高齢化社会。それを促進?するビジネスが花盛りだ。人間という動物にはどれだけ欲望がたまっているのだろうか?自らにわいてくる?欲求を解消し、欲望を満たすためにさまざまな努力をする。なかでも、生きつづけることへの欲望は時代を越えて、永遠であり、そのためには時間もお金もいとわない人も多いようだ。
医療の発達によって、情報化のおかげで確かに長寿の人が増え続ける。そして元気なお年寄りもいい。そしてお年寄りの質?が変わってきていると感じる。
昔は「もう年やで、若いもんに任すわ」という長老が多かった。それがとても耳障りがよかった。
ご隠居さんという言葉も昔はよく聞いた。
しかし最近は、健康長寿が当たり前になると、生涯現役を前面に押し出し、若者と張り合って、生きようとする人も増えているようで、正直、そこは見苦しいと思ってしまう。
もちろんスポーツの世界で、若者に負けず元気にがんばろう!これはいい。自分との闘いであるから。そして、その挑戦する姿を見て、後輩も刺激を受けるだろう。
しかし、ビジネスの場において、いつまでもオレが俺が・・・と現役を続けようとする人、また最期まで自分を輝かすことだけを考えている人を見ていると、反面教師であると感じつつ、また気の毒にもなる。いい歳になったら、影の力、縁の下の力持ち、やり方を教え、導き、見守る方に徹する方が
若い人には慕われるだろう。
人は誰しも輝きたい。ではあるけれど、自分がまず輝くではなく、相手が、若い人がまず輝くように
応援する生き方の方が素敵だと思う。
ただ、これもゆとりある時代に育ったのかどうかによって、人の生き方の価値は変わるのだから、人のことはどうこう言えない。
ただ、言いたいことは人を輝かせる人って、とても素敵だということ。
そんな人を目指したい。愛の元気人としては、そちらの方向に進むべきだと日々、ますますそう思う。
輝く人を応援する人自身が、実は輝いている。
自分の気持ちの「持ち方」。
先日、巫女さんと少しだけ話をする機会があった。
彼女の言葉で気になったのは、お祓いについての話題のなか、「要するに自分の気の持ちようですから。」の一言。
祈祷したから、お祓いしたから絶対大丈夫とか、何も起きない!という他力本願の話ではなく、なんでも自分次第なんですよ。ということだ。気持ちをどう持つか、もたせるかの努力が大切なのだ。
そして、この気持ちをいい方向へ持ち続けることは、なかなか難しいことでもあるから、自分の気持ちを切り替えるために、みな神社や寺院に足を運ぶのだ。
この新年もそうだ。年が変わると日本人の多くは、神社や寺院へお参りへ行く。おみくじをひく。厄除けをする、祈祷をしてもらう・・・。また受験といえば、またお参りする。新車になれば、家を建てることになればお参りする。お参りしたから絶対!ということはないが、神様に見守ってもらえていることで安心する。神社から帰っても、お札やお守りを飾ったり、身に付けたり・・・。そして安心して日々暮らす。すべては自分の気持ちの持ちようを変えているにすぎないが、ここが大変重要だ。信じる者は救われる!
人は一人で生きているとつまづきそうになったり、迷ったりする。またここぞ!というときには神様の力を借りて、運を引き寄せたくなるのだ。
これらすべては、信じるからこそパワーが湧いてくるような気がする。信じなければ何もない。
だから、力は自分が引き寄せているのだ。
信じた上で、ポジティブなまま努力をすれば結果もきっと伴うのだろう。
パワースポットとは、気の持ち方を助けてくれる、ありがたい聖空間だ。
信じたいとき信じられるものを信じればいい。いずれにしても、何事にも負けず、ポジティブに
生きる方がいい。
新しく関係をつくる楽しみ
少し前までは、お店の人とお客という関係だった。そのお店を閉めることになり、もうその店に通うことができない。ここで縁が切れるのはもったいないと、営業最終日にそう思った。
幸いにして、お店の方といつの日からかメールでやりとりをしていたので、お礼やら、ご挨拶やらの連絡は時々とっていた。
そこで、閉店後に切り出した。
「長らくお世話になってきたので、年が変わったら、一度一緒に近くで乾杯しませんか?。お礼もしたいですし。・・」
先方さんは、「何をおっしゃいますやら、長らくお世話になったのはこちらの方なのに・・・」ということで、恐縮されていたが、念願かなって、今年になりそこの店主親子と一緒に神楽坂の居酒屋で再会。
これまで10年近く、「いらっしゃいませ。ありがとうございました。」の関係であったのに、今日はこちらがホストなので、いつもと逆だ。先方さんもどうしたもんかと照れ気味だ。
「お飲み物は何がいいですか?何召し上がります?」
最初戸惑い、また遠慮がちでおられたが、それでもやっぱり最初は生で乾杯。父と同い年のご主人さまは日本酒が好きということで、ちびりちびり・・。いい感じでお酒を楽しまれているようだ。
そして、お店のこと、家族経営のこと、神楽坂のこと・・・戦前のこの町のことから、最近の商店街の奮闘について、隠された特技など・・・まで、いろいろお話をお聞きし、これまで知らなかった一面を知り、しみじみとする。
2時間ぐらいで切り上げるつもりが、気が付けば3時間。
そして、次はそのお父さんの誕生日にまたご一緒しましょう。と約束。
それを喜んで、それまで元気に生きなくちゃね。とのご返事。
ちょっと前まで、お店の人とお客様。閉店を機に、関係が変わる。けれど、関係はつながり続ける。
それが、神楽坂という町のいいところなのかもしれない。
気が付けばいつもどおり、いろいろおせっかいなことを言っていた。
人生は楽しいことも、悲しいことも、寂しいことも、うれしいことも。
生きていれば、見方ひとつでどうにも変えられるとも思った。
うれしい新たな関係、うれしい。大切にしたい。
何をするにも、サービス精神。
ある場でおためし授業のようなものを受けてみる。文章について書き方について作家である講師が話をされる。
そのなかで興味深く、共感する部分があった。
このネット社会では、誰でも自由にいつでも自分の文章を発信できる時代。どんな素人でも「わたしが、わたしが」と自己主張、それを社会参加ととらえる人がいるかもしれないが、ま、そこは本人の問題。
素人かプロかの違いは、「文章にサービス精神があるかどうかだ。」とのこと。
素人は自己満足のために書く、公開する。
プロは読み手にいかに喜んでもらうかを考えて書き、発信する。
ということ。
確かに言われてみればそのとおりであるし、自分も意識して行動したいところでもある。
文章を書く、話をする、演奏する。料理する。なんでも同じことだ。
相手にとってどうか。を意識でき、実践できるか、工夫できるか、配慮できるか。
もちろん自分が書きたいこと、表現したいことというものがあっての文章作成、創造になる
ため、そのネタ自体が重要であることは間違いないが、結局は何のために書くのか。
によって、それはプロか否かが変わるということ。
やっぱりどの仕事も、モノという形に、目で見えない仕事にも当然ながら、顧客目線は必須ということだ。
当たり前なことであるが、今一度、自分の仕事をふりかえるいい機会だ。
愛情深いほど、多くの悲しみ、でも・・。
あるクリスチャンの方に、連続する親しい人の死との向かい方についてたずねてみる。
その方も、以前、親しい方が短い期間に続いてお亡くなりになった経験があり、その方は一緒にお仕事をする仲間を亡くされたということでしばらくはショックでどうすることもできなかった・・・。しかし時間の経過とともに、その亡くなった方たちのことを思いながら、一緒にしようとしていた仕事のアイデアが新たな形で湧いてきたという。その人たちのためにも新たにがんばろうと思えるようになったとのこと。
そして、人に愛情を注ぐ分、受け取る悲しみも多いとも。
その悲しみをどう受け留め、自分の次の道に生かすか・・。それが残って生きる者の役割なのかもしれない。
人を愛す反面、悲しみも経験するのか。複雑な思いになる。
でも、愛さなければ、愛されなければ悲しみも少ないかもしれないが、歓びも楽しみも少ない人生だ。
悲しさは生きていくうえで、一生懸命生きれば生きるほど、ついてくるものなのだ。
非の心と書く、「悲」の文字。あってはならない、非常の心。だから毎日、ずっと悲しみが続くことはない。と信じて。
出会えば別れる、入れば出る、生まれれば死ぬ。それだけのシンプルな法則に沿って生かされているだけのことだ。大げさに考えなくていい。
ときに信仰心の厚い方との対話は、大変助かる。
別れは、ある日突然に。
人生は時々、予想もしないことがおきる。
一番予期しないことは、人とのお別れだ。
あれが最期だったとは・・。とは後で思うものだ。
そんなことがまたもやおきて、自分の心の中で整理がつかないでいる。
私はその方にちゃんとしていただろうか?不快なことはしていなかったか?
喜んでいただいていただろうか。
病死とは違い、事故死とはほんとうにある日突然、まさか・・・に起きるものだと
この1か月で2回もそんなことを思うものだとは。
信じたくない報せが続く週末。
一人静かにその方のいろんな表情、その方とのいろんな場面を思い出している。
笑顔できちんと「さよなら」。と言えないことが多いのが人生だ。
今、その方が笑顔で「せんせい、私、やっちゃった」と何度も語りかけてくる。
私に一番多く「せんせい」と呼んでくださった方。本当に一生懸命の人だった。
上越でのライブ実現が、初めての一緒の仕事、そして最後のギフトになった。
突然お別れしても悔いないよう、瞬間瞬間をこれまで以上に大切にしなければ。
信じたくないが、、、。その人にいう日が来るとは思わなかったが、、どうぞ
安らかにお眠りください。
阪神淡路での震災から、21年の朝。突然の別れをかみしめながら、、。
合掌
社長は空から見ているから、がんばろうね。
昨年クリスマスライブの直後に富士山登山中に亡くなられたある経営者のことは前にも書いた。その社長を崇拝し、二人三脚で分身としてがんばってこられた社員の方と再会する。
お互いに思いっきり元気に!と心に決めて来たように、やたらにこにこ笑いながら挨拶をする。でも同時に、お互いの目に涙がにじんでいることはお互いにわかりながら、それでもいつも以上の笑顔で元気に話す。
そして、今年の仕事をどう進めるかについて話をする。だんだん、悲しみを忘れて、いつもどおりの熱い議論になってくる。
熱心にメモをとられる。あれやりましょ、これします。これ、こうしたらどうかな・・。いつもどおり盛り上がってくる。
「社長がしてほしいことをわかっているのは、〇〇さんですから、それに向かって、周りの方にどんどん働きかけて一緒にがんばってくださいね。社長は見てくれていますよ。ほら、今もここにおられるようですね」
と話すと、彼女も「社長見てくれていますかね~」と返してくれる。
家族や上司。かけがえのない存在をある日突然なくすというのはどんなに悲しいか。時間の経過ととみにそれはいろいろ変化していくことだろう。
ご本人でなければわからない感情・・を他人はどうすることもできないけれど、少なくとも、今は最後に「頼もしい部下をもって幸せです」と言われたその部下である彼女を、精一杯応援し続けることが今できることだ。
「本当に素晴らしい社長でした。怒りたいときもあっただろうに、いつも言葉をいったんのみこんでから冷静に話しておられました」
そんなことも語ってくれた。部下はいつも、見ているんだ。
そして、今は社長が空から見ているんだ。だから、いつも相談すればいい。相談の仕方は変わるけどね。自分で答えをもっていないといけないから。でもいつも応援してくれている。
そっと彼女とある約束を笑顔で交わす。だから1年、元気にがんばろうね!
大切な人の死は残した人を強くすることができるだろうか。そうであってほしいし、自分もそうでないといけないと肝に銘じる。
「もっともっと人にやさしく 」・・に共感
年の変わり目に、いろんな方と久しぶりのメッセージ交換を行う。年賀状は形に残る一方、メールはやりとりができるというそれぞれの良さがある。
国内での新年ムードが収まったころ、海外の仲間に遅まきのお年賀メールをする。
バンコクで会社を経営する友人。気概も気骨もある方だ。長らく海外で、ひとりで身を立ててきた、心から尊敬するポジティブライフメーカー。お互いに、常に刺激を与える時代もあった。
今年は挑戦の年にします!新会社も設立するとのこと。そこまではこれまでの彼らしい、力強さを感じる発言。そのあとの言葉にもっと共感する。
「お金儲けはもういい。人にもっともっとやさしくなれることをしたいですね!」
さすが、本当の実業家だと一層敬意を表したくなる。
自分もそうだ。人にもっとやさしくなれること、できることをやっていかねばならない。
元気な観覧車だけでなく、優しさに包まれた観覧車になりたい。
強い人ほど、やさしくもある、そうであろうとする。真の強さとはやさしさなのかもしれない。
カッコよく、美しき生き方、生きざまとその表現。
デヴィット・ボウイが亡くなったと世界中のメディアが報じた。普段、著名人の死にもあまり興味を示さない家人も、「デビット・ボウイが死んだって!?」とネットのニュースを見て声をあげたほどだ。私はロックミュージックの世界には疎いが、それでも彼の華麗さは世間の人々が知るように認知しており、伝説になる人なんだろうな~とは思っていたが、やはりそのとおり、世界が誇るビッグスターであった。ニューヨークタイムスのネット版のトップページにはボウイのさまざまな姿の画像が繰り返しアップされ、いかに多面的な顔をもつアーチストであったかを報じた。
改めてその画像を見ると美しい。個人的には動画よりも、その瞬間だけをきりとった静止画の方が美しく感じる。1枚の写真は限りない想像の世界を与えてくれるからだ。
私たちの中学、高校時代のヒーローだろうか。音楽とはビジュアルでもあるということ、いくら技巧的に優れていても、それだけでは感動を与えず。とくにロックの世界は、独特のハレの世界の自己表現。本来の自分、素顔の自分をよく見ている人だけができるパフォーマンスだと思う。
ロンドンも、ベルリンも、そして亡くなったニューヨークでも・・。世界の各町でボウイの死を悼む人の数は計り知れない。
カッコよくあれ、美しくあれ。そしてやはりメッセージが必要なのだ。言葉で、ビジュアルで、音で・・・何で何を誰に伝えたいのか。
ボウイの死から改めて、クリエイターとアーチスト的な生き方について考えさせられた。
挑戦し続ける人は、カッコいい。唯一無二を目指す人は、かっこいいのだ。
突き抜ける、知の怪物はありがたきお手本。
ある方にいつもエールをいただく。「突き抜けた変人でいてくださいね」これが彼流の激励だ。変人は悪くない。むしろ興味がある。よく「普通」という言葉に対して、幼き頃から「普通って、何?」と違和感をもってきたし、今でもその「普通」
の意味がわからないところもあるし、変人とは貴重な存在な感じもして、憧れもある。しかし、常識的であろうとする大人の世界と、変人とは相いれないところもあり、変人であり続けるというのは難しくもある。また突き抜けるということは、それ以上に難しい。
先日、新潟市主催の「安吾賞」という企画で、佐藤優さんがその賞に選出され、その発表会に参加、佐藤さんのトークを再び拝聴する機会を得た。
やっぱり、この方は突き抜けている。突き抜けた人とはこういう人のことだ。と改めて思った。
本当によく勉強されている。読書量が月に300~500冊?だそうだ。1年ではない。そんなことできるの?ということをこの方はやり続け、他に類を見ない知識人としてご活躍だ。彼のなにげない一言にも厚みを感じ、また歯に衣着せぬ表現のなかにも人としての道理や愛も感じる。年始早々に、突き抜けたお手本に出会い、
まだまだあかん!と突き抜ける方向を探検、模索しはじめる。
もごもご、もんもんとしながら、いくしかない。
好きなことをやり続けると、突き抜けるのかもしれない。それだけに没頭して生きようと思える純粋さこそが必要なのに、まだそこが私には足りない・・。