ホントに贅沢なわが人生。

定年はない。死ぬまで働く。これが当たり前。そう思って生きている。
自分で決めたのだから、それでよい。
仕事が切れることなく、いろんな経験を学びをいただき、
また行きたいところに行けて、
素敵な出会いをたくさんいただき、
会いたい人にあって、好きなことを仕事に生かして・・。
いろんな人にいつも助けられて・・・。

朝は入れたての珈琲を楽しみ、ときには紅茶を味わい、
いつも自分で好きなように過ごしている。
仕事はしんどいのは当たり前、人間関係もなにかあるのも当たり前、
毎日老いて行くのも当たり前、それはそれで抗うこともなく、自然体に。

生まれてから、戦争を知らないで生きている。
過去の歴史は情報としては少しだけわかっているが
実感はない。
平和が当たり前と思って生きている、
そんな幸せなことはない・・と、これも当たり前だと思ってきた。

もともと家が欲しいとか、結婚願望とかないが、
自分がしたいことは、ほとんど手に入れ、実現してきた。
大きなことではないが、小さなことばかりであるが、
本当に悔いないほどに、十分なほどに・・。

健康であれば、その気になれば・・・のおかげさまの人生だ。

よく考えたら、こんな贅沢な人生は、どこにあろうか?
もっともっと・・といえば、キリがないが
もうすでに、本当に好きなように生きてきているのだ。
これ以上、何かを求める必要はなし。

贅沢なわが人生。
本当に幸せなわが人生。

これを実感するときは、まさしく一杯のコーヒーを
入れてその香りを楽しんだり、
さりげない会話で嬉しい気持ちになったりするとき・・。

この気持ちを持続させ、一生このまま歩んでいけたらいい。

こんな贅沢な人生。
これ以上望んだら、バチがあたるだろう。。

でも、この元気と健康ができる限り続きますように。
とだけ、さらに贅沢を思ってしまう・・。

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映画を何度も観るわけ

子どものころには、日曜洋画劇場、金曜洋画劇場・・水曜洋画劇場??が連夜あって、
それは21時からの放送で、子供のためではなく大人のための時間で、小学生だった私には
憧れの世界のような存在で・・。
映画は非日常なるものであるが、名画は映画館に行かなくても自宅でも見られるようになり、
でもやはり、ちょっと特別な時間であり・・・。と、
・・・40年以上前の暮らしは、そんなものであったと記憶する。
とにかく
映画が、テレビ鑑賞という娯楽のなかで、重要なコンテンツであったことは間違いない。

ネットもない時代、海外旅行がままならぬ時代に、映画とはなんと楽しい娯楽だったこと
あろう。国も時代も乗り越えて、もう一つの世界に身を置けるなんて・・。
音楽も絵画も写真も素晴らしいが、ストーリーがあり、五感全部で人を感動させることができる
アートとしての映画は、今も変わらぬ、人間が生み出した最高の英知であると私は思っている。

演劇には演劇のすばらしさがあり、ミュージカルにはミュージカルの良さがあり、これは一重に
ライブ、生であるという点のリアル感であり、瞬間を共有することができるという点で最高であるが、
映画は完成された作品として、時代を経ても変わらぬ、普遍の作品としての凄さがある。
そして、観る人をタイムトリップさせてくれる不思議な力がある。

私は新しい映画よりも、子供のころ、若いころ見た作品に、今改めて興味がある。
作品自体ももう一度見てみたいが、昔の映画を観たい理由は、もうひとつある。
その当時の自分の感覚に触れたいのだ。
なぜ、その当時の自分がその作品を好きであったのか、今も好きなのか、それは今も変わっていないのか?
そのときの自分の感動をもう一度知ることが、さびれていた自分の何かを目覚めさせてくれたり、
とにかく、古い映画を観ることで、それがいい作品であればあるほど。今だからこその発見があるのだ。

つい最近、アルパチーノ主演のマフィア映画「カリートの道」をBS放送でみつけた。
これは25年前に映画館で観た作品だ。ずっと忘れていた。
なんで、こんなマフィア映画に魅せられたんだ?と思いながら、四半世紀ぶりに作品を観直してみる。
すると、古き良き時代のニューヨークが舞台であるのと、大好きなグランドセントラル駅がクライマックスに
出てくる・・・アルパチーノの演技も圧巻で、すべて・・どきどきはらはら・・・。
ああ、この場面、覚えている、ああ、これがこの映画だったのか・・・。
初めて観たときと変わらぬ緊張と興奮がカラダ中を駆け巡った。そして、
30歳のころの自分を思い出した。
そして、今もあのころと同じように感動する自分がいた。

その町に行きたくなったら その町が舞台の映画を観る。
そんな風に映画を楽しむことをこの四半世紀に覚えた・・そんなことも
改めて思い出した。
そして、今回も映画を観て、NYを懐かしんだ。

これからも、昔見た映画を何度も観て、そのときの自分に出会い、
忘れていたり、さび付いていたものを磨いたり、新しくしたりしたい。

映画は素晴らしい。
音楽は素晴らしい。

年を重ねてのアート鑑賞は、自分の人生へのふたたびの旅であるのかもしれない。

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映画以上に、感動的な人生。

大林監督の生きざまに、心打たれる。
ウソから出たマコト。
それが、監督の映画の真髄だそうで、
最新作のフィナーレではその言葉が
若き役者たちによって歌われるそうだ。

若い人に映画をつくる喜びを伝えたい。
との思いが伝わる最新作は闘病中の監督の命を
かけたものだ。
きっとおもしろ楽しい、また奇想天外の仕上がりに
なるのであろうが、そのプロセスは真剣そのものだ。
監督が若い役者に語りかける一言は、とても重く、強く、深い。

先日は大学で学生たちに語りかける監督の言葉を放送で聴いた。
その時も監督のラストスパートの力を感じた。
また、広島に生まれ育った監督の平和への思いは強く、
それが作品や言葉にも現れている。

余命宣告を受けながらも自らの使命を果たそうとされている
その姿勢に、感動を覚える。

命を全うされようとする人の生き方は、映画以上の感動だ。

どうかお元気に長生きしていただきたい。

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頭が下がる生き方が成果を生み出す。

ノーベル医学生理学賞を受賞された、本庶先生。
すばらしい!
その功績自体も画期的であり、あの薬の開発者なのだと知れば
納得するが、
受賞されて、先生のインタビューを聴くにつれ、その感動はさらに深まる。
研究者としての、一人の人間としてのその生きざまに感激し、
私も人生、がんばらなくちゃ!と思うのだ。

研究者という仕事の面白さ、やりがい。
あきらめない、とことん追求するという姿勢。
そして、その生きざま自体を学生たちに教えていかれる教育者としての姿・・。

どれもこれも、今回の受賞に本当にふさわしい方と実感でき、
この受賞がなければ、この素晴らしい先生のことを知るきっかけもなかったので
この季節は、本当にありがたい。

私欲のために生きる人が増えているように見受けられる中、
薄っぺらい言葉でもっともらしく済ませようと生きていく人のが
多いなか、
ホントウに、ほんとうに勇気づけられる。

同じ人生をもう一度生きたい・・・そんな風に言える人は
ホントウに幸せだ。それも努力の成果だろう。
日本人って、もともとやっぱり素晴らしい!

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ブランディングのむつかしさ

マーケティング・広報などコミュニケーションの仕事をするときは、当然、本名で
やってきた。
この仕事でも、改名したり、芸名で活躍される方もおられるが、そこまでは考えない。

一方、ミュージシャンやラジオナビゲータなどの仕事の場合は、
ちょっとイメージ・雰囲気も変えたいと思い、
Mahsa(マーサ)と名乗ってきた。

このMahsaという表示は、メールアドレスなるものが必要になった四半世紀前に考えた
もので、造語のような名前であり、正式にすぐに「マーサ」とは読めない。
が、ある程度、おなじみの方にはかわいがってもらってきた。

このたび、初めての土地で、他のアーチストも出演されるイベントで
自分のことを名乗るとき、また教会など厳粛な場所での演奏となる場合、
はて、どっちを使うべきか?と少々悩む。
しかも初めての土地なので、ニックネームにしようが、本名であろうが、
私のことを知る人はいない。

今尾昌子か、Mahsaか、マーサか。
ミュージシャンもジャンルによって、名前の使い方が違う。
クラッシックの世界だと、本名の人が多いが
ビジュアル含め、存在そのもので世界観を作りたいジャンルでは
芸名を使うことが多い。
たかが名前であるが、なかなか悩みがいもある。

今回の結論は、まずは、今尾昌子でいく。
TPOで、場所で、目的でMahsa、(マーサ)を使う。ということに。

四半世紀前に、もっとよく考えておくべきだった。と今さらながら迷うことも
あるが、それはそれで、悩む場面が増えてきたことは決して悪くない。

自分のブランディングは、名前と大きくかかわる。
商品もそうだ。ブランドとは、自分をどう刻印するか・・であるから。

時々、悩める場面を楽しみたいと思う。

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顔は歴史を刻み込む。

子どものころから大のファンであった、某アパレルメーカーの
コマーシャルでも、一世を風靡したフランスが生んだ大スター
アランドロン。
今も時々、若き日の映画をDVDやネットなどで視聴しながら
その魅力とともに、古き良き時代のパリを楽しむのが
中途半端な海外旅行よりも良いと思ってきた・・。
そして、そのアランドロンは、ずっと昔の映画の中で
生き続け、ずっと美青年のままであった・・・・。

が、そろそろ引退されるとの報に接し、
あ、現役でがんばっておられたんだと、とてもうれしく
思い、遂に・・・そうか・・・との思い。

今回80歳になったアランのラストインタビューと言われる
番組を見た。
彼の映画と同様、これから何度も何度も見続けようと思っているが。
20代のあの美しさ、青年期を経て、そして壮年・老年・・・。
80歳を超えたアランは、もちろんもうかなり老化しているけれども、
スター街道を進むだけでなく、さまざまな苦労をされてきた
その歴史を感じる、趣き深い表情になっていた。
そして、変わらないのはオーラだ。

何を見た、きいた、どこへ行った、何をした、そして誰と出会った・・。
顔は人生の歴史を物語るものだとつくづく思った。
顔は変わる、顔は変えられる。
自分の顔は?

そんなことを彼の変わらぬダンディなインタビューを聞きながら
考えていた。

最後の映画の上映はまだだ。
しっかり今のアランの表情を大スクリーンで拝見し、長年のご苦労に心から敬意を表し、
心にしっかり刻んでおきたいと思う。
皺はよく生きた証し。刻まれた深き表情は、その人の歴史そのものだ。

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一人何役?に挑戦?

そう、巣のままでいると、このままの自分でしかいられないが、
演ずればなんでもできる。
仕事でも、いろんな仕事を同時にさせていただいているのも、
その場面、その場面で演じているようなものだ。
これから新たな世界に向かうとき、
さらに、この演じることを肝に銘じたい。

子どもには、魔女のマーサ。
お年寄りには、泣き笑いのマーサ。
企業のみなさんには、どらえもんのポケットのような不思議応援マーサ
というように。

演ずればなんでもできる。
やればできる。

そう思えば、気持ちも楽になる。

私はひとり、ではない。
私は十人にも、二十人にもなれる。
そう思った方が、人生豊かに、楽しく生きられる。

才能をもっと磨こう。

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ほんとうに「寄り添える」?

福祉の仕事をしている人は、本当に偉いと思う。
不自由な方に対して、必要な支援をし続けている。
高齢者への対応の仕方についても、最近そう思う。
たとえば、認知症になりかかった老人に、
それが自分の親であれば、そのことを認めたくないから
「そうじゃないでしょ。それはそうじゃない」と
言ってしまいそうだ。
そうすることで 自分でいいと思って発言した老人は落ち込んだり、不安に思う。
何を言おうが
「そうですね。そうなんです。そうなんですか~」
と、受け止め、受け入れ続けていれば、また同じことをあとで言うことになっても、
その瞬間は、自分の発言を認めてもらったということで、老人は満たされる。

これは、他人の方が客観的に向き合えるのかもしれない。
自分の親であれば、感情がまさったり、過去の歴史から、どうしてもその現実を
受け止めきれない・・。

最近、素晴らしい人物の存在を知った。
介護福祉士をしながら劇団を主宰する青年。

介護の現場では老人に演技で接し、気持ちよく安心されて喜ばれ、
演劇の世界では、高齢化社会の重きテーマを扱い、また高齢者を役者として起用し、
演劇から介護の世界を俯瞰し、メッセージを伝える取り組みをしている。

人間は、だんだん現実と想像の境目がわからなくなるのだ、それが認知症だというが
演劇も現実か虚構かわからない世界だ。
そういう点で共通点があるところに、この役者は目をつけた。

老人に対して「演ずること」ができる。
それは「寄り添う」という意味ではないだろうか。
私には、まだそのことが体得できていないから、
すぐ正しそうとしたり、怒ったり、つい真剣に向き合ってしまう。
なんだか一方的に、尽くすことは、
寄り添うことではない・・。

と最近、思えてならない。

年寄りにこうせねばならない・・と言い続けるのは酷なこと。
これは親の老いを認めたくないからの行動ではあるが。

だんだん、お互いにボケる。少なくともこちらはボケたふりして
うまくつきあう。
そんなことが大切になる。

そういう意味で、
私はまだまだ、全然、寄り添っていない。
一見、寄り添うという言葉が美しい感じであるので、だまされそうになるが
実はまったくそうしていない。

演劇と介護。
音楽と介護。
どうやら芸術は介護と相性が良さそうだ。
こちらももっと学ばなくては。

寄り添う・・という言葉は響きは美しいが、やさしくはない。
と最近そう感じ始めている。

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東海地区発の新たなニュースサイト誕生、コラム担当。

名古屋で活躍する志高きPRのプロフェッショナルが、東海地区のビジネス情報、東海地区の企業のためのビジネス情報を盛り込んだ新たなニュースサイト「東海最前線」を発刊しました。
そのなかの、中小企業向けのマーケティングコラム(実例)を担当し、原稿執筆しています。
尚、担当するコラムは東海にこだわらず、県外の話題を書いて、東海地方の企業さんのヒントにしてもらうことを狙いとしています。
東海地区の企業さんはもちろんですが、全国の皆様にも、ぜひ東海地区をはじめとしたビジネスの現場、元気な人、動向・・など知っていただき、ご活用いただければ幸いです。
私もがんばって活動を続け、日本のまんなかからのパワー発信を応援してまいります。
皆様の応援、何卒宜しくお願いいたします!

http://tokai-saizensen.jp/

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小さな感動をブーケのように。

ある方から、わがCDアルバムを聴いていただき、
「泣けてきました。いい曲ですね。全国の人に聴いてほしいですね」
とのメッセージをいただき、
もう何年も経っているアルバム、曲でも、今だにそう言ってもらえる
ことに、この上ない幸せを感じた。

感動してもらえることが仕事、人生。

これが私のやりがいだ。
「感動したよ。」「よかったよ」の一言で、
元気百倍、勇気も百倍となる。

大きな感動を1回よりも、小さな感動をいくつもいくつも、一人でも多くの人と
交流できたらいい。

そう、感動のブーケを創れたらいいじゃない。

最近、ある人に久しぶりに会ったときに かわいいブーケをいただいて
それがとてもうれしかった。しかも赤いブーケ。

誕生日でも何でもない日のブーケ。
そう、私はこのように、
さりげなく日々感動を、ブーケのようにして
みなさんにお渡しお届けできたらいいのだ。

感動は見えないけれど、心の中に咲かせることができる。
そう、心のブーケ、感動のブーケ。

今日も明日もその思いが伝わるように生きていきたい。

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