今年もあと2日を切った。どこでもここでも、今年を振り返って・・という話題。西洋暦にのっとって世界中が1年という1期間を締めくくろうとしている。今年できたこと、できなかったこと。いろいろあろうが、新年だからリセットして一から始めよう。という考え方にはあまりなれない。人生は、毎日毎時毎秒生きて、逆戻りすることなく、間違いなく死に向かって生きている。もちろん節目がなければ、何かと生きづらく、人生がつまらないため、暦はあるのだと思うが、その節目が1日であり、1か月であり、1年というだけのこと。
正直、今年は私の中では今年の暦は夏にもいっていない、春の季節のような感じである。なぜ、こんなに時間が早く経ってしまったのかと思っている。そして、悔いることはないけれども、ああ、命を張ってがんばった、死にもの狂いでがんばった!とは思えることはなく、これからなのにー、という感じがあり、なんだか物足りない感じですらいる。だから、この続きをもっとしなければ、自分では消化不良な人生となる。だから、新年になっても過去をリセットせず、ここからさらに目標を乗せ、走りだそうとしている。
新年だからではなく、自分の納得人生のために、もっと行動しなければと思う年末。新年はたまたまの、世界共通の通過点。
毎日毎日がつながっている。だからリセットはしない。その延長で改善を重ね、生きていかねばと思う。まさしく、人生は一度としてリセットできない、ただただ積み重ねるしかできないミルフィーユなのだから。
同じミルフィーユならば、美味しく仕上げよう。そして、新年を大切にするというよりも、毎日毎日を大切に。だからこの2日間も、より丁寧に生きる必要がある。
健康な年末、これに勝る幸せは、ない。
リセットせず、積み重ねる
風呂ラジオという体験
スマートフォンやタブレット端末は、四六時中お世話になる必要はないが、ここ!という
ときに便利なマルチコミュニケーションツールではある。
わがラジオ番組「愛の元気人」もおかげさまで番組開始5年目を越え、毎月1回の放送とはいえ、30分から1時間番組になって、毎回企画から放送まで、あっという間に時間が過ぎ、いつもゲスト探しをしているような生活でもある。
新潟市のコミュニティエフエムなので、以前はその圏内にいなければ放送を聴くことができなかったが、ネットのおかげでパソコンでも聴け、さらに今年になってからは局の専用アプリもでき、スマホでいつでもどこでも聴くことができるようになり、大変便利になった。
さっそく今年最後の放送を東京で聴く。ちょうどお風呂に入りたい時間であったため、初めて風呂ラジオというのを体験する。自分の声、自分の演奏だと、シャワーもどんな音もあってはいけない。浴槽でじっと聞き入ってしまう。多少ぬるかろうがそのままで。最初の数分はいいが、いかん、体がふやけそうだ。カラスの行水の日々なのに、ラジオを聴いてお風呂に入るのは自分の生活リズムとは違うのだ。でも、じっと聴き入る。いろんなことを思い出し、今年出会った人々への思いがわいてくる。透明な時間とでも言おうか。お風呂で歌を歌うのもいいが、聴くのもいいものだ。あ、エンディングだ、もういいか。と急いで風呂を出る。
スマホで聴けるおかげで、これまでできなかったことができる。
依存せず、中毒にならないように気を付けながら、本当に必要で、使える場面でこのツールは
有効活用しよう。それにしても、風呂ラジオ・・・なかなかオツな時間であった。
最後の晩餐は、ずっとずっと後でいい
久しぶりに両親と妹との4人での食事の時間をとる。それぞれ違う場所で違う生活をしているとそれがままならない。正月もそれぞれの生活を過ごす習慣になっているため、年末にバタバタっと駆けつけて、2時間ほどの食事。
母は本当に胃がん患者かと思うほどの回復ぶり。「半年前の入院、手術が嘘みたいだね。今年も全員揃って正月を迎えられそうで、良かったね」という会話。
本当にそうだ。一時は本当にこんな日が来るとは思わなかった。それなのに、こうして全員で食事をしている。父は上機嫌にお気に入りの麦焼酎をお湯割りで飲みながら、ご機嫌さんだ。
「お父さんは、一生私のアッシー君だね。」と冗談交じりに言うと、意外にも喜びながら反応する。そう、70年以上、父は私や母の運転手だ。それをなんだか、誇りに思っているのか、
にこにこしながら、「そうやな~。毎日名古屋へ通ったな~。」そう、会社の勤務時間が終わってからの毎日のレッスンの送迎。よく、やってくれたものだ。「あの頃は若かったからできたんやな」・・・・とそんな会話をしながら、ふと、この4人でいつも食事をしていたのだ。
この4人が家族で、毎朝、毎夜・・。もう離ればなれになって30年以上経つが、私の食卓の原点はこの4人での食事だ。
ふと、いつの日か「最後の晩餐」になるのだろうが、できればずっとずっと先がいい。そしてできれば、寝たきりとか、注射ではなく、ずっと自分の手で、口で、話をしながら食べる。
それがいい。
最後に何が食べたい?ではなく、もしかしたら、どこで?誰と?どんな風に?がもっと大切なような気がする。
最後の晩餐は、ずっと先でいい。そんなことを思いながら、帰りの新幹線にひとり乗った。
「そんなもん、自分の腹、痛まへんし」に??
京都へ行くと、たちまちに関西弁になる。はんなりとした京都弁、少し吉本流の漫才チックな関西弁が聴けたり、こちらもそれらにあわせて、返答のテンポや間が変わるのが我ながら面白い。京都は全国で人口に対し、タクシー台数がもっとも多い都市だそうだ。確かにそうだろう。どこにもいる、どこにいても当たり前な感覚がある。観光地だから競争が激しいが、各社ともがんばっておられる。四葉のクローバーのタクシーもあれば、ホテルマンのようなおもてなしサービスのタクシーもあり、安さを売りにしていた会社もあり・・・。会社によってその特徴もいろいろ、さらに運転手さんの多くは、他県のドライバーよりも口がなめらかで、話がうまいというか、好きというか、無口な人にあまり出会わないのが京都のタクシー。また地域情報の提供もプロ並みの方から、とことん自分の生活圏情報限定で強い方から、これもさまざまだ。今回、たまたまビニル傘~しかも新品~を何本か座席の専用スペースに立てかけているタクシーに乗った。乗ってから気づき、驚いた。新潟では最近、地元の新聞を助手席の後ろに設置し、「ご自由に車内でご覧ください」というサービスがあり、それもなかなかと思っていたが、ちょうど雨が降ってきたところに乗ったせいもあり、この傘サービスはすごいなと思った。「この傘、売っているんですか?」「いや、ただですわ。もってってくらはい」「へ?でも持っていったら返せないですよ。」「いいんですわ。返さなくても」「へ?新品の傘なのにタダですか?」正直驚いた。コンビニでも最近ビニル傘は安価に買うことができるが、それでもタダではないし、使い捨てどころかずっと使えるものだ。「そんな、悪いしお金払わなあきませんわ」「ええってお客さん、会社のやさかいに、そんなもん、うちの腹いたまへんし、そんなきいつかわんと、もっていっておくれやす」という言葉。ま、会社のサービスで運転手さん個人のものじゃないから、気を遣わなくていいよということだろうが、関西人だな~と心の中で苦笑した。
自分の腹いたまへん・・・これは京都で時々聴いたことがある言葉。本音であり、ちょっと強烈であり、ちょっとシニカルでもあり・・・。この人の腹はどんなかな?と思わず思ってしまい、さらりと言われた一言に京都人の一面もかいまみた感じ。悪気もなく出る言葉にその街の文化や歴史も出るのかしらん。結局、車に乗っている間に雨が止んで、傘は不要となった。会社の腹を痛めることもなく、良かった。いいサービス、各社それぞれ。でも一番心に残るのは
言葉。その一言だったりする。その一言を口にするかどうか?やっぱり、京都は刺激的で、いろんな意味で学びが多い街でんな~。
やってこそ、はじめて言える。
評論家という仕事の価値は何か?と若いときから思っていた。人のことを、世の中のさまざまな事象について客観的、自由に記す仕事。マスコミが存在しなければ、このような仕事は成立しなかったのかもしれない。そういう場があるから当事者ではない人の声も必要、また事実をある視点から読み解くことは時として必要。それはわかるが、そのことに対し、体を張ってもいない人が、現実に行動している人のことを上から目線で語るのは違和感が残る。
自分が人に伝えたいことは、人様のことではなく、自分のこと。自分の行動から見えてきたことは少しは伝える意味があると思う。本で知った、ネットでちょっと調べた理屈ではなく、経験から導き出されることこそが真理だと思う。
だから、もっともっと経験を積む、挑戦をする。これを止めてしまったら、新しいネタもなくなる。過去に頼るほど、自分の歴史は立派ではない。
だから、いつも現在進行形、未来志向でなければならない。
やってこそ言える。一番の説得力は経験に基づく学びだ。
だから生涯現役で、迷わず、冒険をし続けなければと思う。
行動から湧き出る言葉を紡ぐ。そんな生き方を意識したい。
あなたがいるから、がんばれる!
仕事、そのほかでお世話になった方と今年最後の面会・・という季節。「今年も本当にありがとうございます。」という言葉とともに、朝のロイヤルミルクティーを一緒にいただく。
朝早い面談は、とても気持ちいい。お互いの1年を振り返りながら、よもやま話も含め、少し和む。お互い、ときには体調を崩したり、仕事でいろいろあったり、家族で何かがおきたり・・・今年もやっぱりいろいろあったね。という話になる。ちょっと不安なことがあっても、心配しすぎることなく、ともに一緒に元気にがんばろう!と約束する。
思えば、この人がいてくれるから、この人が見守ってくれているから、この人のおかげで・・・という人が何人もいてくれることに心から感謝の念が生まれる。だから、ずっと一緒に励まし合いたい、尊敬しあいたい。だから相手を大切にしよう、自分のことも大切にしようと思える年末。そう人は見守りあって生きるのが一番だ。
来年もいっしょに52歳を迎えましょうね。という言葉で今年の最後の面談。今年も一緒に年末までがんばれて、良かった。感謝いっぱいのクリスマス。
何もしない楽より、無茶をして楽!をとる
そろそろ来年をどう生きるかを真剣に自らに問い、考える。3本の矢ではないが、自分なりの目標、計画を立てはじめている。世界で唯一、信頼できると信じている行天宮の四柱推命の先生が、以前、私にとって来年はどんな年だとか言ってくれていたが、あまりそれに束縛されず、自分の意志を大切にしていこうと思う。誰かが何かを言ってくれることは背中で聴くこともときには必要だ。そして注意深くという点でも役立つ。だが、最初から何もせずにじっとしている人生はつまらない。自分が健康で気力も満ちている今、できることを精一杯するなかでみつける楽しさが本当の楽しさだと思っているから。今年は少し足踏みをした時間があった。その時間が周囲への感謝につながった。だから結果的に立ち止まる時間が少しあるのは良い。ただ、最初から「さあ、今年はじっとしていよう」と思うのはおかしなことだ。
ということで、自分らしく幸せな1年にするための行動を惜しまない。まだ、無茶も少しできそうだ。行動したあとの楽!をいくつ得たいか?が人生を楽しむ秘訣かもしれない。
アンケートを見直す年末
机の上に山積みになった書類を平地に戻す作業は、なかなか思い切りが要ったり、後回しにしたいもの。年末という節目はそれを後回しにさせてくれない。この1年に目を通したり、自分で作成した書類や印刷物に目を通しながら、頭に刻み込みながら、刻みながら廃棄していく。
後でもう一度見ようと思って残してあった数々の勉強会やイベントのアンケート。それは、容易には捨てたくないものだ。久しぶりに目を通して、直後ではなく今改めて見ることで、そのときの様子が蘇り、誰かの心に何かを残せたことを改めてうれしく思い、自分なりの1年を振り返る。凄いパワーをもらった、元気をもらった。という言葉が一番多い。私も元気にならなくちゃ、がんばらなくちゃ。ともある。私の特徴はそこなのかな、改めて思う。
いつまでも、残しておくわけにもいかず、またこれでよし!と見直してから、ありがとうの言葉を添えて、破棄する。
自分がやった行動に対する声というものは大切にしたい。
データというよりも、ボイス。生の声、集計というよりも、個々の声。
もちろんその合計が多くなければ次にはつながらないが、個々が記してくれた意外な表現に発見があったりする。
ありがたい2014年の数々のセミナー、勉強会。パワーの持続はやっぱり来年も課題となる。
頭をぐるぐる回転、停滞しない年末年始を
働き方が変わってくる。すでに変わってきた。
日本の高度経済成長を支えて、サラリーマン花盛り社会はもう時代に合わなくなってきているのかもしれない。大量生産、大量消費を促進するための装置としてサラリーマンという職業は存在し、それが主流となってきたが、少子高齢化社会に向けて、定年が仕事人生の終わりではなく、それ以降も生涯、働く必要が出てきたし、生きる以上、社会のお役に立つことは人として自然な
義務であるともいえる。
自分の働き方を見直す。これはサラリーマンだけでなく、自営業者、自由業者も必要である。
最近、組織での仕事を退職され、フリーランスとしてスタートするという女性にお会いしたが、
これからの仕事はお金をもらわなくても、米であったり、野菜であっても、十分生活に役に立つし、それで食べていけるのでそれでもかまわないという。もちろん貨幣経済で成り立っている日本社会で生きる以上、物々交換だけででは、生きていけないかもしれないが、共働きで、一人がそうであっても良いと思うし、目に見えないソフトの仕事を提供し、その代わりにその人が作った作物をもらったり、たとえばマッサージ屋さんなら、施術をしてもらえる権利を得る・・・そんな報酬でも良いと思う。
労働の価値も多用な時代。
私自身も、この世の中で、自分が自分らしく、生きていくためにもっと目を見開き、自分の道筋を見直したいと思う。そのためには頭の中が停滞することなく、いつもフレッシュにアイデアがプランが出るようにしておきたい。そのための時間を創る。仕事のための仕込みの時間。
年末年始、単に疲れを癒すという休みではなく、次に向けて進む準備時間として有効活用せねばならない。世の経営者はきっとそうされているはず。ゆっくりしているだけでは、何も変わらないのだ。
求めるのは「心地よさ」
久しぶりに会食する仲間との店選び。人により、それぞれ違う店を考えて、予約をする。
今回は神楽坂にしようということになったが、これは実は、難問。近くにどんなに有名、かっこいい、流行りの店があっても通り過ぎるだけで、「じゃ、うちで食べようか」と思ってしまうほど、自分にとって吸引力がある店が少ないのだ。雑誌に載っていようが、有名人が何と言われても、おいしいといわれても高くて美味しいは当たり前で、心は動かない。たまに一度行っても2回目もという店はほとんどない。地元だからということもあるのかもしれないが。
そんなわけで、神楽坂で数少なくずっと通っているお好み焼き屋さんに行くことにする。
奇をてらったものではなく、普通に美味しい、しかも家ではできないものということで、この店をよく利用する。仲間とそこで会食。お互い食のことについては、いろいろ意見があるほうであるが、こういう何年も地元でがんばっているお店が好きだ。「結局、心地いいかどうかですよね」。そう、周囲のお客様を見ても、皆さんずっと長くいる。おいしく食べて飲んで会話を楽しんでいる。お好み焼き屋ならではの、庶民感覚、家庭的というのは都会であればあるほど人が求めている雰囲気ということもあるのかもしれない。メニューもシンプル、わかりやすい。二代目が店長としてがんばり、お父上は78歳になっても、きびきびと働いておられる様子もほほえましい。元気に親子で営んでおられる光景も私にとっては魅力のひとつである。
そうこうしているうちに、3時間以上が経過。「そろそろ、帰りますか」と席を立つ。
冗談のひとつ、ふたつを投げかけて、笑いながら店を出る。心地よい店は長持ちする。
そして商品(料理)のおいしさだけでなく、人のぬくもりは不可欠だ。
私自身も、心地よい人、心地よい仕事をしなくては、と改めて思った。