もっと前から来てよー。

コロナの影響は続いている。自粛、ソーシャルディスタンスからライフスタイル、消費の動向が大きく変化。食品スーパーやドラッグストアはプラスの影響、一方衣料品や外食関係にまつわる店舗、関連の業界は大変厳しい。今後は製造業その周辺にも影響が及びそうだ。特に外食店では、閉店せざるを得ない店舗も増えている。そして、知り合いの店舗も例外ではない。

ある店舗。コロナの影響による苦渋の判断。閉店が決まり、営業最終日を迎える。
気になって最終日、その店に行ってみると、お客さんが多く訪れ、にぎわっている。一見、普段通りだ。不思議なものだ。人がいると、お店は生き生きして見えるのだ。
明日になっても、また足を運んでくる人がいそうだ。

今日だけじゃなく、もっと前から来てくれたら店を閉めなくて済んだかもしれないのに。と、この最後の盛況ぶりを見て、複雑な思いになる。
お客様とは、そんなもの。
皮肉なことに営業最終日に賑わう。そんな店をこれまでもいくつも見てきた。
そのとき、いつも従業員さんの明日が頭をよぎる。明日からどうするのかな?と。

コロナがきっかけで、親しんできたお店の灯が消える。
大変寂しいことであるが、「ずっとある!」ことは当たり前ではない。
お客はそこでの思い出を大切に。
働く人はそこでの経験を糧に。
それぞれが前に、次に進む。

つくづく日頃からの積み重ねの大切さを思う。
「毎日が最終日」という思いで、とりかかっていくことが明日につながる
のかもしれない。


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イメージを膨らませる楽しい仕事

創造は想像。
何かゼロからカタチをつくる仕事は、まるでそれが存在しているかのように、頭の中でその世界をつくることからはじまる。それは自分の過去のさまざまな日常であったり、旅の思い出であったり、昔聴いた曲であったり、ある人の言葉であったり・・。いろんな引き出しの中から、今つくりたい世界に合う素材を引っ張ってきて、それを文字にしたり、メロディにしたり・・・。
筆が進んだり、音が出てくるのは、何かにいきついたときだ。
「あ!これだ」具体的な絵に結びついたとき、めでたくアウトプットとなる。
イメージを膨らませ、さまよっているプロセスは苦しいけれど、楽しくもある。
常にイメージしやすいように、さまざまな世界に触れるようにする。
懐かしい町の風景の写真、動画、映画、音楽・・・。常にいろんな空気に触れるようにする。
見た、聞いた記憶は、自分の引き出しに自然とインプット。
創造とは、その素材と自分の想いを掛け合わせていく仕事だと思う。
真のクリエイティブは、AIにはできない仕事と、思っている。

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そうとも限らんけれど。

早朝散歩をしているときに、普段見ないもの、見えないものが目に、耳に入ってくる。 とくにカラスの鳴き声は、車も人もいない時間では、より大きく鮮明。 でも、これはあまり得意ではないため、避けて歩く。
ふと、お寺の入り口の掲示板に目がいく。
今月の○○、とか今日の●●、とかありがたいお言葉がよく書いてある。
昼間はあまりそこにも目がいかないが、情報の少ない朝は、とにかくパッと目に入ってくる。

こんな言葉がきれいな筆跡で書かれていた。

父母は常に子を念へども(おもへども)
子は父母を 念はず(おもわず)

とある。 これは、ある高名なお坊様のお言葉のようだ。 これは世の親に向けたメッセージかもしれないが、私はこれを読んで、首を傾げた。
「へ? そうかあ? そうともかぎらんと思うけど」

と思ったのだ。

ここのところ、私から見れば、逆の現象がおきているように感じている。

この高齢化社会では、親であっても、 もはや子供のことを想える状態ではない場合もある。 むしろ、子供の方が四六時中親のことを思い出し、心配している。 これが私から見た現実だ。
おそらく、このお坊さんが活躍された時代、こんな高齢化社会ではなかっただろう。 親が親としての意識があるうちに、皆さん、旅立っていかれたのではないだろうか?

なんども悲しくもある現実であるが、親がいつも思ってくれていた意識の時代が
あったことは間違いない。

どちらでもいいから、相手を思えていたらいいのでは。

思ってもらえることも幸せであるが、その時間を過ぎて、今は思える相手が
いることを喜びとしたい。 ・・・と、思うようにしよう。

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ふるさとに包まれる瞬間に。

暑さ続く、コロナ悩ましきこの夏。
それでも、ふるさとは美しく、心強い。
今、利便性で名古屋を拠点として選んでいるけれども、自然の豊かさ、美しさからすると、わがふるさと岐阜の魅力は圧倒的だ。
心折れそうになるときほど、ふるさとの自然は自分を包み込んでくれるようだ。
この風景は、自分がもっとも好きな、岐阜城をのぞむ長良川の風景。
朝の様子と、夕方に向かう午後の様子。
いずれも、あまりにきれい、そして澄んでいる。
この長良川は、まさに清流の名にふさわしい。

山上の岐阜城から、かの信長はこの長良川を毎朝見下ろしたことだろう。
私は、今見上げる。

何か変わろうとも、自分がこの地から始まったということは変わらない。
ルーツは永遠なのだ。
ふるさとは、自分を励ます。
がんばれ、がんばれ。そう言っているようだ。
こられていた涙が、自然が相手だと、流れてしまう。

ルーツは不変。でも、明日は変えられる。
それが生きているということだ。

この景色は、「みず・つち・ひと」が生まれるきっかけのひとつでもある。
また来ようと思う。

大好きな、この景色を胸に抱き、ルーツを大切に生きよう。
と、思う。
自身を育てた原風景にふれる瞬間は、素直になれ、浄化されるとき。






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カバーが変わるだけで。

実家のグランドピアノの調律が20年ぶりに終わり、音色は輝きを取り戻した。
ピアノには、汚れや衝撃から守るため、カバーがかけてあるが、これも約半世紀同じものがかけられていた。気が付けば、生地が傷み、ぽろぽろと繊維が出てくる。ピアノが汚れてしまう!ということで、カバーを新調。ピアノカバーもピンキリということも知り、なんでもランクがあるのだと驚きつつ、まんなかのランク。化学製品であっても、長く使えれば良い。機能を果たせればいいのだ。
特注品であったため、やっと届いた。
調律師さんが届けてくださって、大きなカバーなので、一緒にピアノにかぶせて
くださった。
あれ、カバーが変わることで、ピアノが若返った、新しくなった気がした。
ピアノのコートである。
きちんといろんな意味で手入れがしていなかったことに気づき、できることからやっていく。
このピアノを生かし、ここでコンサートができないか?
実家でのミニコンサート。密になるような人数ではなく、ほんとうに地域の方に
楽しんでもらう場所。
カバーが変わることで、ピアノが公的な存在になった。
身近にさまざまにある道具。使っていないものがあったら、ちょっと取り出して、メンテしてあげることで、道具が命を取り戻す。
このひとときで、自分も青春を取り戻したり、懐かしさの中から、次へのパワーを得ることができる。

とにかく大切にせねば。私を育んでくれた大切なもの。

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ドクターの「ラポール」に学ぶ

最近、お医者さんの診察を横で、脇で見せていただくことが増えている。
それは、親の通院に同行するときのことであるが、幸か不幸か、様々な先生に診ていただくことが急に増え、総合病院から町の医院まで。見ていただく専門(科)もさまざまで、新しい先生の診察に同行するたび、こちらはいい勉強になっている。
まさに、現場で見るコミュニケーション学のインターン生のごとく・・だ。
そう、ドクターのコミュニケーションの取り方は、大変参考になる。
いい先生は、患者とのいい関係をすぐにつくることができる。
昔、仕事で「ラポール」という言葉に出会い、これをある冊子のタイトルにつけた。この言葉はフランス語の rapportであり、お医者さんの診察のときに使う言葉だとその当時は覚えていた。
今改めて調べてみると、やはり心療内科の先生と患者の関係を表現した言葉で、両者が和やかでいい信頼関係にある状態を言うのだそうだ。
なるほど。先生の巧みな、見事なコミュニケーション力で、患者の緊張も解けて、信頼関係が生まれる。これがないと、治療も進められない。信頼感をつくる。これが治療のための第一歩だ。
ドクターには、知識や手術の技術ももちろん重要であるが、ラポールできる力こそが大切だ。
どうせ患者である親についていかねばならないならば、その場をしっかり勉強しよう。ドクターの言葉のかけ方、同意の仕方、話ももっていきかた・・・とても参考になる。
コンサルティングの仕事も、ラポールの精神のようなものは求められる。
信頼感が生まれることで、いろんな話が聞こえてくるし、情報も入ってくる。
そんなことで、病院・医院に行くことは、いろんな刺激になる。
これまでで学んだことは、ラポール状態を築くには、とことん寄り添いの精神が必要ということ。医師だからといって、上から目線であったり、患者を見放したような対応をすると、関係はつくれない。また、いいラポール状態になるには、
まずは聞く。ということからはじまる。その投げかけの言葉も、やさしく・・がポイントだ。

と、これらの学びを生かし、親ともラポールな関係になれたらいいのだけれど、距離感がないと難しそうだ。 感情的にならないことも重要だ。
コミュニケーション実践について、介護、医療の世界から学べることは、実に多い。

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リアルもオンラインも緊張する

会社訪問というのは、緊張する。
自分のつとめている会社、事務所へ行くときに緊張するかどうか?
慣れてしまえば、そんなこともなく、あまり前のように意識せず通えるはず。
しかし、ふりかえれば、新入社員のとき、また何か特別なイベントや来客があるときは緊張した。そして、お客様の方に出向いて、プレゼンをしたり、ましてやコンペの場合などは、前の日から緊張した・・・。そんなこともよくあった。
脱サラして、23年間。
それでも、慣れない環境に飛び込むときは、やはり緊張する。
とくに初対面や、初めてのことになると新入社員のときと同じだ。
仕事で緊張しないというのは、よく考えたら、あまりないのかもしれない。
対人関係が生じる場には、緊張はつきものだ。ただ、それを意識しているかは別として・・。
そして、それが対面であっても、オンラインであっても同じだ。
いや、今はオンライン環境の方がまだ慣れていないせいもあり、何かと緊張する。
ネットはうまくつながるか、最後までスムーズにやりとりできるか?
てきぱきとやりとりできるか?
正直、まだ慣れていないから、仕方ない。
「声、聞こえてますか~?」
「よろしいですか?」

表情を見ながら、説明することがオンラインであると難しいため、言葉でこまかく確認することも必要だ。
とにかく、何かと緊張が続く毎日であるが、いつでも全力投球していれば、
そのあとのリラックスがたまらなくうれしかったりする。
一杯のコーヒーや紅茶・・・。
緊張と緩和。この連続をこなし続けるのが、仕事。
もしかしたら、人生そのものも同じか。

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「一日人生」ということにして。

人はそれぞれ、さまざまな悩みや苦しみがあって、それらと向かいながら生きている。日々、喜怒哀楽。いろんな感情を人との関わりのなかで、抱きながら、葛藤して生きている。
悩みや苦しみは、ずっと抱えていると疲弊する。
心の奥底から拭い去れないこともあるけれど、1日を終えるときに今日おこったいいこと。それを3つ挙げてみて、ああ今日という1日は良かったのだと毎日を閉じて、眠りたい。
そして、朝になったら、新しい1日という人生をはじめたい。
ずっと続くと思うとつらいこともあるときは、とくに1日1日で心の清算をしたい。
自分がしんどい以上、もっとしんどい中で生きている人もいるはずだ。
まだ1日を有意義に過ごせるだけの素材に恵まれているだけ、本当に幸せだ。
一日一日を重ねていく。そうすればきっといつか大きな山も乗り越えていたことにあとで気づけるだろう。
とにかく、人生の最小単位は1日。これを無駄にすることなかれ。
今日悔いなければ、それでよし。

さあ、今日も今日という新しい人生が始まる。

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マーケウォーキングwith スマホ

頭にあるさまざまな課題をひっさげて、町歩きをする。
企画は机の前でじっとしていても、何もうかばない。
もっとも昨今は、ネット上でリサーチできてしまうので、
以前よりはアイデアも出やすいかもしれないが、やはり
現実の売り場や建物、町、人を見ることで、その空気感も含め
新しい言葉や空気感が見えてくることもある。
たとえば、立ち並ぶビルの名前をひとつづつ見ながら歩くと
いい言葉に出会うこともあり、その言葉を今考えている仕事に
重ねてみると、ちょっといいタイトルやネーミングになったりもする。
ネット上で完結できるのが、ニューノーマルではない。
肌感覚、感性を豊かにもっていないと、表面的な冷たいアイデア
しか出てこないかもしれない。
密にならないための行動のなかで、いろんなヒントがあるものだ。
5時からの町歩きは、そんなことにも有効である。
気になった言葉をスマホのメモ帳にどんどん入れる。
浮かんだメロディはすぐ録音する。
スマホ持参で、歩きながらの仕事がはかどる。
工夫しながら、自らが動いて体感、感覚、感動を大切にしよう。
歩けること、動けることに感謝しつつ。

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朝のプチ聖地巡礼

知人に、60代でスペイン語をしっかりマスターして、夢の聖地巡礼を果たした方がいる。かの有名なサンティアゴ・デ・コンポステーラというキリスト教の三大聖地だ。フランスからも、スペインからも、と多くの出発点があるようであるが、1か月ほど歩くというから、すごい距離だ。最近、この巡礼の旅は、ひそかな人気であるようだが、私にはちょっとまだそこまでの気合いはない。
国内でも、お遍路さんは人気だ。歩きながら心を整えることができるのは素晴らしい。世の中と距離をおく時間、ひとりになるひとときは重要だ。


同じ巡礼でも、私は毎朝でもできるショートコース。
私の聖地のひとつは、小学校2年か3年のころから、毎日のように岐阜から
名鉄電車に乗り、名駅から歩いて通った、ヤマハビル界隈。納谷橋の先だ。
ここが私にとっての音楽少女としての成長をさせてくれた、聖地のひとつ。
そのビルが改装こそしているが、今も存在しており、営業を続けている。
毎朝のウォーキングの中で、このビルをひとつの目標地点として定め歩く。
できる限り、子供時代に歩いた道を、わたった橋をそのまま歩き、あのころの自分のがんばりや、さまざまなことを思い出す。
名古屋の中心地、早朝、車もほとんど通らない。ビルの前の道路を見ながら
毎日父がそこに仕事が終わって、岐阜から迎えに来てくれたことを思い出す。
ああ、ここに車を止めて、レッスンが終わるのを待ってくれたのだ。
今でいう、塾帰りのお迎えの親御さんと同じだ。
その当時の父と、今施設に入って、すっかり老いた父、母のことを思い、
胸がいっぱいになる。老いの悲しさについて、あの頃は戻らないというあたり間のことについて・・・。
複雑な介護の日々であるが、この聖地の前に来ると、「ま、やさしくしなきゃ
いけないな。」といろんな怒りや憎しみが、束の間、溶けてくる。
だから、私にとってこのビルは聖地であり、そこを目指す途中は巡礼というわけだ。確かにこのところ、毎朝のウォーキング時もずっと親のことが頭にあり、この巡礼のひとときは自分との対話でもあるのだ。
朝活は、さまざまな目的、意味合いがあるが、私にとっては、ときに聖地巡礼になることもある。

人との向かい方、自分のゆく道について考える。聖地巡礼はそれぞれの人生で自由に設定できる自分だけの心旅である。

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