笑顔が増える、増える。

今、小さな自主プロジェクトを行っている。
障がいをもつ皆さんとコミュニケーションをとりながら
一緒に皆さんのテーマソングをつくり、一緒に演奏するという
ものだ。
私自身が、作詞作曲を行うため、約20名の皆さんと個人面談をしたり、
またグループでもコミュニケーションの勉強の場をもうけながら、お互い
親しくなり、どんな曲を作り、歌いたいか、どんな楽器なら参加したいか、
などの希望もヒアリングした。

みなさんと個人面談してから、すぐにメロディは浮かんだ。
信号を待っているときに、皆さんの顔を思い出すだけで、
頭のなかに流れてきた。歩きながらすぐスマホに歌声を録音し、
何度も歌っていたら、頭に刻み込まれた。
そして、ピアノでアドリブで演奏したものを録音した。

昨日、たまたま皆さんが集まる機会があったので、
まずは中間報告ということで
そのスマホに録音した伴奏に乗せながら、まだ歌詞のない曲を
歌い、リズムをとった。

さて、みなさんの反応は??

みるみる、知らぬうちに身体を動かしたり、
手拍子をしている人もいて・・・
部屋中に、笑顔があふれた。
あ、笑っている。あ、笑っている。あ、いい感じ。

歌いながらみなさんの反応を確認し、安堵した。

そして、曲が終わったらみんな大きな拍手をくれた。
「さあ、こんな曲です。これから歌詞をつけます。
そして、皆さんと一緒に演奏しますので、宜しくお願いしまーす」

というと、再び拍手。
ああ、良かった。みんなやる気だ!
帰り際に
「楽しい曲をつくっていただいて、ありがとうございます」
「曲のタイトルですけど~・・・・がいいと思います」
みなさん、声をかけてくれた。

このプロジェクトはここから、本格稼働だ。
想いが現実になるのだと・・・皆さんが何かを信じてくれた、
そんな手ごたえを感じた。
さあ、春に向けて練習スタート!

誰が何を担当してくれるか?絶対条件は全員が楽しめること。
みんなでつくる、表現する歓びを体感して、生きる力になれば・・・

と思っている。
楽しいプロジェクトは妄想からはじまる。


カテゴリー: Essay (Word) | 笑顔が増える、増える。 はコメントを受け付けていません

運ぶ人、届ける人、伝える人に。

ある方から
「心を運んでいただき、ありがとうございます」
という言葉をいただくことがある。
とても丁寧で、感謝が伝わるステキな表現であると思う。

「心を運ぶ」とは、相手に寄り添い、その想いを届け伝える。
ということと理解しているが、
これに近い表現として「心配する」という言葉もある。
こちら、ちょっとネガティブな意味合いにも受け留められるが、
「心を配る」と理解すると、これも改めてありがたいことだと思う。

いずれにしても、自分のことを応援してくれる、見守って
くれるそういった人の存在は、迷いながら生きていく身に
とって、勇気と自信を与えてくれるもの。

たとえ、遠くにいても、どこからでも、いつでも、
心を運ぶことはできる。

今日は父の旅立ちから100日目。
悲しみも、これを節目に変わるのだとか?
その真偽はわからないが、
だんだんその現実と悲しみの感情に慣れていくのだろう。

父も、そして母も、きっと空の上から、
心を運んでくれているのだろうと思うことにする。
そんな風に思う朝。

心運び、運ばれる。
愛とコミュニケーションの原点は、ここにあるのかも
しれない。

運ぶ人、届ける人、伝える人。そんな人を改めて目指す。




カテゴリー: Essay (Word) | 運ぶ人、届ける人、伝える人に。 はコメントを受け付けていません

悲愴に惹かれて・・・

実は「悲愴」の二文字に、小学生のころからちょっと憧れていた。
五年生の時、合唱団であの名曲に出会ってから・・・。
ベートーベンのソナタ8番「悲愴」 の三楽章である。
ピアノ曲が合唱曲になっており、その美しいメロディに感動。
気に入って、いつもいつも、鼻歌で歌っていた。
悲愴。その意味は、深くわからず、理解せず・・にである。
単にその音色の美しさから、大人っぽい、知的な感じ・・という印象であった。

そう、、あるいはチャイコフスキーの交響曲にも
「悲愴」というタイトルがついた名曲がある。
悲しみの原野が広がってきそうな、名前にぴったりの沁みる曲だ。
この曲の背景には、名前のとおりの悲しい物語があると読んだことがある。
作品は、作曲家の人生とともにあるのだということを学んだ。

さて、その「悲愴」の意味をたどると、悲しく心が痛ましい様子とのこと。
同じ「ひそう」には「悲壮」という文字もあるが、こちらは悲しくも元気というか、
パワーもあるという前向きな要素も含まれているようだ。
普段はあまり使わない「悲愴」は、深淵なる音楽や美術に適した言葉という
印象だ。

さて、久しぶりに、小学生のとき、父に無理やり買ってもらった分厚く、
ボロボロになった楽譜を引っ張り出して、そのピアノソナタ8番「悲愴」を、
40年ぶりに全楽章を弾いてみる。
きちんと弾けないかもしれないのに、
急に、その「悲愴感」を味わいたくなったのかもしれない。
1楽章の荘厳かつ苦悩に満ちた重音、二楽章の優しさに包まれた
柔らかいメロディ。そしておなじみ三楽章は美しく、
そして永遠の悲しみに包まれ、余韻を残して終わる。
と、勝手に表現するとそんな流れ。
人生とは、生きるとはそんなに悲しいものなのか・・
と問いながら味わえる。悲愴なる世界のなかで、心が落ち着き、
すっと背筋が伸びて終わる。
私は、それでも生きる!という感じだ。

それにしても、見事なソナタ。いつ弾いても最高の作品だと思う。
今さらながら、ベートーベンのこの曲に向かう背景を改めて知りたくなる。
悲しみのなかに、静けさと落ち着きをみつけることができる不思議な力。
そう、悲しみとは、浮き沈みもしない、
安定した生きる力になっているのかも
しれない。

今になって、改めてこの曲が好きになった。
もし、「悲愴」を弾きながら、息絶えたら、なんとかっこいいことか・・・。

生きるとは、悲しみとともに、悲しみを乗り越えて・・・。
そう。この「悲愴」とはしなやかに生きるヒントを
与えてくれるのかもしれない。

カテゴリー: Essay (Word) | 悲愴に惹かれて・・・ はコメントを受け付けていません

無人島へもっていくもの

たとえば、無人島に行かなければならない事態になったとして、
食べ物はその島にあるもので調達できるとして、
あと、パソコンかピアノのどちらか1個だけ持って行っていいよ、
と言われたら?
私は、今のところ、後者を選ぶだろう。

パソコンはこの社会で仕事、生活をする上で、不可欠な道具であり、
ネット環境ももちろん欠かせない。

一方、これがなければ、と思うことも時にある。
あれば便利であるが、なければ、もっと自由になれるのかも。
誰かとつながっていないことで 生きていかれない人もいるかも
しれないが、
今、突き詰めていくと、いかに孤独を楽しめるかが、幸せに人生を進む
コツだと思う。

ピアノは、孤独に生きるための最高の友。
友人は、「ピアノはひとりオーケストラだ」と言い、納得したが、
この1台で、なんでもできる。ワルツから、ソナタ、演歌から、ジャズ
・・・。どんなジャンルも可能であり、飽きることがない。
そして、演奏しながら、
タイムトリップも、世界旅行も、そして対話や、感情表現も自在。

最高のそして、精神性高い仮想世界が広がり、楽しめる。

幼き日は、このベートーベンは何を考えて、ショパンは、リストはどんな
想いでこれを作ったとか、時代背景もわからずに、ただ指を動かしていた。
今になると、知識も少し身について、
いろんな想像が膨らみ、演奏することで、心の世界が豊かになる。
そう、ピアノがあれば、幸せな時間がもてる。
つくづく、いいお宝を与えてもらったと思う。

私にとって、パソコンもピアノも不可欠な
コミュニケーションツールであるが、
孤独が募ることで、後者の存在に
改めて感謝の気持ちが生まれてくる。

内面と対話しながら、孤独と楽しく生きる。
さらに模索すべき、「これからを生きる」テーマのひとつだ。
と、こんなことを考えたりしながら、バッハを聴く。

カテゴリー: Essay (Word) | 無人島へもっていくもの はコメントを受け付けていません

「生きとるだけや!」「生きとるだけでいいやん!」

無事、今年初めての公演は無事終了。ミニコンサート。
人数少な目、時間短め。だからミニコンサート。
でも、演奏はミニではなく、ひとりオーケストラのつもりで。
この季節は指がかじかんで、ピアノ演奏はちょっと厳しいが、
慣れてくるころに終わり。
ともかく、多くの拍手、「楽しかった!」「オリジナル曲は泣けてきた」
と多くの声援をいただき、次回の予約も何名かされていった。
皆さん、笑顔でお帰りになって、本当に良かったと胸をなでおろす。

開催日が1日2日ずれていたら、今回もコロナで中止になっていたかもしれない。
ギリギリセーフの開催、良かった。

そんななか、長年応援いただいているご夫妻がいる。
もう10年以上、コンサートやライブには足を運んでいただいている。

そして何十年も応援していただいている。
旦那さん、だんだん耳が遠くなってきて、ほとんど聴こえていないようであるが、
それでも積極的に足を運んでいただける。
おじさんは、ずっと演奏する姿を見ながら楽しんでくださっているのかな。
何か見ているだけでも、楽しいのかな。
と思い、見ているだけでも何か感じてもらえるようにと、
動作を大きく意識したり表情豊かに・・とは心がけるが、
本当に楽しんでもらっているのかな?と
ずっとずっと視線が気にはなるが、とにかく楽しみにしてきてくださる。
しばらく、体調を崩され、1年近くお目にかかれなかったが、
今回は久しぶりに奥様に連れてきてもらい、なんとかご参加。

帰りがけに声をかける。
「何をするにも時間がかかって、遅れてごめんね~。」
ミニコンサートに行くことが大仕事になっている・・。
しんどくても、夫婦で協力しておいでいただけることに、じんとなる。
「お元気ですか?」
「もう、生きとるだけや!」
昔のように体が思うように動かなくなったということを指しておられるのだろう。
すると、奥さんが
「いいやん、生きているだけでいいやん!」
と一言。

ああ、いい夫婦だなと思った。
「老々介護で、こっちも疲れてきたけどね」
と言いつつ、それでも一生懸命、旦那さんのお世話をされているのだ。
奥様の運転する車で帰っていかれるのを見送る。
「元気でね!また来てね~」
お互いに手をふる。

そう、生きているだけで!十分。
生きていると、死んでしまうのは、大違い。
また会えますように。
聴こえなくても、きいてもらっている。
そんな気がしている。
来るだけで、元気になれる!
そんな演奏ができたらと思う。
どんな人にも伝わる、そんな演奏、表現を目指していきたい。

生きているだけでいいやん1
だから、今日も元気にがんばろ!

カテゴリー: Essay (Word) | 「生きとるだけや!」「生きとるだけでいいやん!」 はコメントを受け付けていません

あの日をふりかえり、大切に歌う、生きる。

あの1月17日の朝のことは、今も忘れない。阪神・淡路大震災・・。あれから27年も経つという。
つい最近のことのようにも思うが、想えばずいぶん長い歳月だ。
この間の地元の皆さんのご苦労は計り知れない。
おかげで神戸の町は見事に復活したが、心の傷跡は消えることはない。
お亡くなりになった方へ、今、改めて祈りを捧げたい。
ご家族にとっては、生涯忘れることができない、記念日だ。

この震災後、国内外でこれまで経験、想像もしなかったような事件、事故、災害がくりかえされ、
安全に無事に生きることが当たり前ではなくなった・・・。
世の中が本当に変わってしまった。
確かなことは、今、この瞬間、ここに無事に生きているということ。
明日はわからない。だからこそ、今を大切に生きなければ。と思うのみ。

この大切な本日、今年初めての演奏活動を行う。
何があっても、続けていこうと決めたことを生きている限り、
出来る限り続けていく。
「Pu・Ka・Ri」というオリジナル曲がある。
大切な人といること、ともに生きることが、いかにありがたいことか・・。
何気ない幸せがいかにかけがえのないことか・・。
そんなことを伝えたい曲だ。
無意識に書いていたが、震災後に改めて聴くと、結果的にそのようなメッセージとなった。

今日に感謝して、大切に心を込めて。お届けしたい。
そして、今まさに、トンガで被災されている方々への祈りを込めて・・。

以下は、今日のコンサートの配布資料の一部です。



カテゴリー: Essay (Word) | あの日をふりかえり、大切に歌う、生きる。 はコメントを受け付けていません

受験という経験を活かす。

その当時は、共通一次、二次という名称であった、大学入試試験。
とにかく実家から出たいという思いだけ、正直、勉強はまったく
していなかった。塾も行くこともなく、いい加減なわが受験時代。
ただ、「受験生」という窮屈な時間から逃げるため、入試費用稼ぎのため、
バイトもした。ピアノはある程度続けたが、受験勉強はお恥ずかしい限り。
家庭によっては、親も必死。入るために、入ったあとも、お受験は親に大きな
負担をかける。それもあり得ないと思っていた。

大学に入ることで、人生が約束されるかのごとく、大学入試に熱心になる。
アメリカのように、入ることよりも、出ることの方が難しい方が、本当の意味が
あると思うが・・。
とにかくいろんな雑念多き、わが受験期は、結局、それなりの結果にしかならず、
ニッチな道を進むきっかけとなった。

あれから40年。今となれば、あんな窮屈な受験は二度としたくないという思いと、
もっと勉強しておけば、違う道、違う人生になっていただろうか?と思う。
でも、結果、この人生が気に入っている。

あの緊張感は、かなりのストレスだ。
今日二日目の試験に向かう受験生。そして送り出すご家族。
この寒さの厳しさに加え、コロナへの不安のなか、さらに津波の心配など。
ざわつく環境のなか、実力を発揮するには頭脳だけでなく、
強靭な精神力が必要だ。
二度と経験したくないが、結果はともかく、そのプロセスを経験したことは
人生に必ずいい結果をもたらすと思う。

残念なことに、昨日、大変不幸な事件が起こってしまい、
受験生への影響がさらに気になる。
また、受験ひとつで人生を狂わせることの不幸も心が痛む。
あとで振り返れば、それは人生のプロセスのひとつで、貴重な経験
としていい思い出になるはず。

もちろん、今は目の前の本番を
悔いないようにがんばってほしい。
私たちの時代より、不安な要素が多い全国の受験生に、
心からエールを送りたい!!
美味しいばんごはんが、待ってるよ!

カテゴリー: Essay (Word) | 受験という経験を活かす。 はコメントを受け付けていません

雪と運転。

今日はむーさんの命日。
もう5年になる。

子育てを終えて、専業主婦から50歳で起業。
そこからのおつきあいだった。
本当に一生懸命で、勉強熱心で・・。
カラーコーディネイターとしてのキャリアを
積み重ね、地域に貢献、そしてさらに発展を目指して
人脈も広げ続けた、情熱と努力の人。

私の演奏活動も心から応援してくださって、何度も何度も
新潟、東京、京都でのディナーショーやライブに参加された。
ハレの日が体験できるからと、おしゃれをして現れる、そんな
人生を楽しむ方でもあった。


そして、
「センセ、私 ヘビ年生まれだから、しつこいですよ。
わが上越でもライブ今年こそ、やりませんか?お願いします!」
と打ち明けられた、亡くなる1年前。
この情熱におされて、上越での初ライブを彼女のフルサポートを
いただき、開催。そして盛況にて幕を閉じた。
二人とも力尽きて、雨のなか「お疲れ様でした」と別れたのが、
最後となった・・。

その日は大雪。富山への出張。車で向かう途中、トンネル内で
追突事故。そのまま亡くなったと地元のニュースが報じた。
耳を疑い、飛んでくる情報がこの世のものと思えなかった。
あの日の不思議な感覚を今も忘れることができない。
あっけなく逝ってしまった、ムーさん。

この日が来ると、あの笑顔と声。そして雪と、上越の町が
浮かんでくる。

今日も雪国に手を合わせる。
雪と運転。本当に、本当に危険だ。
ハンドルを握るすべての方へ。本当に気を付けて。

5年経っても、存在は消えない。
改めての「ありがとう」をムーさんに届けたい。

カテゴリー: Essay (Word) | 雪と運転。 はコメントを受け付けていません

心に沁みる手作りPOP

個人のお店は、本当に面白い。
チェーン店にはない、大型店舗にはない、真心と、ちょっとした工夫がある。
昭和の時代、一世を風靡した岐阜の柳ケ瀬。美川憲一のブルースで一躍有名になった商店街。しかし、今は他の地方都市と同じく、町なかの店は寂しい限り。
でも、古き良き昔を思い出すために、なるべく通るように、ゆっくり見て歩き、何か面白いものを発見するようにしている。

そんななか、最近、気に入っているのが、写真の小さなこだわりの食品店。
地元限定の食材から、お惣菜から、お菓子・・・小さな食料品店。
店番はとても品の良い、やさしいおばあさん。人柄が良いのだろう。
途切れることなく、常連さんが入ってくる。
年をきいたら81歳だそうで、母と同じぐらいと思ったら、うるうるきた。
そして、
その店内で見かけるPOPが心に沁みる。
基本手作りで、シンプルだ。お年寄りにはすぐわかるだろう。
とくに「美味しいパン」と書かれたPOPに目が止まった。
マジックで何重にも書いた手書きで、決しておしゃれとかではない。
しかも、商品名ではない、一般名詞である。
でも、「美味しいパン」とだけ書いてあるところに、
お客さんの好奇心は集中する。
店の人が美味しいというから、さぞかし美味しいのだろう。
「このパン、本当においしいの?」と聞いたら
「おいしいよ~。店長おすすめ」とかえってくる。
余計な能書きはない。
すごい説得力だ。パン自体は、実は他でもみかける菓子パンだ。
また、美味しいだけの特徴ではない商品であるはずであるが、
この一言が、最大の特徴で、在庫が減っているということは
その言葉が、お客様に刺さっているのだ。

「おもしろいねえ。これ。最高。写真とっていい?」と
笑いながら、撮影させていただいた。
これこそ、小売店のあるべき姿。発信すべきメッセージだ。
本当に感動した。でも、私はパン以外のものを買ったけれど・・・。
このお店は、今ふるさとでお気に入りのひとつだ。
また、おばあさんと楽しいPOPたちに会いに行こう。
今日も柳ケ瀬で買い物する皆さんが、利用されるだろう。
近所の高島屋とは別世界。そこが気に入っている。
がんばってほしい!

カテゴリー: Essay (Word) | 心に沁みる手作りPOP はコメントを受け付けていません

「仕込み」と「お膳立て」で、むふふ・・・。

最近、仕事は料理と同じかもと思うことがある。
どうせ作るなら美味しい料理。
あるもので、限られた時間で工夫をする。
どうせやるなら、喜ばれる仕事、
そして自分にとっても、やってよかったと思える仕事にしたい。

そうなるためには、
何をつくるのか?完成品がイメージできていること。
そして、それをつくるには
どんな材料が必要で、かける時間はどれぐらい、
どんな味付けをして?盛り付けをして?
と、料理をつくるように、仕事の準備をする。
そう、「仕込み」と「お膳立て」だ。
たとえば、会議ひとつをとっても同じだ。
会議は、仕事の節目節目の確認、共有の場である。
それがうまくいくためには、事前の仕込みとお膳立てが必要だ。
この会議の目的を達成するために必要なことは何か。
そのために何を準備する必要があるか?
それをするために誰に働きかけるか・・・などなど。
そして、うまくいくためには、当日の進行もポイントだ。
さらに美味しい料理を召し上がっていただくためには、
ムード作り(演出)も欠かせない。

日頃、多くの会議に参加したり、仕込みやお膳立てに関わるが
会議が終わったあと、全員がいい顔になっていること!
がいかに大切かを痛感する今日この頃。
終わりよければ・・が大切だ。
そのためには、やはり、仕込みとお膳立てが必要なのだ。

何かと仕込みを手伝う、ナビゲートする機会が多いが、
この黒子の存在は、脚本家であり監督のようである。
毎日、そんな気持ちで、会議もひとつのイベント、ショーと
想えば、むふふ・・・と、主催者も参加者も楽しくなれるはず。




カテゴリー: Essay (Word) | 「仕込み」と「お膳立て」で、むふふ・・・。 はコメントを受け付けていません