失望を希望に変えるもの。

ある方からいただいたメールに以下のような文面をみつけた。

「・・・・・わたしは、世界のどこにいてもそうなのですが、
失望しているときには花や山や海や空や「自然」と向き合います。」

なぜか、この言葉を何度も何度も読み返した。

どこかへ行かずとも、近くにある公園や庭園で十分、それが体験できる。

そう、常に人間社会だけをみつめていると、そこにどっぷりつかっていると
人間同士の小さないさかいや、欲にまみれた汚い世界に染まりそうになったり
生きることへの不安が募ったり、希望を失ったりすることもある。

しかし、そんなとき、「自然」たちは言葉こそ発しないが、それ以上の
チカラで私たちに生きる力を与えてくれるのだ。

「ああ、きれいだな~」
私は、最近、野花をみつけると幸せな気持ちになれる。
そう、小さな存在たちが、がんばって地に根を張って生きようとしていること
小さくともそこに咲く花の美しさに感動を覚え、希望をいただくのだ。

自然と向き合えば、おのずと、自らの存在を、素直にみつめることができる。
自分の小ささを自覚することも、時にはとても大切だ。

人間と対話するのに疲れたら、自然に向き合う。

これは、とてもいい対処法だ。

失望しても生きていかねばならない。
そんなときには、自然が自らを救い、生きる勇気と希望を
与えてくれるのだ。

さて、今日はどんな花を咲かせようかと考える。
希望が生まれる瞬間だ。

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「真のジャーナリスト」に出会う。

現行の報道社会では、記者やライターなどの「ジャーナリスト」
と呼ばれる職業に就く人たちのほとんどは、「報道する」という行為に終わっており、
自らが「ジャーナリズム」を語らない。
そして、ジャーナリズムを語るのは、学者や評論家たち。

あるジャーナリストからこのことを聞かされ、
確かにそうだ。と納得すると同時に、その現実に少し違和感を抱いた。
その多くの語らないジャーナリストたちは、日ごろから「ジャーナリズム」とは何かについて、
考え行動しているのだろうか?
そして、自らの仕事について、どんな意識・使命感をもっているのだろうか?
という点も気になってきた。

おそらく、自分の仕事へ強い信念がある、ジャーナリズム観をもっている記者たちは
組織内での取材・執筆という仕事にとどまれず、いずれ独立するのだろう。
とくに戦地など厳しい現実社会に向かってきた人はそんな環境でさまざま葛藤を
もつだろうし、
経験を重ね、自分の考えをもてばもつほど、世界を知るほどその選択をされる
ことが自然だと思う。
(他の業界でも同じだ)

以前、ある新聞社に勤務される人に職業を英語で訪ねたら
自らを「ジャーナリスト」と言ったので、
いや、ライター・レポーターであり、会社員じゃん。と思ったことが
あった。
そう、ライターやレポーターとジャーナリストは違う。

「ジャーナリスト」とは、権力を観察しながら、真実を伝える仕事であると
学んだ。加えて、その仕事を全うした生き方だとも思う。
単に対象を取材し、上司の顔を見ながら原稿を書くだけの人は、もはや
ジャーナリストとは言えないと思う。

真のジャーナリストでない人には、ジャーナリズムを
語れないはずだ。
知識がある、文字を書く、文章が上手いだけでは、ジャーナリストではないのだ。

今、勉強させていただいている「国際報道」に関する講義の先生こそは、
ホンモノのジャーナリストだと思う。
生のニュースを通じ、ジャーナリズムを語ろうとされているのだ。
私は地政学をもとにしたその世界観に共鳴すると同時に、
世界地図の上の大国の綱引きをつねに想像するようになった。
と同時に、日本のような小国のありよう、世界との繋がりに方についても
危機感をもちながらこれまで以上に考えさせられるようになった。

話を最初に戻す。
ジャーナリストとは、見えづらい世の動きを見せ、世の中の「あるべき見方」を伝え、
問題提起をする仕事でもある。
これは、今の私なりの解釈のひとつ。

人生を、ときには命をかけて、仕事をする人を応援したくなると同時に、
私自身、この目線に共感しながら、自らができることを模索したい今日この頃。

ジャーナリストがジャーナリズムを語る時代へ。
もちろん、似非ではなく、「真の」という枕詞をあえてつけたい。

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十人十色のハッピーUターン。

もう7~8年ほど前、新潟のディナーショーを担当してくれた青年。
結婚式場での婚礼に関係ないショー開催ということで、会場にとっても、
私にとっても新鮮な経験であった。

私が弾くピアノを喜んでくれた。
「ピアノが喜んでいるみたいですね」
とくれた一言がとてもうれしかった。

初めてのショーが無事終わり、その担当者は京都へ転勤になったと
聞き、私もおっかけ精神を発揮、京都に出張した折、新しい職場である
京都の式場も訪ね、古都でも再会。その後、ご無沙汰となった。

何年か後、彼は退職をし、田舎に帰った。といううわさを聞く。
そして、田舎は佐賀県であると・・・。実家はお寺さんであると
聞き、確かにお名前がそれらしい名前であったので、自然に納得。

でも、大変華やかなブライダルの仕事をしていた彼が、実家の
お寺に?まさか、お寺を継いだわけではないだろう。
何をしているのかな?でも、地元に帰ったとはえらいな。
機会があったら、会ってみたい・・・。
最近長崎や、有田も身近な存在になりつつあるため、
ついでがあったら、会いたいと思っていたが、
今回やっと時間がとれそうになり、
連絡をしてみると、ぜひ会いたい!といってくれて、
佐賀駅のカフェで待ち合わせ。

おそらく5年ぶり。
ブライダルの会社でイケイケな感じで仕事をしていたころと
何か違い、一目で大人になった印象を受けた。
挨拶の仕方、表情、所作・・・どれをとっても、
前の彼とはどこか違う。
でも、笑顔は同じで、私からしたらかわいらしい青年のままで
安心する。

つい、2~3日前にできたばかりの名刺をいただく。
黒い縁取りのシンプルな名刺。よく考えられたデザインだ。
他のお仕事でこのデザインはあり得ないが、いいセンスだ。
名刺には、住職、そして運営している幼稚園の副園長の肩書きが
記されており、
本当に実家を継いでいたんだ~。しかも保育園も??
地元に戻るため、彼は180度違う世界に向かい、
準備をしていたのだ。
過疎化に向かうふるさとで、檀家の皆様のために
そして地元のために日々活動開始しているのだ。

35歳にして住職。
そして保育士である。

前話すことができなかった、深い話も自然とできるようになった。
宗教者として、地元のサービス業として何をすべきか・・・
地域のみなさんのメンターになるべく存在であるべきなど・・。
よく考えたら、ディナーショーの準備以外のことで会話したことが
なかった。
あっという間に時間がたった。

また九州に行くときには、また会おうということに。
次回は地元の町を紹介してくれるというお楽しみも。
何か彼のチャレンジのお役に立てることもあるかもしれない。

人それぞれ、いろんなUターンがある。
人はいろんな形で、生まれ故郷に戻っていく。
人生がそこから新たに始まる。
懐かしくて新しいコミュニティが生まれる。

自分とは違う道であるが、彼の人生をめいっぱい
応援し、新たなつきあいをしていきたいと思った。

このブログを書きながら、愛らしくもしっかり者に成長された
若きご住職の「今日」をひとり想像している・・・。

※再会したカフェでの自撮りツーショットはまさか住職との
写真に見えないが、このギャップも◎。

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脇を引き締め、いい関係づくり。

昨今、メディアのトップニュースを賑わせている話題に、
オトコとオンナの問題案件がある。
地位ある、社会的責任ある男性の恥ずべき謝罪や言い訳の
写真も文字も、その地位を目指してひたすら努力してきた
男性の話題であるから余計に悲惨で、情けない。

思えば、援助交際もハラスメントも、ひと昔前までは
こんな言葉もなかった。

世の中が変わった。
女性がモノ言える時代になった。
コミュニケーション環境の変化もあるだろう。

おかしいな、いやだな。と思っても言葉にすることが
行動することができなかった。
またカンタンに口に出す手段もなかった。

ふと四半世紀前の、自分の周囲のことを思い出してみる。
ハラスメントは、嫌がらせであり、自己中心な言葉の暴力。
そんなことは、あったぞ。確かにあった。
一方、ときの上司たちが、勘違いな発言をしてきても
笑って交わす・・・それは大人のコミュニケーションだと
思っていた。
おそらく、それは上司との人間関係ができていたからだろう。

今は人間関係を構築する前に、問題が先に起こってしまう。

コミュニケーションがちゃんとできていれば、
また自分がどう見られているか、相手がどう見ているかを
きちんと見る目があれば、
大問題にならずに済むこともあるだろう。

どうも、世のエリートといわれている人たちは、
基本的なコミュニケーション能力が足りないのかもしれない。
もしくは、自分が上り詰めることで必死に生きてきたため
相手のことを考えたり、みつめたりする余裕がないまま、
そんなことを学ぶ機会を得ないまま、生きてきてしまったのかも
しれない。
若いときに、男女の関わり含め経験豊かで、苦労もしていれば
人生のピークに失敗することもないかもしれないのに・・。

世間が見えないまま来た人の人生は哀れである。

若いときに大いに遊び?小さな失敗をたくさんした方がいい。

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「子どもなるもの」を持ち続ける生き方。

大人と子供は対峙するものではなく、
大人の中にも、「子どもなるもの」は内在すると思っている。

が、社会的な立場が、それを封印することが多い。
だから、笑いたいときに笑えなかったり、
好きなようにふるまえなかったり・・・する。
そう、人は大人になるにつれて、不自由になる。
大人とは我慢すること、大人とは周囲のことを慮ることができること。
それが当たり前だと教えられて育ってきたように思う。

もちろん、一人前の人間として、
常識を持って行動することは当たり前であり、大人気ない行動、
稚拙なる行動は大人である以上
慎むのは世間の常識である。

先日、渋谷の美術館で、チェコのチャベック兄弟の作品展を行っており、
予備知識なく鑑賞した。兄は画家、弟は執筆家。子どもを独自の目線で
観察・表現し、人間の自由について考えさせてくれるアーチストたち。
上の写真は、この兄弟の写真。こんな二人だったからこそ、他にない世界を
表現できたのだろう。「ロボット」という概念を考えたのも弟カレル
だったそうでそれをテーマにした演劇は日本でも「人造人間」として、
上演された。
二人は第二次世界大戦前に活躍し、
そしてナチスにより、活動だけでなく、生涯を閉じることに。

子どもの目線で描かれる、数々の作品には考えさせられることが多く・・。
単に子供を描くのではなく、そこから見えてくる子供なるもの・・・。
これらの探求は、実は哲学的で、深い。
人間の本来の生き方とはの探求につながってくるように感じる。

ふと、自分の中の「子どもなるもの」について考えてみた。
私(たち)の中にはそれがまだそのまま存在しているように思う。
時々、妄想をし、冒険がしたくなり、自由にふるまいたいと
思う。
そして、そのことをこれからも大切にしていこうと思う。
それがあらゆる創作、創造の源泉になると信じるから。

ある時は、
大人になりきれなくてもいい。そんなことを改めて思う
貴重な作品展であった。
チャベック兄弟のこと。もっと調べてみよう。

(写真は松涛美術館での展示室 撮影可能なブースより)

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「その人」を見る力。

初めて人に出会うとき、肩書きや学歴で判断されることもある。
しかし、立派な肩書や学歴を有していても、人として尊敬できない
例は無数にあるし、逆に
いい学校を出ていなくても、地道に働き、真面目に生き、子供を育てあげている人や
地域に役立つ活動をしている人も多くおられる。
こういう人に出会うことの方が、断然嬉しい。
出会えてよかったと思う。

どこを出た、どこに入った。
もう何十年も生きてきたら、これらは、あまり意味がない。
それが生かされているならば、別だけれど。
学歴も社歴も
これは人生のある瞬間の通った道であるということだけで、
その道をどのように、どちらに向かって歩いてきたのかの方が
意味がある。

そして、もっと大切なのは、
それらの経験を活かして、

どこへ向かおうと、しているかである。

人を見るときに 余計なメガネをかけ、事前情報に縛られると、
その人自身が良く見えなくなる。

もう50年も生きてきたのだから、
裸眼で、しっかり相手をみつめようと思う。

そして、自分がその人にとって、その人が自分にとってどうなのか?を良く考えたい。
自分がその人のお役に立てるなら、心をわってお付き合いすればよい。
自分にとって、共感・応援・尊敬できる人ならば、お付き合いすればよい。

裸眼で人を見る。見られる。
この力を身に付けるのは難しくもあるが、
情報に惑わされず、自分にとって真なるものをみつけようとすることが
裸眼力である。

見る目を養うには、とにかく、いろんな人に会うこと。

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カッコいい人の条件

最近、目立つ人たちの「かっこ悪さ」が気になる。
言い換えれば、「みっともない」ということでもある。

とくに政治の世界に棲む人たちが目に付く。
あまりに現実離れしすぎて、その感覚、言動は理解不能に
なりつつあるが、とにかく、権力にしがみついている。
言い訳をしまくっている。
目立つ人ほど、恰好悪いのだ。

一方、瞬間にして、自らの道を誤り、せっかく得た職を
失った人。
こちらもかっこ悪い。みっともない。恥さらしと言われているかも
しれない・・。
頭脳が良くても、バランスが?人として未成熟?
とある意味、同情するが、やっぱりそれこそ、アウト。
そんな例がスキャンダルまみれの日本自体が、かっこ悪い。
世界は日本をあざ笑っているのではないかとも推察する。

最近,かっこよさについて考える。

言葉少なくても、実行力がある人。
下世話な情報に流されず、むしろそれらと距離を置いている人。
静かな人。
人を大切にできる人。
目立たなくても、地道に世の中の役に立っている人。
大人な行動がとれる人。
正しい判断ができる人。
言動ともに軽くない人。

こんな人が増えてほしい。

もちろん 自分もカッコいい人を目指したい。
まだまだ磨きが足りないけれど・・。
いろんなお手本を見ながら、
かっこ悪い人にならないように律していかねば。

人の話は、すべて自分の教材である。
さあ、今日も背筋を伸ばしていこう。

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「ふるさと」は永遠なり。


ふるさとを離れて住む、ふるさとに住む親がなくなる・・・
ともすると、ふるさとで住まない人にとって、ふるさとのことは、
懐かしくもあるが、だんだん足が遠のいて、記憶の中で生きるのみの
存在になる。
それは、あまりにも寂しい。
だから、用事を作ってでも、年に一度は足を運ぶようにしたい。

この写真は、千葉県鴨川にある、棚田の風景だ。
いつしか、この風景を季節の移ろいとともに見るのが
恒例行事になっている。
とはいえ、四季ごとに毎回訪れることは叶わないが、
あるときは晩秋に、あるときは真冬に、そして今回は新緑の前。
カエルの合唱をききながら、これから行われる田植を待ちながら・・。

実は、ここは私のふるさとではなく、相方のふるさと。
だからこそ、大切にしたい。
両親も他界され、訪ねるたびに町がすたれていくのを見るのは
しのびないが、自然の姿は変わらず、ふるさとを巣立った人間を
あたたかく迎え入れる。

そんなこんなで、ふるさととの繋がりは、どんな関係でも良いから
消えないように、切れないように。
ひとつの風景が、結ぶ役割を果たしてくれることもある。

ここに来れば、彼のルーツがある。
ルーツはかけがえのない、この上なきありがたい存在。

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マイペースで「素〇」な人生を。

いわゆる現役のビジネスマンをリタイアされ、
約1年程経つ方と久しぶりに会う。
その方とはもう15年ほどのおつきあいになるかもしれない。
お会いしたときから現役時代は、上場企業の取締役をつとめておられた。
真面目で努力家。そして特に印象が強かったのは
人の名前を覚えるのが早いということ。

いろんな場面でお会いし、公私ともにおつきあいいただき、
定年になる前から、
「これからもずっとよろしくね」
と言ってくださった。

さて、久しぶりの再会。
いつもお会いする場所として選びのは池袋のデパ地下ではなく、
デパ上。13階のレストラン街にある、点心で有名なお店だ。
遅い会食は避け、17時に待ち合わせ。
さて、1年ぶりに目の前に現れたその紳士。

なんと、お鬚をはやされ、大変カジュアルないでたち。
一見、別人にも見える、変身ぶり。
「あらま~、ひげ、びっくりしました。でも、似合ってますね」
会った瞬間、ちょっとだけ恥ずかしそうであったが、すぐに普段通りの笑顔。
「そう~~。まあまあ、こんな感じですわ。」

スーツを脱ぎ、ネクタイを外し、重い肩書きの名刺を持たず、
まさに「素」の人生を歩き始めたその方は、本来の、ご自身が求める道を
歩き始めたようだった。

美味しい小籠包をつつき、締めにはサンラータン。
前にもご一緒した食事であるが、今回は、より、その方がリラックスして
おられる様子が伝わり、いい時間が流れた。

「いやー、実はある資格をとろうかと、勉強しはじめているんだ」
へえ?まったく違う道。
これは、ずっと何もしない1年を過ごし、何かせねばと思い始めたことと
これならこれからの自分に役立ちそうだという点からの選択だそうだ。
頭を使う時間が必要というのも、わかる気がする。

ほどよい刺激を交換したあと、硬く握手し、再会を誓い、別れる。
あとで届いたメール。
「昨日は楽しい、濃い時間をありがとう。私もマイペースで
がんばります。」

マイペースか。
組織の中に、組織の上にいると、そんなことは言ってられなかったのだろう。

そんな素顔の、素手の紳士に出会うことが多くなってきたが、
人の魅力は、気づきにより、その人次第で、どんどん磨かれていくのだろう。
と思う。

ずっとマイペースの私ではあるが、「素」を大切にしながら、
まさに「素敵な人生」に向かって生きていきたいと改めて思った次第。

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愛を分ける、注ぐ。

ある青年とは、東日本大震災後のチャリティイベントがきっかけで
知り合いになった。福島出身のアーチストのマネージャーをして
いた。
しかし、その彼は、その仕事はほとんどボランティアであり
東北を応援するつもりで取り組んでいた。

本業は別にある。その仕事にも意欲的で、会うたびに
進化している様がよくわかる。
ビジネスマンとしての才能が豊かで、ネット社会で不可欠な
マーケティングスキルも、クリエイティブな感性も持ち合わせ、
さらには音楽プロデュースやアーチストのマネージングなども
して、多方面で活躍。
本人は、器用貧乏というが、決してそうではない。相手に寄り添える
ので、お役に立ち、声がかかる。お客様が増えていくのだ。

さて、その彼はビジネス以外に、そのほかの社会活動にも取り組んでいる。
10年以上前から、捨て犬・猫を救済する活動も手掛けている。
人間の都合で殺処分される動物を増やしてはいけないと、
その声を行動に移してきた。企業やいろんな団体の支援を集めながら
捨て犬や猫たちを守ってきた。

さらに、驚いたのは、今は親に捨てられた「人の子」を
救う活動もしているとのこと。
「ぼく、今、人を育てているんですよ」
と彼はさりげなく話してくれる。
あるきっかけで出会った、不幸な若者に手をさしのべ、
生活ができるように支援し、教育しているとのこと。
あしながおじさんのような存在でもあり、実際、父親のようでもある。

捨て犬たちを見てきたから、人間も同じなのだという。
愛に飢えた人を、動物を救いたい。愛を与えたい・・・。
愛がないまま育ったらろくな人間にならない。
愛を注げば、ちゃんとした人間に育つことができる。
そう思って、たまたま出会った人に関わっているそうだ。

そんなことができる人、会ったことがない。
自分のことで精一杯の人が多すぎるこの世の中に・・。
なんと大物かと心から尊敬する。

見知らぬ人にも愛が注げるとは、すごいことだ。
まだまだ自分がいたらないと思えてくる。

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