最近、老いていく両親を見ながら、残された時間について考える。おかげさまで、まだまだ元気ではあるが、80歳に向かい、体力も自然に低下していき、記憶力も少しづつ・・。
まあ、昔でいう「ぼけ」というならば、それも年相応であるが、それでもおかげさまで、元気でまともに喧嘩もしていたりする。
喧嘩をするのは、相手を昔のままにとらえているから。そう、期待しているから喧嘩をするのだ。喧嘩とは相手に体当たりすることだ。弱い相手であれば、力を抜いて対応する。喧嘩するというのは、遠慮ない相手であり、相手が元気だからできることなのだ。だから、そのことに感謝しなければならない。
とはいえ、これから徐々に弱っていくだろう。いつか分かれる日が来るだろう。
そう思うと悔いないように両親に向かい合うことが大切だと思う。
そして、両親の一生を思い、彼らの人生がいい人生だった・・と自らが思えるように応援しなければならないと思う。
親には私が生まれる前の人生もあったわけだ。そのことを最近しみじみ思う。
父や母の若かった頃の話を聞くのはいいコミュニケーションだ。
今、人生の記録をDVD出版しようというビジネスのサポートもはじめたが、
人の人生とはそれぞれがドラマなのだ。
まもなく両親と数年戦い、がんばってきた仕事がひとつ終わる。そのあと、私は新たな課題として、どこまで彼らの人生に寄り添うことができるか?について取り組んでみたい。
それをすることで、私自身の人生も幸せになる。
毎朝父と母に個別にメールを続けている。だんだん返事が来なくなる日も来るだろう。
でも、毎日覚えているよ、というメッセージを発し続けたい。
いつまでも、いつまでもというわけにはいかないだろうが、できる限り、長く幸せに生きて
もらいたい。
愛する人への寄り添い方は、さまざまだ。私なりに、できることを。
「寄り添う」ことを改めて。
真の解決とは?原因究明と正しい教育。
今、世界中がテロに怯え、それに備えるべく武装を強化している。難民問題も含め、世界中が大変混迷の状況にある。日本は島国であるという点で、難民問題は少し他人事かもしれないが、テロについては今、東京で何か起きてもおかしくない状況ではあり、セキュリティの重要性が問われ、緊張感も高まっている。 正直、あまり幸せな、良い状況ではない。
が、フランスをはじめとしたユーロの国々は非常事態で、このクリスマスはどうなるか心配だ。一方、テロを首謀する人々は・・恐ろしい計画を企てているのだろうと想像するのもためらわれるほどだ。彼ら一人一人には、何かきっかけがあり、その集団に所属したのだろう。そこで洗脳され、人間としてあるまじき行動を起こすことになる。それは「聖戦」のもとに・・という彼らにとっては正しい行動なのか。
幸せに生きるための戦いではない。結局、自爆したり、殺害されたり。。。それで本当に幸せなのか?首謀者と思われる人物の素顔の写真など見ると、どう見ても普通の人だ。なぜその道へ行ってしまったの?そのことが気になって仕方ない。
多くの若者たちが、改宗してまで、テロをもいとわない生き方を選択する。
なぜ、そんなことになるのだろう。
「テロに屈しない」というだけでなく、なぜこのようなことが起きてしまうのかについて、しっかり確認しなければ、本当に解決にはならないのではと心配する。
世の中の光と闇。若者たちがその道を選ぼうとする理由をきちんと理解しなければ。
ネット社会、自由移動などがテロの拡大に影響をもたらしている。
相手を打ち負かすことは真の解決ではない。と、首謀者のあどけない顔の写真をみて
思ったのは私だけだろうか。気の毒なのは、彼らの親たちだ・・。
幸せな生き方とは?宗教とはそういうことを教える存在でなければならないはずだ。
なぜそのような道に?の原因の解明。時間はかかるが、教育の問題だ。戦うことを教えるのではなく、闘わないことを教える。・・これは通用しない人の道か?
「どこまで伝えるか」の覚悟と理性。
企業さんに広報の大切さについて、ずっとお伝えしているが、広報とは伝えるだけでなく、聴くということでもあること。真の理解を得るための相互コミュニケーションであることを伝えると同時に、なんでも伝えればいい・・ということではないことも合わせてお伝えすることも忘れてはいけない。
情報発信することがたやすくなった現在、誰でも容易に発信できる。軽いノリで、カジュアルに幅広く、薄くコミュニケーションをすることで、他者との敷居を低くするのは良いが、トップシークレットのこと、知られてはまずいこと・・・などは発信することが逆効果になる。さらに、まず知らせる・・・が優先ではなく、まず事業の中身をしっかり固めることが先であり、それをしてから伝えるということになる。とにかく むやみに発信することは避けるのが賢明だと思っている。
最近は、世界のニュースでテロに関する各国の情報が発信されているが、これらのニュースひとつとっても、何を発信するかの判断は難しいと思う。発信する内容により、ある国民は安堵するかもしれないが、それを敵も見ているわけで、違う解釈で次の作戦を企てるきっかけになることも当然ある。広く伝えるとは、広く伝わってしまう。ということである。
だから、つねに自分の行動の目標に即して、適切に判断し、適切なことだけをきちんと発信することが良いと思う。
自分のことを、メッセージを誰に、どこまで知らせたいか。そこを熟考するよう心がけたい。
もちろん、多くの人はそこまで深く考えていないかもしれないが・・・。
広報には覚悟と理性が必要だ。そうでないと意図に反した展開になり、足元をすくわれることもあるかもしれない。
公務員は「翻訳家」、そして「良きコミュニケーター」で。
公務員という仕事は見た目安定していそうであるが、大変な仕事だなと思う。私の場合、日ごろかかわっているのは、地方公務員の方が多いが、政策に合わせて、どんな状態であっても、とにかくやらねばならない。しかも年度内で。というミッションが多い。
緊急時は休みもない。トップが選挙でえらばれ、またいいも悪いも一定期間で交代する。その下で定年まで働くという仕事。
社長を尊敬しているからがんばろう。という入社同期というのはなく、この仕事自体にミッションをもっていなければ、単なる安定志向になってしまう。
安定志向だけで仕事をしている公務員には当然尊敬の念はもたない。わかない。
税金をいただく仕事であるのだから、それに見合う、それ以上の仕事をしていただかねば。
私自身、税金をいただく仕事も一部させていただくので、そういう気持ちを持って取り組まねばならないと思っている。公的に役立つという意味において、そこは公務員の方たちと共通していると思っている。
最近、きらり光る公務員との出会いも増えてきた。先日ザビエルコンサートでお世話になった平戸市はふるさと納税日本一で一躍有名になったがこれを実行したのはある職員の奮闘だったそうだ。そしてその方以外にも、一生懸命地元のためにがんばっている方に多く出会った。そして新潟県にも熱心な職員は多数いる。政策を理解し、それを県民市民に伝え、実践していく。もちろん市民の声も聞き、相互理解を図ることも忘れない。
かの郵政省でご苦労されたあの厚木さんのインタビュー記事に、「公務員とはよき翻訳家でなければならない」という一文があったが、なるほど。政策をうまく翻訳し、広い理解と支持・協力を得る。それも確かに大切な仕事だ。そして公務員さんは行政と民間、一般住民をつなぐ良きコミュニケーターであってほしい。いずれにせよ、コミュニケーション能力が不可欠だ。
報復は真の解決ならず。
パリはここのところ、憧れの町、花の都ではなく、恐怖のテロ拠点になってしまった。わがグラン・ルーはパリの観覧車がルーツであるので残念でならず・・・。コンコルド広場とルーブル宮の間に建っていた移動式観覧車のほど近くで今回の惨劇が繰り広げられたとは、無念でならない。自由の国は、ときに敵にとっても自由にやられてしまう。
テロに屈しないということはよく理解できるが、では報復か。そのための世界各国の結束・・・。これで、問題は本当に解決するのだろうか。解決するためにやっているのではなく単に報復しているだけである。
どんな理由、いきさつがあるにせよ、相手が行動を起こすにはそれなりの理由がある。なぜそれをするのか?をしっかり対話することもせず。すぐ武力で衝突するのは本当に正しい選択か。
報復よりも、教育をと訴えていたアジアの若き女性たちがいた。これはとても聡明だ。
ハンムラビ法典のように目には目を・・と今でも報復でもって結束する各国の判断はとても危険だ。
叩かれたらたたき返す。これでは解決にならない。言葉が、対話でのコミュニケーションに勝るものはないはずだ。
知的であるはずの人たちが、ときにおいて人間は進歩していないということをさらけ出す。
日本によからぬ影響がないように、飛び火しないように。と、祈るばかりだ。
心の季節風を感じる秋。
この季節になると喪中のハガキが届きはじめる。届くたびに悲しい気持ちになる。これを出された方の思いを思うとたまらない。ある方は、98歳でお母様が亡くなられたと、写真付きで届いた。
また年賀状をくださった方が、亡くなったという報せが届き・・。
春夏秋冬で1年であるが、春や夏には感じない、何ともいえない寂寥感に包まれるのがこの季節だ。きっとこのハガキたちのせいでもあるのだろう。
いつか自分も出す人になるのかな、出される人になるのかな。と想像するだけで悲しくなる。
と、そんなことを思うのが晩秋だ。
心には季節の風が吹く。春になれば、よしやるぞー、夏になれば、もう暑いな~がんばろう~。
秋になれば、冬になれば・・。
季節ごとに、心に違う風が吹くのだ。
お母様が亡くなったという方に、お手紙とCDを添えて送ることにする。
そんなものじゃ、寂しさが紛らせないと思うけれども、少しでも心にあたたかい風が吹いたらいいなと。
人は自然界とともに在る。そのサイクルのなかで、生まれ、育ち、そして朽ちて、終わる。
それだけのこと。と思えばいいが、どうもまだまだいろんな諦めが付かないお年頃だ。
周囲の皆さんが、無事で元気に今年残りを過ごされるように。私自身も、もちろんそうあるように元気いっぱい生きていこう。人は季節風に耐えながら、たくましく、強く、そして豊かになっていくのだろう。
神様にお詫び
子供のころ、信仰心はほとんどなかった。なぜ信じなければならないか、祈るのかの理由がわかっていなかった。わからないで祈る、お参りするのが納得できなかった・・。祈ればなんとかなるという神頼みをするのはおかしい、まず自分で努力するべきだ・・とか生意気なことを思っていたこともあった。まだまだ世間知らずだったのだとも今になれば思ったりもする。一方、年末はクリスマスで大晦日は仏教で・・お正月は神道で・・・そんなのおかしいと思っていた。でもそれが日本人的な信仰であることもだんだん理解した。
そして、大人になるにつれ、特定の信仰はないけれど、周囲に、すべての存在に感謝の念は芽生えてきたように思うし、困ったときの神頼みという気持ちもわかるようになったきた。そして神的なものに対しての理解もある程度できるようになった。どんな種類であれ、人間が神の存在を求めるようになるのかも少しわかるようになってきた。人というのはちっぽけな存在で、無力で自分だけではどうにもできないのだ。だから祈る。祈ることで救われる気持ちになる、心おだやかになる。経営者やトップに立つ人ほど、信仰心があるとも聞く。やることはすべてやって、あとはどうすることもできない。そんなとき、やはり手を合わせるのだと思う。
そして、自分が生きていることは、生かされていることだと知れば知るほど、謙虚になり、周囲のすべての力に感謝したくなる。それが祈りなのかもしれない。
ただ、世界史においては神の名のもとにおいて人間同士がいがみ合ったり、傷つけあったりすることもなくならず、世の中の神はいろいろだ。偏りすぎるのも時に問題だ。
日本人は、いろんな神様を信じることができる。多神教的である。その感覚も理解できるし、唯一の神様を信じ、その教えに導かれ生きている人々のことも否定しない。
私なりの神は自分の中にあるという考え方。自分の鏡のような存在ではないかと最近思う。
といいつつ、最近はよく手を合わせる。
手を合わせる、祈ること、お守りを身につけることで、なんだか大丈夫に思えてくる。
今日もまた私のなかの神様に祈る。「がんばりますから!よろしくお願いします」とそう唱えることで、自分自身が安定し、安心し、力が湧いてくるのだ。
私にとってはすがる相手ではなく、自分を立たせてくれている魔法の杖のような存在か。
とにかく、祈ることは謙虚になること、感謝すること。そこだけは間違っていないはず。
子供の頃、神様なんていないと思っていた自分を改めよう。神様、ごめんなさい。
同時に何役もこなせるようになる!

シカゴはもう何度も観た。違うキャストで観ることで、さらに面白さが増すというのは名作だからだろう。詳細のストーリーは今だにセリフからは理解できないところも正直あるが、言葉を聴きにいくのではなく、音楽、ダンス、その演技、空間、観客・・といった全体を観に行っているのだ。だから、いつも感動し、いつも学ぶ。ああ、こうしたらいい、ああしたらいい、こうするのが良い。今の自分にすぐ使えるヒントもある。そういう作品だ。
アメリカの素晴らしさは、多様な表現の可能性を早くから認めていることだろう。
たまたま今回、例の朝ドラ「マッサン」に出演した、あのシャルロット ケイト フォックスが
ROXY役で出ていた。添付は彼女の写真入りのポスターだ。ドラマでみるのとは別人物のようにも見えるが、実はやっぱり彼女だ。
彼女が歌い、舞い、流ちょうな英語(当たり前)で熱演をしている間中、ずっと女優という仕事について考えていた。彼女はものすごく努力して、日本でがんばったんだな。とNYでの生ステージを前に、静かに感動していた。そして、最後までがんばれ、がんばれ。と応援していた。失敗しないでやり抜くには努力あるのみだ。
なかなかの熱演だ。歌が上手かとかどうではなく、全身全霊で演じ切っていた。一番印象に残ったのは、豊かな表情。これはドラマで鍛えられたのかもしれない。
人は何役も演ずることができるのだ。彼女の演技をみて、今回、改めて思った。
ひとつしかできないことは絶対ない。人生とは終わりのないドラマ、そしていつも何かの役を演じて生きているのを意識していないだけだ。
意識すればうまく演ずることができる。努力すればもっと・・。
彼女と周囲の役者の素晴らしいパフォーマンスを見て、やっぱりステージは人生の縮図だと再確認。期間限定のご出演のあと、日本にも上陸とのこと。本場で観られて、良かった。
遠き隣国に学ぶこと、それを越えるべきこと
アメリカで数年前から人気の高級ハンバーガーのお店が日本に進出したことが報じられているが、まだこのような話題がマスコミネタになるのかと思う。ファッションにせよ、ITにせよ、食にせよ、流通にせよ・・日本ではアメリカから輸入されるもの、ことにいち早く、また敏感に反応し、そのビジネスを日本でも拡大しようとする・・・40年前に日本に上陸したファーストフードが今や国内では・・という状況でも、それでも日本人は「アメリカ発の新しいもの」が好きだ。好きと思うように擦り込まれてきた戦後70年なのかもしれない。
アメリカの存在なしには、戦後の日本の成長はなかったのも事実であり、また私自身もアメリカに住む人々や、町々の個性はとても好きであり、それこそ、よき隣人~ともだち~でいることに反対ではない。
そう、マーケティングも、セールスプロモーションも、パブリックリレーションズも、全部アメリカが教えたことだ。
だから、アメリカに学ぶことも多かった、そんな時代を生きてきた。
一方、11月11日たまたまNYにいたら、その日は「VETERAN’S DAY」だということを知る。これは退役軍人の祝日であり、ワシントンのアーリントン墓地ではセレモニーが執り行われ、NYでも五番街でパレードが開催された。そのパレードを間近に見て、驚いた。楽しそうにパレードする退役・現役軍人およびその関係者、家族たち、そして通行止めになった五番街を挟む通行客の群れ・・・が小さな星条旗をもって、この日を祝福している。その姿に「ザ、アメリカ」を感じた。
アメリカは戦争をもって、国内のアイデンティティーを高めてきた歴史があるのではないか。この退役軍人の日は、第二次大戦の勝利を讃えているだろうし、アメリカでは戦いに関する結束力が高い国。
人種が異なる人たちが集まる国では、日本のように単一民族の国と違い、一定の価値で統率していくことはむつかしく、(現在では、その日本ですらこの情報化社会下ではむつかしいが)、そこで「戦いに勝つ」ということは勧善懲悪を好む国民性に合致し、また戦いに挑む人はヒーローなのだ。
この様子を見て、アメリカと日本は違う背景があることを改めて考えさせられる。文化交流や民間交流やビジネス面での交流は大いに結構であるが、近くなりすぎると間違うことがあることもある。
911での経験を今、改めて思い起こしながら、アメリカのマスメディアの役割も横目で見ながら、いろいろ憂うこともある。
アメリカではいいこと、日本では必ずしもそうでないこと、似合うこと、そうでないこと。
起源と歴史をみながら、隣国の友から学ぶことは多い。
それにしても、星条旗をうれしそうにはためかす若者。日本ではなかなか見られない光景。
ある意味、わかりやすい国ではある。
「一体感」が感動を生み出す
ミュージカル、ダンスショー、コンサート、ジャズライブ・・・いろんなステージがあるが、演劇もおそらくそうだろう。
観客を前に、何かしらの芸を披露する仕事は、観客に感動を与えるものでなければならないと思う。
学生時代に読んだ芸術論の本で、「芸術というのは(とくに音楽であれば)、観客がいて初めて成立、作品になる」といったようなことが書いてあり、しみじみ共感したのを思い出す。「私は勝手に弾いています、歌っています・・・では、感動はしてもらえない。
観客の心を開いていくようなプロセスがあり、観客の心がいつの間にか、演者の方に歩み寄ってくる・・・そんな感じであろうか。
とにかく、縁者と観客の関係により素晴らしい演奏が生まれるのだ。そのことは、自分の経験でも身に染みている。
直接目に見えなくても聴いて泣いている方、気持ちよく聴いている方、手拍子をいただける方・・・いろんな反応の空気が伝わり、演奏はさらに盛り上がるのだろう。
とくにNYでのステージはそれが明快だ。観客を乗せるためのパフォーマンスが優れているというか、時々過剰であることもあるが、エンターテイメントとアートが共存する時空間をうまく創っている。
私は、今回決して若くない女優が全体力を使って舞台を飛び回り、歌い続けているその姿に涙した。見ているいちに、その人と一体になっていたのかもしれない。
そう演者と観客が一体となったときに、舞台は最高潮になるのだろう。もちろんそのための努力は惜しんではいけない。
さまざまな作品を見ながら、自分なりのステージづくりを検証していくのはとても刺激的だ。