ふるさとは遠きにありても、近くにありても。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの  そして悲しくうたふもの」
とあまりに有名な室生犀星の詩があるが、
最近の私の心情としては、これに対して
「ふるさとは近くにありて感じるもの そして愛しく抱くもの」
と、そんな表現をしてみようかと思う。

この写真は、最近の、ふるさと岐阜の長良川の朝と夜の様子だ。
朝は朝焼けのころ、夜は鵜飼いの「総がらみ」というクライマックスの前の様子を遠くから見ていたものだ。

かの信長は城の上からこの町を見下ろし、天下布武に思いを巡らせたかもしれないが、私は岐阜城を見上げるこの長良川に、ふるさと岐阜への誇りを感じる。

ここから見る岐阜が大好きで、ここがふるさとであることを、誇りに思うのだ。

岐阜を出る若き日もよくここにきて、考え事をしたり、河原で歌ったり、スケボーしている少年と話したり、旅立ちを夢見たり。ここに来ると普段と違う、自由と解放感を感じることができた。

そして、岐阜を出たあとも、この場所が一番好きで、何度も何度もここに、会いに来た。
京都に行っても、東京に住んでも、ふるさとは岐阜である。と思わせてくれるのはこの景色だ。新潟の万代橋を渡りながら、いつもこの風景を思い出していた。

今、改めて朝と夜、この場所からふるさとを見る。
幸いなのは、もしかしたら、時代は違えど、
信長が同じ場所で夢を見た時期があったかもと
想像を働かせることができることだ。

生きる限り、どこにいこうとも、ふるさとは永遠である。
そして、勇気と夢を与えてくれる存在。

今、ふるさとに帰る人が多いこの時期。
それぞれが、それぞれのふるさとに思いを巡らす時期。
生きる上で、大切にしたいひとときであると思う。

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やっぱりリアル、やっぱり話そう。

コミュニケーション・クリエイターともう四半世紀近く、名乗っているけれど、
コミュニケーションの難しさは、今も、毎日のように感じ、試行錯誤を続けている。いろんな人と会い、交流しながら、物事を進めていく上で、そのことは永久の課題なのだろうと最近思う。
今日はうまく伝わったとしても、明日、違う相手、違う内容で必ずしも、うまく
いかないこともある。
親しいからと言って、常に伝わるということもない。
親しき相手こそ、違う存在であるということを、そのたびごとに意識しなければならない。
そして。コミュニケーションには、便利なツールがたくさんあるけれど、
それを使うが故に、その手法に慣れてしまい、相手の置かれた状況など
考えられずに直進してしまい、柱に激突ということもある。

できれば、できる限りリアルがいい。
できれば、直接話した方がいい。

ちょっと気になったら、電話に切り替える。
ちょっと気になったら、会いに行く。

しまった!と思ったらすぐにあやまる。
わからなかったら。よくきく。

結局、コミュニケーションは相手ありき。
少なくとも、相手に不安や不快、不信の3Fを抱かせては
いけない。

日頃から反面教師が云々といっているけれど、自分自身が
そうなっていることもある。
とにかく、

コミュニケーションは大切だ。
お互いを信頼で、絆で結べるいい関係になるように
きれいな花を一緒に咲かせるように、
せっせと、水やりをしたい。

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涙がたまって、思い出になる。

お盆の週を迎えた。
各地でさまざまな行事が行われる。とはいっても、コロナ禍で、いろんなことが
ソーシャルディスタンス、三密を避けて・・・。
本当は長崎の精霊流しも、京都の五山の送り火も、駆けつけたいが、今年は
お預け。何より今回は、母の初盆となる。
といっても、大したことはできないが、毎日一緒にいるような感覚で過ごすようにしているので、猛暑の今日、赦してくれるだろう。

毎日一緒にいるような感覚で・・。
と言っても、やはりまだ慣れない感じは残っているし、
ある日突然、「あれ?いないんだ・・・」と、果てしない不安というか
哀しみがわいてくることがあり、涙があふれそうになることもある。
でも、もうその回数は減っている。
気持ちが薄らいだわけではない。人様によると、日にち薬だともいわれる。
その気持ちに慣れてくるということもあるのだろう。

最近思うこと。
涙は確かにだんだん出なくなる。
泣かなくなるのだ。
泣きたいときは、涙が心の海に流れていって、
たまってたまって「思い出」になるのだ。
最初は、思い出すから泣いていたのに、
今度は、素敵な思い出に昇華していくのだ。
そう、時間ごとにそうなっていくのだ。
考えようによっては、素敵なことだ。
新たな永遠の存在になっていくのだ。

母との思い出は・・・。
無数にある。
毎日その思い出とともに、生きることになる。

一緒に在る。ということで、悲しみを越えて生きる。
初盆。
ほおづきを買った。涙のカタチに似ているような・・。

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長崎の鐘が心に鳴り響く朝。

写真は夏前の長崎市内の様子。新幹線の工事が着々と進んでいる。
どんどん未来に向け、発展していくかのように見える。
長崎が、どんどん近くなる。嬉しいような・・・なんともいえない気持ちもある。

76年前の今日、この町の原爆が投下された・・・。
見事に復興し、港町としての落ち着きを取り戻しているといいながら、
その傷跡は今だ消えるはずもなく、ただ、その犠牲になった人々やその子孫は
今も静かに祈りを捧げる。

「長崎の鐘」と言う曲が好きだ。原爆で最愛の妻を亡くした医師、永井隆氏の深い祈りが伝わる。
そして鐘の音は、平和の象徴。原爆で浦上教会の鐘が焼けおちたが、その存在は今も残っており、形を残し、平和の大切さを訴えている。
この上なく悲しいけれど、力強さを感じる名曲であると思う。
今朝はこのメロディを胸に、そして長崎の空を想う。

どんなことがあっても、人は争ってはいけない。平和の意味を心から考えねばならない。
悲しみの歴史を越えて、やさしく、たおやかに生きつづけている長崎の人々の笑顔が浮かぶ。
この現実が風化しないように、しっかり伝えていかねばならないと思う。

祈りを込めて、長崎の鐘を心で鳴らそう。

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狂騒から、協奏、そして真なる共創へ。

コロナの祭典。コロナ感染者数と、メダルの数の報道。なんだか本当におかしな現実。なぜ、今、同時進行しなければならないのか、私には今も、まったく意味不明。
お祭りときけば、わくわくじっとしていられない人たちの行動から、
またコロナの祭典が盛り上がる。こっちは記録更新してはいけないのに。

大阪の緊急事態宣言で遊べない、外食できない人たちが近場の滋賀県に出入りして、外食のお店は満員、行列。その結果からか、滋賀県でも急激に感染者が増えたと、地元の人から聞く。
祭りときけば、もういいか、もう開放、我慢したから自由にさせてくれ~。
今、日本中がまさに狂騒の夏となっている。

もういいかげんに。

コロナに感染しなくても、コロナ禍の環境故に寿命が縮まる高齢者がいる。
自分の両親も少なからず、その対象だ。
感染者数、メダルの数。こういった目先のことばかりに目をやらず、どうしたら
世の中が鎮まるのかについて、きちんと導くリーダーやマスコミはこの国には
不在のようだ。

落ち着いた日々に戻りたい。
特別な人の金メダルよりも、子供たちの運動会や、公平にみんなが楽しく
日常をおくることができる、そんな社会がいいのに。

こわれている。
オリンピックより平和を祈る静かな8月6日がよかった。
こわれている。
狂騒曲ではなく、静かな協奏曲が流れる日々、そして言葉ではなく本当の共創社会を今、改めて求める。
早く、終わってほしい。

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自分が映るのは・・・

鏡はよく見る。誰でもそうだと思う。1日に何回も見ている。
最近はZOOMで、モニターに映った自分を見ることがある。
ああ、こうやって見えているのか~。

さらに、それが記録され、ネット上に公開される・・・。
そんな事例は多いはず。

今回、オンラインミーティングで話している延長で PR動画をということになり、そのまま録画し、編集されたものを確認。
自分の顔と、視聴者に向かって話している表情を見る。
人にはいつも言っているが、自分は・・・となると話は別だ。
皺は仕方がない。口元が歪んでいる。声は、まあいいか。

原稿なし、いきなり収録、アドリブで良かったかな。
とにかく自己点検をすると、大変厳しくなる。
映るのは難しい。

改めて、撮られる仕事、見られる仕事をしている人は凄いと思う。
ライブではそんなことは感じないが、記録となると、緊張するものだ。

自分が映る、、は慣れることがない。


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健康とコミュニケーション。

普段、コミュニケーションの大切さをお伝えするときには、多くは発信する側の立場の話が多い。プレゼンの話にせよ、発表にせよ、とにかく自分が伝えたいことを、どうしたら伝わるか・・。という話が多い。
一方、それを見る、聞くといった受け手の姿勢も大切で、コミュニケーションとはまさに、この両者がうまく交わることで、より良い関係を育むことができる。
コミュニケーションが好きな人は、話すことが好きな人、いろんなことに興味がある人。そして、その楽しいコミュニケーションを続けるには、健康が前提であることに最近、気づかされることが多い。

とても快活で、元気いっぱいで、周囲を喜ばせることが大好きな、そんな知人がいる。
話すときもはっきりした声で、聴きとりやすい。
その方と久しぶりにお会いした。
すると、どうやら聴覚が最近不調のようで、人の話す声が聴こえなくなったという。
話すのが好きなのに、相手の反応が聴こえないというのは、とても困る。
会話がつながらない、キャッチボールができないので、コミュニケーションの良さを知っているだけに、不便を感じ、だんだん話すのが嫌になるとのこと。
聞こえないということは、本当に苦痛だと・・。
「今は、補聴器もいいのが出ているみたいですから、トライしてはどうですか?メガネと思えば大丈夫ですよ」とおすすめする。今回は、密になってはいけないと思いつつ、ついつい、その方の耳元まで近寄って言葉をかけたり、最後は筆談もした。
「そうですね。聞こえた方がいいですしね」
そう言いながら、別れる瞬間まで明るく、元気に会話しながら、手を振った。

年を重ねると、いろんなことが起きる。原因はいろいろあれど、とにかく
昨日まで当たり前だったことが、そうではないと気づかされることが多くなる。
私も、他人ごとではないと思う。

聴覚。そこでベートーベンを思い出す。
聞こえない世界で、また治療方法も確立されていないその時代、本当に不便で不快で、不安な日々を送りながら、そのつらさを作曲に向けたのかもしれない。
聞こえない世界。見えない世界。言えない世界。
これらの障害は自分の世界を閉ざしてしまう。
コミュニケーションが難しくなると孤独になる。
どんなにストレスを抱えていただろう、そんななかで、数々の名作を生み続けたベートーベンに頭が下がる。さぞかし、つらかった。そんなもんじゃなかったのだろう・・。
五体満足であることを当たり前と思わず、健康であることに感謝して、より一層の努力をせねば・・と思えてくる。

生きているうちは、元気にコミュニケーションしたい。
だから、必要に応じて、いろんなサポートを活用すればよい。

そうそう、あんなに抵抗があった老眼鏡。今は普通に持ち歩いているではないか。
背に腹は代えられない。

今、聞こえる今、しっかりその喜びを感じておこう。
当たり前の世界は、永遠ではない。

コミュニケーションなしでは生きられない。
改めて自覚し、今日も笑顔でハッピーコミュニケーションを!

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とことん、寄り添い業。

自分の仕事は大きく分類すればサービス業。コミュニケーションを通じて、
世の中を元気に、明るく、活気満ちたものにする仕事。
相手のオーダー、指示を待っているのではなく、自分から感じ、気づき、
働きかける。
相手の立場に立って、今求められることを察知して、ときには影、ときには日向となり、動く。
言い換えたら、おせっかい業と思うこともある。
こうしたらもっと良くなる。と思うことを伝えることも多い。
もちろん、相手に喜ばれなければ、それは意味も価値もない。
素直に聞き入れ、気づき、感じ、行動が変わる。そうすることでお互いがよくなる。そんな関係づくりがいい。
毎日、いろんな会社の社長さんに出会い、交わる。
毎日、いろんな会社で働く人々に出会い、交わる。
どちらにも、寄り添える存在でありたい。

さて、この仕事の終わりはいつだろう?
まだ、いける。まだ、行こう。
伴走する仕事、天職だと思っている。


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愛しい夏の情景に癒されて。

久しぶりの新潟出張。なんといい天気だ。トンネルを越えると、雪国・・のあの風景が、この季節はこんな感じだ。
たんぼの緑が、実に美しい。たんぼは、全国各地にあるのだけれど、どうして新潟の田園風景は、とりわけ美しいと思えるのだろう。広大さもあるのだろう。
ここでとれたお米をいただく機会が多いから、そこで農作業をしている人たちの顔が浮かぶから・・・。そんなことがよみがえり、この季節の仕事の大変さも頭をよぎり、余計にこの緑が心に沁みてくる。
たんぼの緑と、大きな空の対比。新幹線の車窓から思わずスマホをかざした。
夏の新潟行は、車窓を眺めるのがいい。画面や本を見ていては、もったいない。
電車移動の醍醐味はこれだ。「あと、何回新潟出張できるんだろう」といつも思いながら乗ってきたこの電車。今日も再び、訪れることができる。田んぼの景色は私にとってのうれしいおもてなしだ。

私はこの季節と冬の新潟の風景をいつも比較して楽しむ。
この豊かな自然の中で、生き続けてきた新潟の人たちの心の豊かさ。そのことも感じる。
今は日本一といわれるほどの暑さに耐え、そして厳冬、大雪の冬に向けて・・・。
季節ごとの仕事をしながら、自然と共生する人々・・・。
美しい田園風景の向こうには新緑色の山々・・・。手前を白いトラックが走る。そして飛行機雲・・。人の働きを感じる1枚。まさに、風景は情景となる。

この約10分後、新幹線を降りた。暑さで思わず現実に引き戻された。
でも、そのなか笑顔で出迎えてくれた仕事仲間の歓迎ぶりに暑さも吹き飛ぶ。
美しいけれど、戦いの夏。今日もまたはじまる。
「それにしても、暑いね~」この言葉を何度も言いながら、新潟の夏を愛でるとしよう。


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生でも、人工でも。

母の墓参りは、日課とまではいかないが、週に何度か足を運び、
「暑くなってきたわ~」とか、勝手に母に話しかけている。
そのとき、必ず花を持って行く。
当初は生花を持って行ったが、とくにこの暑さではまたたくまに枯れてしまい、
頻繁に行けない身としては、枯れた花が飾ってあるのは、どうも
良くない。と思うようになった。
周囲のお墓を見ても、枯れた花だけが残っている風景を見ると
なんともさびれた感じがして、気持ちも陰鬱になる。
さらに、何年か前に、新潟の企業さんで、そこに着眼して、商品開発している
ケースがあったことも思い出す。お墓のお花は、生がいいけど、無理な場合は・・。

そんなことで、あれこれ探して、
生花に見える、超リアルにつくってある造花をみつけ、
それを選んでもっていくことにした。
いかにも造花ではなく、カタチも色もその存在感自体が、生花に
近いのだ。

生花じゃなくても、花と言うカタチならば、なんでも歓迎だった母。
こんな思い出がある。
実家の玄関。下駄箱の上に飾ってあった造花の枝と花が、たまたま
玄関の戸を開閉したときに、挟まれていた。
それを見て、母が
「あ、花が、戸に挟まっている。取って。花が痛い、痛いと言っているから」
と、そんなことを言ったので、びっくりして、思わず、戸を締め直し、花を救出したこと。母は安堵した顔をしていた。そのときの様子が今も新しい。
造花でも、痛いと思うんだ。
造花も生きている。母の感覚で言うとそういうことだ。

生でも造花でも、もちろんプリザーブドでも、すべて花である。
花はすべて命がある。
母にとっては、そういうことだったのだろう。

もちろん生花が可能なときは、それを持参するが、とくに頻繁にいけない
お墓には、造花できれいに飾る。
遠くからみて元気が出る。誰のお墓かわかるぐらいに・・・。

昨日は、ひまわりとラベンダーを指してきた。
この暑い中、お墓に来られる皆さんが元気になれば…と思っている。
造花とは、まさにこういうときにも役に立つ。
母に捧げる花探しは、いつの間にか、最近の楽しみにもなってきている。

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