絵本作家の友達。というか、妹のような存在。彼女は幼少の頃、大病をして、長い間入院をし、病気と闘ってきた。もちろん家族や医師の努力のおかげでもあるが、本人にもすごいパワーがあったのではないかと思う。
一方、私は子供の頃からおかげさまで健康で、子供時代に痛い、苦しいという苦労はほとんどなかった。だから、彼女と一緒にいるときは、生きるということについて何も苦労しないで生きてきた自分を、ちょっと恥ずかしいように思うことがある。
「私はあなたに比べたら、何も苦労してきてないよね。まだまだダメダメ人間だね」というと、彼女は「そんなことないですよ。私は子供の頃は確かに病気してましたけど、今こうして元気で運がいいと思っています。マーサさんが今している努力や苦労に比べたら、私なんか甘いです。だから、同じですよね。人って結局どこかで苦労して・・だから同じだと思います。」大病を乗り越え、それでも病気のことを気にしながら自分なりに精いっぱい生きている彼女を見ていると、なんだか不思議、同じ空に浮かぶ星になったような気にもなってくる。
私たちは誕生日も近い。だから、彼女にとってもザビエルの話はとても興味深いようだ。「マーサさんとザビエルさん、なんだか物語を読んでいるみたいで、面白いですね」と普通は考えもつかないようなことを言う。そうか、絵本作家だからそんな風にも発想できるのだ。いつか、彼女がその面白がってくれる話を絵本にしてくれたら、また面白いかも、とひとり笑う。
突き抜けた変人を目指して生きていこうね!と意気投合する妹。突拍子もない夢を語り合えるように、ずっと元気に健康にいてほしい。
突き抜けた変人ミーティングを楽しむ。
寂しい奴にならぬよう。
最近お会いした方で、気持ちいいジェントルマンがいる。もう70歳を越えておられるようであるが、今も現役。日々、営業活動もされている。売ろう売ろうとしないで、人間関係の中で、40年以上お仕事をされてきた方なのだろうと推察する。笑顔がとてもいい。人の良さはまさにその表情に出る。
「生涯、現役ですか?」「ええ、私ね。人が好きなんですわ~」とおっしゃる。人脈もかなりお持ちのようであるが、きっとこの「人が好き」がそういう結果になっているのだろう。
とにかく「俺が俺が」と言いたがる人とは正反対の、まずは聞き役、受け手に徹するのがお上手だ。
自己主張をしてわが道を切り開く生き方もあるが、とんがればとんがる分だけ、エッヂを効かせればその分だけ、孤独になってしまうこともある。また「実はね・・」とさりげなく、自分の弱い部分も自然にさらけ出すことで、共感をもたれることもある。結果、この方はどうやら、楽しい毎日をお過ごしのようだ。知り合いが多い、いろんなところから声がかかる。これで生涯現役なら幸せだ。
いろんな人にお会いする。「人生って楽しいですね」と言ってくれる人たちが自分の周りにいてくださるだけで、こちらもまた楽しくなる。さびしい奴にならぬよう。楽しい人になれるよう。と、自分自身に楽しく言い聞かせる。
文化は「マイノリティ」から生まれる。
司馬遼太郎が、クリスチャンでもないのにザビエルに興味を抱き、その生誕の地から大航海の出発点まで足を向けた記述を知り、わが人生の取り組みテーマも、まんざらではなかったと一人で歓喜に沸いている。
司馬氏は著作で、これまた共感できることを書かれている。人が集中するところ、集まってくるところ・・・には文明が生まれる。ある場所に大勢の人が集まり、そこで生活するとなれば、確かにインフラが整う必要が出てくる。だから文明が生まれる。エジプトも中国も、メソポタミアも、インドも・・・そうだ。都市が生まれると、そこには文明が生まれる。要するに人が生きるに必要なモノ、コトが文明。
これをメジャーとすれば、文化はマイノリティから生まれると定義されている。少数派の思いやメッセージを届くように、独自の手法で表現しようとする・・・自分たちの存在をアピールするために書いたり、つくったり、歌ったり・・・。そう、マイノリティから文化が生まれる。文化とは本来そういうものだ。
今やどこも文化都市をめざし、美術館を作ったり、お祭りイベントを企画したり、すっかりそれ自体がメジャー的になっているが、本来の文化とは、どこか悲しかったり、デカダンであったり・・・するものである。
最近、聴いた障がい者アートのこと、また売れないでひたすら自分流に活動しているアーチスト(自分もその領域に属する)などのことをあれこれ思うと、そう、文化はマイノリティの生へのメッセージなのである。
商業主義とは別の、魂の叫び、嘆き、独白。
司馬氏の考え方からすれば、メジャーから本当の文化は生まれないだろうか?
久しぶりに、真の意味の文化~アート~の意味を考える機会を与えられ、心がとても調子いい。孤独であることを憂う必要はない。何かに表現すればいい。いいものは響き、伝わり、残る。売れる売れない、有名無名とは、無縁であることが心地よい。
知性を取り戻す、古本との再会。
たまたま池袋で開催されていた古本市に目が留まり、足を向ける。古本市といえば東京ならば神保町であろうが、学生時代、京都の百万遍や河原町界隈にあった古本屋が懐かしくなる。年に一度は大きなお寺の境内で、開催されていた大きな市。なんだかわくわくした頃が急に懐かしくなる。久しぶりにその池袋のビル内での古本市。都内の古本屋さんが定期的に都内の各所を回っているようだ。
各書店ごとのブースを回る。市町村の歴史専門の古書を扱う書店、アニメ関連、美術書、歴史書、芸能関係・・それぞれの書店の取扱い品に特徴があるのが面白い。本だけでなく、古地図やポスター、ポストカードなど雑貨小物も一緒に展示されているのがいい。本だけよりも若い人たちも足を運びやすいかもしれない。しばらく古書は買わなかった。どうしても簡単に手に入る方法を優先してしまったり、必要なものを必要なときに買うだけであったり、1冊の本に思いを馳せてゆっくりページを繰るなんてしばらくしていないかもしれない。たまたま寄っただけなのに、昭和時代への良きタイムトリップに、ついつい引き寄せられてしまう。
そして昭和60年に発行された司馬遼太郎の街道をゆく「南蛮のみち」なるものをみつけ、手にとる。副題はザヴィエルを追って・・だそうだ。へえ.かの司馬さんもザビエルに興味をもたれていたのか・・。迷わず購入する。たった500円になっている。当時4000円の高級本であったようだ。しかも万年筆のようなもので扉に書かれた司馬遼太郎のサイン?これは印刷しているものか?自筆そのものか_?怪しげであり、わくわくしてしまう。
久しぶりに学生時代に購入した漱石全集や、哲学書など・・・のことを思い出し、知的探求心をもとうとしていた若き日の自分を懐かしく思い出した。現在の反知性の時代について、佐藤優さんは近著で書かれているが、世の中の流れがそっちに進もうとしたとしても、知的な楽しみを知る人、本当の豊かさを知る人がいる限り、そしてその魅力が若い人にも伝えられる限り、希望はなくならないと信じたい。
そのツールとして古本はおすすめだ。ノウハウ本よりも、考えさせてくれる教材をもっと活用すべき。
うれしい古本との再会に感謝。今度は久しぶりに神保町へ足を向けてみるか・・。
寄り添い続けることへのパワー
ある方のご家族が闘病中でがんばっておられる。いろいろ治療を続けておられ、ご本人はもちろん痛くて、しんどくて、大変だと思うが、そのご家族もまた大変だ。気になりながらも、そんなに頻繁にご様子をお尋ねするのも憚られる。でも、毎日心のどこかで、看病されている知り合いのことが頭に浮かび、どうかな~、大丈夫かな~と思いつつ、何もできないでいる。時々メールなどしながら、お声がけさせていただいたり、何か役立ちそうな本や、体によさそうな食品などお送りしてみるが、こちらの自己満足だけなのかもしれず・・とも思いながら・・。
でも、そのことを喜んでくださり、運転中などに私のCDを聴いたり、ブログを読んでくださり、元気をもらっていますよ。心の支えにしていますよ・・とその言葉をいただくと、これまたなんだか切ない感じにもなり・・。
もし、自分がその立場だったら、自分が大切な人の病気を一緒に克服しなければならない立場だったら・・・・・。いろんな不安や心配も付きまとい、また疲れもたまってくるだろう。
誰かに寄り添わねばならない人を応援することは、本当に大したことはできないけれど、間接的にできることを思いついたらし続けるのみ。
喧嘩できるのは元気な証拠、どっちかが弱ればそれもできない。だんだんできなくなる。元気でいることに感謝しなければならない。
介護、看病される人がこれから増えていくだろう。自分もそのうちに・・。自立していられるうちに、とことんできること、やりたいことをやるしかない。
今、ご主人の病と向き合い、闘っておられるこのご夫妻のこと、心から応援したい。苦しくないように、しんどくないように、少しでも気持ちも和らぎ、生きる元気が湧いてくるように・・・。寄り添い続けることにはいろんな強い気持ちと持ちこたえるパワーが必要だ。希望をもって、事態がよき方に向かうように、心から祈り続けたい。
愛の元気人6月放送は本日27日18時~です。
ハッピーコミュニケーションプログラム「愛の元気人」6月放送分は、本日25日18時~19時です。
今回の「にいがた元気人」のコーナーのゲストには、障がい者アート普及活動をされるモザイクの
肥田野正明さんと、心も体もキレイを応援されるカフェオードリーの代表 瀬尾のりこさんの
エキナン仲間たちです。
コミュニケーションなんでも相談室は、新潟市内のあるデザイン会社さんにお邪魔し、お悩みの声を
いただいてきました。プチプチ感動体験談含め、聴きどころ満載です。ぜひお楽しみください。
FM KENTO
「みんなのうた」になれるよう。
朝4時からの1日のはじまりは、一口のアイスと、コーヒーを入れる香りと、テレビから流れる「みんなのうた」から。これらの刺激が私を内側から目覚めさせ、1日を生きるエネルギーを授ける。アイスは味覚に、コーヒーは嗅覚、そして「みんなのうた」は聴覚と視覚に訴えかける。
「みんなのうた」は、私が子供のころから続いている長寿番組だ。早起き暮らしをするようになり、大人になって見聞きするようになり、改めて「いいな~」と思うようになった。子供心、純粋な気持ちを取り戻し、元気が湧いてくる、そんなメロディが多い。また聞いていて覚えやすく、元気になるレパートリーも多い。
ある方が「マーサさんの曲、『みんなのうた』で流れるといいですね」と言ってくださったことがあるが、確かにそうなる日があったらいいなといつも思っている。いつか、どこかの知らない人の心に触れることができる、それもさりげなく、風のように出会うことができるよう。。。そう、誰かにとって「あ、いいな~」と、心のともしび、小さな元気になれる・・といいな。
毎朝、「みんなのうた」を聴くことは、自分の目標を確認できる点からも、自分自身の覚醒のためにも、有効なのである。
あ、土曜の朝は、流れていないか。。
匿名はラジオ番組まで・・がちょうどいい。
匿名といえば、昔ラジオ番組でよく使われていた手法である。不特定多数のメディアに出るときに、本名では都合が悪い、恥ずかしい、それだと話せないということで、ハガキでも、生出演でも「匿名」という名乗り方があった。
最近は「匿名」が許される場面が多くなっている。とくにネット社会では、SNS然り、ショッピングの場面でも名前を明かさずに、見えない何者かに成りすましてやりとりをする場面が多く、これはこれで慣れてしまえば良いのかもしれないが、私にはどうも気持ちが悪い「出方」なのである。実は、気になる商品がありネットオークションというサイトを見て、どんなものかしらと、そこに一歩頭を突っ込みかけた。だが、匿名の売り手と買い手のやりとりの世界・・・これがなんとも不思議というか、自分には理解できず、気持ち悪くなって途中でやめた。まだフリーマーケットの方がいい。売っている人の顔が見える。ネットでショッピングをする場合でも、ちゃんとした店舗であっても、顔が見えない不安感があるのに、ましてや匿名という不思議な売り手からの商品の提供とは、最後の最後まで心配が付きまとう商法ではないか・・。いやはや、こんな世界もあるのだと今さらながらに、匿名社会の心地悪さを再認識した。
ラジオ番組で恥ずかしい気持ちを抱きながら、匿名で・・・と出ているうちがかわいい。そんな時代が懐かしい。(今も自分のラジオ番組ではその名残がある)ネット社会での匿名性の無責任さ、人を人と思わない軽さ、気軽であり手軽であり、誰でも買ったり、売ったりできるのは一見良いけれど、何か目に見えない怖さが根底にあるような・・・。私にはこの世界は不向きである。顔が見えるのが私にとっての「売り場」、「お店」である。改めてそのように定義しようと思った。
おせっかい礼賛
日頃から、自分はつくづくおせっかいおばさんだと思うことが多い。年を重ねて余計に、妙な正義感というかまさにお節介精神がみなぎってしまい、人の世話を焼きすぎたり、頼まれたこと以上のことをしたり、人のことを心配しすぎたり、ときには人に注意をしそうになったり・・。周囲からは、やりすぎ!といわれることもあるが、気になることはほっておけないのだ。そして、時にお節介であることで人の役に立っていることもあるので、ま、ときには良いかと思ったりもしている。
「余計なお節介」しかも過剰な優しさであり、それは、時には迷惑の対象になるが、それでも隣の人のこと、仲間のこと、知り合った人のことを知らんふりはできぬというのが、おばさん世代の生き方であり、生きる道である.昔は近所のおばちゃんに、子供たちはときに叱られ、大きくしてもらった。今はそういう時代ではない・・というのが寂しくもある。
このたび参加した、ある企業の株主総会では、会の最後に数分のある映像を流した。その会社のパートさんが主人公になった「はなさんのおせっかい」。ご本人のインタビュー映像をもとに編集されたもの。その人はそのチェーンの店で働く60代のパートさんであり、20年以上勤務されているベテランさんだ。彼女があるお客様に対して、ある思いをもって、マニュアルにない特別なサービスをして、結果、子供さんの野菜嫌いがなくなり、そのお客さん親子に大変感謝された・・・。という内容であるが、通常であれば、マニュアルにないサービスをするな!と言うべきチェーンが、このマニュアルにないことをしたパートさんを褒め、それを受け入れた店長のことも評価したという点が素晴らしい。お客様に喜んでもらえることならば、おせっかいもどうぞ!ということだ。マニュアルどおりではない。その基本を理解した上で、どうしたら相手が喜ぶかを考え、やってみよう!という話だ。
これからの時代、おせっかいはますます重要だと思う。そこには相手を思う気持ちと、周囲からの誤解を恐れない勇気と行動力が必要だ。
お節介は地球を救うこともあるかもしれない。おもてなしするときには、おせっかいも忘れずに。
それが本来、日本人が地域コミュニティの中で培ってきたよき教育方法であり、コミュニケーションであり、思いやりの表れ。そうお節介は昭和時代の無形遺産?・・・にしないで、これからも、大切にしていかねば・・と思った次第。さっそく、今日もああ、あそこのマネージャーにこういわなくちゃと、思ってしまっている・・。
ひとつひとつカタをつける。
どんな仕事でもやりっぱなしはよくないと思っている。来た球は、必ず早めに投げ返す。中途半端になっていることがないように、後始末もちゃんとする。そうすることが、後になって効いてくるはずだ。
後始末はとても気が重いけれど、誰かがしなければならないと思う。
気が付いた人がする。それでいい。
最近思うのは、何年かあとになって、ああしておけばよかった~と思うことだけは、絶対になくそうということ。
自分だけの問題、誰かが関わっている問題、いろいろあるが、とくに誰かに関わる場合は、きちんと始末をしておくことが必要だ。
後始末とは、きちんと関係性をいい状態で維持する。ということだ。
あるひとつのことでの不始末で、人間関係が悪くなったり、他のことがうまくいかなくなる・・・ことがなきように。
目先の利益だけを追い求めず、後のことを考え、ときには損することも必要だ。
最近、生きていくということは、いろんな課題に対して、ひとつひとつカタをつけていくことだと思えてならない。
やりっぱなし、言いっぱなしにならないように。ひとつひとつ、収めていくことが必要だ。
種まきから刈り取りまで。いいことも、そうでないことも、ちゃんと最初の状態にまで戻しておけば、また新たな種を蒔くことができるから。何事も、日の当たらないところ、誰も目を向けないような細部にまで気を配り、自らの日々の行動を点検していくことを怠らないように。見えないところにこそ、次への可能性も秘められているかもしれないのだから。

