日々いろんなことが起きる。それが人生だ。眉間にしわが寄ることも少なくない。生きることへの不安が募ることもある。音楽は自分の大切な仕事・活動のひとつであるが、このイベントの企画や準備には音楽的ではない苦労や悩みがつきまとい、不安になることもある。
しかし、練習をしているときの自分は間違いなく、解放され自由で幸せなのだ。
週末も東京ライブのゲストのバイオリニストと練習。数少ない練習なかの貴重な1回。息が合うのかそれなりに半年ぶり以上のご無沙汰合奏であっても、それなりに響きあっているようだ。
いい音色を聴き、自分も心を込めて鍵盤をたたく、歌う。なんだか幸せの世界がそこに描き出されてくる。2時間があっという間に過ぎる。初見で弾いてみましょうと新曲に挑戦しあうが、それぞれ違う譜面で違う曲を奏で、「どうも合わないですね、あれ?」「それ、違う曲ですよ」「あ、どうも合わないわけですね~」ずっと違う楽譜を見て響きあおうとしている様子がおかしくて、爆笑した。
音楽は私をいつも救ってくれる存在だ。音楽をすることにより見えてくる世界がある。アーチストの孤独な生き方も、創造性も理解できることで人生に深みと厚みと、やさしさを預かっているような気がする。
先日何度も観た「パガニーニ」の映画の中で、主人公が「私は音楽に生きる」と言ったセリフが思い出される。お金儲けも出世も人生の価値のひとつかもしれないが、私はやっぱり心情豊かに生きることを選びたい。そのために音楽は不可欠な存在だ。人は音楽でいきいき、幸せになることができる。
音楽で救われる
「大切な友達」との別れ
母親がこの春、胃がんの手術をした際、そのとき気弱になっていた母親を支えてくれていたのは、彼女の大切な「友達」だった。子供たちが近くにいない分、母は母で友達をつくり、日々助け合って楽しく過ごしてきた。だから、入院のときもその友達が付き添ってくれるから大丈夫!というほどに親しくしていた。そして病室で母親と二人きりになった時、彼女はぼそりと「やっぱり、友達やな~」としみじみつぶやいたのを今も忘れない。私がこうして好き勝手な日々を送ってこられたのも、このお友達のおかげなのかもしれない。そして、母はそうした仲間の励ましや応援があり、奇跡的な回復を遂げ、手術前と変わらぬ元気さで生きている。
その友達がつい最近、亡くなった。亡くなる2週間ほど前だったか、母は「友達が肝臓がんで入院している。『会いたい』って言ってくれているので、病院へいってくるわ。」と話していた。見舞いをし、励ましてきたのだろう。そして亡くなった翌朝のメールに「昨日、友達が亡くなりました。さびしい。いつもライブのときもアッシー君してくれて、いつも野菜もらって助かってました・・・」とあり、なんとも言えない気持ちになった。
母は自分が手術し見舞ってもらったとき、こんな日が来ることは想像していなかったのではないか。自分が先に逝くのではぐらい思っていたかもしれない。実際には自分は元気になったけれど、友達が先に逝ってしまった。悲しげなメールをみて母にすぐ電話し、「元気ださなあかんよ」といい「わかっとる」と言ったものの、母の心情を察するとたまらなくなった。高齢化社会・・・。友達と仲良く、地域でみんなで楽しく長生きしているけれど、それでも順番にお迎えがきてしまう。親子の別れも考えたくないけれど、家族ではカバーできない部分を支えてくれる「友達」の存在は年寄りになればなるほど大きく、かけがえがないはず。ここのところ、母の寂しさやショックを思い出してはやりきれない気持ちになる。年を重ねたら、親しい人との訣別はどのように整理できるのだろうか?あるいは整理はできないのではないだろうか?生きていることがさびしくなるのではないだろうか?いや、その人の分まで頑張って生きよう!ときっと母親は思っていてくれるに違いない。
「母の友達」の存在。その方にお礼を言えなかったのが心残り。今年のライブでお会いできないのも、大変残念・・。母親の良き友達でいてくださったことに心から感謝し、心からご冥福をお祈りしたい。
自分の課題に立ち向かおう
ノーベル文学賞を受賞したフランスの作家パトリック・モディアーノ氏の受賞後のインタビューを聴いていて、なんと謙虚で思慮深く、寛大な人なのだろうとまだ作品を読んだことがないのに、その地味な人柄の印象に思わず引き込まれる。
受賞したことを「信じられない、本当に現実か?と思った」と素朴に語り、「受賞してこれで終わりなのではなく、これからも書きつづけるのだから、その生みの苦しみは変わらない」という。受賞とは自分への励ましなのだという。書く仕事とは自分と向かい合う孤独な仕事。それ自体は変わらない・・・。作家とはそういう仕事なんだ。しかし、自分と向かい合うということではどんな仕事も同様だ。「自分が長年書きつづけてきたことが、気が付いたら人々に影響を与えていた・・・。」というこの言葉からは、この人は売ろう、売れたいと思って書いてきているのではなく、ひたすら自分の使命に基づき、内面から湧き出る力を文字にしてきたのだろう。余計なことを考えず、ひたむきに、ひたすらに。自分の課題と向き合うこと。そこには他者の目は関係ない。学ぶことの多い、素敵なインタビューであった。
脳みそは器用?
さあ、時間がない。限られた時間のなかで一生懸命ピアノを練習しよう!と、せっかく練習室をレンタルしている貴重かつ限られた時間であるから120%以上集中して・・・。と思うのに、弾き始めると他のことが気になり、いつのまにか確かに手は勝手に動いているが、他のことも並行して頭のなかで動いている。ふと気づけば、ピアノは無意識に演奏していただけなので、どこまで弾いたかも覚えておらず、またここがうまくいった、いかないということも何も覚えていない。ただ、指が勝手に動いているだけだ。だから本当の意味での練習にならない。練習とは意識すること、意識し続けて何度も弾いてうまくなる訓練である。ただやみくもにずっと弾いているだけでは、改善されないのだ。しかし、不思議だ。2時間部屋を借りている間中、ずっと弾いていた。でも、何も覚えていないような状態。頭は別のことが次々浮かんでいた・・。
うーん、脳みそが器用なのか、指先の問題かわからないが、見かけ上は同時にいろんなことができるものだ。しかし、前にも書いたがピアノを弾きながら話すことは難しい。弾きながら歌うことはできても、弾きながら話をすることと歌う脳は別のようだ。
いずれにしても、練習するときは集中しないといけないという反省。「ながら練習」は、結局は時間とお金のロスとなる。
好きなことであれば、耐えられる
自分で始めたことでも、途中で苦しい、やめたいと思うことが時にはある。やっぱり楽じゃない、やっぱりしんどい、ああ、いやだー。と逃げ出したい自分。そんな悶々とした中のノーベル物理学賞は3名の日本人研究者に決まったという報せ。毎年であるが、この時期に気づかされる、改めて気づかされる。そう、道とはそんな簡単なものではないということ。この先生方のご苦労は何十年にもわたってのもの。その継続が結果を生んだ。自分はどうだ、そんな大したこともやっていないくせに、苦しいと簡単に言う。今回受賞された先生の中でこんなことを話されている方がおられた。「好きなことだから、できたんです。続けられたんです。好きなことをみつけたらいいんです」そのとおりだ。
今自分が進もうとしていること、つらいとちょっと思っていることも本当は好きなことのはず。その過程が苦しいだけで、そのこと自体は好きなはず。たとえば演奏会。演奏すること、人に聴いていただくことは好きなこと。また人が喜んでくださることもとても好きなこと。その場づくりに、企画に集客に苦慮しているだけのこと。何もやらなきゃ苦労もないが、楽しみもない。少々のことで立ち止まるな、自信をなくすな。ずっと地道に頑張る人が、最後には山の頂点に上りつけるのだ。ノーベル賞の季節は、自分の生き方の見直しにもとても効く。
雨が降れば傘をさす、けれど・・・
出先で雨に降られて、もし傘をもっていなかったとしても、よっぽどの大雨でない限り、使い捨て傘は買わないことにしている。そのあとが困りそうだから。「使い捨て」といっても、最近はビニル傘も大変進化して、丈夫かつサイズもたっぷり、そしてジャンプ傘になっていて、機能面では抜群、そのコストパフォーマンスに驚かされ、結局300円で買っても捨てるのがもったいないと持ち帰り、玄関に並ぶことになる。先日の台風前の日曜。地下鉄は大変空いている。ほとんどの乗客は椅子に座っている。なぜかそれぞれがもっている傘が気になり、1車両内でビニル傘をもっている人は?と数えてみると、なんとまあ半数がそれであった。多いな~。ということは、気軽に傘を買うようになっているのだろう。おそらく色柄の高級傘の消費は低迷、一方ビニル傘は顕著に販売数を伸ばしているのでは?と勝手に想像する。
一方、私は傘はモネの絵のごとく、やっぱり自分を彩る、ファッションの一アイテムと考えたいと思う。だから買うときは選びたい。これは似合うかどうか?さして歩く町に似合うのか、自分らしいかなど・・・。本来、傘も帽子と同じくアクセサリー。しかしこのビニル傘の普及はすごい。簡単に買って、簡単に捨てられる、置き忘れても悔しくない。確かにわかるけれど、このままいつまでも、この傾向が続いたらビニル傘はどこまで増える?という感じで心配にもなる。
人間社会がどれだけ普及しても、雨が降れば傘をさす・・という行為はなくならない・・そのことが不思議で、この文明の力でなんとかできないのかなとずっと思ってきたが、その工夫の最たるアイデアはいつでも捨てられるいいものを安く提供すること・・・であるのはどうも複雑な気がする。なぜか捨てられないビニル傘、そして人から借りてもやっぱり返そうとしてしまうビニル傘。見方を変えれば、傘をさしても視界が閉ざされないという点で、ビニル傘は最高におしゃれ、デザイン的なのかもしれないとも思いつつ・・・。
何もなかったかのような「美晴天」
台風18号。日曜からずっと降り続いた雨、一晩中、テレビでは特番をやっていた。アナウンサーという仕事は大変だ。全国各地での天候の様子がよくわかり、これはこれでライブ感満載。とそんな呑気なことを言っていられない。刻一刻と報道どおり?台風は北上してくる。天気予報とは大したものだ。感心している場合ではない。各地での被害。死傷者も出て、住宅被害も、山崩れも交通機関のマヒも・・・。人は台風の前に、無力である。また生死の分かれ目についても、運命についても考えさせられてしまう。
先週、御嶽山の噴火があったばかりなのに、今度は台風か・・・。以前、台湾出張しているときに、それはそれは恐ろしい爆風に遭って、本当に人間は弾き飛ばされるのだと怖い思いをしたことがあったが、今回もすぐにそのことを思い出した。日本列島が活動をストップする。週明けなのに・・。とパニックの半日が過ぎた。今日はもう予定どおりにいかないな、ダメだな・・と思っていたら、昼すぎ、急に雨が上がり、空が明るく青くなり、まぶしいほどの太陽の光。へ?もう晴れてきた?しかも空気が澄んで、とてもきれいな晴天だ。世の中の汚れたもの一切を洗い流したかのような清々しさ・・・。何もなかったように、日常生活が再び始まる。もちろん流されたり、水につかったりの現実は変わらないのが悔しいが。以前、津波の経験のことを語ってくださった方が「自然にはね、感情がないからさ」と言われたことが今回も蘇る。そう、あんなに暴れていたのに、何事もなく穏やかな午後がある。人間社会をもてあそんでいるかのように、自然はときとして、私たちにとんでもない現象を与える。その頻度が最近多いと感じる。ひと暴れしたあとの美しい青空は皮肉な存在。今はもう、ただただ穏やかな秋の日を求めたい。でもこの台風がやってくるのも、秋だから・・・受け留めるしかないか。
「マイペース」を見直す秋
「忙しい」という言葉は使いたくない。といつも言ってきている。何かに追われ心なくす生き方はしたくないからと。しかし、この現代社会において、世捨て人のごとく何もしないで生きるわけにも生きず、またいつも何かいろいろ追い求めている生き方が充実していると思いがちで、気が付けばあわただしい「マイペース」になっているのかもしれない。
自分と違う価値観、スピード感で生きている人に久しぶりに会うと心配してくださったり、気づきを与えていただいたりする。「年取ってから必ず体に出ますからご自愛くださいね」と癌の転移で苦労されている方からのメッセージ、「無茶をされず、ご自愛くださいね」「とにかく体だけは気を付けてください。」とくに年上の方、諸先輩からご心配いただくことが多い。同世代の方からは「これからもずっと挑戦し続けてください。」「いつも何かし続けている今尾さんを応援しています」など、背中を押される。
いずれもありがたい応援であるが、ここらで自分のペースというものを見直してもいいかなと思う今日この頃。たとえば、応援してくださる周囲の方もお年を召され、しんどそうであったり、前と同じように会えなくなったり、便りが少なくなったり・・・。そう、みんなが元気いっぱいでいつもいつもパワフル!という状況だけではないことも理解しないといけない。
距離が少し遠くなっても、それでもつながり続ける、あるいは見守る、そんな人間関係も大切だ。いつも元気元気!とプッシュするだけでは相手がしんどいこともあるかもしれない。自分も然り。いつまでも20代や30代の頃のようなペースでなく、もっと落ち着きある、丸みをもった生き方というかそんな進み方も必要になってきたのかもしれない。強く、深く、優しくありたいという思いは何も変わらないけれど、その行動のペースを見直すことは時として必要だ。若い日と比較してトーンダウンするのではなく、今に最適な自分との向き合い方とでもいおうか。そんな自己点検は必要だ。自分らしく生き切るために。要するによく考えて、味わって生きようということだ。
アウトプットは自らの手で。
新曲は移動中にひらめく。歩きながら道端で歌い、スマホで録音。こういうときにこの道具は大活躍だ。何曲かそこに入っているし、すでにライブなどで演奏している曲もスマホの活用から誕生した。しかし、とくに人様に演奏していただこうという場合などは 自分が暗譜しているだけでは済まない、楽譜起こしをしなければならない。先日観たパガニーニの映画では、パガニーニーが演奏する曲を譜面書きたちが、演奏を聴きながらすぐ五線譜に落とし込んだという場面もあったが、いいな~と思った次第。形に残すということがないと、作品として広がっていかない。最近はピアノを弾けばそのまま楽譜になるというソフトも開発されているが、どうもそこは機械に頼りたくない自分がいる。自分の頭で自分の手で書き起こす方が、作曲した!という感じがするからである。ただ、それをするには「よし、やるぞ!」と意気込み、集中する時間が必要だ。だから延ばし延ばしになっている。しかし、もうお尻に火がついてきた。やらないと間に合わない。そうなるとやっぱり動き出す。仕事の仕上げはアウトプット。そこは自力でがんばりたい。書くことにより、より記憶され、作品にも磨きがかかるはずだから。
感動のアンケートで、仕事を締めくくる
講座やセミナーには必ずアンケートがつきものだ。主催者がその企画の効果測定を行うために当然必要なもの。講師にとってはかなり毎回緊張する存在でもある。講座が終わり、受講生の皆さんが疲れているにも関わらずアンケートにも答えてくださる。これまでにいい加減に書いたり、書かなかった人に出会ったことがない。まず、その態度が心に沁みる。そして、みなさんが帰ったあとで、主催者よりそれを見せていただく。どきどきしながら、無記名であってもじっくり読みながらその人を思い浮かべる。全員、「満足」と書いてあると安堵する。そしてその中身も細かく拝見。どのプログラムが勉強になったのか、どんな点がよかったか、悪かったのか、要望は???などなど。選択式の設問も大切であるが、自由記述のところがとくに気になる。コメントを書くということはそれなりの印象があってのことだから。うれしいのは、「楽しくためになった」という回答が多いこと。そう、勉強は楽しくなければならない。そこは工夫していこうと思い続けている。そして、実践的である点も喜んでもらっているようだ。広報・コミュニケーションの力をつけるには、座学だけでは限界がある。いろんな実習があって理屈も頭に入る。そして「わかりやすい」と書いていただけるのもうれしい。なんといっても、コミュニケーションでの最重要ポイントは
わかりやすさ。独りよがりは禁物だ。そして「出会いに感謝している」「こんなに引き込まれた講義はかつてなかった」と書いてあるときには、こちらが感動する。とにかくアンケートは何度も何度も読み返し、反省もしながら、自分に次の活力も注入する。そんな貴重な存在。
仕事をした証しがそこに見えてくる。だから設問もないがしろにしてはいけない。最近はあまり書かれなくなったが、講演だとついつい、早口になってしまう。それは自分の癖。味でもあるが、気を付けている点。その代わり、「関西ですか~?」と突っ込まれることは大変多い。
さあさあ、ここまでやってきた。今年ももうひと山越えて、いい締めくくりをしよう。