ファクトチェックが必要となる世界も悲しいが、それをも必要と
しなくなる世界は嘆かわしい。
もともと、発信される公的な情報はプロが責任をもって取材をし
プロとしてのチェックを受けて、発信、配信されていた。
そこに書いてあるから、大丈夫。という時代が懐かしい。
もともと知識層のためのメディアであった新聞はとくにそうで、
新聞記者といえば、揺るぎのない正確な情報を提供してくれる
プロフェッショナル。メディアを通じて、社会に正しい、役に立つ
情報を。すべては公共のために。尊敬すべき職業であると思って
きた。
一部の権力者のためではない。公共のために存在する。
しかし、このところ、SNSの普及もあり、政治世界でこのツールを
乱用され、情報は操作されているのが前提と、疑いの目を
持たざるを得ない世の中になっている。
選挙もSNSの力で決まってしまう。
このことに疑問をもたない人々も増えているとすれば、
本当に危機的な状態であると考える。
毎日ネット検索をするたびに、さまざまな情報がごっちゃに
なっており、考えてみていかねば、誘導されていくことに
気づく。
面白そう、とっつきやすそう、ワンフレーズでわかりやすい・・・。
こんな情報が飛び交い、人々はそこに乗っかる。
それは本当か?
AIは便利であるけれども、真偽に関係ない膨大な情報から答えを
導くため、これ自体もファクトかどうかは??である。
こんなに真偽混在の世の中で、何を頼りに生きていくのか。
これまでジャーナリズムの勉強を続けてきてよかったと
思うのは、その答えは受け手側(自分)にあるということを
再認識できたこと。
どんなに派手で、反復されるそれらしき情報であっても、
まずは疑ってみている。
そして、その元をたどる。その情報は何を根拠に?
そういった意識をもち、受けとめ、その処理を適切にすること。
これが、情報まみれの社会では重要だ。
正しく受けとめ、そして判断し、行動すること。
受け手が主役でなければならない。
いいね、いいね。数で安心するのではなく、
少数派であっても、真理を求める情報こそが
自分の役にも立つはずだ。
アメリカ社会ではファクトチェックが効かない流れに
なりそうだ。
国がどんなもの必要ないと。
そして、伝統ある信頼のメディアも活動停止されるかも
しれない?
間違った情報、操作されている情報を見極められる人で
ありたい。そのためには、やはりどうあるべきか?
を考え続けることだと思う。
伝えることは責任がある。
コミュニケーションは、本当にむつかしい永遠の
テーマである。
コミュニケーションクリエイターなんて言っているのが
恥ずかしいぐらい、自分の非力を思う日々である。
受容力、判断力をしっかりと。
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