東京からあえて地方へ・・

地方でセミナーをやる。もちろん地元の企業、人のための企画であるが、その事業所が新潟にあり、でもスタッフは東京・・というケースでも受講いただける内容の企画もあり、最近では東京で活躍される方が、わざわざ新潟まで通ってこられることもある。
「東京ではいっぱいセミナーあるでしょうに。」「こんな立派な会社にいらっしゃったんでしたら、わざわざ私のセミナーなんぞ・・・」と
声をかけてみると、意外な答え。
東京には人も会社もセミナーもいっぱいある。でも、地方に来て学ぶことが新鮮で多くのことを気づくきっかけにもなるという。
確かに東京には情報もモノもいっぱいあるが、量の問題ではなく、質にこだわって仕事をしたいから、地方に行くことを楽しみながらやっているとのこと。この感覚、とてもよくわかる。
ノウハウだけ、知識だけ、先述重視の学びの場は、確かに東京では選択肢が多く、最新のことを学びたければ東京がいいだろう。しかし、地方の豊かな資源、あったかい人、本来の仕事の意味などを理解しながら、学ぶと新たないい知恵が浮かぶのだという。
そうそう、私も結局、その地方に魅力を感じ、気が付けば10年以上通っている。
東京で出会えない東京人と、地方で出会う。不思議な現象であるが、これからこんなことももっと増えそうな気がしている。

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誰に、どこに光をあてるのか?

いつまで経っても、おれがおれが、わたしがわたしが・・という生き方は大人げない。いい年になったら、どんどん後任に任せる、あるいは若い人にチャンスを与える、若い人が生きられるように道を開ける・・。歳を取るほど、周囲に感謝を毎日できる、謙虚に人の話が受け入れられる人になりたいと、最近思うようになった。
長寿社会になって、みんなが元気老人になると、生涯現役の意味の解釈を間違えてか、ずっと自分が主役じゃないといけない・・・なんて思う人もいるようで・・。もちろん元気は大変結構だし、人に害を与えるわけでもないのであれば、ま、いいか。とも思う反面、自分は世間の黒子となって周囲を盛り上げる役に回るのが良しとされている人や、またはいつまでも謙虚で素直で勉強熱心な方にも出会い、ああいいな、と自然に頭が下がる。
ある程度の年になり、隠居するというのがあたりまえだったあの時代・・それはある意味、正しく、美しかったのかもしれない。いつまでも人は元気に生きる必要は本当はないのかもしれない。
今、人口減少を嘆く人や自治体も多いけれど、自然がいい。数字って上がればいいというものではなく、自然に上昇、下降するのが理に適っていると思う。
生涯の仕事に命を奉げる・・とても美しい。でも、自分が目立つためではなく、世のなかのために仕事をがんばるのがいい。
スポットライトの前に立つ時代から、それを照らす側に。これがいい年の重ね方のような。そう、やっぱり仕事も人生もリレー、リレーションシップの連続だ。そんなことができる人が真のリーダーではないかしらん。

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書けることに改めて感謝する。

4年前の元旦からはじめて本エッセイブログ。より良く生きるために、生きたいために・・。そして、もしかしたらよりよく往きたいために。。かもしれないが、とにかく無休で書き始めた。意地なのか性格なのか、ともかく決めたことを怠慢にてやめることはしたくない。
やめるときは、きっちりやめる。ということが、より良く生きるためのわがルールのひとつだ。
ネタがよくありますね。とかいろいろ言われたりするが、人間その気になれば何でも浮かぶものだと思う。
しかし、改めて考えてみると、誰かに強制されたり、指示されるのではなく自発的に継続するには、意志がしっかりしていないと続かない。意志をもてるということは、気力が満ちるということ、すなわち心身ともに元気・健康でなければできないのだ。
ふと思った。もしパソコンが壊れたら、ネットワークがつぶれたら、このような形態で更新し、どこからでも簡単に見て、読んでいただくことはできない。そして自分の目が見えなかったり、手が不自由であっても、入力ができない・・。
ということは、すでに1500本ほど書きつづけているけれど、そんなに多い回数の健康という奇跡のなかで、この小さな仕事が成立しているのだ。ありがたい限りだ。
もし、突然かけない日が来るのかな・・と時々思う。
いつか来るだろう。だから、書ける今こそ、少しはまともなことを残しておかねばと思ったりもする。
考えることができる、思うことができる、形にできる、届けることができる。コミュニケーションの基本の基本ではあるが、本当にありがたいことである。

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「愛の元気人」4月オンエアは本日25日18時~

おかげさまで6年目を迎えたハッピーコミュニケーションプログラム「愛の元気人」の4月放送は本日4月25日(土)18時~です。
新潟市外 世界中の皆様に、ネットでもお楽しみいただけます。FM KENTOのスマホ専用アプリでもどうぞお試しください。
www.fmkento.com
写真は今回の「にいがた元気人」のゲスト みこしの西山夫妻 と 刷り物製作所の中野さんです。
元気いっぱいのハッピートークやプチプチ体験談・コミュニケーションなんでも相談室などなど。どうぞお楽しみください。mikoshi1suriya1

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理想に生きる、変わり者たち。

アーチスト仲間との会食、会話はなんとも心地よい。大空も飛べるかな・・・ぐらいな気持ちにもなれる。
時々、演奏協力いただいている青年和楽器プレイヤーとの会食。四月も後半なのに、新年会。
「今年もどうぞよろしくお願いします」と季節はずれの挨拶に笑う。
それから互いの活動の近況について、生き方について、社会との関係について、ビジネスについて
まあ、話題は尽きない。おそらく10年近いおつきあいになっているだろう。
お互いに仕事としての音楽との向き合い方、音楽を仕事とする生き方がどんどん進化してきたような
気もする。
いつも互いに次のステップに向けての理想、自分たちがなすべきことについて確認しあう。
お客様が喜んでくれること、人が育つこと、自分の理解者が増えていくこと・・を求めて
日々あがいてもいる。
一口にアーチストといっても、世の中にはいろいろなパターンが存在する。
著名な人、無名な人。素人とプロの区別もわからない人も増えており。
真のプロとしてやっていこうと努力している地道なアーチストにとってはなかなか試練の
道でもある。
今売れたい~。だからメディアやそれ専門の会社と組んで活動をする人もいる。それは実力と別物の
こともある。
いい演奏をしても、有名になっていない人もいる。でも、地道に志をもってやっている人は続ける
ことによって、誰にも真似できない確固たる道を作ることができる。
そう、目先の儲けよりも、道を作るために生みの苦しみを実行するのがアーチストがすべきこと。
彼と話していて再確認できたことだ。
目先の数字を目指すのであればアーチストではなくビジネスマン。でも真のビジネスマンは目先
だけを追ってはいない。
アーチストは時々変わり者と言われることがある。変わり者だから夢を抱ける、それを信じて生
きていける。変わり者は面白い。面白くていいじゃない。
これからも大いなる理想をもって、変わり者として生きていこう。
そんな思いで握手を交わし、別れた。次一緒にごはんをするのは、忘年会だろうか。
自分の鏡のような存在がいることが、とても幸せだ。

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血縁でない兄弟の絆

ある男性二人。見た目そっくりである。「兄弟ですから」と言われ、そうなんだと納得。確かに苗字も同じだ。では、どこが似ているかと言われたら、「なんとなく・・・」全体的に似ているが、よく見ると、顔の各パーツは似ていない。よく実は本当の兄弟ではないとのこと。なんでも小学校三年からのおつきあい。現在66歳の同い年。そう、幼ななじみ、同級生の大親友という関係。60年の間、近くでお互いを見ているということは、夫婦よりも、親とよりも長いおつきあいということだ。
お互い違う仕事に従事されているが、その仕事に傾ける情熱こそが、まるで瓜二つと思うほどに、ともに情熱的であり、現場主義であり、行動派であり、パワフルである。
お互いの仕事をときには影となり、月となって、支えておられることがよくわかる。
お互いのためならば・・という気持ちが、言葉・行動の端々に透けて見える。
ある意味、いい夫婦のような関係でもあるのかもしれないし、それだけでなくビジネス面でも支えている・・という点では、世の中でもっとも信頼できるパートナーなのだろう。
と、そんなお二人にそれぞれお会いしていたのだが、今回、一緒にお会いする機会があり、本当に兄弟のようで、損得関係に縛られることなく、お互いの人生がよりよくなるようにお互いナビゲートしあっているようで、また刺激を互いに与え合っているようで、ああ素晴らしき関係だと心から思った次第。
なんでもお互い。99歳まで生きると固く決めておられるとのこと。100歳の一歩手前まで、現役で楽しく、生きがい求めて走り続けられるそうだ。
「姉さま」となぜか呼ばれ、「あと33年しかないので、よろしくお願いします。」
と言われてしまい、不思議な関係だなとありがたく思っている。
この兄弟を「ぶらぶらざーず」と呼んでいる。どうぞ、それぞれの生きがいを楽しくまっとういただきたい。
その応援団としてい続けるために、私は少なくとも??歳までがんばらねば?なのか?
人の縁は。血縁のみならず。いい出会いはどこにあるかわからない。まさにドラマチックな出会いはさりげなくやってくるのかも・・。

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癒しは悲しみを新たな力に変える「プル・パワー」

お父上が最近亡くなったという方に会うことになり、贈る花を選び迷う。いかにも「仏花」というのも、今の自分の気持ちが伝わりづらく、仏壇やお墓に供えるお花というよりも、大切な人を亡くし悲しみにくれる家族を勇気づけることができるお花の方がいい。そして、自分の好きな紫の花であれば自分らしく、失礼もないのでは、自分がその立場だったらもらってうれしいもの・・・そこで、みつけたのがラベンダーの鉢植え。色も形もやさしく、これなら今の自分の気持ちにもぴったりだ。「あ、私を選んで!」と、花が手を挙げているようにも見えた。
花屋さんにも花を贈る相手と主旨を伝えると、鉢植えであるラベンダーを贈るのは決して悪くないということ。そう、ラベンダーは癒しの花であるし、これはぴったりだ。
ということで、ラベンダーの鉢植えをかわいらしくラッピングしていただき、それを抱えて待ち合わせ場所へダッシュ、お会いした。
会うのを楽しみしてもらっていたこともうれしく、最初なんと声をかけたらいいかと思っていたが、その顔を見て自然にいつもどおりに言葉を交わした。
ラベンダーを選んだ意図を伝え、お母さんと彼女に元気に過ごしてと思いを伝えると、とっても喜んでくれる。「父は花が好きだったんですね~。最後は毎週花屋さんへいって違う花を買い、父に花を見せていました。花の香りを楽しんでいました。」と、喜んでいただく。花にまつわる話が出てくることで、彼女との距離が一気に縮まる。花のおかげで人は元気にもなり、癒しにもなる。
花は亡くなった人へのお供えの気持ちだけでなく、生き続ける家族へのエールとして、選び、贈るのもいいことを改めて実感する。
「早速、ラベンダーを飾りました。」という喜びのメッセージと写真が届く。一緒にお渡ししたザビエルのお菓子はおいしいもの好きだったお父さんにへと、仏壇にお供えされたとのこと。
元気になろうよ!というのはむつかしいときがある。さりげなく花のパワーから癒しを感じ、その後、気持ちが切り替わるのが良い。焦らず、自然に。そのうちに癒しの花のおかげで、悲しみを乗り越え、進み始めることになるだろう。
自然体に前向きに生きられる日はきっとくる。花を受け取った彼女は、別れ際荷物も手一杯にあるにもかかわらず、手をふり、見送ってくれた。
彼女が私にくれた、ミニブーケとミニレター。ああ、花花交換だったんだ。その愛らしい気遣いにこちらも思わずうれしくなる。
「人生って出会いと別れの繰り返し」お父上のことがなかったら、彼女にこんな風に向き合う時間はなかったかもしれない。
時間がかかるかもしれないけれど、癒しが次なる前進への新たな力になる日がきっとくる。静かに見守り、応援し続けたい。

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五体満足の感謝を伝える一曲のバラード

今週25日放送のわがラジオ番組「愛の元気人」。毎回トークのコーナーもあるが、音楽のコーナーもある。「ザ・ノスタルジック ミュージック」というコーナーではその時に聴いてみたい懐かしの曲をセレクトしている。今回、編集したもの(完パケと業界では呼ぶそうだ)の確認をして、その曲を久しぶりにフルで聴き、たまらない気持ちになった。いやー、これがラジオで流れたら、聴いた方はみんな・・・。と思ってしまった。自分が関西から東京へ移ってきたころに流行った曲である。淡い、切ない思い出も蘇るその曲自体がなんとも甘酸っぱいのであるが、それにましてこれを歌う歌手のことを思いなんともいえない気持ちに・・。
歌手という職業である人が、声を失ったら・・。生きていけるのだろうか。音楽は声、音で表現する世界である。その表現手段を失ってしまったら・・。その苦しみ、辛さと向き合って生きていこうとするそのアーチストの人生を思うと、泣けてきた。
エールを送るつもりでセレクトしたのだけれど、聴いたら悲しく、切なくなり、また以前は感じなかった感情も生まれてきた。
感謝しなくちゃいけないんだ。声が出ること、話せること、歌えること、おもいきり笑えること。
キレイだとか、美しいとかの以前に、発することができる、自由に動くことができる・・・このことを当たり前と思わず、感謝しなければ・・。あの素敵なメロディーは単なるバラードではなく、人生の悲哀と生きる勇気のエールソングにも聴こえてきた。改めてその人の人生のこれから!を応援したい。五体満足は皮肉なことに、我が身に何か起きないと実感しないものかもしれない。

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ほんのちょっとでいいから、お役に立てたら・・・

毎年開催するふるさとライブの常連さんのおひとり。86歳のおばあさま、元気印のシャキシャキ、現役で家業の事務係をこなしておられる。その方から1枚の絵手紙が届く。「ご縁で美しい櫻が咲きました。いい出会いを大切に、これからもよろしくお願いします。」という筆文字に、ピンクとゴールドの櫻の華が美しい。わざわざ私に1枚のお葉書を・・・と思うとその気持ちがうれしい。そのお礼にと、帰省したとき季節のご挨拶に寄る。「あんたのおかげで、こうやって元気にやれとるで、本当に本当にありがとうね。」人生の先輩からお礼を言われるなんて、もったいなく、恥ずかしく・・・。年上にも年下にも頭が下げられる人はホンモノだ。また、最近ではブログを読んでくださった方が、これを読んで自分も優しくなろうと思ったというメッセージをくれたり、うれしくて何度も読み、お母様にも見せてあげました・・などの感想が来たり・・。いろんなモノをシェアしたほうが良いといろんなところにおすそ分けで送ってみたり・・・。なんでこんなことを自分をしているのかな?と思うことは、最近よーくある。
何もないけれど、大きなことはできないけれど、心寄せる人たちのお役に少しでも立てたら・・と思ったら即、行動。
先生と呼ばれたり、社長社長ともてはやされたり・・・人は何かそういう呼び方をされ続けると、勘違いしてしまうことがある。周りのおかげで存在できているのに、狭い領域でしか世界をわかっていないのに、それを知らないで、自分がいかにも偉い人のような。ああ勘違い。
大きな仕事をしているとか、なんだか自分はすごいとか・・自分はできるとか・・・やたら自信をもつのもああ勘違い。大したことはしていない。大した人間ではない。だから、ほんのちょっとでいいから、誰かの役に立てるだけで十分なはず。
ほんのちょっとのことで、人間は幸せを感じることができる。実際に、そのとおりだと実感できる日々が、またうれしい。

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「理・サイクル」志向で生きる。

たとえば、商品を作るという場合、原材料を産地から工場へもってきて、商品にして、売り場に運んで、お客さんがそこに来て購入して自宅へ運ぶ。商品を売るために必要な資材や販促品もその原材料が工場に運ばれ、そこで製造され、メーカーの工場や、流通先に運ばれ、お客さんが見たり、持ち帰ったり・・。
たとえば、どこかへ出かけ、何かを購入。重いので送ってもらう、それをさらに誰かにおすそ分けとして何か所かに送る。
と、日頃、ありとあらゆるものたちが、物流のサイクルにのっかって動いているが、地球を俯瞰してみると、結局すべては、その小さな地球の中で「くるくる」と、回っている。ゴミや公害、さまざまな細菌・病原菌たちも一見、自分の目に見えないところに移動されることで安心しているけれども、俯瞰してみればどこかに移動しているだけのことであって、真の解決にいたっていないことも多い。
でも、人は目先のこと、自分のこと、自社のこと、自国のこと・・を優先にし、全体の流れを客観的に観るということはなかなかしようとしない。
とにかく、人間は生きるために、モノを作り続け、売り続け、買い続け、使い続け・・・。「消費」という言葉は20世紀を象徴する人間の行動を表しているが、消費とは一過性の行動であり、そこで満足するのではなく、結局はその前も後も全部つながっているということを理解して行動しなければならない。
消費を加速させることが豊かになることだと、勘違いし、自然をどんどん破壊し続けて、自分たちのクビをしめている。
モノが増えなければ物流業界も繁栄しなかったであろうが、結局は「こっちにあるものを、あっちに移動させているだけ」の人生だ。
入れては出し、入れては出し、右から左、左から右・・のくりかえし。
モノづくりから消費、生活・・。自然を破壊するだけのサイクルではいけない。リサイクルという考えは広がってきてはいるけれど、人はモノを作ることはやめられない。コンビニで売られる商品のプロダクトライフサイクルを考えると、いったい何のために?と思ってしまう・・・。デパ地下、エキナカだって同じこと。
なんで、そんなに作らなければならないの?そんなにお金をかけて無理に売ろうとするの?という数々の疑問・・その矛盾を抱えながら、自分も消費している・・。
そろそろ、モノありきではない、違う価値のサイクルが必要だ。
ITが進んでも、結局 売らんかな、の目的にために活用されている。
頭ではわかっているけれど、結局、いつも小さな世界でくるくる・・回っている。
俯瞰してわが日々の行動を観察するだけでも、あほだな~。と思えてくる。
本当のリサイクルって何なのか?本当のリ・サイクルは可能なのか?
モノが動くことが良し!とされている昨今、このサイクルについていろんなことを考えてしまう・・。
モノがない時代の方が、人々は心豊かな人生のサイクルを楽しんでいたのでは?
理性をもってサイクル。これもグラン・ルー的に考えていきたいが、人が生き続けようとする限り・・・難しい問題かもしれない。

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