子ども心に向かう修行。

お子様向けのライブを久しぶりに担当する。
だからこそ、新鮮であるし、どきどきわくわく、いや、ドキドキハラハラである。
大人は騙せても、子供はごまかせない。
すぐ飽きる、笑っていたと思ったら、すぐ泣き出すかもしれない。
その怖さがあり、ずっと考えていた。
どういう企画にしようか、自分にしかできないオリジナリティな発信かつ
お子様に喜んでいただける企画について。

信頼できる知人からは、マーサならではためになるトークを、おまじない風に入れるといい。
などのありがたいアイデアもいただき、そんなこともコンテンツに入れつつ、
ライブも、自分らしさが出るようにと、いろんな楽器を集めてきて、それを使いながら
のオリジナルお祝いソングを即興で作るなど企画した。
あとは、秋をテーマにしたメドレークイズ、ジャンケン大会、
オリジナルの曲を絵本風にして、演奏・・などなど・・。

このために、いろんな仲間のお世話になり、お知恵をいただき・・
なんとか企画をして、本番に臨む。
次の大人向けライブが2日後に迫っているが、それよりはまずはお子様向けのステージを優先。

さてさて、やってみて、いろんなことがわかってくる。
そして、子供とは、大人には想像できない反応をするということも、
肌で感じ、む?どうしよう?という一幕も。

子どもは我慢できない。
子どもは素直。

改めて、1ステージやってみてわかったことがたくさんある。
やっぱり、考えているだけではわからない。やってみることで
わかってくる。そして自信もついてくる。

わかったことは、マーサワールドは子供にも通じそうだということ。
もう一歩 もう一歩 磨いていったら、もっと伝わるだろう。

この1回目が正直とても怖かった。でも、終わってみればもう大丈夫。
何でもゼロからイチが一番苦労するのだ。

よし、なんでもござれ!と勇気が湧いてきた。

思い出せば、動き出せばヘッドセットのマイクが外れていったり、
恥ずかしい一面も、一幕もいろいろあるが、それがあるから
人間進歩していくのだ。
経験は最高の知恵袋だ。
あらためて・・。つきあってくれたお子様に感謝を込めて。

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またまたサビエルのおかげで・・

フランシスコ・ザビエルのおかげで、日本は開かれた国になった。
西洋文化や思想を取り入れるきっかけなったことは間違いなく、この方のおかげ。

妄想に妄想を重ね、この数年楽しく生きてきたが、その妄想とは、
ザビエルと自分はつながっていると思いこむこと。
その生き方、生きざまを想像し、尊敬の念を重ね、生きることについての
勇気を得た。
そんな風にザビエルのことを想い、歌い、3年前は平戸へ進出、
そしてこの12月には、山口に出向くことが決まった。

なんと山口にもサビエルを慕い、熱心に町おこしをがんばって
おられる人がいることを知る。
サビエルが伝えたキリスト教、この町で執り行われた日本初の
クリスマスミサ。
そのことをきっかけに、山口市の12月をクリスマス市と銘打って
活動を10年続けている人。

わが町の特徴を、こんな切り口から発信しようとがんばっておられる。
なんと、まっすぐな生き方をされている方か。

まさにザビエルがくれた新たなご縁。
何かこれまでにない、未知の世界が動き出す予感。

私にとっては55歳に向けての天からのギフトだ。
こうして、ザビエルが足を踏み入れ、人びとと交流した
山口に。私の今年のクリスマスは我が人生最高の体験になりそうだ。

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親孝行は自分のため。

親孝行という言葉は、最近なんだかとても気恥ずかしい感じが
する。
親に産み育ててもらった身としては、その恩返しをしよう、したいと
思うのは、ごく自然な気持ちであるが、
それをもって、親孝行と自分では絶対言わないし、思わないし、
黙ってこっそりしていればよいと思ってしまう。

年を取っていく親の助けになれば・・といろいろ思い、手をさしのべるが
年をとって踏ん張っている人ほど、いろんなことを思うのかもしれない。
自分で生きなきゃ、若いときのように思うように動けないことを想いながら
戦っているのかもしれない。

何でも手や口を出すだけが親切でもなく、
黙って見守り、
そして必要とされるときに、すぐ手を貸せる。
そんな、自然な関係が良い。

あまり気負って、親孝行しなければと思うのは
もしかしたら、相手にとってはうれしくないこともあるかも。

もちろん親がいないと孝行もできない。
親孝行って、結構難しい。

ほどほどに、適度に・・・がちょうどよいのかも。

親孝行は自分が後悔しなくてよいための。自己満足な
行為なのかも。
自分がその立場になれば、わかることだ。

親孝行って、ほんとうにむつかしい。
まだまだ修行中の我が身。

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まずは、目の前のこと。その積み重ね。

シカゴマラソンで
日本新記録を出した選手がニュースに初登場した。
なんだかさわやかな感じでいいな。純粋に努力している人は理屈抜きで好感を抱く。
今年の夏の高校野球もよかった。
素朴な秋田の高校生たちの奮闘ぶりが、気持ちよかった。
メディアに出る人は、とびぬけた結果を出した人ばかりで
その才能や努力の量たるや、自分のような凡人と比べても
天と地のような差があるが、
それでも同じ今を生きる人間として、こちらも勇気をもらったりする。

とくにマラソン選手が
「オリンピックとかよりも、まずは目前の大会ひとつひとつを
しっかりやるだけですね。」
と話していた点にとくに共感、納得。

そうだ、何事もいっきに、はいけない。何を目指すにせよ、
まずはひとつひとつだ。まずは目の前のこと。
それがしっかりできないと、大きな山も登れない。

結果を出している人には、説得力があるのだ。

まずは目の前のひとつを。これをしっかりやろう。
そう思うと今日という1日にも希望が湧いてくる。

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意識しすぎると、しくじる。

ライブが近づいているときに気を付けなければならないのは
体調管理と程よい緊張感の維持。
まもなくいろいろ本番が近づいているが、日々しなければならないことに
追われ、なかなかそのことだけに集中する時間がとれず・・。と、少々の
焦り、、と、これはいつものこと。

さらに、時間がもったいないため、
同時に何かをしようとする貧乏性的な習性があるため、
たとえば料理をしながら仕事の企画や今後の予定を考えるとか
何かをしながら、心配ごとも気になる・・とか
「ながらシンキング」はすでにマイスタイルとなり、
まさに日常茶飯事それなのであるが、
ここのところは、それがあまりよくない。

ピアニストは指の怪我には十分気を付けねば!
わかっているし、気を付けようと思いながらも
ちょっと気を抜いた瞬間に、
包丁でちょっと指を切ったり、熱いやかんに指が
触っていたり・・・。あち、あっちゃ!の連続・・。

そんなこんなで、わが左手は、絆創膏だらけ。
いかん、これ以上怪我をしてはならぬ。
さらに
しばらく落ち着いていた腱鞘炎の
痛みがなんだか復活しそうな嫌な予感・・・
すぐに冷やす。

とにかく絶対怪我をしてはいけないのだ。

「本番前は包丁もってはいけないんですよ。」
とあるプロに言われたことがある。
でも、そういうわけにはいかない。
だから、十分に気を付けなければならない。

意識しすぎて、その合間に失敗をするのだ。
くれぐれも気を付けよう。
指もうでも、のども、全部・・・
怪我をしないで、万全の状態で臨めるように!

まだまだ半人前すぎる・・。

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ホントに贅沢なわが人生。

定年はない。死ぬまで働く。これが当たり前。そう思って生きている。
自分で決めたのだから、それでよい。
仕事が切れることなく、いろんな経験を学びをいただき、
また行きたいところに行けて、
素敵な出会いをたくさんいただき、
会いたい人にあって、好きなことを仕事に生かして・・。
いろんな人にいつも助けられて・・・。

朝は入れたての珈琲を楽しみ、ときには紅茶を味わい、
いつも自分で好きなように過ごしている。
仕事はしんどいのは当たり前、人間関係もなにかあるのも当たり前、
毎日老いて行くのも当たり前、それはそれで抗うこともなく、自然体に。

生まれてから、戦争を知らないで生きている。
過去の歴史は情報としては少しだけわかっているが
実感はない。
平和が当たり前と思って生きている、
そんな幸せなことはない・・と、これも当たり前だと思ってきた。

もともと家が欲しいとか、結婚願望とかないが、
自分がしたいことは、ほとんど手に入れ、実現してきた。
大きなことではないが、小さなことばかりであるが、
本当に悔いないほどに、十分なほどに・・。

健康であれば、その気になれば・・・のおかげさまの人生だ。

よく考えたら、こんな贅沢な人生は、どこにあろうか?
もっともっと・・といえば、キリがないが
もうすでに、本当に好きなように生きてきているのだ。
これ以上、何かを求める必要はなし。

贅沢なわが人生。
本当に幸せなわが人生。

これを実感するときは、まさしく一杯のコーヒーを
入れてその香りを楽しんだり、
さりげない会話で嬉しい気持ちになったりするとき・・。

この気持ちを持続させ、一生このまま歩んでいけたらいい。

こんな贅沢な人生。
これ以上望んだら、バチがあたるだろう。。

でも、この元気と健康ができる限り続きますように。
とだけ、さらに贅沢を思ってしまう・・。

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映画を何度も観るわけ

子どものころには、日曜洋画劇場、金曜洋画劇場・・水曜洋画劇場??が連夜あって、
それは21時からの放送で、子供のためではなく大人のための時間で、小学生だった私には
憧れの世界のような存在で・・。
映画は非日常なるものであるが、名画は映画館に行かなくても自宅でも見られるようになり、
でもやはり、ちょっと特別な時間であり・・・。と、
・・・40年以上前の暮らしは、そんなものであったと記憶する。
とにかく
映画が、テレビ鑑賞という娯楽のなかで、重要なコンテンツであったことは間違いない。

ネットもない時代、海外旅行がままならぬ時代に、映画とはなんと楽しい娯楽だったこと
あろう。国も時代も乗り越えて、もう一つの世界に身を置けるなんて・・。
音楽も絵画も写真も素晴らしいが、ストーリーがあり、五感全部で人を感動させることができる
アートとしての映画は、今も変わらぬ、人間が生み出した最高の英知であると私は思っている。

演劇には演劇のすばらしさがあり、ミュージカルにはミュージカルの良さがあり、これは一重に
ライブ、生であるという点のリアル感であり、瞬間を共有することができるという点で最高であるが、
映画は完成された作品として、時代を経ても変わらぬ、普遍の作品としての凄さがある。
そして、観る人をタイムトリップさせてくれる不思議な力がある。

私は新しい映画よりも、子供のころ、若いころ見た作品に、今改めて興味がある。
作品自体ももう一度見てみたいが、昔の映画を観たい理由は、もうひとつある。
その当時の自分の感覚に触れたいのだ。
なぜ、その当時の自分がその作品を好きであったのか、今も好きなのか、それは今も変わっていないのか?
そのときの自分の感動をもう一度知ることが、さびれていた自分の何かを目覚めさせてくれたり、
とにかく、古い映画を観ることで、それがいい作品であればあるほど。今だからこその発見があるのだ。

つい最近、アルパチーノ主演のマフィア映画「カリートの道」をBS放送でみつけた。
これは25年前に映画館で観た作品だ。ずっと忘れていた。
なんで、こんなマフィア映画に魅せられたんだ?と思いながら、四半世紀ぶりに作品を観直してみる。
すると、古き良き時代のニューヨークが舞台であるのと、大好きなグランドセントラル駅がクライマックスに
出てくる・・・アルパチーノの演技も圧巻で、すべて・・どきどきはらはら・・・。
ああ、この場面、覚えている、ああ、これがこの映画だったのか・・・。
初めて観たときと変わらぬ緊張と興奮がカラダ中を駆け巡った。そして、
30歳のころの自分を思い出した。
そして、今もあのころと同じように感動する自分がいた。

その町に行きたくなったら その町が舞台の映画を観る。
そんな風に映画を楽しむことをこの四半世紀に覚えた・・そんなことも
改めて思い出した。
そして、今回も映画を観て、NYを懐かしんだ。

これからも、昔見た映画を何度も観て、そのときの自分に出会い、
忘れていたり、さび付いていたものを磨いたり、新しくしたりしたい。

映画は素晴らしい。
音楽は素晴らしい。

年を重ねてのアート鑑賞は、自分の人生へのふたたびの旅であるのかもしれない。

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映画以上に、感動的な人生。

大林監督の生きざまに、心打たれる。
ウソから出たマコト。
それが、監督の映画の真髄だそうで、
最新作のフィナーレではその言葉が
若き役者たちによって歌われるそうだ。

若い人に映画をつくる喜びを伝えたい。
との思いが伝わる最新作は闘病中の監督の命を
かけたものだ。
きっとおもしろ楽しい、また奇想天外の仕上がりに
なるのであろうが、そのプロセスは真剣そのものだ。
監督が若い役者に語りかける一言は、とても重く、強く、深い。

先日は大学で学生たちに語りかける監督の言葉を放送で聴いた。
その時も監督のラストスパートの力を感じた。
また、広島に生まれ育った監督の平和への思いは強く、
それが作品や言葉にも現れている。

余命宣告を受けながらも自らの使命を果たそうとされている
その姿勢に、感動を覚える。

命を全うされようとする人の生き方は、映画以上の感動だ。

どうかお元気に長生きしていただきたい。

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頭が下がる生き方が成果を生み出す。

ノーベル医学生理学賞を受賞された、本庶先生。
すばらしい!
その功績自体も画期的であり、あの薬の開発者なのだと知れば
納得するが、
受賞されて、先生のインタビューを聴くにつれ、その感動はさらに深まる。
研究者としての、一人の人間としてのその生きざまに感激し、
私も人生、がんばらなくちゃ!と思うのだ。

研究者という仕事の面白さ、やりがい。
あきらめない、とことん追求するという姿勢。
そして、その生きざま自体を学生たちに教えていかれる教育者としての姿・・。

どれもこれも、今回の受賞に本当にふさわしい方と実感でき、
この受賞がなければ、この素晴らしい先生のことを知るきっかけもなかったので
この季節は、本当にありがたい。

私欲のために生きる人が増えているように見受けられる中、
薄っぺらい言葉でもっともらしく済ませようと生きていく人のが
多いなか、
ホントウに、ほんとうに勇気づけられる。

同じ人生をもう一度生きたい・・・そんな風に言える人は
ホントウに幸せだ。それも努力の成果だろう。
日本人って、もともとやっぱり素晴らしい!

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ブランディングのむつかしさ

マーケティング・広報などコミュニケーションの仕事をするときは、当然、本名で
やってきた。
この仕事でも、改名したり、芸名で活躍される方もおられるが、そこまでは考えない。

一方、ミュージシャンやラジオナビゲータなどの仕事の場合は、
ちょっとイメージ・雰囲気も変えたいと思い、
Mahsa(マーサ)と名乗ってきた。

このMahsaという表示は、メールアドレスなるものが必要になった四半世紀前に考えた
もので、造語のような名前であり、正式にすぐに「マーサ」とは読めない。
が、ある程度、おなじみの方にはかわいがってもらってきた。

このたび、初めての土地で、他のアーチストも出演されるイベントで
自分のことを名乗るとき、また教会など厳粛な場所での演奏となる場合、
はて、どっちを使うべきか?と少々悩む。
しかも初めての土地なので、ニックネームにしようが、本名であろうが、
私のことを知る人はいない。

今尾昌子か、Mahsaか、マーサか。
ミュージシャンもジャンルによって、名前の使い方が違う。
クラッシックの世界だと、本名の人が多いが
ビジュアル含め、存在そのもので世界観を作りたいジャンルでは
芸名を使うことが多い。
たかが名前であるが、なかなか悩みがいもある。

今回の結論は、まずは、今尾昌子でいく。
TPOで、場所で、目的でMahsa、(マーサ)を使う。ということに。

四半世紀前に、もっとよく考えておくべきだった。と今さらながら迷うことも
あるが、それはそれで、悩む場面が増えてきたことは決して悪くない。

自分のブランディングは、名前と大きくかかわる。
商品もそうだ。ブランドとは、自分をどう刻印するか・・であるから。

時々、悩める場面を楽しみたいと思う。

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