痛みもかゆみも、生きてる証拠!

どこも痛くない、かゆくない、快眠快食・・。これは一番幸せな、健康な状態。元気とは、当たり前のものではないと最近つくづく思う。しかし、生きていればどこかが故障したり、不調になったりすることは誰にもある。虫歯でも腰痛でも、どこが痛くても集中力を維持することはむつかしく、痛みをおさえるための治療には古今東西、さまざまな方法があり、それぞれが自分の体質や経験で最適なものを選びとり、なんとか痛みから解放されようとがんばる。最近では医者だけでなく、ネットでの情報も本当に豊富で、よくこんなに今自分が困っていることについてたくさん情報があるもんだと驚きもする。(多くはその道のビジネスの宣伝であることが多いが)

痛いとか、熱が出るのはまさに体とその原因が戦っている状態だ。何かがおかしいから、痛くなったり発熱するのだ。だからその原因を見極め、それに対して処置をする。痛いのも発熱も経験しない方がいいが、万一そんなときは生きてる証拠と、前向きになりたい。

今、腱鞘炎とつきあっている。早く別れたいけれど、結構しつこい奴。この痛みをなくすには、自分のいろんな生活のパターンや癖を見直したり、そしていろんな方のありがたい知恵や情報に感謝したりと・・得ることも多いのだ。そして毎日右往左往しながら、いろいろ試しながら痛みとうまくつきあううちにきっとその痛みも消えるだろう。同じ調子でいられないという状態で人は反省したり、見直しができるのだ。完全ではない自分、永遠ではない自分を知ることは、とても大切なこと。痛みは生きていくうえでのありがたいシグナル。

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注意は楽しく、ときに持ち上げて。

年を重ねると親子の力?関係が逆転する。というのはある意味そうだと思える今日この頃。親たちは戦後の時代を十分がんばって生きてきた!あとは余生を楽しく元気に過ごしてもらえればいい。と思う。親のおかげでこの世に生まれることができたのだから、親をサポートしていくのが子の役目。

しかし、時々(常に?)言いづらいことも出てくる。その言い方は大変難しく、尊厳・プライドを損ねないようにしないといけないし・・。年々子供化していき、見かねるときもあるので、いわざるを得ない。そこで言い方をいろいろ工夫することにした。

たとえば、大変お恥ずかしいが、食事中、調子に乗ると食べ物が入った状態で話す。たぶん、食べていることを忘れてしゃべっているのかもしれない。そんなときは、「食べながらしゃべるのやめて」とストレートに。そのときは聞くがまたしばらくするとまたやるので、また言う。次に、感情が高ぶってくると、箸をもって、相手を差したりすることもある。さすがにこれは恥ずかしい。でもストレートではなかなか。そこで・・「お父さんって、指揮者やった?そんな食事中に指揮してくれんでもいいしね」と言ったら、父の手が止まり、「指揮者ってあの白髪のおじい、なんっていったっけ?」とそっちの話題にいく。自分の方がおじいのくせにと思いながら、この作戦はうまくいったと心の中で笑う。そのあと、また箸が登場したので、「お父さん、またオザワセイジになっとるよ。」というと「そうか」と言ってやめる。その反応が面白くて笑える。

さらに「車の運転だけどさ、オトウサン、めちゃくちゃ運転うまいと思うけど」と少しおだてながら話しかけると、「そうや、おれはプロ級や」と予想通りの切り返し。「でも、やっぱりもう80になるし、これまで以上に気を付けてね。なるべく歩いて、自転車で、電車で、ときにはタクシーもいいから。うまいけど、気を付けてたのむね。」というと、おとなしくうなづいて聞いている。

本当はいつまででも乗ってもらったらいいし、交通事故は誰にも起きることであるから、と思うが自分の年齢を意識してもらうために。

親にも誰にも直球で言うのではなく、おもしろおかしく、ときには持ち上げて言うという工夫もいいものだ。そう、相手が気持ちよく記憶して、行動してくれることが大切なのだ。

親との難解コミュニケーションは自分にとって楽しい勉強の場。これも定点観察で得るお宝だ。

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忘れてはいけない「○○シップ」

プロ野球の選手に続き、オリンピック出場予定のバドミントン選手が残念な結果になった。そのポジションに昇り続けることがむつかしく、万人にはできないことをやっている、いわば憧れ、尊敬されるべきスポーツマンが瞬時にして奈落の底だ。記者会見で自分が説明しないといけないということも、一般の人ではないから。そのときになって、コトの重大さ、己の至らなさを感じていることだろう。報道された会見の一部をたまたま見た。「スポーツマンだから、勝ち負けの世界だからギャンブルにも興味があった・・・」などという話が出て、この発言も残念。そりゃ勝ち負けに向かっていくのがスポーツ。でもお金が目的じゃ意味がないし、それは本来のスポーツマンの勝負観とは程遠いはず。人々がなぜスポーツ観戦をするか、その選手の競技だけでなく、そこにいたるそこに向かう努力や精神力に感動するからだ。とにかく、周囲の応援者、協力者に与えた負の影響は大きいし、本当に残念だ。

一方、オリンピック五大会連続出場を狙って奮闘した北島選手がこれで引退とのこと。最後まで頑張りぬいたが、残念な結果になった。最後の競技を彼が指導する水泳教室の子供たちが応援にきていたのが印象的で、負けたあとも称賛していて、感動した。この子供たちに北島選手は最後まで全力で戦うスポーツマンとしての最高の姿を見せた。本人のやりきった、すがすがしい表情もすばらしい。きっと子供たちは今回のことを一生忘れず、自分の成長のステップで師匠の奮闘を思い出し、自らも限界に挑戦するだろう。

スポーツマンには記録の前にスポーツマンシップが大切。ビジネスマンにはビジネスマンシップが必要で・・どんな仕事、生き方にもその根本に、「なぜ、それをするのか。」がないと、結局は軽薄な、自分本位のものに終わってしまう。

どんな仕事を、生き方をしようが今一度、哲学を持ち、自らの役割を心得、しっかり行動することが大切だ。ということをこの両極の例を見ながら改めて思う。

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定点観察を楽しみ、一緒に笑う。

気が付けば、こまめに田舎の実家には寄るようにしている。仕事やいろんな用事も兼ねて、寄るようにする。そう、ここ数年は1か月か1か月半に一度は両親と接しているだろう。おかげさまで、元気すぎるぐらい元気で・・でも、年齢的に車の運転もちょっと心配になり、頭の方も大丈夫かとついつい気にする。会ってみればすこぶる元気でノープログレム。離れて住んでいるから余計に気になるのだと人からは言われる。しかし、毎日一緒だと、もしかしたら変化に気付かないかもしれず、たまに会うことで小さな変化も見つけることもあるのかもしれないから・・・。いずれにせよ、老いる親の状況を見守り、応援することは子供の当然の役割となる。思い起こせば、昨年まではもめごとの種もあり、常に口論も絶えなかったが、ここんところ、それらも解決してか、親子の関係も良好だ。

帰省しての楽しみのひとつは「荷造り」だ。田舎から東京へ野菜やいろいろなものを箱詰めして、東京のわが家に送るため宅配便に出そうとする。箱詰めは得意だ。どんどん入れる野菜などをもってくるのは母、「まだ入る、まだいける」と、調子にのって箱に入れるのは私、そして最後の荷造りは父という分担。そしてその箱詰めされた段ボールを車まで運ぶときは父はすでにそこにいないため、母と私で大きな箱を運ぶはめになる。しかし、今、腱鞘炎である自分の腕は重いものを持てない。力が入らずすぐ落としそうになる。すると77歳の母がどこからそんな力が沸くのかと思うほどに、その箱をひとりで運ぼうとする。私も持とうとするが力が入らず段ボールを地面に落としそうになる。しかも雨が降り始め、地面に落とすわけにはいかない。というパニック状態なのに、こんな重い箱を持とうとしても力が入らない間抜けな娘である自分と、かぼそいくせにその箱を持ち上げる老婆の母の光景がおかしくて、なんだか笑えてきた。するともっと力が入らない。母もつられて笑う。「なんや、箱落ちてしまうやんか~。しっかり持て~」と言いながらも笑い続ける。無事にその箱は、翌日東京に届く。その重い箱をひとりで開封しながら、昨日の笑えた場面を思い出す。そして、ひとりでまた笑う。おかんはすごいな~。あんなところで力が出るんだな~。でもその必死さがおかしかったな~。と

こんな小さな出来事が、人生にとっては大切な思い出になるのだろう。親の定点観測は、定期的に顔を見て、何かを一緒にすること。健康状態を見ることはもちろんであるが、それ以上にいい思い出をたくさん作る。。。そんなことが、できる限り、長くできるといい。

それにしても、重すぎて笑うしかなかった段ボールには感謝の野菜がてんこもりだ。この重さは愛の重さに匹敵している。

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OH! MY GOD!なKYOTO(恐都)

京都へはだんだん、足が遠のいている。30年前に初めて一人暮らしをしたときに、憧れを抱いていた京都。ずっと好きな街であったし、若き日の出会いも別れもすべて宝物。そしてなんといっても一人で歩き、自転車で走り回ること自体が楽しく、路地や商店街も含め、日常と非日常、古と今が混在している京都の普通の風景がいつも新鮮で、たかが通勤であっても、通学であっても毎日「あ、京都だなー」とそこにいるだけで幸せを感じていた時間が懐かしい。

今は外国人の数が多すぎて、町がごった返している。とくに玄関口である京都駅はおぞましい状況だ、大きなカバンを背負い、ひっぱり歩き、突然立ち留まり、スマホを見たり、地図を広げ、ときに食べ歩きをされ、話をしながら行く先を調べている、ツーリストたち・・。駅ビルのドーナツ売り場で母国にはない日本のドーナツを見て、とてもうれしそうに買い求めている欧米人の列も印象的。ただいま、インバウンドを推奨しているわが国であるが、こんな混雑ぶり、誰がうれしいのだと思ってしまう。これ以上来たらどうなるのか?恐ろしい。必要最低限、会うべき人と駅近くのひそかなミーティングスポッで会い、用事だけ済ませて、次へ移動したくなってしまう。今回もそうだ。駅だけで済ます。

昔から知っている人ほど、かつての京都が好きだった人ほど、今の京都の大混雑ぶりは歓迎できないだろう。

どの売り場へ行っても混雑、混雑。きっとお土産天国のKYOTOは何かと珍しく、面白いのだと思う。東京よりも、観るべき場所がコンパクトに詰まっているため、寄りやすく、廻りやすく、外から見た日本の文化、歴史スポットがいっぱい、クールジャパンの発信地?そして昔からおもてなし上手という点では外国人観光客には最適な訪問地であるとは思うが、

大切なお客を、応援団を失くし、ともすれば町全体が品のない、新京極の超拡大版のように変質していく・・・。それでいいのか?わが第三のふるさとは・・・。

住民の方の戸惑いを痛感する。OH!MY GODと思わずにいられない、KYOTO。生きているうちに静かに訪れたい・・・はもう無理かも?大変危険なインバウンド政策だ。

平安建都1200年のタイミングで、作った1冊の本のタイトルを思い出す。それは「京都の肖像」。そうこの町の肖像はこれから一体?とても心配。

また行きたい街、もう行きたくない街。街の質の変貌が客層を変え、客層の変化がまた質を変える。

ああ、オリンピックが近づくのが怖くなってきた・・。

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作家の意思に反して・・・の1冊

かつて相互マネージャーと呼び合い、長らく大変お世話になった作家。もう亡くなって5年になる。その方は生前、古本の安価買い取りや再販を行う小売業のことを大変怒っておられた。古本屋で買う、図書館で借りる・・・は作家にとってはありがたいことではないし、せっかく手に入れた本を古本屋に売るなんてもってのほか。とにかく作家という職業の尊厳を自らが守らねばと戦っておられたことが、今も印象に残っている。そう、作家は最初に原稿料をいただく以外は、印税で食べていくならば、本が売れてなんぼの世界なのだ。

最近、その方の著作でどうしても手に入れたいものが出てきた。もうその本を作った出版社自体もないため、普通に書店やネットで新本を購入することができない。かなり悩んだが、まさしくその古本買い入れ・再販をしている会社のサイトを検索すると、その探していた本が1冊みつかった。どうしても必要だから少し意に反するが、他に方法もないため、購入してみた。

本当は新本を買いたかったのであるが、今回ばっかりはやむを得ない。(●●さん許してください。)という気持ちだ。多くの単行本がそうであるように、その本も100円になっていた。送料と代引き代を入れても、もともとの定価の半値。しかもほとんどが本の中身の値段でないところも複雑だ。こんな金額で買って申し訳ない・・。

さて、その本が届いた。懐かしいと思い、でも古本であるから少しきれいに吹いて汚れをとり、背筋を伸ばして本を開く。すると、カバーを開いたところに作家本人のサインと篆刻が押してある。

ああ、この本は作家がわざわざ誰かに謹呈されたもの・・・なのに・・・・・。もし、生きておられたらどんな気持ちになられたか・・。と悲しいような複雑な気持ちになった。その一方、でも私のところに来ましたから。と手を合わせる。

手に入れたくないルートでの入手による1冊の本。それは20年近く前、一緒に企画し、その方が書いてくれた小説。小説の中身以上に、作家の仕事にかける思いや考えを改めて見つめなおした。

1冊の本との出会いは作家との再会のような・・。彼のような強い意志を貫く生き方、やっぱりがんばろう。と思う。そう、人生はずっと営業だと教えてくれた方。古本屋からの1冊でまた教えがよみがえった。この本はもちろん、ずっと手元に置いておくことにしよう。

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人の痛みがホントにわかるのは、自分も痛い時。

50余年も走り続けていれば、いつも移動生活をしていれば、重い荷物を持ち続けていれば、パソコンのキーボード打ち続けていれば、スマホや携帯ばかり見ていれば・・・そりゃ、何もしない暮らしに比すれば使った分だけ体が痛んでくる。すり減るというか、摩耗するというか、機械でも長年使えば痛んでくる。それと同じこと。むしろ50年生きるということはこういうことか。と、命あるものの自然現象にも納得がいく今日このごろ。途中で生きることをやめることもできないから、ずっと生きなければならないから、適度に休みながらということも大切だということもわかってきたお年頃。

とくに最近、腱鞘炎なるやっかいなものに久しぶりになった模様。医師はとにかく安静とおっしゃるが、手首、利き腕をつかわないで生活はできないから、ついつい・・・動かして、また「いたたっ」という目に遭う。

痛くて目が覚める。サポーターをしようが、薬を飲もうが、湿布をしようが、痛い時は痛い。

ふと、現在がん治療をされている知り合いや何か月も足を患っている仲間のことが浮かぶ。抗がん剤治療はかなり苦しいとのこと。足が痛くて歩けないとのこと。そう、それらの痛みに比べれば私の痛みなんて!まったく大したことはない。でも痛いものは痛い。痛くない状態、健康体というのは当たり前のようでそうではないということを痛感する。痛みというのは、体のサイン。身体が何かと闘っている状態だ。こういうときに病で戦っておられる方のつらさを思い、戦い続けておられて本当に偉いなと頭が下がり、ついついお見舞いメールをする。すると「あなたこそ、お大事に」と逆にお見舞いされてしまう。いや、腱鞘炎ごときですみませんという感じだ。

自分も少しは痛い目にあうと、痛みに苦しむ人の気持ちも少しわかってくる。

できる限り、自己治癒力で、自分の力で改善できるように鍛えなければと思うこの頃の私。本当は痛くても笑っていられるぐらいの人になりたい。うーん、芸人さんはやっぱりすごい。でも、やっぱり痛いよりは痛くない方がもちろんいいから、芸を磨く前に、まずは自分のケアから。

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「悔しい」はビッグチャンス

アスリートたちの競技後のインタビュー。惜しくもいい結果を出せなかったときに「・・・悔しいです。」という言葉を聞く。その一言がやけに印象に残る。表情も複雑だ。現実社会では、なかなか人前で自分がやった仕事や活動について、「悔しい」と言い切れることはない。一生懸命やっていなければこの言葉は出ないし、また悔しいと思っても、なかなか口には出せないのでは?見方を変えれば、悔しいと思えるほど、真剣勝負をしているか?ということだ。

悔しいという気持ちは、後悔とはちょっと違うと解釈する。悔しさは次へのばねになる。次の挑戦への糧になる。こんな中途半端で終わってなるものか~。よし、次は絶対がんばるぞ!と、選手らはこの悔しいといったそばから、次へのチャレンジを始めているのだと思う。だから、この「悔しい」気持ちには、なぜかポジティブさを感じるのだ。

わが人生も後悔したくない。と思う。そして、今時々、いろんな場面で「悔しい」と思うこともある。であれば、やれよ!ということだ。悔しい気持ちを持てなくなったら、おしまいだ。

若いアスリートたちの自分との闘いに感動するのは、その浮き沈みをすべて見せてくれるからだと思う。今こそ、悔しさをバネに!自分もまだちょっとは若いつもり?で?いる。

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私の空を探し求める。

櫻が咲いた。わが家の前にある桜の木(もちろん人様の敷地)も咲いた。一分咲き、三分咲き、そして五分、六分・・。出張から帰ったら満開になっていた。それなのに、なぜか感動が薄い。見事に咲いているのに「わあ!」という気持ちにならない。「なんか、桜、きれいじゃないよね。なんでやろ。去年もそうだったかな。空気が汚いのかな」「曇りだからじゃない?ピンクがもっと濃い桜なら、もっときれいに見えるんだろうけれど・・」そうだ。桜がきれいに見えるのは、晴れた日、明るく青い空の日。きれいな水色に薄桃の桜の花色が映える。グレーの空だと薄汚い、ダークな桜になってしまう。

これは、まさしくカラーハーモニーの世界だ。自然界の色まで人間が変えることができないが、桜だけ咲いてもきれいにはならず、それを華やかに見せてくれる「空」の存在がいかに大きいのか。曇り空では花見もサエない。晴れているからこそ、人はうきうき、花見を楽しめるのだろうか。今にも雨が落ちてきそうな空では、このまま散ってしまうのではという心配だけが募ってしまう。

どんな存在も、それ自体を美しく見せてくれる背景があってこそ、美しく見えるのだ。では、私の空とは??早く晴れるといいのだがと思いながら、空の存在の偉大さ、影響力を改めて思う春本番。結局一度もいい空が現れないうちに、雨で散ってしまったのが残念。

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買収劇で、ブランドについて考える

人ひとりひとりも意識すれば、立派なブランドであるが、世の中では商品やサービス、組織のブランドについて興味が高いようだ。有名ブランドへのあこがれは、とくにアジア人はお好きなようで・・。でも、そのブランドはなぜ好きなの?と聞かれたら、みんな持っているからという答えが想像できる。ルイ・ヴィトンの歴史を理解して、あの商品を愛用したり、ココ・シャネルの生き方に共感してあの洋服やアクセサリーを身に着けている人・・・こそが、本来の愛好家だとは思うが最近は、有名、お金持ちの象徴・・という程度での価値観であろうか。

サービス業にもブランドがある。長年利用してきたホテルチェーンがある。海外出張で出会ってからの長いおつきあい。その間にはさまざまな出会いがあり、そこのスタッフや幹部たちにもお会いし、そして友達にまで発展した人もあり・・。お金も使ったけれど、それ以上にいろいろ勉強させていただき、ホテル業界のしくみや、顧客の囲い込みについても楽しみながら学ばせてもらった。もちろんそれが全てということではなく、それをきっかけにさまざまなライバルにも興味がわき、自分の世界観に少なからず影響を受けた。今も目を閉じれば、いろんな肌の、いろんな言葉の、いろんな民族のスタッフたちの笑顔やハグを思い出す。そのチェーンが買収されるという話になった。最初はアメリカの同業者。それはそれでとても残念で、早速なじみのスタッフに各ホテルのブランドはどうなるのか?と問い合わせをしたが、当然そんな詳細までまだ決まっているはずもなく、スタッフも知らないはず。そうこうしていると、今度はそのチェーンを中国の保険会社が買収するかも?という報道。冗談じゃない!と思わず思ってしまった。なぜかそうなっては、私が15年以上愛用してきたブランドとは別物になるような気がしたのだ。そして、結果、そのチャイナの資本は買収から撤退との報道。ああ、よかった。心から思ってしまった。もともとこのホテルチェーンで知り合い、今も親交を続ける仲間に今回の話をすると「もし、ここが中国資本になったら、あのチェーンはおしまいですね。アンチチャイナのお客は瞬く間に利用しなくなるでしょうからね。」と意見をくれたが、なぜかそうだと強く思った次第。ある商品やサービスを好きである。ということは、たんに名前であったり、見た目の豪華さや機能性であるだけではない。それを誰が作り、誰が育てて、そして誰が愛してきたか・・その精神性や歴史までも含めて、そのブランドが好きでそこにお金や時間を費やしてきているのだ。ブランドとはハードや価格だけではなくソフト。人。日ごろお世話になっている企業の社長はいつも企業にも人格がある。と言われるが、まさにその通りで、誰が何をしている・・そこが好きかどうかの分かれ目になるのだ。チャイナがどうこうということを言いたかったのではなく、ブランドについて言いたくて書いた。中国人が生み、育ててきた分野や他国や異人と協力して培ってきたものは別である。もちろん買収してから、ブランドを育て直す、作り直すということもあるかもしれないが、もうすでに醸成され、一定の評価を得ているものがガラリと変わるのはむつかしく、また精神性での共有、共感がないといい影響、効果を出すのはむつかしいと思うのだ。

ブランド。ひとりひとり。ひとつひとつ。それは唯一無二であり、もともとはお金儲けのツールではない。結果として認められてきた、他者と差別化するための「刻印」なのだ。

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