思いは、動けば叶う。

障がい者の社会参加。いつも思っているが、みんなそれぞれ違う個性・特徴を
持っているという視点のもとに、互いを認め合い、自然に助け合って生きて
いけたらいい。
最近は信じがたい差別的犯罪が発生して、本当に悲しく、怒りがこみあげてくる。

そんな昨今の状況とまったく逆の、ちょっといい話が身の回りで動き始めている。
昨年、知り合いが始めた新しいソーシャルビジネス。
障がい者の描いた絵画を町の中、人が集まる場所に展示し、
多くの人たちに見てほしい。そして彼らのすばらしい
才能を知ってほしい。もっと社会に彼らの作品を溶け込ませたい。
それは単に飾るだけではなく、飾った分、描いた障がい者アーチストにお金が入るように
したい・・本当の意味の社会参加だ。そんな仕組みの活動をはじめると聞いた。
心から賛同し、早速、昨年秋の新潟市のディナーショーでその作品を試しにいくつか
展示した。そしてお客様に大変喜んでいただけた。

その結果をもとに、さらにこの活動を町中に広げるお手伝いができないかなと・・
と思っていた。
そして、年代を越え、親子や家族が訪れるハンバーガーチェーンの店舗で
これらの絵を展示でき、それをきっかけにお店もが活気づいたら・・・と思い立った。
このダメもとの提案は、なぜかすんなりと受け入れられ、なんと実現の方向に向かう。

半年以上、ずっと思い続けていた小さな夢が、来週から本格的に稼働する。
その名は「モスごと美術館」。
障がい者の作品が新潟県内のモスバーガー全店舗で2か月にわたり展示されるという試みだ。
いろんな関係者の、思いやりあふれる優しさに支えられ、実現する日本初もしかしたら世界初の
取り組み。
お店の絵を見て会話が弾み、障がい者の方がお店に行って自分が書いた絵を見てくれる・・・
それによりお店のスタッフの意識や行動も変わる・・。
ポケモンで集客数を稼ぐ方法もあるが、これからのお店はどんなに大きなチェーンであっても
一店舗一店舗が、いかに地域に寄り添えるか、が大切な課題だ。

たまたま最初に切り出したのは、会食の席であったが、切り出してよかった。
自分が温めていた思いがカタチになるのは、本当にうれしいこと~。

実は私はこの活動を新潟をきっかけに、もっと広げたいと思い始めている。
思ったら動く、そうすれば夢は必ず叶う。

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一緒にやればいいのに・・と思う。

パラリンピックがはじまった。
その時期に合わせてか、障がい者をテーマとした話題が多い。
メディアが挙って取り上げようとしている。
その時期に関係なく、
障がい者と一体となり、普通に生きている人からすれば
どんな感じだろうか。
今だけじゃなく、ずっと意識する。
今だけ取り上げることで特別視するのではなく、
ずっと見守る、ずっと助け合う、ずっと尊敬しあうことが
大切なことだ。

確かにハンディを持ちながら、自らの限界に挑戦している
人々の姿は、健康な体をもつアスリートの努力以上に
感動する。よくできるな、凄い!と思い、何もできない
自分が思わず恥ずかしくなったりもする。
でも、自分もいつそんな傷害をもつかもしれないので
他人事ではなく、
自分はどんな事態になってもがんばれるか!と
自らを問うのに、パラリンピック観戦はいい勉強の機会だ。
傷害あっても、なくても人間は同じなんだと
つくづく思えてくる・・。

パラリンピック・・。これ、オリンピックとして
一緒にやればいいのではないだろうか。
と、実は、ずっと思っている。
同じ会場でやる、同じ競技もあるならば、
同じ括りのなかで、やれば一般の人に障がい者の
皆さんが奮闘する姿も見てもらう機会になるし
勇気をもらえるのではないだろうか?
みんなあわせて、オリンピックでいいのでは?

なぜ、開会式を何度もやるのかな。
なぜ、そもそも分けるのかな?
そこからして、差別的ではないのかな?
と思いながら、
パラリンピックをオリンピックと違う次元で
特別なこととして見ている、関係者の見識が気になる。

さらに、ロシアの選手はパラリンピックに
参加できず、自国で自国の選手だけの大会に
参加している。
どこかやりきれない。真面目に取り組む選手には
罪はない・・。
これも考えさせられる光景だ。

言葉ではない、見せかけではない、
普通の共生が実現できる社会を目指したい。

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地球も、時代も廻る、回る。

中島みゆきがヤマハのポプコンで衝撃デビュー。「時代」という曲は
当時小学6年か中学1年だった私には、まずはそのメロディと歌詞の
わかりやすさが印象的で、気張らず、堂々とギターを抱えて歌う
あの姿にあこがれた。いつか、そのうち私もポプコンに出るぞ!と
思いながら、同じヤマハの音楽教室に通っていた。
そんな「時代」が今、とても懐かしい。
あれから約40年。その後、一世を風靡した「つま恋」も、遂に
営業を終了すると聞き、ひとつの「時代」の終焉を思ったり・・。

子供のころは、歌詞の意味もわからず歌っていたが、年を重ねる
ほどに、中島みゆきだって若かったのに、そんな年齢で
達観したような大人の歌詞がよくかけたものだ~、凄い才能だと
今になって、改めて感心する。

そう、最近、やけに「時代はめぐる、時代は回る」ということを
感じることが多いのだ。
自分の存在は、ある小さな時代の中の、ほんの小さな小さな存在でしかなく
その時代でじたばた生きる。
歓喜し、苦悩しようが、時間が経てば時代は移る。
そしていつか「そんなことがあったね~、あったらしい」
と後になって思い出したり、思い出されたりするだけのこと。

時代。
最近は、あの時代はよかったね。あの時代はどうだったのかな?
あの時代があったから、今がある・・。
なんて、もっぱら回顧主義的になることも多いが、
今の時代も日々移ろい、そして変化していく。

未来に生きる人から見たら
「ああいう時代もあったそうだ~」
とロボットに話しかけている・・
なんてことになるのだろう。

苦しいことがあったら、「時代」を口ずさむことにする。
言いも悪いも、
地球とともに、時代も廻っているんだから・・。

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ふるさとライブ、受付開始!

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ふるさとへの感謝を込めて。この秋も開催いたします。
他会場での企画は、決定し次第、準備ご案内いたします。

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究極のお手本は、やはり・・・。

かのマザーテレサが、このたびバチカンで聖人として、認定されたとのこと。
聖人とは、キリスト教の歴史のなかでも、限られた人だけに与えられる最高の称号であり、
世のため人のために尽くしただけでなく、奇跡を起こしたかどうかもその条件に
含まれるらしい。不治の病を治した経験もあり、そのおかげで今も元気に生きている
人が生き証人としてこのたび、バチカンを訪問していたのも印象的だ。
かのフランシスコ・ザビエルもこの聖人に列し、また長崎の西坂で火あぶりにて殉教した
26人の信徒たちも後年、聖人として認められた。
人のために自らの人生を捧げた人、純粋に信仰の道を生き抜いた人への尊敬の印なのであろう。

奇跡についてはよくわからないが、その前に、マザーテレサの遺した言葉にはその行動にそのまま
直結している、深く心揺さぶられるものが多い。

今、目の前に、1枚の栞がある。

たいせつなことは、
どれだけ
たくさんのことを
したかではなく、
どれだけ
心をこめたかです。

・・・・・・・・・
まさしく そのとおり。
たくさんのこと、たくさんのお金という「数量」に
人の関心は向きがちであるが、
内容が大切なのだ。質と換言してもいいだろう。

ひとつひとつ、丁寧に心をこめて。

マザーテレサの言葉は本当に骨身に染みる・・。
素直に従える人、その存在こそが、私にとっての聖人なのかも
しれない。

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孤独と自由の間を生き抜くには?

演歌は、面白い。さりげなく人の本心をさらりとさらけ出すときにいいのかもしれない。
「わたし、さびしいの~」
たとえば、こんな歌詞。演歌にはよくある、
しかし、このような言葉は、面と向かって人にはなかなか言わないだろう。
でも、こうして生きていると、寂しいと思うときはあるはずだ。

一方、組織の中や、家族の中で、地域のなかで生きることは、
拘束されたり、自分だけ気ままに・・ということもできないため、
自由がないな~と思うことがあるかもしれない。
人の目を気にする生き方になるかもしれない。
確かに、ちょっと不自由かもしれないが、
そのコミュニティのなかに仲間がいれば、寂しさを回避したり、
傷をいやしたり、あいつも耐えているから
自分もがんばろう~と切り替えることもしやすいかもしれないし、
組織に守られている安心感を得ることもできるはずだ。

一方、単独で仕事をする人、パートナーをもたない人は自由はあるが、孤独でもある。
だからといって、弱気にはなれないプライドもある。
しかし、年をとると、だんだん寂しくなるのかもしれない。
どんなにキャリアを積んでも、どんなに友達がたくさんいても、どんなにお金があっても、
自由を貫くということは孤独になるということ・・そのことを年とともに痛感するのかも
しれない。
孤独と自由の間にあるもの。それは、やっぱり「愛」だと思う。
最後ひとりで死ぬことはできないが、できる限り寄り添い、最後まで一緒に生きるパートナーが
いれば、もちろん親友でも良い。そんな存在がいたら、心配ない。

最近、おひとりさまの先輩に出会うことがあり、しみじみ、信念を貫きつつ、自分の弱さを
見せることは難しいと思った次第。

自由と孤独は紙一重だけれど、愛ある生き方を心がけることで
とってもいい人生になるのではないか・・。

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「先生」を勘違いしないように。

人様に何かを教えたり、伝えたり・・。教える、教わる。という関係は自ずと「先生」と「生徒」ということになるが、その先生という領域や期限はどこまでを指すか・・は微妙に難しい。
子供のときの習い事の先生が、何十年経っても自分のことを生徒と思ってもらえることはうれしくもあり、でも今の自分は昔の自分とはもう違うけど?という気持ちもあり、ちょっと複雑であり、その関係から距離を置きたいと思うこともあるのかもしれない。

自分が人さまに物事を教えるといった仕事をする機会も増え、「先生と呼ばれても、勘違いするな」
と思うようになった。
そのときは、たまたま教えてもらう内容があり、そういった関係の時間であるから、先生というだけのことであり、一歩外へ出れば単なる人なのである。

また教えた人が、ずっと自分を先生と思っているかといえば、そうとも限らない。
あくまでも、習った方が尊敬と感謝の気持をずっと持つかどうか。これは習った本人の問題だ。
また、立場変われば、先生は生徒になることもある。また先生と言われる人も、実は常に生徒から多くのことを学ばせていただいている。
だから、「先生」という言葉にとらわれ、勘違いしてはならない。
たまたまそのとき、それを習っただけのこと。
ただ、心から感謝していれば、尊敬していれば、関係は切れないし、行動も変わってくるはず。
教えていただいたことだけでなく、その先生自体を尊敬し、感謝を忘れず、そしてその生き様や
背中からも学びたいと思うだろう。

いつでもおごらず、謙虚に。生徒は、お客様であることを忘れずに。
政治家も医者も教師も・・・ずっと「先生」と呼ば続けていると勘違いするかも?
いつの間にか上から目線になるかも?
気を付けなくちゃ。先生と呼ばれ続けると、おバカになるかもしれないし・・。

いずれにせよ、何年経っても尊敬している、感謝をしたくなる人こそが、本当の師。真の恩師。
やっぱり結局はその人の教えたノウハウよりも、その人の背中や姿勢が一番記憶に刻まれるのだと思う。

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「やっぱ、やるか!」親孝行は今のうちに。

この春から右手の調子が悪い。怪我や故障で試合を欠場するスポーツ選手の
苦悩が少しわかる今年のわがコンディション。
出張の荷物、パソコン業務、家事・・すべてが理由であるが、まったく使わない生活は
不可能。
手紙を書いたりするのも億劫になるのもつらいが、まだパソコンがあるので助かる。
ピアノはオクターブで弾こうとすると、激痛が走る。
そんなこんなで今年後半の演奏活動についても、やらねばという思いが肩にのしかかるが
無理はできない・・と迷い悩んだりしていた・・。
しかし、やっぱりふるさとでは、まずやらねばならないか・・。

以前、私の両親を知る友人が、父母がボケないかいつも心配している私に、
「昌子さん、年に2回でも4回でも小さい規模でいいから、岐阜でコンサートやれば?
お父さんやお母さんと喧嘩しながらやれば、ボケ防止にもなっていいんじゃない?」
と言ってくれたことがある。回数は別として、たしかに何か張り合いがあるイベントを
することで親たちにもいい刺激になるのは間違いない。

と、気になっていたところ、母から
「○さんが長崎はいけなかったけど、今度はぜひと言っていた」「△さんが、いつやる?って
言っていた・・」とのことば。
「待ってくれている人がいるんだね」といったら、大きく頷く。
一番待っているのは、この母本人なのかもしれない。

確かに、そんな声をこの半年間で何名かからいただいていた。

もし、今年やらなくて、親に何かあったら、後悔するかな。きっとするな・・。

ということで、
岐阜でのライブを決定した。

「手が痛かったら、演奏せずに講演でもいいよ。しゃべるだけでも面白いで」
と、母は言う・・。

そういう場を創ることが大切なんだ。

半ばやらない方向も考えていたが、ひとまず岐阜公演はやることにする。

やると決めたらやる。
やれば、次も見えてくる。
というペースで今回はいい。

今の私にできることをやればいい。
親がはりきる。
それが何よりいい。

ということで、ふるさと公演は、今年も10月に・・。

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さすが、わかっているね~おかあちゃん!

実家へ帰ると、親と買い物にいくことが多い。
といっても、野菜を買いに行くだけだが・・。
老夫婦の栄養源をたまに買ってあげるのが、
プチ親孝行。
かごのなかに、好きなものを入れるたわいもない
時間は、とてもいい時間だ。

東京ではお目にかかれない、産直の手ごろな野菜を
調達できるのは田舎の魅力のひとつだ。
何年か前から、産直売り場へよく出かけていた。
アッシーはいつもどおり、父だ。
品揃え豊富な売り場は朝の開店時から、駐車場が満車になるほど
人気だ。
同じ大型店舗でもナショナルチェーンのスーパーより、産直広場が人気だ。
朝採れの野菜であることと、値段が安いのが魅力だ。

ということで、ずっと気に入っている産直売り場があるのだが
今回は、母が「今日は違う八百屋へ行こう。いいところみつけたから。」
という。
そしてそのおすすめの店に向かう。
駐車場もなく、大きな店ではない。路面にあるため、アッシー君は店内に
入らず、路上に停車、そのまま車中で待つ。
長く待たせると怒りそうだから、そんなにゆっくり買い物はしていられない。
急いで急いで・・・。
なるほど、店内に入る前から、野菜や果物が店頭から
あふれている。
どれもこれも新鮮。多くが岐阜産・愛知産というのがいい。
ぶどうや、すいか、いちじくから、枝豆、なす・・。季節の美味がずらり。

母は
「ここの野菜は品がいい。新鮮で、こんなに大きくて、たくさん入って、安い」
とべた褒め。
ついつい、かごにたくさん野菜を入れすぎてしまうほどの安さである。
東京へ送ってもそれでも東京で購入するより断然安い。
おかげで、段ボール1箱分の買い物となるが、お財布の重さはあまり変わって
いない。

帰り道に母が言う。
「あそこの店は品がいいんや。産直の店は、農家がただ自分のところでとれた
ものをもって店に並べるだけ。でもあの店は、いいものをちゃんと選んで
店に置いている。だから違うんや」と。(方言で話すのでこのままではないが
このような意味のこと)

私は野菜の品質や価格よりも、この母の発言に驚いた。
「この人、わかっているな~。」
そう、店とはいい品を選んでお客様に安く提供できる店がいいお店。
産直売り場とは本来、「お店」とは違うのかもしれない。

77歳になった母は、腱鞘炎の私の代わりに、野菜を入れた段ボールを
持ち運ぶ。頼もしい限り。さすが、農家出身で力持ちだ。

そう、産直売り場で売っているものは農作物であり、「製品」。
八百屋で売っているのは「商品」なのである。
その専門用語はわかっていなくても、母はその違いをちゃんと理解している。
この人にはもしかしたら、おそるべしマーケティング感覚がある。
敵に回したら、怖い消費者かもしれない。

と、いろんなことを思いながら、
またあの八百屋へ一緒に行こう。
高級なものは買えないが、野菜ぐらい肉ぐらい
好きなだけ、買ってあげたい・・。
と、

届いた段ボールを開けながら、思った。

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「解は、ひとつではないこと」の難しさと楽しさ

いわゆる理系の世界=数字を扱う世界は「正解」がある。
正しい解というのは、ただひとつ。難解な数式はもはや何十年も接することもなく
もう説くことはできない・・。であるがその世界には、ただひとつの正解がある。

また、この社会においても、道徳的なルールや常識について、「〇✕」がある。
やっていいこと、悪いこと。がある。
しかし、その基準はかなり細かく決めておかないと、
人によって判断基準がずれることもある。

そして文章の世界や芸術の世界。
これは正解というものがなく、〇✕もなく、
その評価が人間の感性であるから、どれがいい、悪いという評価は
大変難しい。
賞をとるといっても、その理由がわかったようなわからないような・・
という不可解な世界。
評論家という仕事をする人は客観的にその作品を紐解くが、
それでも最後はその人の感性で作品を評価しているように感じる。g

いろんなモノ書きのプロたちの講座を受けながら
正解がない世界で、「モノを追求すること」の難しさを感じ始めている。
この世にはいろんな作家がそれを生業としているが、
どの人が凄いか凄くないかは人それぞれの好みになる。
だから、どんなに偉い、売れているといわれても
その作家の文章が好きになれるとは限らない。
正解がない世界だから、感性で表現され、感性で受容される世界だから
頭でこれはいいのだから・・ということが難しい。

結局は、自分がいいと思う作品に習う、それをかいた作家に習う
ということになるのだろう。

私が目指したい「書く」という行為は、
「文学」なんていえる高尚な世界ではないが、
それでも、
言葉の技術と感性で、読者の心に響く
メッセージを届けなければならない。
この両輪、まだまだ磨きが足りない。
最後は、自分流を作れるところまで行かねば・・。

正解がない世界をすすむことの難しさは、
人生そのものと同じ。
難しいけれど、楽しく、やりがいもある。

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