無への想像はできるか?

ここのところ、少しづつ終活に取り掛かり始めている。
もちろん、日々、公私ともにめいっぱい、
全力でやり続けている。この生き方は変わらない。
だからこそ、今のうちに、元気なうちに。

そうではなくなったときの自分を想定して、周囲に
迷惑をかけないように・・・と考えるようになただけ
のこと。

病気になってだんだん体力がなくなり・・・
あるいは、認知症になり、自分が自分でコントロール
できなくなる・・・
動くことができない、そのうち呼吸が止まって・・・。
いろんな人に出会い、いろんな交流をするなか、
自然と、自分の行く末のことも考えるようになる。

人生が終わるということは、誰にでも訪れる
平等の決まりであるのに、自分の死にはまったく実感が
湧かない。当たり前のことではあるが。
いろいろ想定して、整理をしていくけれども、
ここにいない自分というものが、どうも想像できない。

今こうして元気でやっている自分がちょっと体調を
崩すぐらいは、まだイメージできるが、
ここにいない自分。が考えられない。
まっくらな世界なのだろうか?いや、その世界自体が
ないのかもしれないことに想像が追い付かない。

そんなこともあり、終活をするのはなんとなく違和感。
本当はしたくない。
でも・・・いつどうなるかわからないから・・。

存在する自分。存在しない自分。
いよいよ、わが人生も哲学的になってきた。
無である自分。
まだまだ想像できないでいる。
それでよい。
あまり考えずに、進んでいく方がいい。

今ある自分に、とことん打ち込みたい。
さあ、今日という1日を存分に生きるとしよう!

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