ワクチン接種後2日目でもあり、また世の中がお盆休暇中ということもあって、
少し静かに過ごそうと思った週末。
前から気になっていた、母がお世話になっていた皆さまへの残暑見舞い・・を
思いつき、いっきに書き上げる。
こういうときじゃないと進まない。
それでほっとしている間もなく、次は大雨の被害で気になる人への連絡。
九州の知人関係や、そちら方面が故郷の方へ、お見舞いメッセージを送る。
長崎、佐賀、大分、福岡、広島・・・そして東海地区・・・。
あわせて、コロナで大変な首都圏、大阪・・・。
言葉をかけたくなる人が、たくさん出てきた。
ご無沙汰している人にも、久しぶりの残暑お見舞いを兼ねてコンタクトしてみる。
すると、すぐ返事がかえってくる人も・・・。
ああ、みなさん、コロナ、猛暑、そしてこの豪雨のなか、がんばっておられるな~!私もがんばらなくちゃいけない!と改めて勇気をもらう。
最後の結びは
「落ち着いたら、会いに行きますから!」
いざというときに声を掛け合い、そしてそこからまた関係が再開する。
と、そんなこともある。
元気で良かった。気になる人には、やはりこちらから連絡をとっておきたい。
寝ている間に返信をくれる仲間もいる。
ああ、こちらも無事かと安堵する。
心あたたまる人間関係があることで、人は苦難も乗り越えることができる。
この夏は、本当にいろんな学びを与えてもらっている。
普段バタバタしていると、心落ち着けてなかなかできないこと。
大切な人に気持ちを伝えること。
それにしても、雨は怖い。
夜のうちに、だまって水かさを増す。静かに忍び寄る。
夜が明けたら、被害がさらに大きくなっていないか・・・。
実家の近所にも、避難指示が出始めているとテレビの字幕で知り、
他人事ではないと再認識。
すべての災難が、早く終息するように。
今年の夏は、ただそれだけを祈りたい。
お便りと安否確認で過ごす盆。
できることを、まず、する。
ワクチン2回目を接種した。ファイザー製。最近の報道によると、デルタ株への
効果は、従来と比べると低いそうだ。それだけ、デルタ株の感染力が強いということだ。
ウイルスとワクチンの熾烈な戦いが続いている。
ワクチンの接種について、アメリカでは、政治や宗教によって受け入れ方が
異なることで、国の分断がこんなところにも。その、その結果、再び感染が広がっているという。健康にまで、政治宗教が介入するとは、いささか厄介だ。
個人の心情が、他者に影響をもたらしてしまう。感染症は複雑だ。
何を信じる、誰を信じるかによって、人の行動は変わるため、リーダーシップは重要だ。
日本でも然り。非常事態宣言を受け入れるかどうかは、リーダーシップにかかっている。
ワクチンに話を戻す。
私にとっては、接種しないと施設の父にも会えず、今後出張にも影響するため、
迷わず接種。リスクは何にもつきものだ。
ワクチン接種後、その接種済のシールを受け取りながら 担当の人に
「これがあれば、海外に行けるということはないですよね」
「そうですね。これはあくまでも、2回接種したというものであり、
そこまでは使えないと思います」
「じゃあ、そういう証明書はどこに行けばもらえるのでしょう?
どこできいたらいいでしょうか?」
「いやー、わからないです。まだ政治が何もいってきていないので」
想ったとおりの答えで、まだこの先の道筋は見えていない。
それでも、
でも、接種しないと次に進めない。
感染しても、重篤にならないなら、まだいいと思わねば、進めない。
期待しすぎず、でも、少しでも効果が見込めるならば、選択しない手はない。
おかげさまで、副反応は、今のところ、ほとんどない。
迷いながらも、できることをする。
道は開ける、光のある方へ進んでいる。とそのことを信じるのみ。
やさしい顔を学ぶ。

何百年も同じ顔で、その時代時代の人々を励まし、慰め、見守る。
そんなことができるすごい存在。仏像や、マリア像など、信仰の対象
物は、表情が大切だ。
世の中には、無数の仏さんがあるけれど、私が一番好きなのは、
ふるさと岐阜 正方寺にある、この大仏さん。かご大仏とも言われて
おり、製法にも特徴があるようだ。
そして、大きさでも、知る人ぞ知る、日本三大物のひとつ。
と聞くと、驚かれる方も多いが、
そう、奈良や鎌倉に負けないお宝が岐阜にはある。
1812年の完成ということであるから、出来上がってすでに200年以上が経過。
お寺さんはこの大仏はもとより、この仏さんがいらっしゃる大仏殿の維持
管理にも力を注いでおられる。火事や自然災害、経年劣化からお宝を守るのは
大変な仕事だ。
以前この大仏さんのことを、地元の新聞のコラムに書いたと
坊守さんに告げたら、たいそう喜んでくださって、
「うちの大仏さんのファンでいてくださるんですか!!記事にしてくださったんですか!ありがとうございます~。」
と、ちょっと興奮気味に話してくださったのが印象的であった。
そうファンなんだ。その表現がこの大仏さんとの関係にはふさわしい。
檀家さんですか?よりも、ファンがいい。
それはともかく、この大仏さんの表情は本当に愛らしい。
思わず、話しかけたくなるのだ。
奈良や鎌倉の大仏さんには、そういう気持ちがおきなかった。
この岐阜大仏さんは、人間味があり、笑っておられるような、
耳のサイズのバランスがユーモアにつながっているだろうか。
今回久しぶりに足を踏み入れ、
「お元気でしたか」
と声をかける。
大仏さんから、表情を学ぶ。
話しかけたくなる人になる。
この人なら、聞いてくれそう。
そんな優しさを醸し出すように。
普段、つい、考え事をしていると眉間にしわが寄るけれど、
時々、いい顔を見て、いい顔を学びたい。
歴史を越えて、いい顔は変わらない。
ふるさとは遠きにありても、近くにありても。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」
とあまりに有名な室生犀星の詩があるが、
最近の私の心情としては、これに対して
「ふるさとは近くにありて感じるもの そして愛しく抱くもの」
と、そんな表現をしてみようかと思う。


この写真は、最近の、ふるさと岐阜の長良川の朝と夜の様子だ。
朝は朝焼けのころ、夜は鵜飼いの「総がらみ」というクライマックスの前の様子を遠くから見ていたものだ。
かの信長は城の上からこの町を見下ろし、天下布武に思いを巡らせたかもしれないが、私は岐阜城を見上げるこの長良川に、ふるさと岐阜への誇りを感じる。
ここから見る岐阜が大好きで、ここがふるさとであることを、誇りに思うのだ。
岐阜を出る若き日もよくここにきて、考え事をしたり、河原で歌ったり、スケボーしている少年と話したり、旅立ちを夢見たり。ここに来ると普段と違う、自由と解放感を感じることができた。
そして、岐阜を出たあとも、この場所が一番好きで、何度も何度もここに、会いに来た。
京都に行っても、東京に住んでも、ふるさとは岐阜である。と思わせてくれるのはこの景色だ。新潟の万代橋を渡りながら、いつもこの風景を思い出していた。
今、改めて朝と夜、この場所からふるさとを見る。
幸いなのは、もしかしたら、時代は違えど、
信長が同じ場所で夢を見た時期があったかもと
想像を働かせることができることだ。
生きる限り、どこにいこうとも、ふるさとは永遠である。
そして、勇気と夢を与えてくれる存在。
今、ふるさとに帰る人が多いこの時期。
それぞれが、それぞれのふるさとに思いを巡らす時期。
生きる上で、大切にしたいひとときであると思う。
やっぱりリアル、やっぱり話そう。
コミュニケーション・クリエイターともう四半世紀近く、名乗っているけれど、
コミュニケーションの難しさは、今も、毎日のように感じ、試行錯誤を続けている。いろんな人と会い、交流しながら、物事を進めていく上で、そのことは永久の課題なのだろうと最近思う。
今日はうまく伝わったとしても、明日、違う相手、違う内容で必ずしも、うまく
いかないこともある。
親しいからと言って、常に伝わるということもない。
親しき相手こそ、違う存在であるということを、そのたびごとに意識しなければならない。
そして。コミュニケーションには、便利なツールがたくさんあるけれど、
それを使うが故に、その手法に慣れてしまい、相手の置かれた状況など
考えられずに直進してしまい、柱に激突ということもある。
できれば、できる限りリアルがいい。
できれば、直接話した方がいい。
ちょっと気になったら、電話に切り替える。
ちょっと気になったら、会いに行く。
しまった!と思ったらすぐにあやまる。
わからなかったら。よくきく。
結局、コミュニケーションは相手ありき。
少なくとも、相手に不安や不快、不信の3Fを抱かせては
いけない。
日頃から反面教師が云々といっているけれど、自分自身が
そうなっていることもある。
とにかく、
コミュニケーションは大切だ。
お互いを信頼で、絆で結べるいい関係になるように
きれいな花を一緒に咲かせるように、
せっせと、水やりをしたい。
涙がたまって、思い出になる。
お盆の週を迎えた。
各地でさまざまな行事が行われる。とはいっても、コロナ禍で、いろんなことが
ソーシャルディスタンス、三密を避けて・・・。
本当は長崎の精霊流しも、京都の五山の送り火も、駆けつけたいが、今年は
お預け。何より今回は、母の初盆となる。
といっても、大したことはできないが、毎日一緒にいるような感覚で過ごすようにしているので、猛暑の今日、赦してくれるだろう。
毎日一緒にいるような感覚で・・。
と言っても、やはりまだ慣れない感じは残っているし、
ある日突然、「あれ?いないんだ・・・」と、果てしない不安というか
哀しみがわいてくることがあり、涙があふれそうになることもある。
でも、もうその回数は減っている。
気持ちが薄らいだわけではない。人様によると、日にち薬だともいわれる。
その気持ちに慣れてくるということもあるのだろう。
最近思うこと。
涙は確かにだんだん出なくなる。
泣かなくなるのだ。
泣きたいときは、涙が心の海に流れていって、
たまってたまって「思い出」になるのだ。
最初は、思い出すから泣いていたのに、
今度は、素敵な思い出に昇華していくのだ。
そう、時間ごとにそうなっていくのだ。
考えようによっては、素敵なことだ。
新たな永遠の存在になっていくのだ。
母との思い出は・・・。
無数にある。
毎日その思い出とともに、生きることになる。
一緒に在る。ということで、悲しみを越えて生きる。
初盆。
ほおづきを買った。涙のカタチに似ているような・・。

長崎の鐘が心に鳴り響く朝。

写真は夏前の長崎市内の様子。新幹線の工事が着々と進んでいる。
どんどん未来に向け、発展していくかのように見える。
長崎が、どんどん近くなる。嬉しいような・・・なんともいえない気持ちもある。
76年前の今日、この町の原爆が投下された・・・。
見事に復興し、港町としての落ち着きを取り戻しているといいながら、
その傷跡は今だ消えるはずもなく、ただ、その犠牲になった人々やその子孫は
今も静かに祈りを捧げる。
「長崎の鐘」と言う曲が好きだ。原爆で最愛の妻を亡くした医師、永井隆氏の深い祈りが伝わる。
そして鐘の音は、平和の象徴。原爆で浦上教会の鐘が焼けおちたが、その存在は今も残っており、形を残し、平和の大切さを訴えている。
この上なく悲しいけれど、力強さを感じる名曲であると思う。
今朝はこのメロディを胸に、そして長崎の空を想う。
どんなことがあっても、人は争ってはいけない。平和の意味を心から考えねばならない。
悲しみの歴史を越えて、やさしく、たおやかに生きつづけている長崎の人々の笑顔が浮かぶ。
この現実が風化しないように、しっかり伝えていかねばならないと思う。
祈りを込めて、長崎の鐘を心で鳴らそう。
狂騒から、協奏、そして真なる共創へ。
コロナの祭典。コロナ感染者数と、メダルの数の報道。なんだか本当におかしな現実。なぜ、今、同時進行しなければならないのか、私には今も、まったく意味不明。
お祭りときけば、わくわくじっとしていられない人たちの行動から、
またコロナの祭典が盛り上がる。こっちは記録更新してはいけないのに。
大阪の緊急事態宣言で遊べない、外食できない人たちが近場の滋賀県に出入りして、外食のお店は満員、行列。その結果からか、滋賀県でも急激に感染者が増えたと、地元の人から聞く。
祭りときけば、もういいか、もう開放、我慢したから自由にさせてくれ~。
今、日本中がまさに狂騒の夏となっている。
もういいかげんに。
コロナに感染しなくても、コロナ禍の環境故に寿命が縮まる高齢者がいる。
自分の両親も少なからず、その対象だ。
感染者数、メダルの数。こういった目先のことばかりに目をやらず、どうしたら
世の中が鎮まるのかについて、きちんと導くリーダーやマスコミはこの国には
不在のようだ。
落ち着いた日々に戻りたい。
特別な人の金メダルよりも、子供たちの運動会や、公平にみんなが楽しく
日常をおくることができる、そんな社会がいいのに。
こわれている。
オリンピックより平和を祈る静かな8月6日がよかった。
こわれている。
狂騒曲ではなく、静かな協奏曲が流れる日々、そして言葉ではなく本当の共創社会を今、改めて求める。
早く、終わってほしい。
自分が映るのは・・・
鏡はよく見る。誰でもそうだと思う。1日に何回も見ている。
最近はZOOMで、モニターに映った自分を見ることがある。
ああ、こうやって見えているのか~。
さらに、それが記録され、ネット上に公開される・・・。
そんな事例は多いはず。
今回、オンラインミーティングで話している延長で PR動画をということになり、そのまま録画し、編集されたものを確認。
自分の顔と、視聴者に向かって話している表情を見る。
人にはいつも言っているが、自分は・・・となると話は別だ。
皺は仕方がない。口元が歪んでいる。声は、まあいいか。
原稿なし、いきなり収録、アドリブで良かったかな。
とにかく自己点検をすると、大変厳しくなる。
映るのは難しい。
改めて、撮られる仕事、見られる仕事をしている人は凄いと思う。
ライブではそんなことは感じないが、記録となると、緊張するものだ。
自分が映る、、は慣れることがない。
健康とコミュニケーション。
普段、コミュニケーションの大切さをお伝えするときには、多くは発信する側の立場の話が多い。プレゼンの話にせよ、発表にせよ、とにかく自分が伝えたいことを、どうしたら伝わるか・・。という話が多い。
一方、それを見る、聞くといった受け手の姿勢も大切で、コミュニケーションとはまさに、この両者がうまく交わることで、より良い関係を育むことができる。
コミュニケーションが好きな人は、話すことが好きな人、いろんなことに興味がある人。そして、その楽しいコミュニケーションを続けるには、健康が前提であることに最近、気づかされることが多い。
とても快活で、元気いっぱいで、周囲を喜ばせることが大好きな、そんな知人がいる。
話すときもはっきりした声で、聴きとりやすい。
その方と久しぶりにお会いした。
すると、どうやら聴覚が最近不調のようで、人の話す声が聴こえなくなったという。
話すのが好きなのに、相手の反応が聴こえないというのは、とても困る。
会話がつながらない、キャッチボールができないので、コミュニケーションの良さを知っているだけに、不便を感じ、だんだん話すのが嫌になるとのこと。
聞こえないということは、本当に苦痛だと・・。
「今は、補聴器もいいのが出ているみたいですから、トライしてはどうですか?メガネと思えば大丈夫ですよ」とおすすめする。今回は、密になってはいけないと思いつつ、ついつい、その方の耳元まで近寄って言葉をかけたり、最後は筆談もした。
「そうですね。聞こえた方がいいですしね」
そう言いながら、別れる瞬間まで明るく、元気に会話しながら、手を振った。
年を重ねると、いろんなことが起きる。原因はいろいろあれど、とにかく
昨日まで当たり前だったことが、そうではないと気づかされることが多くなる。
私も、他人ごとではないと思う。
聴覚。そこでベートーベンを思い出す。
聞こえない世界で、また治療方法も確立されていないその時代、本当に不便で不快で、不安な日々を送りながら、そのつらさを作曲に向けたのかもしれない。
聞こえない世界。見えない世界。言えない世界。
これらの障害は自分の世界を閉ざしてしまう。
コミュニケーションが難しくなると孤独になる。
どんなにストレスを抱えていただろう、そんななかで、数々の名作を生み続けたベートーベンに頭が下がる。さぞかし、つらかった。そんなもんじゃなかったのだろう・・。
五体満足であることを当たり前と思わず、健康であることに感謝して、より一層の努力をせねば・・と思えてくる。
生きているうちは、元気にコミュニケーションしたい。
だから、必要に応じて、いろんなサポートを活用すればよい。
そうそう、あんなに抵抗があった老眼鏡。今は普通に持ち歩いているではないか。
背に腹は代えられない。
今、聞こえる今、しっかりその喜びを感じておこう。
当たり前の世界は、永遠ではない。
コミュニケーションなしでは生きられない。
改めて自覚し、今日も笑顔でハッピーコミュニケーションを!