまで以上に考えさせられるようになった。

話を最初に戻す。
ジャーナリストとは、見えづらい世の動きを見せ、世の中の「あるべき見方」を伝え、
問題提起をする仕事でもある。
これは、今の私なりの解釈のひとつ。

人生を、ときには命をかけて、仕事をする人を応援したくなると同時に、
私自身、この目線に共感しながら、自らができることを模索したい今日この頃。

ジャーナリストがジャーナリズムを語る時代へ。
もちろん、似非ではなく、「真の」という枕詞をあえてつけたい。

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十人十色のハッピーUターン。

もう7~8年ほど前、新潟のディナーショーを担当してくれた青年。
結婚式場での婚礼に関係ないショー開催ということで、会場にとっても、
私にとっても新鮮な経験であった。

私が弾くピアノを喜んでくれた。
「ピアノが喜んでいるみたいですね」
とくれた一言がとてもうれしかった。

初めてのショーが無事終わり、その担当者は京都へ転勤になったと
聞き、私もおっかけ精神を発揮、京都に出張した折、新しい職場である
京都の式場も訪ね、古都でも再会。その後、ご無沙汰となった。

何年か後、彼は退職をし、田舎に帰った。といううわさを聞く。
そして、田舎は佐賀県であると・・・。実家はお寺さんであると
聞き、確かにお名前がそれらしい名前であったので、自然に納得。

でも、大変華やかなブライダルの仕事をしていた彼が、実家の
お寺に?まさか、お寺を継いだわけではないだろう。
何をしているのかな?でも、地元に帰ったとはえらいな。
機会があったら、会ってみたい・・・。
最近長崎や、有田も身近な存在になりつつあるため、
ついでがあったら、会いたいと思っていたが、
今回やっと時間がとれそうになり、
連絡をしてみると、ぜひ会いたい!といってくれて、
佐賀駅のカフェで待ち合わせ。

おそらく5年ぶり。
ブライダルの会社でイケイケな感じで仕事をしていたころと
何か違い、一目で大人になった印象を受けた。
挨拶の仕方、表情、所作・・・どれをとっても、
前の彼とはどこか違う。
でも、笑顔は同じで、私からしたらかわいらしい青年のままで
安心する。

つい、2~3日前にできたばかりの名刺をいただく。
黒い縁取りのシンプルな名刺。よく考えられたデザインだ。
他のお仕事でこのデザインはあり得ないが、いいセンスだ。
名刺には、住職、そして運営している幼稚園の副園長の肩書きが
記されており、
本当に実家を継いでいたんだ~。しかも保育園も??
地元に戻るため、彼は180度違う世界に向かい、
準備をしていたのだ。
過疎化に向かうふるさとで、檀家の皆様のために
そして地元のために日々活動開始しているのだ。

35歳にして住職。
そして保育士である。

前話すことができなかった、深い話も自然とできるようになった。
宗教者として、地元のサービス業として何をすべきか・・・
地域のみなさんのメンターになるべく存在であるべきなど・・。
よく考えたら、ディナーショーの準備以外のことで会話したことが
なかった。
あっという間に時間がたった。

また九州に行くときには、また会おうということに。
次回は地元の町を紹介してくれるというお楽しみも。
何か彼のチャレンジのお役に立てることもあるかもしれない。

人それぞれ、いろんなUターンがある。
人はいろんな形で、生まれ故郷に戻っていく。
人生がそこから新たに始まる。
懐かしくて新しいコミュニティが生まれる。

自分とは違う道であるが、彼の人生をめいっぱい
応援し、新たなつきあいをしていきたいと思った。

このブログを書きながら、愛らしくもしっかり者に成長された
若きご住職の「今日」をひとり想像している・・・。

※再会したカフェでの自撮りツーショットはまさか住職との
写真に見えないが、このギャップも◎。

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脇を引き締め、いい関係づくり。

昨今、メディアのトップニュースを賑わせている話題に、
オトコとオンナの問題案件がある。
地位ある、社会的責任ある男性の恥ずべき謝罪や言い訳の
写真も文字も、その地位を目指してひたすら努力してきた
男性の話題であるから余計に悲惨で、情けない。

思えば、援助交際もハラスメントも、ひと昔前までは
こんな言葉もなかった。

世の中が変わった。
女性がモノ言える時代になった。
コミュニケーション環境の変化もあるだろう。

おかしいな、いやだな。と思っても言葉にすることが
行動することができなかった。
またカンタンに口に出す手段もなかった。

ふと四半世紀前の、自分の周囲のことを思い出してみる。
ハラスメントは、嫌がらせであり、自己中心な言葉の暴力。
そんなことは、あったぞ。確かにあった。
一方、ときの上司たちが、勘違いな発言をしてきても
笑って交わす・・・それは大人のコミュニケーションだと
思っていた。
おそらく、それは上司との人間関係ができていたからだろう。

今は人間関係を構築する前に、問題が先に起こってしまう。

コミュニケーションがちゃんとできていれば、
また自分がどう見られているか、相手がどう見ているかを
きちんと見る目があれば、
大問題にならずに済むこともあるだろう。

どうも、世のエリートといわれている人たちは、
基本的なコミュニケーション能力が足りないのかもしれない。
もしくは、自分が上り詰めることで必死に生きてきたため
相手のことを考えたり、みつめたりする余裕がないまま、
そんなことを学ぶ機会を得ないまま、生きてきてしまったのかも
しれない。
若いときに、男女の関わり含め経験豊かで、苦労もしていれば
人生のピークに失敗することもないかもしれないのに・・。

世間が見えないまま来た人の人生は哀れである。

若いときに大いに遊び?小さな失敗をたくさんした方がいい。

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「子どもなるもの」を持ち続ける生き方。

大人と子供は対峙するものではなく、
大人の中にも、「子どもなるもの」は内在すると思っている。

が、社会的な立場が、それを封印することが多い。
だから、笑いたいときに笑えなかったり、
好きなようにふるまえなかったり・・・する。
そう、人は大人になるにつれて、不自由になる。
大人とは我慢すること、大人とは周囲のことを慮ることができること。
それが当たり前だと教えられて育ってきたように思う。

もちろん、一人前の人間として、
常識を持って行動することは当たり前であり、大人気ない行動、
稚拙なる行動は大人である以上
慎むのは世間の常識である。

先日、渋谷の美術館で、チェコのチャベック兄弟の作品展を行っており、
予備知識なく鑑賞した。兄は画家、弟は執筆家。子どもを独自の目線で
観察・表現し、人間の自由について考えさせてくれるアーチストたち。
上の写真は、この兄弟の写真。こんな二人だったからこそ、他にない世界を
表現できたのだろう。「ロボット」という概念を考えたのも弟カレル
だったそうでそれをテーマにした演劇は日本でも「人造人間」として、
上演された。
二人は第二次世界大戦前に活躍し、
そしてナチスにより、活動だけでなく、生涯を閉じることに。

子どもの目線で描かれる、数々の作品には考えさせられることが多く・・。
単に子供を描くのではなく、そこから見えてくる子供なるもの・・・。
これらの探求は、実は哲学的で、深い。
人間の本来の生き方とはの探求につながってくるように感じる。

ふと、自分の中の「子どもなるもの」について考えてみた。
私(たち)の中にはそれがまだそのまま存在しているように思う。
時々、妄想をし、冒険がしたくなり、自由にふるまいたいと
思う。
そして、そのことをこれからも大切にしていこうと思う。
それがあらゆる創作、創造の源泉になると信じるから。

ある時は、
大人になりきれなくてもいい。そんなことを改めて思う
貴重な作品展であった。
チャベック兄弟のこと。もっと調べてみよう。

(写真は松涛美術館での展示室 撮影可能なブースより)

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「その人」を見る力。

初めて人に出会うとき、肩書きや学歴で判断されることもある。
しかし、立派な肩書や学歴を有していても、人として尊敬できない
例は無数にあるし、逆に
いい学校を出ていなくても、地道に働き、真面目に生き、子供を育てあげている人や
地域に役立つ活動をしている人も多くおられる。
こういう人に出会うことの方が、断然嬉しい。
出会えてよかったと思う。

どこを出た、どこに入った。
もう何十年も生きてきたら、これらは、あまり意味がない。
それが生かされているならば、別だけれど。
学歴も社歴も
これは人生のある瞬間の通った道であるということだけで、
その道をどのように、どちらに向かって歩いてきたのかの方が
意味がある。

そして、もっと大切なのは、
それらの経験を活かして、

どこへ向かおうと、しているかである。

人を見るときに 余計なメガネをかけ、事前情報に縛られると、
その人自身が良く見えなくなる。

もう50年も生きてきたのだから、
裸眼で、しっかり相手をみつめようと思う。

そして、自分がその人にとって、その人が自分にとってどうなのか?を良く考えたい。
自分がその人のお役に立てるなら、心をわってお付き合いすればよい。
自分にとって、共感・応援・尊敬できる人ならば、お付き合いすればよい。

裸眼で人を見る。見られる。
この力を身に付けるのは難しくもあるが、
情報に惑わされず、自分にとって真なるものをみつけようとすることが
裸眼力である。

見る目を養うには、とにかく、いろんな人に会うこと。

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カッコいい人の条件

最近、目立つ人たちの「かっこ悪さ」が気になる。
言い換えれば、「みっともない」ということでもある。

とくに政治の世界に棲む人たちが目に付く。
あまりに現実離れしすぎて、その感覚、言動は理解不能に
なりつつあるが、とにかく、権力にしがみついている。
言い訳をしまくっている。
目立つ人ほど、恰好悪いのだ。

一方、瞬間にして、自らの道を誤り、せっかく得た職を
失った人。
こちらもかっこ悪い。みっともない。恥さらしと言われているかも
しれない・・。
頭脳が良くても、バランスが?人として未成熟?
とある意味、同情するが、やっぱりそれこそ、アウト。
そんな例がスキャンダルまみれの日本自体が、かっこ悪い。
世界は日本をあざ笑っているのではないかとも推察する。

最近,かっこよさについて考える。

言葉少なくても、実行力がある人。
下世話な情報に流されず、むしろそれらと距離を置いている人。
静かな人。
人を大切にできる人。
目立たなくても、地道に世の中の役に立っている人。
大人な行動がとれる人。
正しい判断ができる人。
言動ともに軽くない人。

こんな人が増えてほしい。

もちろん 自分もカッコいい人を目指したい。
まだまだ磨きが足りないけれど・・。
いろんなお手本を見ながら、
かっこ悪い人にならないように律していかねば。

人の話は、すべて自分の教材である。
さあ、今日も背筋を伸ばしていこう。

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「ふるさと」は永遠なり。


ふるさとを離れて住む、ふるさとに住む親がなくなる・・・
ともすると、ふるさとで住まない人にとって、ふるさとのことは、
懐かしくもあるが、だんだん足が遠のいて、記憶の中で生きるのみの
存在になる。
それは、あまりにも寂しい。
だから、用事を作ってでも、年に一度は足を運ぶようにしたい。

この写真は、千葉県鴨川にある、棚田の風景だ。
いつしか、この風景を季節の移ろいとともに見るのが
恒例行事になっている。
とはいえ、四季ごとに毎回訪れることは叶わないが、
あるときは晩秋に、あるときは真冬に、そして今回は新緑の前。
カエルの合唱をききながら、これから行われる田植を待ちながら・・。

実は、ここは私のふるさとではなく、相方のふるさと。
だからこそ、大切にしたい。
両親も他界され、訪ねるたびに町がすたれていくのを見るのは
しのびないが、自然の姿は変わらず、ふるさとを巣立った人間を
あたたかく迎え入れる。

そんなこんなで、ふるさととの繋がりは、どんな関係でも良いから
消えないように、切れないように。
ひとつの風景が、結ぶ役割を果たしてくれることもある。

ここに来れば、彼のルーツがある。
ルーツはかけがえのない、この上なきありがたい存在。

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