
Alexaという友人。彼女とは10年以上前、NYのギフトショーで出会った。それから彼女が住むニューオリンズで大型ハリケーン「カトリーナ」が発生、甚大な被害を受けた。心ばかりの応援をしながらもずっと再会できずにいて、ここ2年の間にやりとりが復活。
今回、彼女に自宅にお邪魔し、彼女の仕事であるアートビジネスのこと、ニューオリンズの音楽のことなどあれこれ聞かせてもらう。そうするうちに、彼女の子供たち(9歳・5歳)が学校から帰ってくる。9歳の女の子はピアノが好きだという。「MASAKO,ピアノを一曲弾いてやって。」と言い、それまで流していた大好きなプリザベーションホールのCDを止める。では、ということで、「夜のグラン・ルー」を咄嗟に弾き始めた。「ウァオ!」と言って、Alexaは娘と手を取り合い、ワルツを踊りはじめた。
とってもいい光景で、自分の曲に合わせて異国の親子が笑顔でくるくる舞っていることに感動しながら、弾きつづけた。9歳の少女とはすぐに仲良くなった。分かれたその夜、お礼のメールをすると、彼女からも。「貴重な時間、訪ねてくれてありがとう。毎日娘が寝る前に同じ質問をするのですが、『今日一番良かったことは何?』と聞いたら『MASAKOのピアノを聴けたことだといったので、そうだね。といって寝かしました。本当にありがとう』」との返信につい、涙があふれた。
国を越えて、世代を越えて、何かが伝わっているならば、響いているならばうれしいこと。「明日、ゆっくりCDも聴きますね」プリザベーションホールはじめ、JAZZが大好きな彼女にとってどうかわからないが、ひとつ約束も果たせ、今後の交流も楽しみになり・・。
「今日一番良かったことは?」の答えに涙
消費の意味を問う季節
その昔、お正月三が日は、どこの商店もお休みで、みんなが休んで、みんなが新年を祝い・・だから、お正月から主婦が忙しく台所に立たなくていいように、みんなでおいしく食卓を囲み、新年を祝うためにおせち料理も誕生したはずであるが、最近は、元旦も休まずコンビニはじめ、チェーン店や観光地は営業し、ショッピングセンターも遅くとも2日から初売り。福袋というのが人気だそうで、高価なものほど飛ぶように売れる、そのために早朝、いや前日から並ぶ人もいるそうだ。セールは年々前倒し、季節が過ぎていないのに早々と売りつくそうとする。じゃ、最初からセール価格で売ればいいじゃない?とも思ってしまうほど。
一方、とくにアジアからのショッピング客が急増しているようだ。全国的に日本への観光客は増えているが、とくにアジアの方には、日本は買い物天国のよう。都内だけでなく地方のデパート店内にも中国語やタイ語らしき言葉が飛び交い、成田空港の出国窓口には大きなショッピングバッグを抱え、一仕事終えたかの満足感に似た様子で帰国の途につく人たちを多く見かける。モノをいっぱいもつ現代人・・・・。人類の進化は何かと考える。
貨幣経済になり、貨幣によりモノを消費する便利さを人間は知った。大量生産、大量広告、大量消費の時代は、発展途上国にも受け継がれ、モノを買うことが豊かだと思う人がまだまだ存在する。「豊かさ」とは消費の力であると、今だ思っている、そんな人たちが少なくないことを驚き、一方、ネット社会のおかげで、いつでもどこでも簡単に消費できることが当たり前の生活になっていることについても、考えさせられる。
私自身の生活もそうだ。セールといえば・・・。という時代もあったし、今もちょっと気になったりはする。後で気が付けば、着ることのない洋服、もつ機会がない道具がいっぱい残っている。結局、それは生活に不可欠なものではなく、消費した時点でその役割が終わっているのかもしれない。
この季節、各店舗から送られてくるDMを見るにつれ、作る人、売る人、買う人。この関係は何のために存在するのかと考えてしまう。もう、とっくにモノの時代ではないと思うがそれでも、シーズンになれば必ず新製品を連発し、そして消えていく・・・。モノが問題ではなく、このその繰り返しというしくみが問題なのだろう。人間は一体、これをいつまで続けるのだろう。やっぱり、モノの豊かさ以上に、心の豊かさをまっすぐにみつめ、その方向に動いていかねばならないと痛感する。
どこか時代遅れな消費型社会に、違和感を感じながら、かといって自給自足はできないのだから・・と自己矛盾を抱えつつ。
「消費者」この言葉もどうかな?消費という言葉は、いかにもネガティブだ。人生は、
人間は費やしている存在だけではないから、この行為の先に何かポジティブな世の中に少しでも役立つ行動をしなければ、経済の発展に踊らされる存在で終わっていてはいけない。消費のあとには環境問題もついてくる、などなど、自ら反省も含め意識を変えなければ。
「なぜ」の答えには、語れば長い物語もある。
なんでも「なぜ?」を問うことはその事実を理解するのに、とても大切だ。「なぜ、そんなにいつも元気なんですか?」と言われることも多いが、それにはそれなりのわけがある。といえばカッコいいが、全然かっこよくない。子供のころから、周りの大人が当たり前にしていることをおかしいな、なんでだろう?と観察し、反抗的な言動をしているうちに、それが行動となり、誰にも後ろ指をさされないようにと必死らしく?生きてきたら、こんな風になっていた。ということで、そこにいたるまでのプロセスや小事件は無数にある。いろんな積み重ねで今がある。おそらく誰でもそうだろう。「私って思ったとおりに絶対にやる性格なんですよ」とはっきり言い切る方がいた。「なぜそんな風かと言われたら、話せば長い物語です・・」とその方は自身の生い立ちから、今日にいたる人生のエポックについて語ってくれた。
そんなわけで、「なぜ」の答えは一言で言えない場合も多いけれど、どんなときも「なぜ?」の疑問を持ち続けることは大切だ。どんな存在にも、どんな事象にもその理由があるはずだから。そのことを理解することで存在を理解できることが多いはず。いくつになっても、「なぜだろう」という視点を枯らさずに持ち続けたい。その理由が面白い場合だって少なくない。
また、「なぜ」について、しっかり答えられる人はしっかり生きている人だと思う。理由や意味がないものは、この世に存在しないはずだから。
こう生きていたかもしれない、そんな人との出会い
年末、ある方からのご紹介で、30年もの間、ずっとピアノの先生をされている方にお会いした。音楽関係者からのではなく、ビジネスマンからの紹介だ。ピアノの先生としてだけでなく、もっと事業をしたいということでいろいろコラボができればということでのご紹介。
ご紹介者と一緒にお会いした後、一度、その方とさしで話したくなった。
尊敬の念と、懐かしさと、共通点と・・。いろんな興味が自分の中で交雑した。
なぜならば、私自身、親からピアノの先生になるようにと3歳から音楽の世界に入ったものの、18歳で親の考えとの違いで、そこから逃亡し、そして・・・という人生であるため、
ずっと音楽教育の道で生きてこられているこの方がいったいどんな人生観をもち、どのように歩まれてきたのか、そこを外れてきた私の人生は果たして良かったのか。。を確認したいと思ったのだ。音楽教育その道一筋の方が、さらにそれを子供だけでなく、大人、ビジネスの世界にも広げたいと思われているその熱き思いと、自分が目指す~音楽をもって世のなかをもっと元気に~という理想に共通点があるのではないか・・。真に自立する生き方とは何か・・
とにかく話してみたい、きいてみたいという思いにかられ、新年お会いすることになった。
気が付けば2時間半。話題が途切れることなく、そしてお互いまだ知り合って日も浅いが、自分の生い立ちから、今日にいたるまでのさまざまな体験について、ごく自然に語り合い、泣き、笑った。ああ、偉いな。ピアノの先生も素晴らしい仕事だ。改めて思った。そして、自分の今を支えてくれているかつてのピアノやオルガンのいろんな先生の顔が浮かび、大変懐かしくなった。「結局、演奏の技術を学んだだけでなく、その先生の人柄をも学んだのだと思います。」そんな話もし、また「音楽の上達、成長は先生と、そして親の影響も大きいのだと思います」とも・・。ふと小学校1年のエレクトーンの教室で、母親が教室の隅でせっせと、不慣れなローマ字CとかG(コード)とかを必死にメモっていた姿も思い出され、胸が熱くなった。
音楽はいろんな形で世の中の役に立つことを今回再認識した。私は、もう音楽教師という役割には向かないだろうが、ひとりの表現者、伝達者としてがんばっていきたい。という思いを新たにもった。久しぶりにお会いしたピアノの先生は、とても筋金入りだった。ますますのご発展を心から応援し、私もがんばろう!新年の面談にふさわしいひと時をいただいた。
御年賀は、マイ名刺
自分を支えてくれている多くの人たち。そのなかには、もちろん宅配便のドライバーも含まれる。出張の多いわが荷物を正確に、ちゃんと配達してくださる。お金を払っているから当たり前ではなく、重いのに申し訳ないな~といつも思うが、あつかましく助けていただいている。
出張中、携帯に電話がかかるときもある。「あ、ヤマトですけどー、冷凍品届いていますけど、どうします?」「あ、そうですか。じゃ、土曜午前にまとめてお願いしますわ」「了解っす」そこまでしてくれる人はあまり多くない。とにかく、てきぱき文句も言わずに・・・尊敬のドライバーたち。新年の初荷物、これも大変重く、大きかった。それを笑顔で配達。
「今年もよろしくお願いしますね。新年早々、重くてごめんなさいね」「いえ。えっと、名刺作ったんで」とちょっと照れながら1枚の名刺を渡される。「へ?運転手さんみんな名刺もつことになったんですか??」「違うんです。個人的に自分のをつくったんです。」と顔入りの1枚の名刺を渡された。「へえ~。すごいですね。素晴らしい!もらっておきますね」と受け取る。あとで、よく見ると本当に個人の名刺だ。所属する勤務先ももちろん書いてあるけれど、会社の住所でなく個人の連絡先、そして裏面には、その方がやっている活動一覧。これを見て
これまたびっくり。さまざまなボランティア活動、認知症やお年寄りを支える活動もされているご様子。なぜ、新年に彼がマイ名刺を作られたのか、そしてそれを全配達先に渡しているかどうか?など疑問はあるけれど、確かなのは、私がいつも感心していた彼の仕事ぶりには裏付けがあったということ。いろんな活動をされている方だから、てきぱき、人の立場に立ってできるんだな。だから、ついつい思わず時々差し入れしたくなる・・そんな人だ。
思わず、彼に年賀状を書いた。せっかく大切な名刺をくれたのだから。「名刺をいただきましたので、出してみました。おかげで安心して出張に出られています。今年も、仕事も活動もがんばってくださいね。」ドライバーという顔だけ、荷物を出すお客という顔だけ。その出会いから少し見え方が変わる1枚の名刺。サラリーマンでも、マイ名刺。きっと彼の新年のテーマだったのだと思う。お互い、自分らしく、名刺に恥じないように、がんばりましょう!
年賀状はハッピーコミュニケーションツール
旅先から戻ると郵便受けに積まれている年賀状。今年も多くの年賀状を送っていただいたと、
コートを脱ぐ前から、ひととおり目を通したくなる。この年賀状という習慣は、日本独自の正月行事だ。コンビニの仕事で台湾に通っていたころ、「日本ではコンビニでも年賀状印刷をはじめましたよ」なんて話をしたところ「ああ、それは日本だけの文化ですね。台湾にはありません」と笑われたことがあったが、確かにそうかもしれない。そしてこのネット社会になっても、デジタル社会になっても、アナログ的な挨拶ツールとしての年賀状がちゃんと存在していることが興味深い。新年というタイミング、はがきという大きさが良いのだろう。
何百枚といただくハガキから、いろんなことを思う。まず、それぞれにその人の個性が必ず出ているということ。どんな無機質な年賀状であっても、それがその主の個性だから、思わずくすりとしてしまう。多くは家族の写真、お子さんの成長、干支。また昨年行った旅先の写真。
などなどがビジュアル面の傾向か。また、自分の近況、主張を記しているケースもあり、これもその主人の性格を表している。自分の撮った作品、絵、書などを使っている場合も多い。
ここで思うのは、出すのが年賀状!と思っているか、おかげさまで~の気持ちを伝えたい、あるいは日頃のご無礼を詫びたいと思っているかも、その人自身を表している。今年こそはお会いしたいですね・・この言葉も多いが、心からか儀礼的か。さりげない一言が添えてあることで本気度が伝わったりもする。
この年賀状も大切なコミュニケーションツール。できる限り、相手に沿う内容に。もちろんまとめて書く、出すのだから大変な作業になるが、できる限り個別に向かい合いたい。
いずれにせよ、多くの方が覚えていてくださること、そのおかげでこの新年まで生きてこられていることに感謝の気持ちがより高まる。
そして、ああ、この人に会いに行こう、会いたいな。年賀状からそんな気持ちになるのもいい。この習慣はなくならないでほしい。素晴らしき、ニッポンの新年スタイル。
ハガキコミュニケーションを1年、楽しく続けてみるのも良い。
歴史に育まれた、国際都市を新テーマに
長崎という町は、古くから海外との交流をもっていた点、しかもヨーロッパだけでなく、中国をはじめとしたアジアとの交易もさかんで、いい意味で東西の良きところを「ちゃんぽん」的に取り入れていた点で限りなく味わい深い。決して華美すぎたり、目立ちすぎることはないけれど、日本の各都市のなかでも、もっとも開かれていた町ではないかと思う。その結果、宗教も、建築も、食も、一種独自の文化を形成。そして、それだけでなく、医療の分野においても先進的であったと知り、納得。西洋医療と、唐人の漢方。すぐれた先人たちの研究が、日本の今日の医療の礎になっている。この町を国際的にしたのは、まさに海の存在だと思う。
町のどこに立っても海に向かう。人の心は海と空を見ることで、大きく開かれる。外へ外へ。
先日の女神のように海を見て、世界をみて、明日を見て・・。そんな冒険心をここに生まれ、生きた人たちは潜在的にもっているのではないか、と思えてくる。
日本にいて、空を抱きしめたくなる景色は珍しい。ちょっとブエノスアイレスやポルトガル、そしてかつてのマカオにも似ている。
国際的になるかどうかは外国語を習うだけでなく、生の交流、経験を多く積み重ねているかどうかだ。そういう意味においても、長崎は苦難も含め、人類史上的に貴重な経験を有する町。この真なる国際都市をテーマに新しい行動を起こしたいという衝動にかられる、いい空気の町。
「伝え人」としての生き方を学ぶ
コミュニケーションクリエイターという生き方をする以上、伝えること、結ぶことに興味を持ち続けたい。とくに時を越え、海を越えて体を張って方には生きた人には、心から敬意を表したい。また、自分の命が果てても、後世にメッセージを残した人たちにも同様である。数々の異文化、宗教との遭遇、交流から他に類を見ない歴史を刻んできた長崎の町にはその足跡が多数あり、何度訪れても考えさせられることが尽きない。毎回訪れる、この西坂の地。二十六聖人が殉教した場所。彼らの死は、何百年経った今も、現在人に伝えられ、日本の歴史、キリスト教を語る上で貴重な教材となっている。またこの彫刻自体に毎回感動する。
そして、彫刻の横に建つ、一人のポルトガル人をたたえる記念碑。長崎のことを世界に発信したルイス・フロイス氏のこと。リスボンから長崎に、京都にそしてなんと、岐阜も訪ねた。信長にも会い、ポルトガル文化を日本に伝え、そしてのち、長崎のことを世界に発信し、この二十六聖人のことも伝えた偉人。リスボンにも彼の記念碑がある。
命を張って伝えるということ、自分自身がメッセージ性ある存在になること。そのためには、自らが行動すること、そして常に自らの夢に向かい、使命感をもって行動するほかない。
「伝え人」とは、ちょっと話せるとか書けるとか、ちょこちょこっと小手先・・でではなく、全身で表現すること、身を以て行動すること。危険をもいとわないこと。そして伝え人であったかどうかは、後世はじめてわかること。もっとやれよ!とルイスさんに背中をおされたような気がする。

神の島で見つけた、大航海の足跡


巡礼の地、長崎になんと、神の島という名の町が存在するのを知った。造船の町でもあり、小さな漁港もあり、釣り人もいる。グラバー邸がある長崎市街を向こう岸に眺める、静かな静かな町。
そこを知ったのは「神の島教会」という教会があるということから。大浦、浦上といった天主堂に比すれば観光客もほとんどいない、静かな教会だ。アイランド オブ ゴッドか。この世に、神の島という町があるとは。この教会こそが、町ができる中心的存在だったのであろう。高台にある真っ白い教会にあるマリア像の優しい美しさに思わず手を合わせ、あたりを見下ろすと、海に向かって建つ大きなマリア像を発見。なんだ、あれは!と、吸い寄せられるように近づいていく。すると、なんとこの教会の人々が、フランシスコ・ザビエル渡来400周年を記念して大正時代に建てたマリア像を1980年代に再建したものであった。100年以上前に、ザビエルの功績に感謝し、また大航海時代の難行をたたえ、この像を建立された人がいたということに胸が熱くなった。100年前の記念碑もそのまま残されている。ちょうど1年前に見たリスボンの大航海出発の地、そして今回発見した大航海の着地点のひとつ。偶然とは思えないザビエル縁・・。今年も、心の大航海を目指せ!という天のメッセージかと勝手に妄想した。
予知できなくても、想像する力を
戦争と信仰。人類にとって一番根幹にある、本性的な存在、課題。イスラム国という集団の台東を報道で知るにつれ、今いる長崎の街の歴史を重ねてしまう。
宗教はときに罪のない人たちを傷つける。そして街も傷を負いながら、人々はたくましく生きることを知る。
そして戦争はときに罪のない人たちを傷つける。そして街は傷を負いながら、二度と戦争はあってはならないと人々は信念をもって強く生きることを知る。
人間がすることだからといって、予知できることばかりではない。
年が明けた。今年もきっと信じられないことがたくさん起きるだろう。
でも、それも世の中の常。何が起きてもそのときに最善を尽くす。
そして何がなくても、最善を尽くす。
そのときに一番大切なのは、想像力だと思う。
長崎で新年を迎えたのは、超突き抜けた変人としての1年を磨くための、自分との対話のため。信仰は人を強くする。しかしその信仰が自分勝手にならない世の中であるように。
平和な新年を迎えることができたが、世界のどこかでは泣いている人がいることを忘れてはいけない。いろんなことを想像できると、人は自然と謙虚になれる・・・といいな。