やっとのコンサート再開。

ウィーンフィルの話を書いたことが、まじないのように効き目があったのか、やっと岐阜新聞よりロビーコンサート再開の連絡が入った。
3月、5月の2回が持ち越しされてしまったため、4か月ぶりの再会だ。

テレビで、とあるオルガン奏者が、フェイスシールドを付けて演奏している姿を見て、これだけは避けたいと思っていた。しかも歌を歌うので、それがあっては演奏にならない。
では、どうやって感染予防をするのか?

どうやら、観客数を絞るようだ。20名限定。確かに、これだと密にならない。

20名となると、かなり制限される。しかも事前申し込み制。

新たな緊張も走る。でも、やっと元に戻れる感じもする。

久しぶりの演奏会。おいでいただける方たちと、心を密に交流したい。

音楽は生が一番。それを改めて実感、共有したい。

来たる7月13日。再開決定。
お客様とともに、生のふれあいを喜びあえるひとときにしたい。

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ありがとう、ありがとう。

2週間前に疲れがピークに達した母が検査入院を経て、
老人施設に入所。
昨秋の父の入院以後、8か月間、ひとりでがんばってきた。
張りつめた緊張感と、コロナでの慣れない自粛生活。


そんな状況から、「疲れました」の悲鳴。
検査入院中も、今後のことを考えて不安で眠れず・・・。
そして、
施設での生活がはじまり、やっと母は眠れたという。


ゆっくり眠れるということは大切だ。
そして、食事も自分でつくらなくてもおいしいものが
出てくる。お風呂もゆっくり入ることができ・・。
「ほんとうに、ごくらくや。いいとこへ入れてもらって
ありがとう。ありがとう」
疲れていたときは爆発していた母が、急にいい人になった。

疲れていたんだろう。ずっと気を張って、でも、高齢だから
カラダが思うように動かなくなってきて・・。
このつらさは、本人にしかわからないものかもしれない。

とにかく、母が楽そうなのは、何よりだ。
ありがとうを交換しつつ、生きられることが一番だ。
それは、素直になるということだ。

そういえば、先日の企業研修でも
「ありがとう」という言葉が一番うれしい。という声が多数あった。

ありがとう、ありがとう。

世の中が、この言葉に満ちていれば、きっとみんな幸せで平和で
いられる。
ありがとうは、最強のエナジーワード。

さあ、今日という日に「ありがとう」といえる1日に。





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苦行のマスクコミュニケーション

コロナの影響で、講演・研修・演奏会などが見送られてきた。
そして、このたび、5か月ぶりにある企業で社員研修を行った。
20名弱の勉強会。1月以来でかなり 久しぶりの開催となった。
前回は、「さあ、2020年は~」と意気込んでいたのに、
非常事態宣言により、何度も延期となってしまい、季節も冬から夏へ・・・。
前回、誰が次回の研修では全員がマスクを着用しているとか、席が一人掛けの
シアター式に変更になるなど、想像できただろう。

久しぶりの再会。とにかく社長以下、全社員、パートさんも参加できたことは良
かった。さらに、最近入った新入社員もおられ、「はじめまして」と元気よく挨拶できたことも嬉しかった。

コロナでの変化をテーマに、社会、個人、仕事の面から、変わったということについて、マイナス、プラスの両面から一緒に考えるプログラムに始まり、
社内コミュニケーションを高めるため、自己アピールプレゼン大会など
実施。

コロナ前に考えていた企画を見直し、今だからこそコミュニケーションが重要ということを理解し、今後に生かしてもらうためのワークショップを行った。
マスクをしたまま2時間。話したり、聞いたり・・・。
正直、話をすると口の中の体温が上昇し、しんどくなる。
口の熱中症状態になる。話し続けることで、マスクと唇が摩擦を起こし、乾燥すし、苦しい。

でも、マスク越しでもちゃんと聞こえるようにと、活舌を意識してしっかり話すようにする。普段以上に心がける。

受講されたみなさんも、マスク越しに目力を大切に、積極的に参加してくださった。笑いも生まれ、コロナ苦を越えて、一丸となってスタートできる機会にもなったと実感する。

さて、マスク。研修が終わっても、すぐには外せない。

その会社から外に出てから、やっとマスクを外し、ふぅーっと深呼吸。

マスクと会話の関係は難しい。

これからの株主総会なども、皆さん本当に大変だ。
マスクコミュニケーションは、これからますます苦行になる。
マスクは身を守るためのものであり、発信する身には考えもの。
早く マスクフリーの段階になってほしい。



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ウィーンフィルに励まされる。

ベートーベンの第九の演奏を聴き、その解説を学ぶという放送プログラムをたまたま見つけ、釘付けに。ベートーベンの最後の大作に初めて触れた小学校時代、ドイツ語もわからないのに、フロイデ、フロイデと歌う合唱団に参加していた時代を懐かしく思い出しながら、ずらり並ぶオーケストラと合唱団のメンバーが立つステージを見て、??以前と違う印象を抱く。

昔から、隙間もないほどにひしめき合って何百人もがひとつのステージに立つことには、特別感があった。そしてそのスケールに感動していた。自分もそこに立った幼き日のことは今も良き経験。そして、日本では年末といえば、第九、第九。それが恒例行事であり、なかには何万人の第九というのもあった。

しかし今、そのオーケストラと合唱団の大集合の映像を見るとまあ、もうこんなことできないのでは、と思ってしまう。人が集まると、力を結集しやすいが、今となれば、これは大いなる密の世界、危険な行為ということにもなってしまう。

コロナ感染後、音楽家の活動の危機が叫ばれ、オンラインで演奏をする人も増えた。オーケストラの演奏者たちもネット上で同時に配信する例をいくつも見た。
皆さん、努力されている。

でも、やっぱり生がいい。音楽はライブに限る。自分自身の演奏活動再開について悩んでいたところ、ウィーンフィルの取り組みを知る。

どうすれば演奏会を再開できるのか。彼らはさまざまな実験、調査を繰り返した。そして、どうやら楽器を演奏したときに飛ぶ飛沫は、75センチ程度だということが判明。その距離に気を付ければ、オーケストラ編成は可能ということになり、また、客席もたっぷり余裕をもって座席を指定し、大きなホールに限定100名での演奏をこのたび実施した。

大ホールにわずか100名の観客。演奏者もフル編成ではなく、小編成での演奏ではあった。
が、演奏後の拍手は本当に感動的で、泣いている人もいた。

生の演奏が聴けて本当によかった。
生の演奏を聴いていただけて良かった。

そんな様子が報道から伝わった。

残念ながら、私がその生演奏を聴けたわけではないが、その様子を知るだけでも
元気が湧き、明るい道が見えてきた。

演奏者も聴衆もまさに一体となり、これまで以上に生の素晴らしさを共有することになったこの取り組み。
このウィーンフィルの活動で、世界の演奏家の取り組みもこれから前向きに
変わってくることだろう。

早く、演奏がしたい。

7月すでに入っている予定を見ながら、生で伝えたい。生で・・・。

ますます思いが募る。

音楽はやっぱり生、ライブが一番。それが基本中の基本だ。



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昔歩いた道を、今改めて。

実家に向かって最寄り駅からひたすら歩く。雨のなか、田植えをしている人
の姿が目に飛び込んでくる。久しぶりに見る光景だ。雨の中、頭が下がる。
田んぼは、子供の頃の方がたくさんあった。私が岐阜を出てから、たんぼがどんどん宅地となり、住宅が立ち並び、田んぼは点々と、その間にとり残された。
その残った田んぼで、今もしっかりお米が作られているのだと、田植えの人を見て感動する。

子どものころは、この時期になると、かえるの大合唱も聞こえ、時折、その中から一匹が道にぴょんと飛び出てきたり、庭のあじさいの葉っぱにかたつむりをみつけて・・・そんな自然の動きから季節を感じたものだ。
長らくそんなことも忘れていた。

最近は実家やその付近での用事も多くなったため、子供の頃に歩いた道を通ることも多い。小学生の頃の、中学生のときの、高校時代の・・・私の若き日、それぞれの時代の通学路。
18歳までの私の日々が、歩いた道とともに、今、蘇る。
それぞれの道を歩くと、40年~30年前の「まさこちゃん」に出会えそうだ。昔の同級生や近所のおばちゃんたちは、いかがお過ごしかと、あれこれ思い出す。
今、昔歩いた道が、近く、懐かしく感じられる。

また、ここを歩けてよかった。晴れない心になりがちな日も、懐かしさにふれ、ホッとした気持ちにもなれる束の間の幸せ。

そして、これまできた道を歩きながら、これから進むわが道についても考える。

きた道、戻ることはない。でも思い出すことができるこの時期こそを楽しみたい。

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雨にうたいたい・・・♪

雨の日は、確かに鬱陶しい。
でも、実は、雨の日は悪くない。
もちろん豪雨は困るが、小雨であれば、問題ない。
普段通り歩く。
小雨であれば、傘をもたずに帽子で済ます。
できる限り、身軽に動きたい。

でも、ちょっと雨が強くなってきたら、傘をさす。

雨の状態で、傘を選ぶ。
降りそうな日の出張には、超軽量の折り畳み、
今日は本降りになりそうだから、ちょっと大きめ、しっかりした傘を選ぶ。

傘をさしながら町を歩く。

混雑した道は困るが、すいている道ではマイワールドになる。

観覧車の傘を持ちながら、歌を歌いながら歩く。
映画やミュージカルでも「雨」や「傘」の名を冠する作品があるが、
雨と付けば、非日常観がして、ちょっとわくわくもする。

雨の日はみんな急ぎ足。そんななか、傘を持ちながらお気に入りの
曲を口ずさむ。車と雨の音に消されるから、大声をだしても大丈夫。
ここではマスクも要らない。

雨にうたえば、心も晴れる。

雨は人を情緒的にさせてくれる。
雨は悪くない。
昼と晴れ、夜と雨。
どちらかというと、後者の方が想像が膨らむ。

雨の日。楽しく。雨は天の恵み、心の癒しにも。

一方、豪雨はもちろん困る。
雨での被害がないことを祈りつつ・・・。
歌えるほどの雨が、ちょうどいい。


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曲がった背中は生きた勲章。

母がまもなく退院。
コロナ期は病院での面会は厳しい。
1週間あまりの入院中、途中で母に会えたのは面談のとき。
やはり入院すると見た目も変わってしまう。

2週間前まで重いリュックを背負って、気丈に自転車に乗っていた母の背中を
見つめ、事故を起こさないようにと願いながら、見送っていたが、
今はそのリュックもなく、寝間着という薄着になり、いかに母がかぼそい
身だったかと改めて知る。
そして、小さな背中をさすりながら、この前みた背中はこんなに曲がって
いたのかと改めて気づかされる。
母は、気丈であり、調査員の答えにもパーフェクトに答え、しっかりしているという印象ではある。でも、疲れているのがその背中に出ている。
人は前からの印象に気を配る。
化粧をしたり、表情の勉強をしたり、鏡をみて工夫、努力する。

しかし、実はその人が歩いたあとに見える背中こそが、真の生きた勲章かもしれない。

もちろん刻まれた皺も、しみも、傷も・・・。

上塗りしてごまかせない姿。素のままの姿。これは大切だ。

くしゃくしゃになろうとも、腰が曲がろうとも、生きようとがんばっている
その姿は尊敬と慈しみに値する。

自分はどんな風に年を重ねていくのだろう。
腰は曲がらない方がいいな、しみはできるだけ作りたくないな。
いろいろ思うけれど、ごまかしはなし。

素で生きる。それが一番。
もしかしたら、母は今、自分に発信してくれていることは、そこなのかも
しれない。

まだまだ生きる、まだまだ生きて、まだまだ。
口が達者なので、大丈夫だろう。

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応援の声で、新たな力が湧く。

日々、いろんな方が応援してくださっていることを感じる。

家族に対して、自分に対して。
本当に世の中は、愛にあふれていると思う。
愛は、ときに哀しみや、憎しみに変化していくこともあるが、
基本、応援されたり、支えられることで、人は前を向いて
歩くことができる。

日々応援していただいているせいか、頑張っている人を見ると
こちらもつい、つい応援したくなる。
長年のおつきあいの方にも、最近知り合った方にも。

先日知り合ったばかりの起業3年の画商さんのことも、初対面で
応援の気持ちが芽生え、新たな交流がはじまった。
夢に向かって進んでいる人との価値の共感、共有は自らをも
さらに前向きにさせてくれる。

どんな人を応援するか?したくなるか。
頑張っている人を。
前を向いている人を。
共感できる人を。

アスリートを人々が応援するのは、彼らが努力を続け限界に
挑む姿に感動、感銘するからだろう。

今、とても多くの応援をいただいている。
ありがたい。

そして、自分も周りの人をエンカレッジし続けなければならない。
人は、その力をもらって、元気に走ることができる。
今日も幸せに1日がスタートだ。

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自分が世界のサイズを決める。

高齢化社会というけれど、単に年寄りの数が増えるだけの、要介護者が
うようよたくさんいるだけの社会では、意味がない。
何のために生きるのだろう。何のために生きているのだろう。
本当に複雑な気持ちで、そんなことを最近、強く感じる。

人として生まれた以上、人生を有意義にするために、勉強したり、世の中の役に立つように努力したい。

歌を歌う、ピアノを弾く。料理をする。文章を書く、絵を描く、写真を撮る・・
何でもいい。自分の好きな世界で自分を活かせることができれば、幸せなはず。

単なる長生きは苦しい。そうなるか否かはそれまでの積み重ねに尽きる。
ふと、
人間は、自分で世界のサイズを決められるのではないか。
と最近思う。
自分が多くの経験を積み、学び、いろんな出会いを大切に生きていくと、
おのずと世界が広がり、さらに開く。
一方、経験を生かさず、何も考えずにただ生きていると、世界は広がらず、
年とともに閉じていく。

世界が閉じる生き方をするぐらいなら、長生きはしなくていいかな。

生きている限り、世界を広げ、自分を成長させていきたい。
世界の大きさを決めるのは、自分自身。そして、それは一生の住処にもなる。
と、日々の複雑な気持ちを抑えながら、
そうありたいという自分の信念を持ち続けたい。

自分が生きる世界だから、自分が大きくすればいい。
そう、人生には無限の可能性で満ちている。

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終活伴走

人生、終わるまで、なりゆきでわが道をいく。
そんな人に今、向き合っている。

終活ということばが生まれ、高齢化社会ではそれも長生きするための必要条件として馴染みもあるが、実際死を考えたく無い人には、「終活」この考えは難しい。

でも体力気力が失せることで、もう無理かな。と思った時点で自分でいろんな始末ができなくなり、急に焦る。

今、親のいろんな始末について格闘している。
パズルになった言葉を想像しながら、無理やりつなぎ合わせ、何がいいたい、したいのかと考え、対応策を練る。


いやはや、年をとるとコミュニケーションがいろんな意味で難しくなる。
今回、それを毎日痛感し、コミュニケーションクリエイターではなく、
コミュニケーションクルシミマスワー状態になっている。

ものがうまく伝えられない人の最期をなんとかするというのは、
なかなかのハードワーク。
普段の仕事を思いっきり気分転換のチャンスを想って取り組みながら
今、親の終活を伴走中。
毎日闘いだ。でも、これをクリアすれば、もっとコミュニケーションのことを
理解できるだろうか。いろんな意味でプラス志向で、いくしかない。

モノがいえるうちに、耳が聞こえるうちに、モノが書けるうちに、
動けるうちに・・・。

それが一番大切だ。まずは目の前の反面教師を見ながら、わが襟を正し、
現実に向かっていくとしよう。

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