現在、YouTubeで配信中の、防災ドラマ「東京(携帯式)ヘルメット物語」
が、グラン・ルー公式サイトからもご覧いただけます。
ひとりでも多くの方に、楽しく防災についてのご理解をいただく、きっかけに
なれば幸いです。
私のテーマソング「人生は観覧車のように」、フランシスコ・ザビエルをたたえた「フランチェスコの夢」などのオリジナル曲が、作品内に挿入されています。
どうぞ、お楽しみください。
Le Grande Roue Contents (mahsa.jp)
現在、YouTubeで配信中の、防災ドラマ「東京(携帯式)ヘルメット物語」
が、グラン・ルー公式サイトからもご覧いただけます。
ひとりでも多くの方に、楽しく防災についてのご理解をいただく、きっかけに
なれば幸いです。
私のテーマソング「人生は観覧車のように」、フランシスコ・ザビエルをたたえた「フランチェスコの夢」などのオリジナル曲が、作品内に挿入されています。
どうぞ、お楽しみください。
Le Grande Roue Contents (mahsa.jp)
移動手段で最も好きなのは歩くことだ。健康にも良く、頭や心にも良い。
一日 10000歩が目標。叶わぬ日もあるが平均すれば、まあまあ実行できているようだ。昨日は気が付けば、目標の倍以上歩いていた。少し時間あれば、一駅分歩く、二駅分歩く。じっと待つより、密にもならないし、快適だ。
ベートーベンも作家の野村正樹さんも、毎日散歩を日課とし、そこで構想を練った。考える仕事やゼロから生み出す仕事には、散歩は貴重な思索の時間だ。
歩き始めることで、パソコンの前では出てこなかったアイデアが湧いてくる。それは、常に同時にいろんなことを考えているからなのかもしれないが、さっきまで悶々としていたことも、外に出ると違った角度から物事が見えてくるから、不思議だ。
さっきまで、全くなかった新しいアイデアがどんどん湧いてきて、すぐ立ち止まってスマホにメモしたり、すぐメールしたり、浮かんだメロディならとりあえず歩きながら歌い、録音する。
今、残さないと、すぐ伝えないと。忘れてしまう。シャボン玉のようだ。
そんなこんなで、ゆったりしているつもりでも、忙しい散歩になることもあるが、自分の速さで世界と向き合うことが、想像したり、創造するにはもってこい。
犬も歩けば棒に当たるというか、が、私も歩けば、アイデアというシャボン玉に当たる。
というところか。
外に出ることで、いいことがある。巣ごもりもいいけれど、密ではない、
空の下での活動を楽しみたい。
相手をいかに、やる気にさせるか?は、常に考えどころだ。
これは、ビジネスの場面だけでなく、介護の現場も同じということが最近わかってきた。
カラダが以前よりスムーズに動けなくなってきた母。トイレに行くのがだんだんおっくうになる。加えてこの寒さ。部屋を出て、廊下を通ってトイレに行くのが
気が進まなくなり、どうしても行く回数が減る。トイレに12時間行かなかったら、作動するセキュリティも何度か稼働してしまい、警備員が出動。と、大騒ぎになる。えらいこっちゃ。
それでは困る、このままではいけないと思い、母にさまざまな手を尽くす。
「食べるときはいいけど、自分で出せないなら、人間として困るなあ」
「トイレきちんと行かないなら、おしゃれもしたらあかんわ。」
「トイレいけないなら、外出ももうできへんわ」
「トイレいけないなら、もう自宅へおいとけへんよ」
いろんな角度から、トイレに行かねばならないということを言いつくした。
母は、ある意味、危機感をもってきいていたようだ。
そこで、「これからは、トイレGOGO作戦や!」
そう、母を頻繁にトイレに向かわせることを、こう命名した。
すると、母が、「ゴーゴーって何や」と興味深げに聞いてくる。
「トイレに行こうという合言葉」
その後、母に毎日「トイレ行った?ゴーゴーやで」というと、
「はい、はい。行く行く」といい返事が返ってくるようになった。
そして、意識し、トイレにいくことを習慣づけるようになってきた。
「GOGOやで、GOGOしてよ」
と、直接でも、電話ででも、そういうと、母は反応して、「はいはい」
と応える。
なんだか、面白い。
ゴーゴーというと、トイレに行くのも楽しくなるのかな。
今、母との合言葉はこれだ。
「ゴーゴー」「はいはい」
なんだか、こっちも楽しくなってくる。
GO TO トラベルではなく、 GO GOトイレ。
元気に毎日を過ごすために、ちょっとしたことですべてが変わることもあるようだ。
親ののGO GO人生を、出来るだけ長く応援し続けたい。
先日投稿済の、You Tubeで配信中の防災防災ドラマ「東京(携帯式)ヘルメット物語」をごらんになった方から、うれしい声をいただく。
https://a4t.jp/language/tokyohelmetmonogatari.pdf
「ヘルメット、見ましたよ!面白いですね。コミカルで温かくて、そしてテーマは本当に重要なこと。
こういう コンテンツがシェアされるといいですね。 フォロワー少ないFBですが、私もシェアしてみて反応をみようと思います。
(ちなみに私の課では共有しておきました。)」
「防災ヘルメットの動画を拝見しました。その構成が、ヘルメットと云うモノ視点は、サラッと触れる程度で、むしろ、送った方のやさしさや貰った方の気持ちにフォーカスしている点は、何事の提案においても、見習うべき視点と感じました。
買って!ばかりでは顧客は逃げますね。そんな動画を盛り上げ、主人公の気持ちに寄り添う「音楽」が情緒を醸し出していますね。」
以上はその中から、企画の意図が伝わったかなと嬉しく思った一例だ。
真面目なこと、大切なことを伝えたいときほど、敷居を低くし、ソフトに、楽しくいきたい。そして、優しさも織り交ぜたい。
そして、相手の内面にじんわり伝わり、その意識や行動が変わっていけば・・。
ただ面白いだけでは意味がない。これが大切なんですよ。という軸はぶれないように。
今回の動画は、コロナ禍だからこそ発想できたのだと思うが、大事なことを伝えるその手法、表現についての実験でもあった。
だからその意図を理解し、受けとめてくれる人がいるということは、自分のこの仕事、生き方の励みになり、やりがいにもつながる。
また、一斉に多くの人に見てもらうことを意図する手法もあるが、本企画は「瞬間的な」話題性を優先する、バズることが狙いではない。
持続性、継続性。長く、飽きずに見てもらえて、配信元の企業が感謝されたり、それによりブランド価値が上がったり、何よりも、今回であれば防災意識をもつ人が増えれば、それが一番。
防災といえば、食糧のことにまず意識が向きそうであるが、今回のドラマで、身を守る、自分を守る、大切な人を守ることに意識を向ける人が一人でも増えたら・・。ドラマが暮らしに役立つなんて、最高だ。
冬に、名古屋から京都へ行く際は関ヶ原に要注意。電車が遅れる。
と、このことは子供の時から知っている。
関ヶ原付近の雪の影響で・・・と新幹線でのアナウンスはこれまで何百回も
耳にし、実際、列車の遅れにも慣らされた。新幹線も雪には勝てないんだ。
と思っていた。
雪といえば、長年の新潟通いのおかげで、上越新幹線の車窓から眺める雪、高速道路で降り続く雪、一般道にうず高く除雪された雪の山・・・。などなど、雪のある景色には随分慣れてきた。
また上越新幹線は、大雪の中も、放水して降り続く雪を跳ねのけ、元気に走り続ける。雪国の新幹線は、タフかつパワフルであることも知った。
初めてその様子を見たときは、「おー!すごっ」と感動したものだ。
また、新潟でのディナーショー当日など自分主催のイベントには、季節外れの雪が突然、舞い降りてきたり、そんなドラマチックなシーンも今だ記憶に新しい。
雪とは、見て美しく、共生するにはやっかいな、そして恐ろしい存在だ。
でも、雪が降ることで、いい水ができ、おいしいお酒やお米ができる・・。
雪があって、雪国の人の暮らしは成り立つ。雪が暮らしを豊かにしてくれている一面もある。
雪こそ、吉なるもの・・。と「吉雪」というブランド名を名付けた食品会社もある・・。今は亡き、そこの創業者が、熱く雪への思いを語っておられたことも、思い出される。
雪に対するわが想いは、新潟通いのおかげでずいぶんと深化したものだ。
凍てつく雪道を歩くのは大の苦手のままであるが・・・。
などなど、京都に向かう途中、米原周辺の雪を車窓から眺めながら、あれこれと
思い出していた。
そのとき、
真っ白な田んぼに、おひさまが照り付けて、きらきら光った。
この雪で、近江のお米もおいしくなるのだろう。
越後平野の広大な田んぼも、こんな風にきらきらしているかな。
雪というだけで、滋賀にいながら、新潟にもいる。
雪のノスタルジー。往く冬を愛しみたい。
毎日11時すぎにメールを送ってくる、岐阜のお寿司屋さん。
今年に入って、一度ランチに利用し、料理、接客ともにがんばっているな~と思うことが多く、思わずメルマガ会員に登録して以来、毎日送ってくる。
不思議なことに、そのメールが届くことが、なぜか嫌ではないのだ。
メルマガでも、あまり頻繁にきたり、押しつけ型、売り込み型の内容であると
鬱陶しくなり、登録解除をすることもあるが、この寿司屋さんのメールはそうではないのだ。
今日もがんばってるな~。という気持ちになるのだ。
緊急事態宣言下の営業は、制約も多く、大変だが、板さんも助手さんも、ホール担当の方も、皆さん全員が、気持ちいい接客。活気あるお店なのだ。
そして、店内には「おうちで寿司宴会いかがですか?」などのテイクアウト商品のアピールもしっかり。コロナを前向きに乗り切ろうという気概も感じる。
飲食業とは決して派手な商売ではなく、細かい信頼の積み重ねであると思う。
そのことをきちんとやっていれば、お客が切れない。
このコロナで、あまたある飲食店が本当に頑張る店かどうか、がふるいにかけられていると思う。もちろん自力ではどうしようもない状況にあるお店も多いと思う。だからこそ、しっかりサポートする体制が求められている。
この岐阜のお寿司屋さんに限らず、今は訪問できなくても、工夫を絶やさず元気に頑張り続けている店を、心から応援したい。
頑張る人は、応援しなくちゃ!
でも、それも限界もあるから、早く、早く。
コロナの終息への祈りと、こういうときこその、
公的そして公平、適切な支援体制を心からのぞむ。
小さなイタリアの村が登場するBS番組があり、何年も前から気に入り、
可能なときに視聴している。できればずっと続いてほしいと思っているコンテンツのひとつだ。
今回は、北イタリアの自然豊かなベッラモンテという、見知らぬ村のことをやっていた。名前のごとく、山間の静かな美しい村・・。
おそらく、このような番組に登場する小さな村々に住む人々も、今はコロナ禍で皆さん大変な暮らしを送っておられると思うが、放送されているのは、マスクなしののどかで牧歌的な暮らしのとき。
早くそんな日が戻ると良いなあ・・・と心から願いながら、見ている。
ある村人が、家族との食事のあと、自宅のリビングでお気に入りのアコーディオンを弾きながら、自作の曲を歌う場面が出てきた。
それが毎日のランチ後の習慣になっているようで、家族相手のコンサートだ。
人口も少ないのどかな村。そこで住まい、静かに暮らす。
いろんな苦難を経て、最終的にこの村に住まい、落ち着いた人生とのこと。
今は、毎日の食事のあとに音楽を楽しむのが楽しみだとその主人公は言う。
「音楽は、人生を少しだけ変えられるんだ。」
確かにそうだ。
唄うことで、弾くことで、もう一人の自分になることができる。
場所も時間も越えて、新しい自分に出会うことができるのだ。
日常生活のなかで、
人生を変えられるもの、ことって、実はそんなに多くはないのかもしれない。
もちろん、おいしいものを食べたり、キレイな装いをする。これも人生を少し変えることになるかもしれないが、
音楽では、心が満たされるのだ。映画を見るのもそれに近いかもしれないが、
音楽は誰もが、自分自身で表現することができる。
心豊かになることで、もっと優しくなれたり、楽しい気分を維持できたり・・・。
音楽がある人生は、ほんとうに幸せだ。
歩きながらでも、それは実行できる。
さあ、今日も歌いながら、歩くとしよう。
きっと今日が最高の、楽しい1日になる。
介護というのは、ほんとうに正解がない。
と、その言葉を教えてくれたのは、知人のコピーライターであるが、
日々そのとおりであると、実感することが多い。
自分の力で生活するのが難しくなってきた父は、施設にお世話になっている。
一年前、入院していた病院のリハビリの報告書を整理していると、病院の看護士さんたちの記述の後、本人のコメント欄があり、
「家に帰りたい」
と毎月書かれているのを見て、胸がつぶれそうになった。
家に帰りたいと書いてあるのに、実際、家に帰れていない。
脳梗塞で倒れ、入院した一昨年前の9月以来、家に帰っていない。
その後の父の生活の変化を思い出しながら、そのときそのときは、一番いい選択をしてきたつもりが、ほんとうにそれでよかったのか、よいのか・・は
疑問のままだ。
せめてもと、コロナで面会がままならない状況でも、こまめに施設に差し入れを
持参しているが、これは私の自己満足でしかないのかも・・・。
そして、母は父の入院から、ひとり暮らしに。その後、コロナでこれまた大きな変化が起き、前のように一人で暮らすことが難しくなった。施設での短期利用を経て、現在は家で、ケアマネさんのお世話になり、1年前までは知ることもなかったデイサービス、ヘルパーさん、ショートステイ・・・の各サービスを併用し、近所の皆さんにお世話になりながら、なんとか自宅での暮らしを続けている。
と、なんとか親たちは、紆余曲折しながら安定した毎日を過ごしているということもできるが、このカタチが良いのかどうかは、わからない。
ともすると、家族たちの自分都合で行動している、そんなことはないだろうか?と思うことが多い。
ただ、心の奥にあることは、「自分が守る」ということ。
父母がいい人生の結びができるように、そうでなければと思う。
口では怒ってばかりいても、私が守る。
と、そんな気持ちでいる。
ただ、そう思うと、今のカタチがこれでいいのか?はわからない。
守る。このことは、大切ではないだろうか。
私もおかげさまで、周囲に守られて生きている。
そして、親に守られて、幼少期を過ごした。それがなければ今はなかった。
だから、
今度は、自分が守る番。
と、心の奥底では思っているが、その行動にはまだまだ迷いが多い。
大好きだった人が、長年のがん闘病中、コロナ禍のなか、亡くなってもうすぐ1年になる。
そんな状況での別れとなったせいか、今も現実感がなく、いつも困ったときにエールをくださった、あの元気な笑顔に背中を押され続けているような気持ちでいて、ほんとうにあの方は亡くなったのだろうか?と思えたりもする。
共通の知人に、そんなことをメールすると、こんな返事が返ってきた。
「〇〇さんのことでは、今でも元気でコロナ禍のために会えないくらいに感じます。 メールや電話の連絡に返事はありませんが、きっと本人の都合ではなく、
あの世とやらの通信事情が原因と思いたく、通信の回復を待ちたいと思います。 」
同じ気持ちでおられるんだと思い、安堵しながら納得する。
もし、大切な人がこの時期に亡くなっても、いや、もし今後いつでも、そういうことがあっても、こんな風に思いたい。
前に何度も触れたことがあるが、
こちらが思っていれば、相手は永遠の存在だ。その人は心のなかで、生き続ける。
今もこの原稿を書きながら、「そうですよ~。応援してますからね~今日もがんばってくださいね」と、そんな声が聞こえてくる。
あの世との通信は、相手の存在を「信じる」というところでつながることができるのかもしれない。と、そんなことも勝手に思っている。
毎日、何もない日はない。
とくに親のことが本格業務に加わったこの1~2年は、ほんとうに次から次へと何かが起きる。
人生、自分のことだけ考えていられるときは、ほんとうに幸せで、今はその時代が懐かしくもある。
現在は、心配なことが何もない日はありえない。
必ず頭の中に、何かがある。寝ていても 気になって、起きてしまうことも日常になった。
「もう、次から次へと~~」
と投げ出したいぐらいの気持ちになるときもあるが、
まあ、それが生きているという証拠なのかもしれない。
何もなかったら、つまらない。と思っておこう。
時が動く、人が生きているとは、つまり次から次へのドタバタ劇だ。
喜劇か悲劇かわからないけれど、その両方かもしれないが、
日々、その連続だ。
人生、喜怒哀楽というが、まさにそれが次々襲ってくる毎日を
前向きに、かみしめるしかない。
次から次へと難問がふりかかっても、次から次へとさばいていけばよい。
じっとおいておかない。嫌なことほど、苦しいものほど、先に解決させる。
まあ刺激的な人生をいただいていると、喜んで受け留めるように。と、そんな人になりたい。