ある70歳を越しておられる方からのメールのタイトルに「生涯じじいと言われたくない〇〇より」と書いてあり、驚いた。どんな意図でもってそれを私宛てのメールのタイトルにしておられるのかを考えた。別にそんなことを書かなくても、常に精力的に生きておられる方なので、そんなこと思ってもいないし、周囲も思っていないだろうに。だからあえてそんなことを書く必要もないし、書かない方がいいのにと思ってしまった。若々しくあるようにがんばっているけれども、やっぱり年をとってきていることを一番自覚するのは自分であるため、自分に強く言い聞かせることで、老いを跳ね返したい・・そんな意志の表れなのだろうか。なんとも言えない気持ちになった。一方、癌を患いながらも元気に仕事されている男性。こちらも同じ世代であろう。久しぶりにお会いしたら「もういいかげん、じじいなんだから、じじいはじじいらしくしなきゃいかんのですわ~わはは~」といいながら、仕事上、的確な発言をされ、そのオープンさと自然さに好感をもった。
お年寄りが「おじいさん」と呼ばれたい呼ばれたくない、いつまでも「お兄さん」と言われたい人もいるだろう。また「じじい」はなんだか見捨てられたような感じだからそう呼ばれたくない・・・とかそんな人もいるだろう。好感をもって「あのじじい」とは呼ばないだろうから、好感をもたれる人でありたいということかもしれない。人にどう呼ばれたいかと常に意識する・・それは、どう見られているかと同義であろう。自分の場合は「おばさん」と言われることは見た目は少ないけれども、見えないところでは「あのおばはん」と言われているかもしれないが、それは自分がそう見えているからだろう。「私をおばはんと呼ぶな!」と言う前に、言われたくなかったら、まず自分がそう見えないように努力するのがいい。それにしても、自然体の方がいい。もうシニアといっても世の中「じじばば」だらけなのだから、すべて自然体でよいのでは。いろんな年輩の方にお会いするなかで、いい年輪とは・・・とつい、思ってしまう今日この頃だ。
「じじい」の定義
雨降って地固まるうちに・・
新たに着任された、韓国の駐日大使は、韓国と日本の関係には、今は雨が降っているが、雨が降れば地が固まる。そして降ったあとはより強固な関係になれるはずだと、それに向けて努力をする・・・と、ある意味心強いメッセージを配信されている。
本当にそうなればいい。しかし今日の異常気象はどうか?大雨すぎて、地固まるどころか、地流れる、地崩れる・・・という悲惨な事態になっている。
降る雨もほどほどにしないと、地は固まりづらくなる。
雨は恵みの雨でもあるが、最近の雨は加減を知らない・・・のが一番恐ろしい。
固まる程度の雨降り・・・それは最近何かと難しいのだろうか。
世界をみて、自己中心にならないようにと自分を戒める
今、世界の各地で平和とは程遠い殺戮、戦闘が繰り返されている。天災も嘆かわしい悲劇であるが、これは人間の力ではどうしようもできない。それよりも、人間による平和の破壊。先日訪問した長崎でも約70年の月日を経ても傷跡が消えないのに、人類はそれに懲りず、またそれは別世界のこと・・・というかのように、宗教上の違いを理由に報復が正義であるかのように争っている。またほっておけば、領土問題や歴史解釈の違いも精神面での葛藤から、それで済まない戦いになることだって、あるかもしれない。
が、まだ日本は平和な国である。
アメリカのジャーナリストの処刑の映像を観て、本当に人間は恐ろしい、また愚かな動物であると怒りが湧きあがる。なんのためにこんなことをする?自分の主張のため、自分が正しくて標的である相手は間違っている
という解釈?いずれにしても、自己中心な世界観がいろんな問題を引き起こしているように思えてならない。
目には目を・・・という考え方はもうやめてほしい。人間それぞれ違うのが前提なのだから、違いを認めて共存できなければ、自然の脅威に関係なく、人間同士の無駄な争いで地球がいずれ滅びてしまう。
アメリカの新聞のトップ記事には悲しい写真が多すぎる。
人間って奢っているけれど、本当に愚かで小さい。
せめて自分はセルフィッシュな人間にならないように、日々戒めたい。
宗教は人を幸せにするためのもののはずなのに・・・・所詮人間が作り出したものだから・・・。人間の自己中心主義から生まれたものであるならば、不要だと思えてならない。
人はみんな、元気で幸せで、当たり前の毎日を自然に生きることが一番幸せだ。
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肉体の疲労に‘薬用養命酒’
毎日がプレゼン的生き方であれば・・
つれづれなるままに…
by mahsa
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ひとつ前のブログを読まれた方から、「プレゼンで強くなれるよう、これからもがんばります」なんてメッセージをいただいた。プレゼンをがんばると言えるのは、かなりパワーがある証拠だ。
私はどかんと大きな勝負を打ち、相対的に勝負をするコンペよりも、できれば、毎日小さなプレゼンを繰り返し、積み重ね、相対的でなない自分の立ち位置を獲得し、知らないうちに結果がついてくる・・・そんなビジネススタイルの方がいいと思っている。ある生物誌の研究家が、進歩するとは数字を追いかけること、進化するとは質自体が変わっていくことだと話されていたが、数字を追いかけるのではなく、質を高めることで、数字が結果ついてくるようになるのがビジネス的進化だと思う。だから、そのために毎日がプレゼンだ。プレゼンとは・・・よく講演や研修で話す。相手にとって贈り物~プレゼント~を差し上げるようなコミュニケーション活動でなければならない。大きなプレゼントは毎日はあげられないけれど、小さなことはできそうだ。情報提供であったり、アイデアであったり、対応力であったり、聞き役になることもあるだろう・・・とにかく自分の生き方、仕事への向かい方自体がプレゼンであるように、日々心掛けたいのだ。コンペに巻き込まれない独自の生き抜き方をずっと模索実践している。難しくはあるけれどやりがいもある。
懐かしきコンペ時代を思う
コンペ。といってもゴルフではない。企画のコンペティション。ひとつの仕事の獲得を目指して複数の会社が競うこと。コンペというのは時代が変わってもなくならない。仕事がある限り、会社がある限り、競争はなくならない。独立して15年間、コンペに縁がなくなったが、会社員時代の13年間は、本当によくあれだけ戦ったと思うほどコンペに参加した。デザイナーに無理をいい、企画書もまだパソコンではなくワープロの時代、パワーポイントなんてなかった。黒いボードにポスター案とか貼って、もっていった。企画書には製本テープだよ。なんてそんな時代だった。おかげさまでそのときからプレゼン慣れしはじめた。とはいえ、本当に練った企画、自分が考えたものでなければいいプレゼンはできないことも学んだ。それでも、仕事は企画の良しあしだけでないところで受注先が決まったりもした。その悔しさに涙をのんだことも数知れず。かと思えば、大手代理店や絶対勝てないと言われた相手を負かして、受注にいたったときは思わずガッツポーズをした。1000万以上という大きな額の仕事も印刷会社時代は多かった。とれたらラッキー、とれなかったら・・・。そんな世界で生きていた。そして15年ぶりに今度はコンペの審査の係を依頼される。
届いた各社の提案書を拝見し、思わず自分の20年前が蘇り、ああ、大変だな、こんな立派な企画書を作って・・・。とれなかったらどうするんだろう。といっても、どこか1社しかとれない話だ。その1枠を賭けて、各社が勝負をかける。点数をつけるというのは、本来したくないことだ。でも仕事だから仕方ない。
当日、複数の会社のプレゼンを聴き、質問もした。企業というのは面白いもので、その会社の得意分野が出るもの、そして会社のカラーや風土も出るもの。決して企画の良さだけで仕事は決まらず、いろんな意味での
総合力かなと聞きながら思った。
結果、1社に決まった。残りは残念な結果。でもその負けた会社にも次はあるし、この経験が次に生かされなければならない。コンペは仕事力を鍛えるにはいい経験。でも、とほうもないパワーが要る。
すべてのプレゼンター、クリエイターに拍手を送りたい。そして受注された会社以外のみなさんにも、ぜひ今後これを生かしてがんばってほしい。と心から思った。ひとりの若き女性のプレゼンターをみて、自分もあんなんだったかなと思うと、つい微笑んだ。がんばってください。コンペはビジネスマンを強く太くする。
職人さんとの出会いを求め続ける
長崎での移動中、道すがらたまたま出会ったべっこう職人のお店。鼈甲がとくに好きだとか、興味があるというわけでもなかったが、店内で職人さんが仕事をされている様子が気になり、店内に入ってみる。長崎の伝統工芸のひとつだそう。ただし、最近はこの原材料も輸入禁止で簡単に手に入らなくなり、また後継人も減っているようで、将来的に厳しそうな業界ではある。今回足を運んだのは3回目。職人さんである旦那さんと、販売担当の奥様といったご夫婦の二人三脚ぶりがとても素敵で、ついついいろいろ聞かせていただいてしまう。
楽器のピックとしても使われているとのことで、伺ったときは東京からの注文品を作っておられた。
私は毎回、クロスのペンダントトップを探し、ステージや講演でも愛用させていただいている。楽器のピックと同様、これが首に付いていると、なぜか声の出がなめらかで良いようだ。そのことを告げるととても喜んでくださるのもうれしい。長崎にあって十字架の鼈甲とはなかなか・・・。ご主人に聞くと、天草のご出身だそうで、中学校を出てすぐに長崎へ修行に来られた・・・そしてもう50年以上経過されたそうだ。まさにこの道一筋のプロフェッショナル。鼈甲職人は全行程できる人から、一部だけができる人も含めたった30名程度だそうだ。そう聞くと、ひとつひとつの作品が貴重であり、なんとか次代に残さねばならないという気持ちにもなってくる。そのためには、その作品の魅力を若い人たちにも知ってもらう必要がある。材料の入手が難しいという点がネックであるが、なんとか長くがんばっていただきたいと、あの熱心なご夫妻のお顔を思い出すと思わずにはいられない。
日本でも世界で地道に頑張っておられる職人さんたちに出会うのが好きだ。彼らのもくもくとした仕事ぶりに惹かれる。やっぱりこの道一筋の生き方は素晴らしい。伝統工芸の維持とは人ありき。誰かに引き継がれることを心から願っている。
何事も、一歩お先に。
日本列島各地での夏休みが終わって、再び満員列車に揺られる生活がはじまる・・・・そんな人も多いことだろう。この夏、偶然にも坂本竜馬を五感で凄いと思う瞬間があった。それは長崎市の亀山社中に上る石段。200段以上のけわしい階段を息を切らしそうになりながら駆け上がった。坂本さん、あんさんはブーツを履いていたからまだ大丈夫だったかもしれないが、それにしても、この坂はすごいしんどい。ここをよく何回も往復できましたな~。きっと他のメンバーよりもすいすいとこれらの石段をかけのぼり、誰よりも早く一歩先の日本の夜明けを考え、行動を起こす作戦を準備していたのだろう。半端でない蒸し暑い夏の午後、この予想しなかったつらい石段を登りながら、負けるもんかと思いながら、私も自分の中で一歩先をイメージしながら、歯をくいしばって一気に駆け上がった。あのしんどさを思えば、東京の地下鉄の階段なんぞ、ちょっとした荷物なんぞ大したことはない。と、夏のプチ修行で悟った。そして仕事も人より先に始めれば楽になる。一歩先にスタートすることで、自分のペースが速く作れるし、ゴールも近くなる。何事も一歩お先に。苦しい道も一歩お先に。の気持ちさえあればしんどさも和らぐもの。人の後を追うよりも、人の先を行く。それがわが道になる。快適な残暑の夏を快走しようと思う。
爆竹は魂の叫びか、悲しみを打ち消す音、それとも?
「精霊流し」。中学校のときに大ヒットしたさだまさしの名曲中の名曲。その言葉と、あの美しいメロディを覚え、今も忘れないし、あの曲のおかげで自分なりの精霊流しのイメージを持っていた。今回、偶然にも8月15日に長崎に滞在することになり、その精霊流しの当日というまさに記念すべき日に居合わせることができ、生まれてはじめて目の前でその稀有なお盆行事に接することができた。昼ごはんを食べた旅館で、女将が語った。「今日はお天気が悪いので残念だけど、せっかく来られたから見てって、(一部方言間違っていると思うが)。爆竹の音がすごいし、火も飛んでくるから長袖で行って、耳栓もしてってください。おとといからここに泊まっているお客さんの部屋、今日掃除にいったら、部屋で船を作っておられたんで、びっくりしましたわ。ヨソで住まわれて、おばあさんがこっちの方か、亡くなってそれで来られてでしょうね。」へえ?旅館の部屋で精霊船を作るとは?そんなこともあるのか。驚きながら、その後に街に出ると、公園、家のガレージ、川のほとりにいろんな精霊船がおいてあり、生まれて観るものなのでじっくり観察してしまう。昨年亡くなった方のおうちで、あるいは街で出す死者を送り出す船。その船にはお葬式でいただいたお花なども飾ったりその家それぞれで違うようだが、故人の遺影、戒名を書いた提灯などがあり、船の表には〇〇家と大きくかかれ、船の名前はどの船も「西方船」という名前。仏さんたちが向かう旅の方向は西、涅槃はそちらにあるという。おじい様、おばあ様の遺影だけでなく、若くして亡くなった方、またペットの小さな船まであって、いかに長崎の人たちが家族を大切にされ、この行事を毎年維持することは多大な労力が要ると思うが、今日までこの風習が残っていることに感動をおぼえる。夕方になると、街のあちらこちらに爆竹の音が鳴り響き、(長崎は花火の消費量日本一だそう)それぞれの西方丸が、各家庭や公園を出発、長崎港の流し場という目的地へ向かう。遺族らが白や黒の家紋入りの法被やTシャツで車を引っ張り、船のあとをついていく。その周辺で爆竹を子供たちが緊張した顔付きで馴らすのも印象的。
ものすごい音がし、煙が立ち込める。中国の祭りのようでもある。すべての悲しみや苦しみを打ち消すような爆竹の音を聴きながら、これは無事に涅槃にたどり着けよと元気に送り出したい気持ちなのか、悲しみを打ち消すための爆音なのか、涙そのものなのか・・・。なぜかしら涙があふれてくる。さだまさしの曲からイメージしていた世界とはまったく違う、現実の精霊流しを目の当たりにし、あのメロディをハミングしながら、手をあわせ、すれ違う船たちを見送った。
原爆資料館で自分も家族も被爆した人のメッセージが残っていた。「私の精霊流しは誰がしてくれるんだろう」
長崎で生きる人にとって、この儀式は生のピリオドか。
連日、生死を考える機会をいただき、再び長崎が自分の中に強く存在しはじめたことを実感する。
平和で、元気で、そして今を大切に生きること。肝に銘じて東京の夏に戻る。
平和とは、なんとありがたいこと。涙の実感記念日
平和とは、なんとありがたいこと。涙の実感記念日
若い頃は広島も、長崎も教科書で学んだ以上にはとくに興味がなかったのかもしれない。あるきっかけで、広島にも、長崎にも足を運び、原爆の本当の恐ろしさを知るようになった。とくに長崎には、宗教的な苦悩の歴史に重ねてのこの悲劇。訪れるたびに、人間の弱さ、エゴ、愚かさについて考えさせられ、罪なき人々への仕打ちが許せず、怒りも悲しみも込み上げてくる。このたび、原爆資料館に再び足を運んだ。原爆が落とされる町の候補はほかにあった。なのに前触れもなく長崎に・・・。東洋一といわれていた浦上天主堂も崩壊した。資料館では、その天主堂の外観が再現されているのも、衝撃的である。
戦争の爪痕を街のあちこちで見る、知る。放射能の恐ろしさを改めて知る。そして、悲しいのは語り部となっておられる方たちの高齢化。いずれ戦争の悲惨さを経験をもって語られる人がいなくなってしまうだろう。
世界ではまだまだ戦いが続く、日本も積極的平和主義とかいっているが、身の振り方、言葉の発し方ひとつでその平和が崩れてしまうこともよく考えなければならない。
この街にくると、がんばって立ち直ってきた人々のことを本当にえらいと思い、敬意でいっぱいになる。
そして、悲しい歴史をいっぱい勉強したあと、私たちは「ああ、おなかすいた」といって食べる食事を選び、また暑いからといって涼しい場所に移動しようとする。こんな風に意のまま、自由に好きなことができる人生こそが、平和である。このことをもっともっと感謝しなければならない。
8月15日に長崎に来たこと。意識していなかったが、いいタイミングであった。資料館のあるスペースに鶴を折りましょうというコーナーがあった。どこから来られたかわからないが、外国人の方が1羽の鶴を折っていたのが印象的であった。
東海新報に掲載いただきました
さる8月11日のチャリティ演奏のことが、大船渡の地元紙「東海新報」に掲載されました。直接取材を受けませんでしたが、若手の記者さんが会場で熱心に取材してくださっていたのが印象的でした。
改めて、大船渡のみなさん、東北のみなさんのお元気!お祈りしております。
