「人種のるつぼ」と言われた時代は

25歳に初めて訪れた海外はニューヨーク。
あの時代、その年齢で、そこに行けたことで人生の新
たな扉が開いた。本当にラッキーなことだった。

この町は「人種のるつぼ」と呼ばれており、いろんな
人種、民族がここに集まり、一緒に溶け合いひとつの
国を創り上げていると当時のガイドブックにそう書いて
あり、日本と大きく違うことへの期待と不安もあった。

るつぼ・・・とは、金属を溶かすために使う耐熱性の
ある壺。英語でいえば melting pot 。この方がわかり
やすいか。

当時の私にとって、NYの現実はとても衝撃的であった。
本当にいろんな人種、肌の色、髪の色、体形もさまざま。
タクシーのドライバーの多様性にも驚いた。
日本で見たことがないいろんな人を見かけることができ、
最初は大柄な黒人の人を見たとき、ちょっと怖かった
けれど、すぐに慣れ、むしろその多様性が楽しめるように
なった。みんながんばって生きている。がんばるしかない!
がんばらないと生きていけない町でもある。
そのパワーを感じることが好きになった。

そんなこともあり、航空会社も日本のではなく、アメリカ
の飛行機をよく利用し、日本を出国する瞬間からアメリカ
社会に触れることがとても好きになった。
気軽に挨拶をする、ジョークを言う。仕事はちょっと丁寧
ではないけれど、自由さが自分に合っていると思っていた。

ところが、今はこの多様性を認めない国になりつつある。
そして、陽気なアメリカの人たちから笑顔が消える
衝撃的なことが起きており、大変な社会不安のなかにある
アメリカ・・・。

最近、15年ほど前かマンハッタンからニューアーク空港
まで乗ったタクシーのドライバーがプレゼントしてくれた
スペイン系の歌手のCDの曲がアイフォンから出てきた。
ここに入れてあったのだ。思わず嬉しくなって何度も
聴いた。
ああ、そのとき車内で流れていた曲だ。
「いい曲」と聞きほれていたら、車を降りる時、
その1枚を私にくれたのだ。
ドライバーとお客のひとり。ただ、そんな関係だけである
のに、旅人、しかもはるばる遠いジャパンへ帰っていく
お客へのお土産の気持ち、だったのだろう。
確か中南米の方から来ている人だった。
その曲を久しぶりに聴きながら、そのドライバーは
元気にしているだろうか?と思い出し懐かしくなった。
あのホテルマンは?あの店のあの人は?そして、
NYで知り合った旅行会社の日本人の社長は??

メルティングポットだからこそ出会えたいろんな人の
顔が浮かぶ。

今のNYはすっかり変わっていることだろう。
昨年行くつもりが、選挙結果を見てキャンセルした
その気持ちと今も同じ。
でも、そこに生きるひとりひとりに会いたい気持も
募る。

最も自由で輝いていた町。
移民で成り立った、繁栄した歴史を忘れてはいけない。

私にも自由、自立を教えてくれた町。
再び行こう!と思える日が来るように。
世界で撮影した写真のなかに、NYの摩天楼を見上げた
1枚がある。セピア色なのが、ちょうどいい。
今日も同じ空をしているだろうか。

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そこで敬語?

若き日に、岐阜から京都に行きたい!と思った理由のひとつは
「ことば」である。
全国でも、名古屋や岐阜地区の言葉は、けっして美しくはない。
正直、あまり好きではなかった。子どもながらにレッスン等
で外に出ることが増えてくると余計に恥ずかしいような気持
にもなった。標準語を話す大人は周囲にあまりいなかった。

親たちが話していた方言も、違う地域で生まれ育った人から
みると、ちょっとわからないと言われたこともあったが、
ちょっと独特であり、あまり人におすすめできるものではない
と思っていた。

念願かなって京都に無理やり住むことになり、
バイト先やお店などで「おおきに」と最後に、さりげなく言う
と、それだけでも京都人らしくて?っぽく見えてカッコいいと
学生時代は、京都に生まれ育った仲間たちの言葉遣いをうら
やましく思いつつ、横目で見て学んだ。

そのあと、東京暮らしになり、各地へ出張に行っても
「関西人ですか?」と言われるようになり、それなりに京都
弁?関西弁?(実は厳密にはよくわかっていないところも)
らしき言葉遣いが自然にできるようになった。
今も、ご縁をいただいている京都での仕事では、地元の方と
自然にやりとりをさせていただき、それなりに京都言葉は
わが身に浸透しているつもり。

最近、近鉄電車に乗っての移動中。高校生か中学生の会話が
聴こえてきた。どうやら、ある先生のことを話題にしたいよう
で、その先生の特徴を一人の学生がもう一人に尋ねている。
「その先生、若い人?」
「声の大きい人?」
など、いろいろ特徴を挙げていった。そして
「はげてはる?」
と聞いていた。
そこで私はたまらず、おかしくて車窓を見ながら笑いをこら
えた。

確かに京都弁の「○○してはる」は京都人が日常で使う敬語
である。
公的な場面、ビジネスの場面ではあまり使われていないかも
しれないが、日常の敬語としておなじみだ。
「〇〇していらっしゃる」というのを、簡単に「〇〇しては
る」というと、簡単に敬意を表することができる言葉・・と
周囲から学んだ。

学生まで受け継がれているのは素晴らしい。
でも、そこにも敬語か?
おそらく、何についても「〇〇してはる」が当たり前になって
いるのだろう。

まあ、どんなことに敬意を表するのも悪いことではないので、
と思えば、さすがの京都人!

きっとその学校中にも、他の学校でも、毎日「〇〇してはる」
が溢れているのだろう。
悪いことではなく、いいことだ。

でも、「はげてはる?」とは?先生が聞かれたらどう思われる
かな?と、思わず苦笑いされている様子が浮かんだ。

ほほえましい方言。これも楽しい京都の時間。

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もう一つの万博、心新たに。

1970年に開催された大阪万博は、小学1年生の自分にとっても、心
に残る経験となり、今も幼いころの特別な思い出のままだ。
あれから、55年経過した今も、あの当時の日本の発展、成長への
意欲、活気を思い出すと、思わず「あの頃はよかった」と、なつ
かしさがこみ上げる。
あの万博の跡地は公園となり、今も多くの人々に親しまれている
が、そのなかでも大変気に入っているのが「みんぱく」で知られ
る、国立民族学博物館である。少し遠い場所にあるため、頻繁に
は行けないけれど、何度か行き、そのコレクションの量と質に毎
回驚く。そして、世界中からもっと注目されて良い研究の質では
ないかと思うが、内外の評価は気になる。
とにかくあそこに行けば、本当に世界旅行ができてしまうのだ。

久しぶりに足を運び、今は新しい万博で世間が湧いているけれ
ど、こちらの万博も、忘れてはいけないと改めて思った。
私が毎回足を止めてしまうのが、写真の展示物。
ルーマニアのある村のお墓。「陽気なお墓」というタイトルも
興味深い。ひとり一人の人生が見えてきて、こんなお墓である
ならば、あってもいい、入っても良いかもと思えてくる。
これはほんの一例で、世界中のさまざまな地域の人々のくらし
が見えてきて、いながらにして世界旅行ができるのだ。
何度も訪れたくなる前回の万博が遺したまさに、レガシーのひ
とつではと思えてくる。

ある統計によると新しい万博を楽しみにされている方は、前回
の万博を体験している年代の方が多いようだ。
であれば、再び55年前の会場足を運んでみるのも良いし、
前回を知らない人にも、改めて前回の会場跡地にも足を運び
みんぱくも見ていただきたい。
デジタルの時代と対局のリアルな世界が見えてくる。

さらに、太陽の塔も直に見上げてほしい。
あの存在感はいったい?まさに、「芸術は爆発だ!」

やはり岡本太郎は天才だと今回も、あの作品に圧倒
される。
前回のシンボルとして、あの時代の栄華を永遠に思い出させて
くれる。生きる力を今も与え続けてくれる。
そこに観覧車も加わって、私としては、さらにこの風景が
好きになった。

半世紀経っても、1世紀経っても、また足を運びたい。
♪こんにちは~。こんにちは~。世界の国から~。♪
三波春夫さんの声が今も聞こえてくる。

やりっぱなしにならない、しっかり残す。
後も大切にする。
今回の万博も100年後に振り返る知的なものを残して
ほしい。


それにしても、「みんぱく」は凄い!

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存在感と影響力。

フランシスコ教皇の葬儀が行われた。
以前、何度か訪ねたバチカン。そこに何十万と
いう人々が世界から集まったのだ。
また、各地で追悼ミサも行われたようだ。
そして、現地に足を運べなくても、今はネット
での参列もできる。世界中の人々がその様子を
見守ったことだろう。戦地からも病院からも・
・・・。
そのことを想像するだけでも、キリスト教の
世界はすごいと思うが、それだけではなく
フランシスコ教皇ご本人がそれだけの人
であったのだ。

私もその時間は移動中であったが、スマホで
その様子を拝見した。
「バチカンニュース」というメディアをみつ
けた。主催者が撮影しているのだから、
至近距離でその様子を見ることができた。
教皇が亡くなってからのさまざまな動きも
この媒体では時系列に確認することができ、
とても近い距離感で接することができる。
初めてこの媒体を知った。

歴史に残るこの厳かなセレモニーを、
手のひらサイズで、しかも立って上から覗い
ているなんて、しかも画面を指で拡大したり、
途中でON OFFしたりとずいぶん不謹慎な
参列であるが、きっとゆるしてもらえるだ
とう。と思いながら見ていると、お会いした
こともないのに、不思議な感覚が湧いてきた。

世界のほとんどの人が、直接会ったことはない。
そうであるのに、世界中の人がその死を悼み
別れを惜しむ。
感謝の気持ちと、喪失感と・・・。
会ったことがなくても、語りかけたその言葉
や姿、表情がまさにメディアを通じて、
人びとの中に棲んでいるのだ。

まさに、信仰されている皆さんがパパと呼ぶ
ほどに、国境を越えた、そしてフランシスコ様
においては、宗教を越えての世界の父親的
存在だったのかもしれない。

実は葬儀前の時間。
私は実家のピアノの前に座っていた。
ひとりで哀悼の気持ちをささげて、フランシスコ様の
ふるさとブエノスアイレスの空を想い、
アルゼンチンタンゴを弾いていた。

そして、電車の中で葬儀の様子を見た後も、
おそらく教皇様と同世代だった演奏家たちの現役時代の
バンドネオンの音を聴き、タンゴを讃美歌代わりに
ご冥福を祈った。

フランシスコ様もバチカンに移られてから、
懐かしきふるさとのことを何度も思い出されたことだろう。
そして、もともとはイタリア移民であったということで、
その地元の木で作った棺を希望されたとのこと。
そこで永遠の眠りにつかれた・・・。
ご本人も、そして棺をつくった職人さんも喜んで
おられることだろう。

と、こんな風にいろんなことを想像し、
世界の人々のために祈り、励ました尊い宗教者の
存在について改めて思いをはせる。

世界中の人が感謝をし、これからもずっと
皆の心の中に棲み続ける存在。
ひとり一人が忘れない限り、その存在は永遠だ。

人はいかに生きたか。伝えたか。
により、その存在感が永遠のものとなり、
時代を超えて人々に影響をもたらす。

これをきっかけに、世界が平和になれたら
一番いい。

安らかな眠りを。感謝を込めて。

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美輪明宏さんに似てる?

今週の出会いをふりかえり、思い出をなぞってみる。
いただいた言葉で印象的だったもののひとつは、これ。
「美輪明宏さんにそっくりやわ」
岐阜新聞のコンサートに、ここんところ
毎回おいでいただいているお客さま。
「いやー、楽しかったわ。ありがとう!」と
いつも帰り際に満面の笑みで声をかけてくださる。
直接感想をいただけることは、大変ありがたく、
励みになる。

その方はそういえば、最前列に座っておられる。
なかなか一番前は座りづらいと思うが、その方は
遠慮なく最前列で、私の演奏やトークを顔を見て
聴かれている。

「顔は別として、目をつむって歌やトーク、とくに
突っ込み方が、美輪明宏さんかと思うぐらい、似てるわ」
と言われ、びっくり。
「似てますか~」
「うん、顔が別ね。でもほんとうに似てる」
「美輪明宏さん、お好きですか」
「うん。大好き。いやー、ほんとうに美輪さんみたい」
「次回も楽しみにしていますね」

とてもうれしそうにお帰りになった。
へえ。
確かに「愛の讃歌」を唄うときは、美輪明宏を思い出した
と言われたことは何度かあったが、そうか・・・。

実は三輪さんは子どもの頃、大好きだった。
今のようなファッションではなく、男性的な装いで
活動されてきた時、カッコよく、美しい人だと
その不思議な魅力を子どもながらに理解していた。
大人になってからは、新宿のデパートのブティックで
洋服を選んでおられる様子を見て、そういえば
同じ洋服の愛好家として共感ももっていた。
それにしても、その存在感あふれるパフォーマンスが
似ているとは、光栄すぎるお言葉。

三輪さんが長崎生まれということは、長崎に関心を
抱くようになってから知り、さらに親近感を抱いて
そして尊敬している。
今もお元気に活躍されているのがうれしい。
多様性が認められない時代から、強く信念をもって
生きてこられた方の表現や、メッセージに少しでも
近づけるならば、うれしい。

お客様はいろんなことを想像される。
それぞれの人生でのさまざまな経験が音楽によって
浮かび上がることがある。
「〇〇に似ている」と、いろいろ言っていただけて
光栄。
そして、いつか「マーサさんに似ている、
今尾さんにそっくり」
と言われるように?はならないだろうが、
私は私として、出会った人の記憶に残る存在で
いられたら、しあわせだ。

三輪さんか・・・・。すごいな。
お客さんが自分が知らない自分を教えてくださる。

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たとえば1日5分の善行。

デスクワークもひとまず一区切り。連休前、出張前の
準備もあって外に出る。
駅に向かっていると、ある人に声をかけられる。
実は、どこにいてもよく道を聞かれる方である。
(外国にいても、そういうことがあるので不思議
であるが)
「あのー、すみません。〇〇商店街はこっちですか?」
と指をさされている方角と、その目的地はかなり違う。
「ああ、そこはそっちではなく、反対のあっち側です」
「そうなんですね。」
ちょっと口頭では説明しづらく、ちょうど自分もどちらか
といえば、その目的地を経由して駅に進んでも行ける
ため、
「ちょっと説明しづらいので、よろしかったらそこまで
一緒に行きましょうか?」
「へ?そんな・・・。申し訳ないです」
「ちょうど、散歩しなくちゃと思っていたんので
いいタイミングでした。」
と言いつつ、二人で一緒に商店街目指して歩き始めた。

途中、私自身のことを不安に思われてもいけないので
ちゃんと道を説明しながら、その人が帰りも困らないよう
帰りはこっちに向かっていけば駅ということを何度も
言いながら、一緒にあるいて数分。
そのうちに少し打ち解け、その方が熊本出身で、今は愛知県内
で、登山のお店に行かれたいのだということはわかり、
熊本の地震のことなど話題にすると、初対面ではない感じ
になった。
そうこうしているうちに、商店街に着いた。

「はい、着きました。目的のお店はこちらへまっすぐ
行かれるとありますよ。帰りはこっち、ずっといくと
駅ですから。どうぞお気をつけて」
「どうも、ご親切にありがとうございました。
助かりました」
お互いにお辞儀をして、そして手を振り、笑顔で別れた。

別に一緒に歩く必要はなかったかもしれないが、
説明しづらかったのと、中途半端な説明でまた道に
迷われたら・・・と思ったから、これで良かった。

不思議なことに、この数分の道案内で、私の疲れも癒された。
なんだか、知らない人にもお役に立てる瞬間があるのだと
思うと、うれしく、自分が幸せな気持ちになった。
そのあと、駅に向かう道のり、身軽なステップになり、
歌いながら歩いた。

毎日、喜怒哀楽。さまざまな感情が押し寄せるが、
1日3分でも5分でいいから、誰かに喜んでもらえる
ことをすると、豊かな心、しあわせな気持ちになれる
かもしれない。

1日1回。小さな善行を重ねる。
すると、「ありがとう」の声をいただけることもある。
その一言で、自分自身が十分幸せになり、元気が湧き、
生きる力も満ちてくる。

さあ、今日はどんな出会い?
昨日の方は無事に商店街で用を済ませ、
駅まで帰れたかな。

その昔、パリの地下鉄でスリにやられたとき、助けて
くださった方のことが頭をよぎる。
世の中には、親切な人がいる。
お元気だろうか?なんだか会いたくなってきた。

善行。
幸せのキーワードだと思う。

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その人の価値。


誰しもが、いつしか人生を終える。
ある日突然ということもあるし、だんだんに衰退してフェイド
アウトしていくことも・・・。
その終わり方もさまざま。
人は亡くなってから、改めてその人がいかに周囲に愛されていたか
尊敬されていたか、慕われていたかがわかる。

もちろん生きているうちから、ある程度、それを感じることが
できるが、亡くなることで、その人の「価値」が鮮明になる。
(皮肉にも、亡くなった本人にはわからないけれど。)

人は生きて何を残すのか。
このたびのフランシスコ教皇の帰天については、世界中がその
死を悼み、その存在の大きさに感謝している。
弱き人を助け、恵まれない人に寄り添い、言葉をかけ、手をさしのべ、
平和を心から願い、祈り、勇気あるメッセージを発する。
そういう役割だといってしまえば、そうかもしれないが、
やはりフランシスコ教皇だからの、存在感があった。
人生の価値。
財産をいくら遺したか。ということで人生を計る人もいるかも
しれないが、その人の価値はやはり、愛ではないか。と思う。

周囲の人に良き影響を与えられること。
いてくれるから、見守ってくれるからがんばれる。
心の支えになることができる。
とてもとても及ばないけれど、いつもいい笑顔だな~と
好感をもちながら、その活動をみつめ、お父ちゃんがんばれ!
という感じで応援していた。(大変不謹慎ながら)

亡くなって、こんなに世界中の人々に惜しまれるとは
凄い力を持つ人であったのだと感動する。

まず愛し、愛される。
そこには戦いはなく、あるのは笑顔と勇気のみ。

フランシスコ教皇を見送る人が、世界からローマに集まって
きているという。
現地に向かうことはできないが、ここんところ、ずっと
その死を悼みつつ、その存在の大きさと、人の価値と
そして愛について考えている。
少しでも近づきたいと思う人が増えれば、世界はきっと
もっともっとよくなる。

宗教での表現は異なっていても、利他の精神をもって
いる方でもあったのだと思う。

偉人の死は多くの学びを授けてくれるものだ。

さて、自分は少しでも価値ある人になれるか?

長崎の出津教会に咲いていたマーガレットをここに・・・。

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ブエノスアイレス~バチカンに感謝と愛を

信仰、宗教を越えて、多くの人々から愛され、親しまれ、
尊敬されてきたフランシスコ教皇。
その訃報に接し、世界中が悲しみに包まれた。
私自身も、信徒ではないくせに、大きな心の柱のひとつを
なくしたような気持ちになった。
最後まで世界平和を祈り続け、今行われている戦争や、
さまざまな対立に対し、抗議のメッセージを伝え続けてきた。
私個人としては、フランシスコザビエルに捧げる曲をつくっ
た際に、名前の由来は違えど、大好きなブエノスアイレス出身
のフランシスコ教皇にもぜひ聴いていただけたらと妄想して、
ブエノスアイレス、国内の知人の助けを経て歌詞を翻訳、
さらにバチカン大使館に問い合わせし、教皇宛てのオリジナル
ジャケットに入ったCDを送ったことがあった。
今から思えば、もっと違う方法もあったかと思いつつ、当時は
そんな無謀な行動も。ゆるされる寛容さを感じるお方であった。

また、父と同い年であった点も親しみをもっていた理由のひとつ。
高齢でこの重責を担う仕事を続ける困難は想像できたが、神様が
ついておられるからと奇跡もおこるかもとも願っていたが。

長崎におられるシスターに哀悼メッセージを送った。
「パパ様は天国で、神様にありがとう。と言われておられると
思います。」
といただいた返信に、永遠なる存在を感じた。

もう10年近く行けていないブエノスアイレス。訪問時に撮影
した写真。
7月6日通りにそびえる白い塔の夜の様子。当時はグリーンに
ライティングされていたが、悲しみに包まれる今はどうなって
いるだろう。
そして。その名のとおり、きれいな空気~青い空、白い雲が美しい
ブエノスアイレスの町。
今の空は、涙色か。
フランシスコ教皇はここで生まれ、育ち、そしてバチカンで生涯
を閉じられた。

会ったこともない私がこんなに悲しいのはなぜだろうか。

改めて、世界平和を祈りたい。ブエノスアイレス生まれの
教皇様に心からの敬意と感謝を込めて・・・。

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平和と愛、ふるさとへの思いを伝える。

昨日4月21日は、今年初の岐阜新聞ロビーコンサート出演と
なった。
前回は昨年11月であったから5か月ぶり。お客様は覚えていて
くれるだろうか。
間があくと、いつも不安になるが、蓋を開けてみると、席は
ほとんど埋まっていて
安堵した。
久しぶりであるのと、今回は「平和と愛を願い、ふるさとを
想う」がテーマで
あるため、とくに平和と愛を表現した新曲を用意したかった。
そこで浮かんできたのは、平和への思いを音楽で,どう自分な
らば表現できるかということ。

人が人の命を奪い合うという狂気の世界に対して、終わらない
戦争への怒りと、多くの方が命を落とし続けていることへの悲
しみ、とくに愛する人を失った方の立場になるとその悲しみ
は・・・・。

これらのやりきれない感情と、現状に負けないという自らとの
闘いなどを表現したかった。
浮かんできたのは、行進曲。泣きながら、怒りながら、行進し
ていく人々の様子。
ロシアの兵士の母親たちの勇気や、被団協の方の訴えや、被爆者
の多くの証言・・・私が知るわずかな情報、見聞から、怒りと
悲しみを現す行進曲を描いた。
葬送行進曲のようなものではなく、とにかく前へ前へと進んで
いく様。

タイトルは「涙のマーシュ」。マーシュとはドイツ語で行進曲。
ベートーベンのピアノソナタ8番の悲愴と絡めて、どうしようも
ない悲しみを乗り越えていこうとする思いを表現したかった。

今回のコンサートで初披露。反省点だらけではあるが、どこかで
披露しないとはじまらない。
そういう意味では、いい初演となった。
みなさま、熱心に聴いていただき、とてもあたたかい拍手をいた
だいた。

怒りと悲しみをどう表現するか。
最近、このテーマに意識が向いている。
そう、世界のいろんなことに、怒りと悲しみの感情が湧きまくって
いるから。

音楽は武器にも対抗できる、協力な平和の発信ツールである。


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コロナの影響、今なお。

両親が贔屓にしていた飲食店が今週で閉店となる。
と聞いて、1年以上ご無沙汰していたが、久しぶりに
足を運ぶ。
営業最後の週末ということで、多くの来店。
予約も何件も入り、活気を呈していた。
その様子だけ見たら、コロナ前の週末のようだ。

「コロナでお客さんが減った。団体の利用がなくなった。」
と女将がずっと嘆いておられた。
コロナのときは、営業ができず、本当に不安な時期を
家族で頑張って乗り越えた。

その後、コロナがひと段落してからは、お客の外食に関する
意識や慣習も変わり、何かあれば集まって食事をするという
機会が減少、店にとっては難しい状況が続いた。

そんなことでの今回の判断。
飲食店を約60年営んできた女将としては、苦渋も苦渋の
判断。
「長いことありがとうございました。」
親たちが大好きな店であったため、そのお礼を伝え、
感謝を込めて、ブーケを贈る。

コロナは落ち着いたように見えるけれど、今なお、
影響を受け続ける店はある。

久しぶりにその店で、定食をいただき、妹と両親たち
との時間を懐かしく偲んだ。
この店で過ごす父が、本当に幸せそうだったことが
思い出される。

開店するより、閉店する方が大変。
仕事がすべてであった女将のことも気になるが、
まずは無事に最終日まで乗り切っていただきたい。
すべては時代とともに。

「長いこと ありがとうございました。」
スタッフの方からも声をかけていただき、
働く人のことを思うと、心が痛む。

お客はずっとあると思っていて、
いつか行けば良いと思っているが、
店はずっとお客を待っていて・・・
そして、終わるとなると、急いでやってくる。
何とも言えない現象が今回も・・・。

女将、お店の皆さんの今後も応援していきたい。

楽しかった美味しかった食事は
一生の思い出に残るはず!







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