祈りの場で、ゲームはやめとくれ!

ポケモンなんとかの流行。
メディアが騒げば騒ぐほど、その通りに世の中が進むというこの現実、メディアが報じる現象が
起きるという現実に疑問が沸く。
騒がなければいいのに。と思うが・・・。

みんながやるもの、はやるもの、新しいものに飛びつく日本人には、久しぶりの話題なのか?
永六輔さんが残してくれた名曲「上を向いて歩こう」を大声で鳴らしたいぐらいに、
下を見て ながら歩きをする人がますます増えてしまったこの日本。
危なくて仕方ない。
電車内や駅構内、全国的に注意喚起のアナウンスが急増している。
またまた誰も見ないのに、ポスターやステッカーも印刷され、掲示されるのだろうか?
まさに注意だらけの車内。見なきゃいけない人こそ、見ていないのに・・。
すれ違いのコミュニケーションに無駄な労力が悲しくなる。

このゲームはリアルとバーチャルの融合なるものが面白さなのかもしれないし、
普段歩かない人が、いろんなところに出向くようになり、気が付けば歩いていたと
健康にいいという人もいるので、まあ、人によってその効用は異なるのはよしとして・・。

駅など人が集中する場所など、危険であることがわかっている場所にも仕掛けがあったり、
さらには、原発や そして広島や長崎などの慰霊、祈りの場にも仕掛けてある・・それを
行政が禁止要請しているそうであるが、

そもそも、なんでそんな場所に設定するのか?

前の投稿にも書いたとおり、日本は悲しく、そして愚かな方向に進んでいる。
目の前のわくわくが、大切なものを壊していくことに気付かないのだろうか。

断じて言いたい。
祈りの場に、聖なる場でゲームなどさせないでほしい。

つくる人と、使う人の良識・常識がますます求められる。

孤立化し、人のいうことを聴けない人が増える世の中、そのこと自体
伝えるのはむつかしい。子供へだけでなく、大人への教育が今こそ
不可欠だ。

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憤りと悲しみは日本にも。

信じられないことが連続して起きている。海外でのテロももちろん、このたびの殺傷も・・・。その惨さは、これが日本で起きることかと事実を疑いたくなる。
平和で安心安全な日本と思われているこのわが国も、どんどんおかしなことが起きる国になってしまった。
障がい者。何をもって障がい者、健常者と分けるのだろう。
いわゆる障がい者施設を運営されている方、そこに住んだり、仕事をされている方とのおつきあいもあるし、また精神病院の患者さんにも出会ったことがある。そこでのコンサートに通ったこともある。そこで働いている方たちにも出会った・・のに、あのような世界でこのようなことが起き得るのか?・・。

逃げることも、拒否することも、口論もできない弱い立場の人に暴力をふるう、
命を奪うとはいったい何たることか?
この本人は、自分がまともな人間と思っていたのだろうから、これも大きな間違い。

人間は何かのきっかけで、狂気を抱くようになり、そしてそのまま犯行に及んでしまう・・という恐ろしい悪性をもっている。
最近、世の中は心なき犯罪、事件があまりに頻発しており、日々の行動すら怖くなる。

人が増え、情報が増え、拡散が広がるほど、危険度が増す。
おかしな行動に走る前に、誰かが止めたり、助言でき、思いとどまらせることができたら・・。

もしかしたら、いろんな意味でいろんな面で、今、情報化社会という名のもとに、人は孤立化し、周囲を信頼できなくなって、互いを見守ったり、気にかけたりすることを忘れはじめているのかもしれない。そして、気が付けば取返しのつかないことになっている・・。

もう二度と、起きてほしくない。
被害者の方々に対し、心からお悔やみを、お見舞いを申し上げる。
日本もよくない面で、欧米化してきてしまった。この傾向は絶対に阻止しなければならない。

障がい者・・・。私も障がい者だ。みんな何かしらの障害をもって生きているのだから。
人はみな違い、みな違うという点において同じである。
個性をその人自身を尊重しあえる世界を、取り戻したい。そうしたい。

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箸袋の教訓

人と話をするとき。すぐアドバイスなどが求められるときは、メモをとる姿勢をとりながら、頭に刻み込み、言いたいことをしっかり聞いてから即座に回答する。
メモを見直すことは、まずない。覚えるために書きなぐる。
セミナーや授業など聴くときは、ノートがあるといい。書きながら聴くことで頭に入りやすい。

会食の場では、私自身はあまりメモはとらない。どうしてものキーワードが出てきたとき、忘れてはならないとき。でもメモ帳が手元にないときは、テーブルの箸袋をつかい、メモをする。ときにはテーブルにある紙ナフキンを拝借して・・ということもある。
以前、お手伝いしていたイタリアンのレストランでは、テーブルいっぱいに白い紙を敷き、テーブルクロスかねて、大きなメモとしてもご自由に使ってください。というユニークなサービスをしていた。これはアメリカのレストランでも発見して、グッドアイデアだと思っていた。

それはそれとして、日本でのお話し。
真面目なビジネスマン、しかも経営者たちの会食には、メモがつきものになる。
歓談しながら、酒を飲みながらも、時々メモをとったり、メモをとりながら考えている人もいる。そんな集団もときには存在する。かなり真面目だ。
年に1~2度集まる経営者の会では、箸袋が活躍する。もちろん洋食のお店ではそうはいかない。居酒屋だと便利だ。
いい話になると、皆さん知らぬまに、箸袋にメモを始める。
最初は折りたたんだまま、もっと書きたくなったら箸袋を解体し、最後は展開図になり、裏表ぎっしりと書かれる。
足りなくなったら、隣の人の分まで拝借する。
その光景がとても微笑ましい。

箸袋のメモは、会議のノートに書かれたものよりも、なんとなく価値があるものだ。
会食のときのメモは、かなり新鮮であり、そこで何かが浮かぶこともあるのだ。
メモするワードは、酔っていても「忘れてはいけない。」と思うほどのものであるから。
彼らは、それを持ち帰り、他のノートに書き写したり、あるいは翌朝も見直しているのだろう。
ああ、昨夜も勉強になったと。

私は、赤い顔をしながらも、せっせと箸袋にメモする男たちが、とても好きだ。

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話題と実体。

トランプさんが、アメリカ大統領になる可能性が出てきた。
えらいこっちゃ、ほんまかいな?と思いつつ、
いつの間にか、こういうことも現実化していく社会にも
驚きをもつ。
隣のボスが誰になるかは、こちらの国にも大きく影響するわけで
ちょっとハラハラしながら、アメリカの選挙戦を見守る日々。

選挙はキャンペーンであるから、まさにプロモーション。
自らを知ってもらうためのクロスメディア作戦、イメージの
創出。このプロセス自体が、THEアメリカだ。
トランプ氏が有名になったのはメディアの使い方がうまいからという
説がある。悪い面も含め、彼のきっぱりした自己主張が、現状変革を望む
ターゲットたちに伝えわっているのだろう。
彼は話題になること・・をかなり意識して、さまざまな行動をとっているようだ。

話題になることは、まず大事。話題になれば、まずは成功。
この考え方はわが国ではどうだろうか?

日本でも今、選挙に向けてメディアがさまざまな話題・ゴシップをまき散らしている。これが誰かを落とし込めるため・・にも見えなくはない。
そして、この話題は、肝心な政策とか行動の中身ではなく、
その人自身の誹謗中傷のものが多く、そこは感心しない。
とくに週刊誌・夕刊紙は悲しいぐらいに・・・だ。
しかし、話題にすることで商売になるために、それが仕事だからメディアは書く。

それらの話題に振り回されず、自分でしっかり情報を吟味し、いい選択をするようにしたい。

話題になればいい、ではない。
話題と生活、人生は別次元なのだ。

もちろんマスコミがときに世の中の膿を出してくれることもあるのだが・・
引きずり下ろすためだけの道具になっているのでは、本来の役割を果たしている
とは言えないと思う。

政治家もジャーナリストも、話題ありきではなく、内容で勝負、中身が大事。
そしてそこからのメッセージを受け取る私たちも、ふらふらしないできちんと
自分の考えをもって臨むことが大切だ。

話題は常に拡散するだけで、実体とは別物だ。
キャンペーンの底にあるもの、その人がもつ本当の才能を
きちんと見極めなければ。

話題はすぐ消える。話題ですぐ消される。まだまだマスコミの力は強い。

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やりようを考えよう。

ピアノを弾くのがちょっと怖い。
歌の伴奏程度のピアノは全然問題ない。
アルゼンチンタンゴはまだ思い切っていけないところもあり、恐る恐る・・・。
でもなんとかいけるか。
ショパンのノクターンの後半。思わぬ高音へのオクターブに移動した際に
力が入らない小節があり、ぐにゃっとなる。
こういうことか。
腱鞘炎の影響が出ているのがわかった。

それでも無事に弾き続けられる方法を模索し、しばらく以前のように
弾き続ける・・・が、あとで手首が痛くなる。

ピアノを練習していて腱鞘炎になったのではないので よけいに
悔しいが、
それでも現実を受け留め、やりようを考えていかねばならない。

不具合を自分でカバーしながら、なんとかやれるようにしよう。
痛いからやらない。では自分で納得できない。

もっと重大な病や怪我で体に不具合、不調な状況でも乗り越えている
スポーツ選手も演奏家もいるではないか、と自分に言い聞かせる。

それでも、悔しい思いで床に就く・・。
夜中に目が覚める。
何気なくテレビのスィッチを入れたら、なんとブエノスアイレスの町が映りながら
ジャズピアノが流れる環境ビデオのような通販番組が流れていた。
アルゼンチンとジャズの組み合わせは違和感がなくもないが、
ミッシェル・カミロのピアノなので、自然にも聴こえる。
夜中寝ぼけながらも、リズムにあわせながら、幸せな気持ちで
懐かしの街並みを目で追う。
ジャズか~。あのタッチなら問題なく行けそうだ。
こっちにも少しふってみるかな。
夜中に新たな希望が湧いてきた。
やりようがある、その気があれば。

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カラオケKENちゃんとの時間。

KENさんとは、20年ほどのおつきあい。出会った頃、KENさんはバリバリの大手企業の海外事業を担う部長さん。私もサラリーマンだった。マーケティングの勉強会で知り合って、国際会議や勉強会での交流を経て、そして定年後もずっとおつきあいいただいている。思えば定年後の方が長いおつきあいになっている。
穏やかなジェントルマンで、英語力も素晴らしく、憧れのおじさまだ。
そのKENさんとは、マーケティングのことから、ビジネス全般、日本のこと、世界のこと、人生のこと、哲学宗教、家族のこと・・・とにかくいろんな話題で話がつきない。そして、自分と違う性格・気質なので、時にいただけるアドバイスも新鮮で、耳が痛いこともあるが、KENさんが言うことならばと素直に聴き、日々の参考にさせていただいている。
そのKENさんとは年に何度かお会いするが、今回は、久しぶりにカラオケに行くことになった。
実はKENさんは、カラオケは健康法のひとつとして、月に2回ほど通っているそうで、私が知らないカラオケ屋さん7~8社のメンバーカードをもっていると聞き、びっくり仰天。
元気なシニアは平日の午前中からでも、ときには一人で、家族や友達でカラオケに行くのだという。
KENさんも一人でいくことも多いとか。そして今回、3時間二人で過ごした。
KENさんはカラオケヘビーユーザーであるから、レパートリーもすごい。ご当地ソングの女王とかそんな存在のことも良くご存じで、カラオケとは健康長寿に一役かっているな~と実感しながら、ほほえましくそのステージぶりを拝見する。
70代を越えたKENさんがマイクをもって元気よく歌い上げている姿を見て、20年前、15年前、ビジネスマン時代にネクタイを締めておられた頃のカラオケ姿も思い出し、胸が熱くなった。
KENさんは、思い入れ・思い出のある曲を歌うとき「これ、ぼくのふるさとの歌」とか「こんな時代もありました」とか「この歌詞はぼくそのものです」と歌う前に一言解説される。
1曲に自分の人生を重ねておられる、そんな歌い方だ。
おしゃれなレストランで会食する時代から、カラオケでスポーツのように歌いまくってから、蕎麦屋で乾杯。そんな時間。
あと何十回もそんなひととき、過ごせるのかな。いつか、この時間も思い出になる。お世話になって
きた方とお互いが元気なうちに、いっぱい、いっぱいいい交流を重ねたい。
カラオケKENちゃんの健康長寿を心から祈っている。
そして、何年かぶりのカラオケは、ライブの企画や練習にもありがたい空間であることを改めて知る。次の演奏曲もいろいろ模索するため、わたしも一人でトレーニングに通うかな。

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「寝させへんで!」

とある町での初めての勉強会。十数名の参加。初めてお会いする人ばかりで、こういった場面でよくある、始まるまでのなんとなくの緊張ムード。
いつも、相手が違うわけであるから、こちらも緊張するし、受講者の方からも、どんな話が聞けるんだとか、来てよかったかどうか?を見極めようという無言のプレッシャーも伝わり、とにかく始まるまでは、いつも新鮮である。
そして、始まってしまえば、こちらは流れを止めることなく、時間いっぱい走り続ける。
わずか90分の講座であっても、退屈させてはいけない。
人間の集中力の単位は90分だと、学生時代に学んだことがあった。正確には45分ごと。だから、小学生での授業は45分が一時限であったし(今もそうか?は不明)、大学になると90分が1講座の時間であった。
だから、90分は面白い内容であれば聴いていただけるのだ。
話の合間合間にエピソード、ときには受講者に質問、考えてもらい、参加していただくなどちょっとした工夫も含めて進行。もちろん話自体が面白くなければならない。
おかげで、最初から最後までどの方も真剣に聴いておられるのが伝わる。
寝そうな人がいても、すぐに元通りになる。ということは、ランチ後の睡魔が起こる時間帯であっても、がんばって聞かねば!という気力が勝っているのだろう。
講座が終わる。大きな拍手をいただく。
司会の方が「みなさんがこんなに熱心に聞かれていたのは、初めてですね。」
と言われ、そうかとちょっと安堵。
実は、いつも寝られないように、いかに眠らせないかはいつも考える。相手の顔を見ながら話すのだから表情はすぐわかる。
いかに寝させないか。刺激の連続、発見と感動・・。単調では眠くなる。
講座も楽しく学べることが大切だ。眠りそうになっていた高齢の受講者が最後までがんばって聴いてくださっていたその様子を思い出すとなぜかほほえましい。
「寝させへんで」。という気概をもって。そして、聴いてくださる方の背中を押せるように。
また、次もがんばろう。

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日本一の○○を目指す。

日本一、世界一、の「一」の意味を考えてみる。
「一番」という相対的に最優秀、最強の状態を指すことが多いかもしれないが、
それを目指すのはとてもいいことで、しかもそれを実現するのは容易ではない。
一方、
誰と比べるのでもなく、日本にひとつしかない、世界にひとつしかない「日本一」「世界一」
という考え方もある。
私はナンバーワンよりも、オンリーワンで生きたい人間なので、こちらの日本一、世界一の
方が好きだ。

もうすぐオリンピックだ。スポーツの世界は競技であり、時間を競う、技を競うという点で
前者の世界一を選手のみなさんは目指す。そう、やる以上はがんばってたくさん金メダルを
とってきてほしい。

と思う反面、選手でなくても、自分なりの金メダルや、自分らしい世界一を目指すことは
できるだろう。そう思うと、肩の力も抜けて、より楽に生きられる。

そんななか、ある方から
「私たち、日本一、やさしい会社・スタッフを目指します!」
というメッセージをいただき、とても心が和み、うれしくもなった。

私の人生、まだまだ取り組むべき、目指すべき日本一、世界一がありそうだ。

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ちゃんとお礼が言えているだろうか。

別に何かが変わったわけでもなく、毎日毎日生きているだけのこと、毎日が連続して
いるだけのことだけれど、最近、ふと突然に親しい人がいなくなったり、自分も
ある日いなくなることもあるかもしれない・・・と、世界中の悲しきテロや、つづく天災を
見ているとどうも他人事ではないような気がして・・。
ひとつひとつ、きちんとケリを付けるというか、きちんと終わらせておくことが大切では
ないかと思えるようになってきている。

今の世の中を見て、そう思うのはごく自然のことのように思えるが、
決して、焦っているわけでもないし、何かを予感しているわけでもないが、
とにかく、ちゃんとひとつひとつけじめをつけておかなければ、後悔すると思えるのだ。

思えば52年。生まれてここに来るまで、数えきれない人たちのお世話になってきた。
その人たちに、きちんとお礼が言えているだろうか。
感謝の気持ちが伝えられているだろうか。
何か抜けていないだろうかとふと思ったり、
若い時には突っ張って、歩み寄ろうとしなかった人にも、今は素直に向き合えるかも
と思えたりもする。

公私含め、出会った人はすべて何か意味があって出会ったのだと思う。
それをどう生かしたかは、自分次第だ。
いずれにせよ、お世話になったと思う人には、できる限り早く、そのときそのとき
感謝の気持ちを示していこう。

誠意、真心、謙虚。結局はそれしかないのだろう。

最近、やたらそんなことを思い、久しぶりにご無沙汰していた人に、コンタクトをとったりもしはじめている自分がいる。

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人生を賭けるものコト、そろそろ。

なぜ、アルゼンチンタンゴがいいと思うのだろう。
音楽性・ダンスの美しさの融合から「情熱あふれる人生」を想像することができるからか?
ああ、自分もこのタンゴのように熱く、燃えるように生きたいという
自らの内面深くに潜んでいる願望に触れることができるからか?

あるいは本来の本当の、素直な自分に向き合うことができるからだろうか?
生のパッションが、五感すべてに働きかけてくるからだろうか?
その理由がいまだにうまく説明できないが、
いつもアルゼンチンタンゴを聴くたびに、
ダンサーたちの踊りを見るたびに、自分の人生に問いかける自分がいる。
そしてこんな美しいメロディを、私も創ることができるはず、と思う。

ダンサーたちは、バンドネオン奏者はタンゴに人生を賭けている。
そんな気がする。

貧しいアルゼンチンの子供たちは、サッカーを楽しみとした。
一部の少年少女は、思春期を過ぎ、家族らの影響からか、
アルゼンチンタンゴを覚えるようになる。
楽器を演奏するには楽器が必要なため、
或る程度のお金がないとままならなかったであろうが
ボールひとつでみんなが熱くなれるサッカーや、何もなくても踊れるタンゴは
経済的に豊かではない環境であったからこそ、発展したのかもしれない。

数十年タンゴダンサーとして生きてきた1組のダンサーのことを描いた映画が
上映されている。黄金期に日本公演も果たしたユニットだ。
現在、年齢は80歳を越えている。
長年タンゴとともに生きてきたことが、その人の人生を美しく輝かせている。

人に感動を与え、称賛され・・惜しみない拍手で自分の人生のクライマックスを
迎えることができたら、それ以上に幸せな人生はない。

そうだ、タンゴは生きる価値、幸せを教えてくれる
永遠のアートなのだ。上級貴族から生まれたのではなく、庶民からそして
コロニアルな背景から生まれた、チャンポン文化なのだ。
だから、好きなのだ。

さて、何を人生に賭けるのだ。
恥ずかしいが、まだまだ賭けるほどに至っていない。

80歳の老婆ダンサーの背中を見て、自分の進む道について考える。

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