
3月もあと1週間を切った・・・と、せわしない朝を過ごしていると、見慣れない名前の差出人からのメールが舞い込む。
正直、最近、不快極まる迷惑メールに手をやき、届くメール確認も慎重になっていたが、このメールは違う。
名前は、Miguel Angel Kaczka。
パッと見て、あ、これはアルゼンチンからだ、しかも聞き覚え、見覚えのある名前だと判断する。
本文を読んで、その判断が正しかったとうれしくなる。
この差出人は、添付にある、ブエノスアイレス在住のおじさま。そう、タクシードライバーのミカエルさんだ。
彼には2回会った。2回とも尊敬するタンゴ歌手のお墓に連れていってもらった。
その彼から、初めてのメールだ。確かにそのお墓に行った運転手ですと書いてあり、またこの町に来たら、いつでも案内を
させてくださいね。という文面だ。
最後に会ってから1年近いと思うが、なぜかメールが届いたことが、とってもうれしくなった。
地球の裏に住んでいるタクシードライバーが、何をきっかけに私にメールをしようと思ったのかと想像する。
その墓地を今日通ったのかな、何か帳簿のようなものを見てあ、1年だなと思い出したのか・・などなど。
今はブエノスは夏を過ぎ、秋に向かう頃だ。
全然忘れていた方からの思いがけない遠方からのメールはとてもうれしい。
すぐ写真を添えて返信をする。
決して高級車じゃなく、どちらかといえばちょっと古い車であったが、元銀行勤めをしていたミカエルは英語ができて
とても助かった。
ああ、ブエノスアイレスの空気を思い出し、懐かしくなった。
地球の裏のタクシードライバーから。
慣れてはいけないこと。
またもや、ヨーロッパでテロ事件が起きた。
フランスも、ドイツも、ベルギーも、そして今回はイギリスも。
「テロに屈しない」と声高に叫んでも、敵はするりと包囲網を
切り抜け、各地で恐怖をまき散らしている。
テロ。
あの2001年のNY同時多発テロから、16年になるが、
ここ最近、同時ではないが、テロは確かに多発している。
いろんな要因がある。
以前より、社会がより憎悪に満ちているのだ、その表現が
このような形になってしまうのだ。と、思うと現代社会は
とても悲しいと胸がつぶれそうになる。
が、このことに慣れてはいけない。
「また、テロか」と日常的なものとして感じてはいけない。
あってはいけないことが、起きているのだ。
ひとつ事件があると、それを反復報道されることで、
テロは人々の脳裏に刷り込まれていく。
この報道を見て、とらえ方は人それぞれであることにも
注意が必要だ。
犯罪を見て恐れる人と、興味を持つ人もいる。
知れば慣れる。
知らなければ、真似はされない。
今の情報化社会では、知ることが容易で、真似も可能。
だから、あってはならぬことにさえ、人は慣れてしまう。
どうか、人間が鈍感で無神経な動物に退化しないように。
テロの報道を見ながら、心からそう願う。
都会で寛容さを忘れ、島で気づく。
最近、父との時間に関する話題が続くが、今回も。
(やはり自分にとっては貴重で珍しい経験だったせいかもしれない)
泊まった宿で荷物を預けた。
1時間ほどしたら戻ってくるので、とお願いして散歩に出かけた。
そこは島。晴天で春うらら、島歩きには最適だ。
島半周の散歩を終えたら、荷物を宿で受け取って、
高速船に乗って移動という計画。
散歩を堪能して、宿に戻ったら、預けたはずの荷物がない。
ただ、フロントに預けただけなのにどうしてないのか?
船に乗らなければならないのに・・・。
ホテルスタッフいわく、間違えて、船乗り場へ送るお客さんの
荷物と間違えて車に積んで、違う港へ向かってしまった・・とのこと。
「へ、そんな。次の船に乗りたいのに・・」
「申し訳ないです。
今、連絡しましたので、戻ってきます。ちょっとお待ちください」
といわれ、船の時間が迫ってくるので、ちょっと焦る。
ホテルのミスにも少し立腹もしていた。
(自分自身がこの宿と島に慣れていないせいもある)
すると、父が何がおきた?という感じで、説明すると
「そうか。しょうがないな。」とたばこを吸い始める。
そう、父にしてみれば、毎日が日曜日みたいなもので、
時間に追われる生活をしていない。
私にしてみると、1時間に1本しかない船。
父にしてみると、1時間待てば次の船が来る。
という感じだ。
「まあ、しょうがないわ。完璧な人間なんかおらんで」
と、たばこをくゆらせる父から出た言葉に、正直驚いた。
そして、自分の普段のオンタイム暮らしが当たり前で
完璧を求める暮らし、さらにはなんでもビジネス的に
見てしまう自分が恥ずかしくなった。
そんなに急いでどこへ行くの。
という感じかもしれない。
台風や波が高い日は船が出ないこともある。
船は出ればラッキー。そんな島だ。
そこで、かちかちせかせか・・・という自分が恥ずかしくなる。
荷物が無事戻り、船にも間に合った。
荷物のこの件で、完璧な人間でない自分を改めて知った。
寛容さ。
都会にいると。忘れそうになる。
いや、すでに忘れているのかもしれない。
父と島へ行き、いい勉強になった。
人に、自分に寛容であれ。これからの教訓のひとつだ。
悔いのないように。ただそれだけ。
先日の投稿で、
亡きお母さまのことを今も思い出し、毎晩起きては
ああしてあげればよかった、こうしたらよかったと
胸を突く思いになる・・という知人の話を書いたが、
他人事とは思えないことがある。
先日、父と一緒に1時間ほど散歩に出かけた。
ふたりで一緒に歩いたことなど、ほとんどなく、
いつも一人で、もしくは同世代の人と歩くことが
多いため、自分の歩くペースについてこんなもん
と思っている。
ところが父と一緒に歩いたとき、
自分では少しゆっくり目に歩いていたつもりが
父にはしんどかったようで、
「おまえ、歩くの速いわ」
といいながら、がんばって一緒に歩いてくれた。
父にしたら、運動のつもりでがんばっていたのだろう。
ただ、もう80歳だ。昔のようにはいかない。
椅子があると、休憩したくなる。
時々休みながら、がんばって歩いた。
最後のゴールのところに向かって父は
椅子をもとめて一生懸命歩き、ちょっとよろけ、
ころびそうになった。
その父の足元の不安定感に驚き、思わず
謝った。
いつの間にか、私はいつもの速さで歩いており
父はそれに必死についてきていたのだ。
あれから、毎日毎晩、父がよろけそうになる
あの光景を何度も思い出し、
ころんでいたら・・・と思い、申し訳なく
思う。
もう絶対に自分のペースで歩いてはいけない。
あまり長時間歩かせてはいけない。
と心に誓う。
もちろん運動も必要なので、ゆったり楽しく歩けるように
心がけよう。
父はおかげさまで元気で生きている。
だから、取り戻せる。
あとで悔いが残らぬように、どんな小さなことでも
気を付けていこう、もっと寄り添おうと思う。
人は悔いや反省をもちながら、生き続ける存在だと
思う。
せめて、今できることはきちんとやっていこう。
老いた親を転ばせてはいけない。
カレンダーから消したい1日。
毎日が何かしら、誰かしらの記念日である。
毎日、世の中でいろんなことが起きているということである。
その記念日は、誕生日や出会いの日、結婚記念日などなど、うれしい記念日は
何度も祝いたく、何年経ってもかけがえのない幸せの日であるが、
哀しみの記念日は、年を追うごとに・・・悲しみが薄らいだり、なくなったりすることは
なく、むしろその日が来るとその日のことを思い出して、つらい気持ちや悲しみが増す
という一面もある。
3月11日。今年もマスコミ各社が報道番組・特集を企画、「あれから6年・・・」と
報じていたが、あの日のことは忘れてはいけない。東北のみなさんを応援し続けなければ
ならない・・という気持ちはもちろんあるが、自分自身が直接被災していなければ、
意識しなければ忘れてしまうこともあり得る。
当日、東北の知り合いに、メールをした。
返事がなく、全国からたくさんの連絡が入ったのだろうと思っていた。
すると、連休中にメールが入り、
「いつも、心を寄せてくれてありがとう。今年はとくに七回忌で、落ち込んでおりました。
3月11日という日をカレンダーから消したいぐらいです・・」
との内容に、衝撃を受けた。
応援するしかできなくて、ほとんど何もできなくて、
この深い傷は、一生消えることがなく、この記念日を迎えるごとに
新たな悲しみも沸いてくるのかもしれず・・。
カレンダーからこの日を消したいという気持ちは、これまで思ったことも
なかった。
だから、経験していない者はその怒り、悲しみ、辛さをすべて理解できないかもしれないが
少しでも、その日以後の応援やがんばりや、新たな出会いから、がんばってきてよかったね。
と思っていただけるように少しでも応援をし続けたいと思っている。
この知人は以前、「自然には感情がない」と津波を運んだ海を見てつぶやいたが、
カレンダーにもある意味感情がないのだ。何があろうと、刻一刻と時は流れ、
1年経てば、また同じ日がやってくるのだ。
悲しいからといって、消されることはなく・・・。
亡きお母さまに捧げる、一冊の本。
現役~会社経営・町づくり~を引退後、自らががんに侵されながらも、
お母さまに寄り添い、お母様とともに暮らし、100歳で亡くなるまで
献身的に介護されてきたMさん。
最愛のお母さまが亡くなられて半年以上経過し、その後お元気にされているのかと
心配していた。
久しぶりにお会いし、Mさんが好きなお花のアレンジメントをご仏前にもと
お渡しし、その後の様子をいろいろとお聞きする。今もお母様のことを毎日
思い出すと、最近はじめたという短歌に込めた思いとともに、噛みしめるように
話しはじめられるのをお聞きし、胸が熱くなる。
時間の経過とともに、静かに思い出とともに寂しさがこみ上げてくるの
かな・・・。Mさんの口から出てくる、お母様への悔いの言葉に、あれだけ
お世話されていたのに、それでも亡くなってしまうと、もっともっと・・と
思えてくるものなのかな・・。とこれからの自分の親への向かい方を想像する。
しばらくすると、Mさんが、バッグから1冊の印刷物を取り出す。
「これは、母のこと、わが家のことをまとめた一冊です。
本当は母の100歳の記念日を目指していたのですが、自分の体調が思わしくなく
結局今になってしまいました。これは身内だけに配ったもので少ししか
刷っていないのですが、いつも気にかけていただきましたし、ぜひお読みいただければ
・・・」
と私に渡された。
「へえ?そんな大切なもの、他人の私がいただいてよろしいんですか?」
「はい、よろしかったらぜひ読んでやってください」
その本を開いてみると、Mさんの家族のことが、子供でもわかるように、
写真や資料も入って、読みやすく構成されている。
「姪っ子たちから、『おばあちゃんのことがよくわかりました~』って言われました。
よかったと思っています」とMさん。
出来上がった際には、お母様にお供えされたことだろう。
Mさんは、どこまでも親孝行の人だと思った。
その自費出版の一冊は、ページ数はそんなに多くないが
ずっしりMさんの思いが感じられ・・。
真似をすることはできないし、私は私のやり方でよいが、
家族を大切にする。という当たり前のことをきちんとできるかどうか
そして、大切なことを後世に残せるかどうか・・
については、お手本とさせていただこうと思った次第。
今、Mさんの健康状態が何より気がかりだ。
まだまだ一緒に、世の中のあるべき姿について、人としてすべきこと
について教えを乞いたいし、Mさんに元気の素をお伝えしたい。
人生、思いを一冊に残す。
やっぱり、本づくりはいい仕事だ。
佐渡の玲子さん、5年ぶりの東京復活!
玲子さんは、もともと元気いっぱい、サービスいっぱいの
佐渡のケーキ屋さんの女将さん。
旦那さんと二人三脚で、佐渡の食材を使ったお菓子を作り続け
ひところは、旦那さんが地元でお菓子を製造、
玲子さんが首都圏の物産展などで佐渡のPRをしながら
一生懸命に売り歩いた。
あまりのサービスぶりに、商売大丈夫か?と心配になることも
あったが、それでも玲子さんのお人柄にお客さんが
引き寄せられる。
私が会ったのはもう10年ほど前のこと。後楽園の
ホールでの物産展で紹介を受け、翌日には「パッケージの
相談をしたい」と電話があり、その強引にも見える
熱心さに負けて即日会いに行った・・。
そこからのご縁。
佐渡に行くと、いつも仕事場(相談会)に来て、
毎回いろいろ相談してくださった。
そのときには、いつも差し入れをもってきてくれる。
とにかく、元気いっぱい、情熱いっぱい。
そして佐渡で生まれた「しまチーズ」は、菓子業界の
名誉ある賞を授かり、新聞各紙にも出るようになり・・。
そんな矢先、玲子さんが倒れ、生死をさまよう期間が
あった。
もう会えないのではと、佐渡に行く機会にはタクシー
を飛ばして(?)お店に行ってみたが、シャッターが
閉まっていて、本当に心配していた・・。
その1年後だったか、玲子さんが復活した。
そして徐々にお元気になり、だんだん元通りになった。
よかったよかったと思っていた昨年の秋。
年賀状もいただき、そしてこのたび、東京出展の
案内ハガキ。
5年ぶりの東京物販の試みだそうだ。
「年金をもらう年齢だからこそ描く、未来への夢」
とハガキに書いてある。
そして「5年ぶりの東京の営業です。不安と戦いながら
ちょっとがんばってみようと思います」
とも・・。
これは、顔を見に行かねばと移動時間の合間に途中下車。
元気で少しふっくらした玲子さん、とても喜び応対してくれた。
久しぶりに佐渡のお菓子を買う。
売るためではなく、つなぐために来たと聞いて、
安堵する。
帰って買ったお菓子の袋を開けたら、おまけのお菓子が入っていた。
その代わり、買った商品の数が足りなくて、
あ、これも玲子さんだと一人笑う。
3月20日まで、表参道ネスパスで元気に佐渡のお菓子の
試食をすすめている。
たまには、ゆっくり語りましょう。
父とふたりの珍道中。
初めて、一緒にふぐを食べる。
父は熱燗、私はビールを飲みながら、
最初はお酌し、そのうち手酌になって、
自宅で食べているかのようなリラックスした気持ちでいただく。
実家を飛び出してから35年。
いつの間にか、ぐるっと一周してきたようなわが人生だ。
父が80歳になっても、元気で、会話もまったくボケがなく
冗談も通じ、酔うと少し悪態をつくところも、昔のままで
変っていないことに安堵する。
そして、いろんな思い出話をする。
父が覚えていない、私の幼き頃のうれしかったこと。
つらかったことなどは、もう消えている。
「そんなこと、あったか。もう記憶にございませんやわ」
どうやら、某元都知事を真似ているようだ。
やはり さしで、二人で語る時間は大切で、
こういった時間はかけがえがないと思う。
海波の音を聞きながら、父の寝息を聞きながら
よく元気でいてもらえるものだと
改めて、すべての神さんに感謝する。
3歳の頃、父を「パパ」と呼んでいた記憶がよみがえる。
子供の頃は、父からすれば可愛い娘だったんだろう。
生意気三昧のわが人生で、いやはや 恥ずかしくもあるが
悔いはなし。
語り合った旅を終え、名古屋駅のホームで父を送る。
「電車が来たよ」
父が手を差し伸べてくれた。
父が泣いているのに気づき、こちらも。
どうしようと思ったら、来た電車が回送だった。
「あ、これじゃないわ」
クライマックスが瞬間クールダウン。
これで良かった。泣いて別れるのは本意じゃない。
語り合えて本当に良かった。
もっとずっと元気に長生きをと、心から思う。
初の、父娘珍道中。
父と二人での外出。
子供の頃から、数えるほどしかない。
でも、その1回1回をよく覚えている。
なぜか子供の頃の、父とのお出かけはショッピングセンターや
柳ケ瀬にあったデパート巡りなど、
ウィンドショッピングが多かったようだ。
目的なしの時間つぶしのような時間であった。
大人になってからは、二人でということはあまりないが、たまに
モーニングにつきあうぐらい。
二人で旅をするなんて、記憶にない。
今回、ちょっとしたきっかけで、父と小旅行することになった。
父が好きな知多半島の旅館での1泊2食の旅。
実家に迎えに行き、いろいろな乗り物を乗り継いで、太平洋側の
海にたどり着く。
普段、母と一緒にいるときの父と違って、なんだかおとなしくて
でも、静かに喜んでいるような感じ。
電車、バス、船・・。いろんな乗り物を乗り継いで目的の宿に向かう。
「昔はこんなに家がなかった」「島が見えてきた」などなど
見えることをそのまま言葉にするだけの、たわいもない
会話であるが、ときに乗り出して窓から外の風景をみようとしたり
父ってこんなに社会に興味津々で、いろんな目で世の中を見て
楽しんでいるのだということも発見。
そして、次から次から何かをしようとする私に、
「そう、気を使わんでいいよ」という。
遠くに行ける体力気力があるうちに、
機会があれば、ちょっとだけ無理をしてでも
いい思い出づくりができれば、と思う。
宿に着いてから、
母に「旅館に着いた」
とメールしている姿も、ほほえましく・・。
思い出はたくさんあった方が人生が豊かになる。
アッシー君でい続けてくれている父に、
運転以外の楽しみをもってもらえるように徐々に
・・・とも思っている。
たまには、親ひとり子一人の旅も、またよし。
もちろん両親そろっても、またよし。
無理が効く人が、効くうちに。
がんと闘う知人。もう10余年、親しくさせていただいている。
病状は不安定で、移動距離も年々、無理が効かなくなっているようで、
お元気なときは、東京でも、新潟市でもライブに駆けつけていただいた。
最近は、CDで楽しんでいただく、その人のために書いた歌詞を
書で見て楽しんでいただいている。
なんとか、ライブを生の演奏をもう一度聞いてもらいたい。
この2年ほど、そんなことを思い始めていた。
前回お会いしたときに
「近所の公的施設に、ピアノが来たんですよ」
「じゃ、雪の季節が終わったら、そこでコンサートやりましょ。
そう、雪解けコンサートです」
と言っていたのを、しっかり覚えていてくださって、そろそろ・・・の気配。
時間がなかなかとれないけれど、それでも何とか会いに行って
元気なうちに、小さな夢だけれどそれを叶え、
少しでも元気になって、長生きしてほしい。
私は、まだ今は無理が少しは効く。そう無理できる人が無理できるときは
無理しないと実現できないことがある。
今は、お世話になってきた方へ、どんなお返しがちゃんとできるか
が私の課題だ。
最終新幹線でかえって、翌日が始発の新幹線であっても、車内で
仮眠すればいい。
無理するときはする。後悔しないために。
とにかく、あの方が喜んでくれることがうれしい。