最近は、終活にデジタルツール、データの処理も重要な
課題のひとつ。
生きた証でもあるさまざまなコミュニケーションの履歴を
命が終わったあとどうするか。
それも含め、整理しておかないといけない。
親たちが使っていた携帯は確かに亡くなったあと
契約は解除した。電話機はそのまま残してある。
やりとりの終わった携帯は、何の役割もないが、
今だに自分の携帯に親たちからのメールは残してある。
それ以外にも大切な人とのやりとりは、消去せず
そのままにしてある。
見ると懐かしいよりも、悲しくなるためそのままに
してあるが、記録が残っていることでその人の存在が
生きていた、お世話になった、楽しかった・・・と
在りし日の姿が浮かびくる。
3か月前に旅立たれた知人の携帯からメッセージが
入る。その方のご家族からである。
ご本人の生前のさまざまな記録(おそらくメールも含め)を
確認され、ご挨拶メールをいただいた次第。
メールのやりとりを見れば、どんな関係であったかが
すぐわかる。生前は知らなかったことが、あとでわかる
こともあり、ご家族にしてみれば新たな発見や違う家族の
一面も知ることになるかもしれない。
いただいたメールには、長年の交流へのお礼などが書かれて
おり、その文面の中からそのご家族のお父様への思いが
伝わってきた。交流されてきた人たちに、このように
家族からメッセージを送っておられるのだ。ちゃんとした
家族だな‥と感心。
「パソコンのメールは先日解約しました。
秋にはこの携帯を解約しようと思います・・・」
と、その連絡も含まれていた。
そうか。携帯が解約されると、その人との関係が終了する。
自分の携帯にはその履歴は残るけれども、相手との
交信はもうない。
あの日々が戻ってくることはないのだ。
いかに日常生活のなかで、携帯がひとりひとりをつなぐ
貴重なコミュニケーションツールであるか。
携帯があることで便利につながることができる。
でも、いのちが終われば、その交流もおしまい。
当たり前のことであるのに、とても寂しいこと。
返事がこないメール。
だんだん増えてくる。
新たな出会いが生まれ、
終わっていく関係。
それを繰り返し、今は生きる。
大切な人から受け取ったメッセージは大切にしよう。
改めて、そんなことを思う。
携帯でのつながり。
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