紙媒体にこだわる、紙文化を愛する。

知り合いの新聞記者は時々ここは!というときには手書きのお手紙を送ってくださり、メールよりも手紙が好きなんですよね。1日に1通は書いているかも・・とのこと。そしてある仲間は本づくりを生業にしている。「本」にこだわりたいとのこと。本とは何か?最初の本はエジプト文明の発明品であるパピルス以降かと記憶するが、もともとは人が話したことを記録するものであった。大切なことを世代を超え、複数の人に伝える大切な媒体であった、そしてそれはキリスト教の布教とともに印刷が誕生し、大量に本をつくり、読まれる時代が到来した。そして「本」とは木という文字に一本線。木の底辺、もっと言えば根っこを表し、物事の基本、根本という意味からきている文字だと推察する。

とすると、「本」というのは、なかなかの存在だ。手触り、紙質、インクの香り、デザイン、すべての五感でメッセージを受け取ることができる。

ネット社会になり、いつでもどこでもという軽い感覚での情報の受発信が主流になってしまった一面もあるが、やはり1冊の本とは、作り手の思いが詰まっているし、つくるには覚悟がいる。

紙とペン。コミュニケーションの基本。

時代が移ろっても、それを大切にする若い人がいる会社はとても良いと思う。

知に足を付けた、まさに根っこがきちんとあるになれるよう、もっと本を利用し、勉強しなくては。

情報にかかわる仕事のなかで 紙文化の継承、啓蒙は大変重要な課題だ。

デジタルとアナログの両立。この議論も久しぶりにしたくなったが

やっぱり紙コミュニケーションが私も好きだ。

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かけがえのない晩酌。

この冬、運転中にトンネル事故で急死された知り合いの方のご自宅へやっとうかがうことができた。ずっと気になり、早くいかねばと思いながら、やっとやっとの訪問。最寄りの駅にその方の息子さんが迎えに出てくださって、ご自宅に連れていっていただく。そして、ご主人と初めてお会いする。ああ、こういう方が旦那さんだったんだ~。優しそうな温和な・・とにかく、その方の人生後半の起業を影で応援されてきたのがよくわかる・・そんな第一印象であった。仏壇に手を合わせ、静かに祈る。そして仲間がこのために作ってくれた折り紙で作ったチューリップのオブジェをお供えする。それから、座敷で少しお話をする。何を話せばよいか最初は戸惑ったが、共通の話題がすでにあるため、初めてお会いした気がしないような感じになるのが不思議だ。親しみをもってお話しが進む。その方のおうちでの思い出話もお聞きする。私が着ないからといって差し上げたちょっと派手めな洋服を、おうちで着てファッションショーをやって喜んでいたとか、そんな話題に悲しくもあるが、笑みもこぼれ・・。ああ、いい夫婦でおられたのだな~としみじみ。そして「あの日から晩酌してないんですよね。飲むのは私だけなんですが、一緒にしゃべってくれるのがいないと、飲む気にならないもんで~」と語られた、その言葉に胸がつまる。お酒がお好きな方なのだ。そうか夫婦で晩酌をするのが楽しみだったのか・・。渡そうと持参した酒の肴も渡しづらくなってしまい・・。

「またぜひ、寄ってくださいね。」という言葉をいただき、握手をして別れる。駅まで送ってくださる息子さんに車のなかで最後に「お父様の晩酌につきあってやってくださいね」というと「はい。そうします」。そして駅での別れ際にさきほど渡せなかった鮎の昆布巻きを手渡して、彼とも握手をする。

夫婦のコミュニケーション。いろいろな会話があるけれど、晩酌って一番幸せなひとときだと思う。

初対面の私に語ってくださったその言葉が帰りの電車の中でリフレインした。毎日の晩酌を、毎日のモーニングコーヒーを、毎日のあいさつを大切に。

毎日してきたことを、どうか当たり前と思わないで、大切に。と自らに言う。

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ご冥福をとは言えない・・・という気持ち

3月11日がまたすぎた。5年ということでそのしばらく前からマスコミがこぞって報道を続けてきた。ひとつのイベントのようでもあり、番組をつくるためにその日があるような?感じさえする一面もあり。何年だからどうだ・・というのは不自然な感じもし・・正直複雑だ。あの日を忘れないと言葉でどれだけ言っても、どこかしら空虚な感じもする。忘れないといわなくても、覚えている、祈る、教訓とするということを一人一人が自分でできる姿が本来ではないか。と思いながら3月11日という日をみつめる。実際に、被災され、仕事仲間や友人たちを失くされた方とメールでやりとりする。その方の返事に書いてあった「あの震災で亡くなった仲間に今もご冥福にとは言えないです。どんな気持ちで無念な気持ちで亡くなったかと思うと・・もっと生きたかったはず・・・」だから生きている者がその人の分までがんばって生きるしかない。という覚悟が伝わって、その思いにこそ頭が下がる。

イベントとしてではなく、静かに応援する方がいい。この3月11日に絡めて東北支援をとやっている事業、催事も多いが・・・ちょっと・・。時間の経過とともにこういう形のおまつりになっていいかとは思えないまま・・。

とにかく生きている者が、生かされているものががんばらなくちゃ。と、そのことが強く心に刻まれる1日だった。ふつうに仕事できて、出張できることの幸せをかみしめながら・・・。そして新たな1日がまた始まる。

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板チョコ分けて、苦難をこえよ~!

お世話になっている大切な人。同い年。すでに知り合って10年以上は経っている。その間、公私ともに本当にいろんなことがあった。病気とも戦い、そして今も難病と闘い、その治療に全力を注ぐ。そう、健康じゃなければいい仕事はできない。70歳までは絶対元気に生きるのだと、そのために治療に費やす時間を惜しむことなく、とにかく前向きだ。この何か月間かの痛みから現在の治療にいたる経過を話してくれる。少し涙目になっているような感じがした。本当に痛かったのだな~。代わってあげられなくて、役に立たない言葉しかかけられなくて、とても申し訳ないという思いにもなったりするが、その彼の眼は、涙だけで光っているだけではなく、絶対に元気になるぞ!という強い意志をも映し出して、まるで星飛馬の燃えるまなざしのように見えた。彼は本気だ。だから大丈夫だ。

とにかく苦しい、つらいことをたくさん経験してきたからか、強さを感じた。痛い経験をした人しかわからない、それを乗り越えようとする力。

苦難を経験してきたからこその、生きてやる!元気になってやる!の意気込みが違う。彼と時々、おいしい食事を食べられるように、と心から思う。

命は大切にしなければ。五体満足は当たり前ではなく、本当にありがたい。感謝すべきことだ。

おいしいランチでした。いつも聞いてもらってありがとう。味方がいると心強い・・何もできないけれどその友が喜ぶことをひとつでも、ふたつでも・・。

そう、別れ際にお互いに大好きな板チョコを1枚、半分づつに分けた。これを割ってちょこちょこ食べて、元気にがんばろう!という意味だ。1枚の板チョコをこうやってシェアすることで、元気でいようという気持ちまでシェアできるような、苦難も乗り越えられるようなそんな気持ちになってくる。

普通に歩ける自分、それが当たり前と思っていないか?帰り道、階段からころばないようにと、注意を払いながら駅に向かった。

 

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ひたすら歩き、「考える人」になる。

ロダンの彫刻に「考える人」という作品があったが、あれは停止したポーズだったはず。考える内容もそれぞれであるが、私が最近気に入っている「考える時間」は、歩いているときだ。時間が許す限り歩くようにする。1時間程度は無理ない時間。とくに満員電車の地下鉄の上を、ゆとりをもって気持ちよく歩けるのは、ちょっとした優越気分にもなれる。町を歩くことでいろんな風景や動きが目に飛び込んでくる、耳に入ってくる、いろんな人とすれ違う、その都度都度いろんなことを感じながら、自分と向き合う。一人になりたかったら歩く、できればその時間はスマホもOFFにして。音楽のことを考えたければ、練習したければ音を聴きながら歩くもいいが、何もつけず、自然に入ってくる町音を吸収しながらひたすら歩き続けるがいい。春の訪れが近い東京での夕方近く。思い立ったら即行動、わが思索の時間の始まりだ。パソコンから離れる時間をつくるという自分への働きかけでもある。神楽坂から新橋方面まで往復歩く。正直、帰路は足がちょっとつりそうになるが、修行と思ってあと二駅、あと一駅と自分を鼓舞する。(人から見たらばかげたことだ)今日は電車に乗らないぞ!。気が付けば皇居をぐるり1周もしていた。晴れの夕暮れ近く、ビルディングに明かりが次々灯り、外国人らしきビジネスマンとすれ違うと、やっぱり東京はTOKYOだなと思い、会社員時代、上司が東京転勤を勧めてくれたときのことを思い出す。東京駅前周辺の建築ラッシュは今も続き、その取り壊しの残骸は仮囲いを越えて匂ってくる。粉塵が健康に悪い。ちょっと9月11日の同時多発テロのときのNYの匂いにも似ているか・・・とあの頃を思い出したり・・。いろんな変化を感じながら、物事を考えるには、てくてくウォーキングがいい。マラソンとは一味違う楽しみ方だ。どこでも時間があれば、WALKING+THINKING に挑戦。それが私の発想源。自らの足で好きに歩けることに感謝したい。

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ロボットではできない仕事

PCやネットやらと格闘の日々は続く。つい最近も海外ホテルのサイトに入る際にサイン インに見慣れない不思議なゲート。「わたしはロボットではありません」というチェック項目があり、当り前じゃないか~と思うが、その証しに、ちょっとしたゲームというかクイズというか、儀式を通過しないと、そのサイトには人間として入れてもらえない。その意味自体が理解できず、またもや格闘。うーん、ロボットがわざわざホテルを予約するわけないじゃないか・・と。まったくおかしな社会になったものだ。

最近、近い将来にロボットにとって代わられる職業のリストがあるシンクタンクから公開された。いわゆる作業に近い仕事の多くは、将来はロボットが担うことが可能らしい。人材不足の昨今、工場にはロボットの活躍への期待が大きいそうだ。先日は知り合いが連れ合いさんが亡くなってから、娘さんに買ってもらったロボットと暮らしているという話をきいて、驚いた。ロボットがいつも話しかけてくれるのだそうだ。それは遠隔で娘さんがコントロールされているようだ。そんな風にして、同居できない家族のコミュニケーションもロボットがサポートする。

ロボットと人間の共生社会。でもロボットはもともと人間が考え出した存在だ。そのロボットに人間は助けてもらうこともあり、そして脅威になることもあるかもしれぬ。

自分の仕事について考えてみる。大量生産も効率的な製造もできないが、ロボットにはできない仕事、人間にしか、人間だからできる仕事にこだわって生きていきたい。心を揺さぶる、心を動かす、涙を流し、笑う。血流をよくする、生きていてよかった・・と思ってもらえる感動づくりの仕事。この領域にはロボットは介入できないはずと思っているが??

ふと、ロボットだけの楽員のオーケストラというものを想像した。各奏者と楽器にあらかじめプログラムされている音は整合性をもって演奏することはできるだろうが、呼吸の乱れ、興奮、観客とのコラボ・・・そんなところは無理だろう。無理であってほしい。心を大切にする仕事。そこは絶対になくなってはいけない。

ロボットの登場により、人が人として豊かに生きることとは?について考えなければならない。がんばれロボコンという番組が昔あったが、あれぐらい人情あれば人間とも共存できるかも。

とにかく、人間らしい仕事、職業を極めること。

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ネットにデジタルに、負けへんでの格闘。

パソコンなしでは、ネットなしでは仕事ができない。できればそれと無縁でいた方が本当は心安らかな人になれそうではあるが、そうもいっていられない。朝目覚めてから寝るまで、外出がない限りはパソコンやその関連の道具に触れている。しかし、このデジタルツールというものは、自分の思うとおりにはならず、またネット活用する際にも、細心の注意を払わなければならず、なかなか気を遣う。何か作業をしていると、パソコンが何か聞いてくることも多くなった。

「バージョンアップしないのですか?」「○○は保存しないのですか」親切のようで、実は違う。パスワードやIDやら・・・気を付けないとわけわからない状態になったり、気が付けば見覚えのないところから余計な情報が届いたり・・・。いやはや、気持ち良くない。本当に情報の管理=自分の管理=身を守ることが大変な世の中になってきた。

そのバージョンアップしないか?の度重なる問いに、もうそんなに言うなら!と熟考せずにパソコンのOSのグレードアップをクリックしてしまう。そして後でそれが厄介な相手であることを知り、悔やむ。みなさんなかなかご苦労されているようで、さらにはダウングレードをする人もいるぐらいだそうで、なぜ私はもっとよく調べて納得してからトライしなかったのか。と思いつつも、すぐにダウングレードするのも悔しいため、とにかく普通に使えるところまでしようと奮闘。

パソコンを使うことで、自分の情報がどんどん吸収されていく、そしてその企業のマーケティングに活用されてしまう。そういう世の中になってしまった。恐ろしい時代でもある。余計な相手とつながらないように、つながらないようにと気を付けて使う疲労。気が付けば何もしていないのに、突如としての画面が真っ暗になったり・・。なんで?と頭の中が真っ白になったり・・。

次から次へといろんなことが起きる。会社であれば、その道に長けている人に聞いて直してもらうなどできるが、個人の場合は、自力で格闘しなければならない。

そして誰に聞けばよいかをいろいろ考えて、即行動。

ないと困るものだから、とにかく格闘。普通に使えるというのはありがたいこと。しかし、仕事の中身に入るまでにいろいろそんな時間を要してしまう、ネット社会。紙と鉛筆と本さえあれば・・の時代が懐かしくもあるが、基本そこにはもう戻れない。ああ、今度はプリンターの紙詰まり?と、なんだかとても落ち着かない日々。いろんな意味で、デジタル社会に負けへんで!といろいろ思いながらも共存か。

 

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いろんなチューリップで気持ちが伝わる。

新潟駅フラワーウェーブ折り紙

新潟市はチューリップ切り花生産日本一。この季節になると、そのことを町のいたるところで実感できる。その皮切りが先に書いたフラワーウェイブというイベント。花好きの人々が集まってくる。いろんなチューリップが町を彩る、どうやら新潟では、まず3月初めにチューリップが咲き、人々はこれで春の到来を感じる。そして4月には桜で春の到来を楽しむ。ということでこの花の町では二度春の訪れを歓迎できるという贅沢。厳しい冬越えをしてからのこの春の到来は人々にとって「待ってました!」という感じだろう。

新潟駅の新幹線改札前にもチューリップが展示され、町の玄関から春の到来を告げるおもてなしに、笑みがこぼれる。

さらにお客様から「チューリップと観覧車のイメージで作りました」と、折り紙の素敵な作品をいただく。

いろんなチューリップ。心に幸せの花が咲く。しばらくいろんな余韻を心に、春を噛みしめるとしよう。

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私の中に春が来た!

新潟県での春の恒例花イベント「フラワーウェーブ」。昨年に引き続きライブトークショーを担当させていただいた。今年度のライブツアーを終えてから1か月余り、つかの間の冬眠というわけではないが、「よし、いくぞ!」という次なる節目を迎える間、少しおとなしくしていた感はあるが、やっぱりここで火が付いた。

春が来た!というテーマのイベントにふさわしく、元気いっぱいやろうと意欲が高まる。

おかげさまで急速に暖かくなり、春の到来にふさわしいイベント日和。

たくさんのお花を前に、春を求めてやってきたお客様に花のギフトについての話をし、歌のギフトで花を楽しんでいただく。

なんだかやっているうちに、私の中に春が来た!という感じ。

よし、いくぞ。前にすすむぞ、新しい気持ちで毎日生まれ変わるごrとく・・。そんな気持ちを込めて 語り、歌う。

花も音楽も人に幸を与えるコミュニケーションツール。

花の美しさははかなく、そして歌は目に見えないが

いずれも人の心にしみる存在。いずれも生きる上で不可欠な存在。これからも花も歌も愛で、やさしい心になれるように。

涙を流しながら聞いていただいたり、笑っていただいたお客様に

感謝しながら、春の到来を心から歓迎したい。フラワーウェーブフラワーウェーブ3 フラワーウェーブ4

 

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メドレーはコラージュ作品のごとく

ステージ前の準備は面白い。たとえば、メドレーを考える。どんなテーマで何をどうつなげようか、どの曲を組み合わせようか。普段歌わない、演奏しない曲などを探してきてくっつけてみるのも面白い。楽しいイベントなれば、もちろんその場所、空間にもよるが顧客参加型のプログラムは欠かせない。オープンスペースでの演奏の面白さと、緊張。通りがかりの人をどう呼び込むか?足を止めてもらうか?あらかじめ決まった、あらかじめ申込みされて来ていただくライブや演奏会とは違う偶然性への期待と緊張。どんな方に出会えるか?どんな風にみられるか、聞かれるか?どんな場でも、瞬間でも、楽しんでいただくための企画としてメドレーは有効な手法。さて、パワーポイント使いながら、マイクとピアノと・・・。ちょっと他で見られないユニークなショーを目指す。春の訪れを盛り上げる、そんな一役を担えたらうれしい。新潟にも春が来た!

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