クラシックでいい人になる。

どんなに忙しくても、できれば毎日わずかな時間でも、ピアノに向かって
クラシックの曲を奏でる。
今は、この習慣を出来たら、取り戻したい。
現実には難しいけれど、そんな希望をもつぐらい、クラシック音楽は
私にとって、生きるのに必要な栄養だ。

毎日は無理であるが、実家に寄れるとき最近は、よくショパンを弾く。
時々つまっても、音が外れてうまく弾けなくても、とにかく弾き続ける。
楽譜を見ながら、これまで弾いたことのない曲を初見演奏してみる。
もちろんうまく弾けないが、発見がある。
そして、中学生時代から弾いていたワルツやノクターン、そして最後は
幻想即興曲で締め。昔の方が上手かったといつも思うが、それでも
真剣に鍵盤に向かうときは、無になれるひとときだ。

本当に、きれい。いいメロディを作ったな~。ショパンは凄いな・・と
しみじみ感心しながら、必死に楽譜どおりに指を動かす。
この指を動かす動作と、音を感じる聴覚。
ピアノ演奏は、指と耳で成り立つ。確かに脳にはいいはずだ。
うまく弾けないことを焦りつつも、耳に響くメロディが美しいと、
心がキレイになっていく感じがするのだ。
演奏活動をしない人でも、クラシックを聴いていると、脳みそがすっきりする。
最近、バッハを聴きながらお風呂に入るという知人もいる。

そう、クラシックは心身の疲れや汚れをとる浄化作用があり、
邪念を払い、きれいな心になることができる。
これまで、あまり考えてこなかったが、クラシックを純粋に演奏すると、
善行を積むようになるのでは・・・。と、最近そんな風にも感じる。
悪いことをしようという気持ちにはならない。
クラシック愛好家には、犯罪者は少ないのでは?と勝手に想像する。
(今のところ、そういうデータは手もとにないが、興味深い)

クラシックをきくと、美味しいお酒やパンが創れるという話はよく聴くが
人間こそ、いい人になれるのだと思う。

いい人。優しい人。心豊かな人。
もちろん人によって、好みのジャンルや作曲家はあるだろう。
好きな音楽で、ときに癒され、
心やさしく、おだやかに、そして今日ものびのびと・・・♪♪

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コミュニケーションしないコミュニケーション。

街のある店の前で、店員さん同士らしき、若者たちが話している。
その前を通ったら、聞こえてきたのが
「それ、やばくない?」
という言葉。
思わず、どっちのやばい?なんだろうと思ってしまった。
まったく会話に関係ない私が、ドキドキするそんな若者の会話。
やばいの意味は、昔とは違うのはもちろんわかっているが、
その言葉は、相手によって、取り方がいろいろなので、
思っているように受け止められるかどうかは別の話ということになる。

他にもこんな会話が身近にある。
「もう、いい!」
その「いい」は、グッドなのか、その反対なのか?わからない。
「どっちなの?どっちの『いい』なの?」
と思わず聞き返す。

緻密な、きめこまやかな、言葉の意味をきちんと確認するコミュニケーションは
さぞかし面倒。だから、どっちとも取れる言葉を多用し、言いっぱなして、
受け入れ側のいいように解釈する。聞き返すこともしない。だから、
伝えたいことが伝わる。とは限らないことが多い。
なんとなく、言葉を発しているだけ。

表現がうまくないかもしれないが、
点と点のコミュニケーションの時代があった。
ひとつひとつの言葉をきちんと確認しながら、理解されていることを感じながら会話を進める。この会話は内容も深まる。
言葉を考え、交換するという、きわめてインテリジェンスなコミュニケーション。交流することでお互いが高まる。大げさにいえば、人生が楽しくなる
そんなひとときにもなる。

一方、今は線と線。ときには面と面。
どう理解されてもいいようなあいまいな意味の言葉を投げて、
それを連呼するだけ。
「やば」「すごい」「まじ」「チョー〇〇」
感じるところが違っていてもいい、大味な言葉を多用する。

言葉の力が劣化してきている。
言葉を紡ぐとか、重ねるとか、会話を深めたり、考えたり・・・。

もっともっときめこまやかに言葉を交換し、知る喜びを楽しみたい。
今、
スマホに向かい、ネット検索で容易に物事を浅く知ることで満足してしまい、
自分で考え、しっかり人とコミュニケーションをすることから逃げている。
そんな傾向もあるように思える。
このことは、とても危険だ。
コミュニケーションの本質を、今こそ、問い、大切にしたい。
言葉の力。人間に残された大切な力であることを忘れずに。

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なにごとも、「自分ごと」の精神で。

他人事で仕事していると、頭と心が一体にならず、いい結果も生まれない。
一応、手を動かしてはいるが、どこかで傍観者になっており、そして最後、
自分とは関係がないということになる。
そして、結果は芳しくない。そのタスクだけでなく、組織もまとまらない・・
と、そんなことはないだろうか?

チームや組織で仕事をするときには、自分の分担とは異なっていても、
協力しあって、周囲を見ながら、チームで心をひとつにして、全員が自分のことだと思って、一緒に取り組みたい。そうすることで、そのプロセスも含め、良い成果が生まれると思う。

自分以外の人に、問題がふりかかった場合、自分だったらと思って接すると、見えないことが見えたり、ミスにも気づくことができる。
また、声をかけたり、ちょっと手をさしのべることができる。
その結果、、どんなにその人の力になれるだろう。
自分ごと・・と思っていると、協力的になれたり、やさしくなれたりして、相手にパワーを与えることも可能だ。

組織で仕事する場合、仲間の仕事も、どこまでを自分ごととしてとらえることができるだろうか?
一緒に仕事に取り組むという以上、チーム全体が自分ごとであるように心がけたい。
みんながその感覚をもつことにより、忌憚なき意見も出てくるし、いいアイデアや意見も沸いてくる。

評論家のような姿勢では、解決しないことが多い。

やる以上は、自分ごととして、とらえ、向かいたい。

と最近、とくにそう思う。
自分自身にも、改めて。

自分ごとの精神は、真の寄りそいにつながると信じている。

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まさか、もあたりまえもなし。

今日から休み明け、仕事再開の方も多いようだ。
この数日で、コロナはさらに感染拡大、そして豪雨の被害も著しく、今なお
各地での被害は続いている。
聞くところによると、九州など被災地の物流機能は大混乱のようで、
今日からさらに活動再開の事業所が増えるとなると、さらなる問題も
起きそうだ。
現場で働く方には、大変な状況であり、頭が下がる。
何もないときは、システムにのっとり、データ管理をすればよいが
ひとたび、その機能がストップすると、AIも、ITも使えず、またたくまに
アナログでの対応を強いられる。最後は、結局、人の力に頼ることになる。

また、コロナもこの期間、身近なところでの感染も広がっている可能性がある。
ワクチン接種をしていても、感染する可能性もあり、もう安心!という
状況はない。
自分が感染したら・・・という前提で、周囲への気遣いとサポートを
自分事として対応していきたい。

加えて地震。昨日は、自分にも感じる地震が起きた。(それで済んでよかったが)
コロナに、猛暑に、雨に、地震・・・。
まさに異常気象を越え、天変地異、パンデミックといった、
まさかの事態が総結集の夏。

当たり前もなければ、まさかもない。

いつでも、どこでも、誰にでも 何がふりかかってもおかしくない。
受け入れ、対応する力こそ必要。
そして、もし、何かあっても、あわてず冷静でいること。
さらに、もし、わが命にかかわることがあっても、決して悔いがないように
今という瞬間を重ねるのみ。

物理的ソーシャルディスタンスをとりながら、心を寄せて。
今日の皆さまの、ご無事を心から祈りつつ・・・。

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さまざまな祈り、8月15日。

8月15日。昨日は、母の初盆の供養に出かけた。
お世話になっているご近所のお寺さんでお世話になった。
初盆だから・・と言われ、あまり実感がないまま、そういうものかと
お墓にほ最近になってほおづきや、蓮を飾りに行ったり、はじめてのこと続き。
岐阜のお墓って、お盆ってこうなんだ。と周囲のお墓の提灯などを見て、改めて知ったり、幼いころにいた情景を思い出したり・・・。
お盆とは、古くは7世紀にははじまっていたようで、それでも庶民の行事になったのは江戸時代かららしい・・。ずいぶん歴史があるのだと驚く。
子どものころから、年末年始と対比して、夏休みの代名詞となっていたお盆の
意味は、身近に故人がいることで、初めて現実のものとして理解される。

納骨を経て、母の存在をこれまでと違った感じで受け止められるようになったのか、涙はなく、静かに母を思いながら、手を合わせていた。
むしろ、母と大変仲良しでいてくださった、私の幼稚園から中学校までの同級生のお母さまが、この日もわざわざ同席いただいたことがうれしく、
命絶えても、こうして一緒に祈っていただける人がいることに、しみじみ感謝の念が湧いた。
「もう、電話してくる人もいないで、電話賃かからんわ」
冗談交じりにそんなことを言われる。電話する人がいないので、寂しい気持ちの裏返しの言葉だ。
母の人生を今一度思い、そして、改めて、静かに想う。
いつも一緒にいる気持ちが強いので、あちらの世界に行ったとは、実は思っていないので、母へは送り火という発想もあまりないのであるが、ただただ、ありがとう、ありがとう。という気持ち。

一方、8月15日は終戦記念日。
お盆とこの日が重なっているのも、偶然と思えないほどの特別な感じがする。
家族を戦争でなくされた方は、毎年この日をどんな思いでお迎えになることか。
そして、もう、といっていいかわからないが、76年の歳月が経過。れでも家族への思いは消えず、複雑な思いがこみ上げておられることと思う。でも、そのご家族ももう高齢だ。この思いを、お盆と言う行事がこれからも繋いでいってくれるだろうか。
それぞれの祈りの8月15日。
日本人にとっては、大変特別な日。そして、今年は、私にとっても、心新たに
大切は人を想う1日となった。
大雨で亡くなった方もおられる。
心よりお悔やみを申し上げたい。
今日は、京の五山送り火。
近くにいけないが、こちらから静かに先人たちのことを思っていたい。

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お便りと安否確認で過ごす盆。

ワクチン接種後2日目でもあり、また世の中がお盆休暇中ということもあって、
少し静かに過ごそうと思った週末。
前から気になっていた、母がお世話になっていた皆さまへの残暑見舞い・・を
思いつき、いっきに書き上げる。
こういうときじゃないと進まない。
それでほっとしている間もなく、次は大雨の被害で気になる人への連絡。
九州の知人関係や、そちら方面が故郷の方へ、お見舞いメッセージを送る。
長崎、佐賀、大分、福岡、広島・・・そして東海地区・・・。
あわせて、コロナで大変な首都圏、大阪・・・。
言葉をかけたくなる人が、たくさん出てきた。
ご無沙汰している人にも、久しぶりの残暑お見舞いを兼ねてコンタクトしてみる。
すると、すぐ返事がかえってくる人も・・・。
ああ、みなさん、コロナ、猛暑、そしてこの豪雨のなか、がんばっておられるな~!私もがんばらなくちゃいけない!と改めて勇気をもらう。
最後の結びは
「落ち着いたら、会いに行きますから!」
いざというときに声を掛け合い、そしてそこからまた関係が再開する。
と、そんなこともある。
元気で良かった。気になる人には、やはりこちらから連絡をとっておきたい。
寝ている間に返信をくれる仲間もいる。
ああ、こちらも無事かと安堵する。

心あたたまる人間関係があることで、人は苦難も乗り越えることができる。
この夏は、本当にいろんな学びを与えてもらっている。
普段バタバタしていると、心落ち着けてなかなかできないこと。
大切な人に気持ちを伝えること。

それにしても、雨は怖い。
夜のうちに、だまって水かさを増す。静かに忍び寄る。
夜が明けたら、被害がさらに大きくなっていないか・・・。
実家の近所にも、避難指示が出始めているとテレビの字幕で知り、
他人事ではないと再認識。

すべての災難が、早く終息するように。
今年の夏は、ただそれだけを祈りたい。


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できることを、まず、する。

ワクチン2回目を接種した。ファイザー製。最近の報道によると、デルタ株への
効果は、従来と比べると低いそうだ。それだけ、デルタ株の感染力が強いということだ。
ウイルスとワクチンの熾烈な戦いが続いている。
ワクチンの接種について、アメリカでは、政治や宗教によって受け入れ方が
異なることで、国の分断がこんなところにも。その、その結果、再び感染が広がっているという。健康にまで、政治宗教が介入するとは、いささか厄介だ。
個人の心情が、他者に影響をもたらしてしまう。感染症は複雑だ。

何を信じる、誰を信じるかによって、人の行動は変わるため、リーダーシップは重要だ。
日本でも然り。非常事態宣言を受け入れるかどうかは、リーダーシップにかかっている。
ワクチンに話を戻す。

私にとっては、接種しないと施設の父にも会えず、今後出張にも影響するため、
迷わず接種。リスクは何にもつきものだ。

ワクチン接種後、その接種済のシールを受け取りながら 担当の人に
「これがあれば、海外に行けるということはないですよね」
「そうですね。これはあくまでも、2回接種したというものであり、
 そこまでは使えないと思います」
「じゃあ、そういう証明書はどこに行けばもらえるのでしょう?
どこできいたらいいでしょうか?」
「いやー、わからないです。まだ政治が何もいってきていないので」
想ったとおりの答えで、まだこの先の道筋は見えていない。

それでも、
でも、接種しないと次に進めない。
感染しても、重篤にならないなら、まだいいと思わねば、進めない。

期待しすぎず、でも、少しでも効果が見込めるならば、選択しない手はない。
おかげさまで、副反応は、今のところ、ほとんどない。
迷いながらも、できることをする。
道は開ける、光のある方へ進んでいる。とそのことを信じるのみ。

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やさしい顔を学ぶ。

何百年も同じ顔で、その時代時代の人々を励まし、慰め、見守る。
そんなことができるすごい存在。仏像や、マリア像など、信仰の対象
物は、表情が大切だ。
世の中には、無数の仏さんがあるけれど、私が一番好きなのは、
ふるさと岐阜 正方寺にある、この大仏さん。かご大仏とも言われて
おり、製法にも特徴があるようだ。
そして、大きさでも、知る人ぞ知る、日本三大物のひとつ。
と聞くと、驚かれる方も多いが、
そう、奈良や鎌倉に負けないお宝が岐阜にはある。

1812年の完成ということであるから、出来上がってすでに200年以上が経過。
お寺さんはこの大仏はもとより、この仏さんがいらっしゃる大仏殿の維持
管理にも力を注いでおられる。火事や自然災害、経年劣化からお宝を守るのは
大変な仕事だ。

以前この大仏さんのことを、地元の新聞のコラムに書いたと
坊守さんに告げたら、たいそう喜んでくださって、
「うちの大仏さんのファンでいてくださるんですか!!記事にしてくださったんですか!ありがとうございます~。」
と、ちょっと興奮気味に話してくださったのが印象的であった。

そうファンなんだ。その表現がこの大仏さんとの関係にはふさわしい。
檀家さんですか?よりも、ファンがいい。

それはともかく、この大仏さんの表情は本当に愛らしい。
思わず、話しかけたくなるのだ。
奈良や鎌倉の大仏さんには、そういう気持ちがおきなかった。
この岐阜大仏さんは、人間味があり、笑っておられるような、
耳のサイズのバランスがユーモアにつながっているだろうか。

今回久しぶりに足を踏み入れ、
「お元気でしたか」
と声をかける。

大仏さんから、表情を学ぶ。
話しかけたくなる人になる。
この人なら、聞いてくれそう。
そんな優しさを醸し出すように。

普段、つい、考え事をしていると眉間にしわが寄るけれど、
時々、いい顔を見て、いい顔を学びたい。

歴史を越えて、いい顔は変わらない。

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ふるさとは遠きにありても、近くにありても。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの  そして悲しくうたふもの」
とあまりに有名な室生犀星の詩があるが、
最近の私の心情としては、これに対して
「ふるさとは近くにありて感じるもの そして愛しく抱くもの」
と、そんな表現をしてみようかと思う。

この写真は、最近の、ふるさと岐阜の長良川の朝と夜の様子だ。
朝は朝焼けのころ、夜は鵜飼いの「総がらみ」というクライマックスの前の様子を遠くから見ていたものだ。

かの信長は城の上からこの町を見下ろし、天下布武に思いを巡らせたかもしれないが、私は岐阜城を見上げるこの長良川に、ふるさと岐阜への誇りを感じる。

ここから見る岐阜が大好きで、ここがふるさとであることを、誇りに思うのだ。

岐阜を出る若き日もよくここにきて、考え事をしたり、河原で歌ったり、スケボーしている少年と話したり、旅立ちを夢見たり。ここに来ると普段と違う、自由と解放感を感じることができた。

そして、岐阜を出たあとも、この場所が一番好きで、何度も何度もここに、会いに来た。
京都に行っても、東京に住んでも、ふるさとは岐阜である。と思わせてくれるのはこの景色だ。新潟の万代橋を渡りながら、いつもこの風景を思い出していた。

今、改めて朝と夜、この場所からふるさとを見る。
幸いなのは、もしかしたら、時代は違えど、
信長が同じ場所で夢を見た時期があったかもと
想像を働かせることができることだ。

生きる限り、どこにいこうとも、ふるさとは永遠である。
そして、勇気と夢を与えてくれる存在。

今、ふるさとに帰る人が多いこの時期。
それぞれが、それぞれのふるさとに思いを巡らす時期。
生きる上で、大切にしたいひとときであると思う。

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やっぱりリアル、やっぱり話そう。

コミュニケーション・クリエイターともう四半世紀近く、名乗っているけれど、
コミュニケーションの難しさは、今も、毎日のように感じ、試行錯誤を続けている。いろんな人と会い、交流しながら、物事を進めていく上で、そのことは永久の課題なのだろうと最近思う。
今日はうまく伝わったとしても、明日、違う相手、違う内容で必ずしも、うまく
いかないこともある。
親しいからと言って、常に伝わるということもない。
親しき相手こそ、違う存在であるということを、そのたびごとに意識しなければならない。
そして。コミュニケーションには、便利なツールがたくさんあるけれど、
それを使うが故に、その手法に慣れてしまい、相手の置かれた状況など
考えられずに直進してしまい、柱に激突ということもある。

できれば、できる限りリアルがいい。
できれば、直接話した方がいい。

ちょっと気になったら、電話に切り替える。
ちょっと気になったら、会いに行く。

しまった!と思ったらすぐにあやまる。
わからなかったら。よくきく。

結局、コミュニケーションは相手ありき。
少なくとも、相手に不安や不快、不信の3Fを抱かせては
いけない。

日頃から反面教師が云々といっているけれど、自分自身が
そうなっていることもある。
とにかく、

コミュニケーションは大切だ。
お互いを信頼で、絆で結べるいい関係になるように
きれいな花を一緒に咲かせるように、
せっせと、水やりをしたい。

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