カオスの国と言われ・・

なぜ、こんなことになっているのだろう?
まったく別の星で、平和という名のもとに、危険なイベントが無理やり
開催されようとしているかのように思えてならない、実感の湧かない東京オリンピック。
この危険な状態でやるべきか、やらないべきか。の議論もなく、ただ、首謀者たちが決めていたスケジュールに向かってカウントダウンしているだけだ。

今、海外のマスコミ関係者がそれぞれに、日本に到着してからの滞在の状況をサポートしている。不思議なことが無数にあるようで、また窮屈極まりない環境のなかで取材を続けている。そして毎日、関係者内でも、感染者が増えている。
選手たちは、競技は、メダルは一体どうなるのか?メダルの価値は?
急に出場できなくなる選手が増えることで、どんなオペレーションの弊害があるかなど、十分に検討されてきているだろうか?バブルはすでに破れ、なんでもアフリカのとある選手は脱出した?その人は、何のために日本に来たのだろう。
開会式の音楽も急きょとりやめ。華々しいはずだった開会式がどうなってしまう?
とにかく、場当たりの連続でここまでやってきた結果。さらに、これからどんな恥をかくことにつながるのだろう・・・。
周囲の人が言う。「しらけているよね~」この世界的なイベントに対しての印象だ。まったくそのとおり。

海外のメディアの人たちは、今、日本のことをカオスの国と呼んでいる。
まさに、こういう状態を、そう呼ぶのだと、納得、嬉しくないが共感する。
この、カオスの次は何がくるんだ・・・。崩壊か?転落か?大混乱か?
とてもじゃないが、そんななかで、無心になって応援はする気はおきない。
それ以前の状態だ。
別の星の、狂気の沙汰イベント。
コマーシャルを放映しないと決めた、企業は良識ある。それがいい。
理解されないイベントに、参加することで自らのイメージダウンになる。
当然だ。

理解されないことをやる虚しさ。
何がうれしくて、そんな行動をするのだろう。

乗り越えるという意味がまったく違う解釈となり、準備が進む。
冷静にこの事態を見守り、世界の中の日本の置かれた状況をみつめ、
自分がすべきことについて、ブレずに考えたい。

無理やりの、力づくのカウントダウン。
心から拍手・・とならないところが複雑だ。
どうにか、プラス発想で、マクロ視点でこの現象をとらえ、
プラスに活かしていきたい。
学べることは無数にあるはず。

カオスの次に来るもの、来るべきもの・・について考えよう。

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リアルに生きたい。行きたい。

コロナのおかげで、海外渡航が難しくなったこの一年半。
初めてNYに行った25歳のときの興奮、パリの裏路地を歩きながら、
シャンソンを口ずさみ、大観覧車を見て、人生のコンセプトについて考えた日々。ああ、地球の反対側に来てしまったと思いながら、バンドネオンの音色に感動し、同じピアニストを目指すなら、タンゴのピアニストがいいのではと思ったブエノスアイレスでの日々・・・。一方、台湾や香港といったアジアの町の活気も蘇り、すぐ近くなのに、仲間に会いに行けなない。元気にしているだろうか?と思いが募る日々・・・。
自分の人生の半分は、外での刺激があって成り立っていたところもある。
仕入れといえば、「外」との接点と交流。そこから、新しい発想を得て、行動に活かしてきた。自分と異なる背景をもつ人々との出会いこそが、世界で生きることだと実感してきたが、そんなわくわくは、すでに昔のことになりつつある・・。
動くことができない今、写真、映画、音楽などを通じて、あのときの感動を
忘れないように努力している。
まもなく9月11日が来れば、あの日から20年。
何もなければ、すっとNYに出向いているのに、このままでは、今年もNYには
行けないままだ・・。

毎日一生懸命生きて、すべきことをするけれど、しているつもりではあるけれど、いつ死んでも悔いはないと思ってはいるけれど、

やはり、やはりNYにも、パリにも、ボンにも、ブエノスアイレスにも、リスボンにももう一度行きたいし、
まだ訪ねていないザビエル、ショパンのふるさとに足を踏み入れたい。
このままでは、死にたくない。
ここだけは明白だ。

私に感動を与えてくれている人達とのつながりを、直に感じたいのだ。

オンラインのなかで暮らしていると、よりリアルな世界に身を置きたくなる。
自らの五感で感じ取りたい。
そのために、ワクチンはやむなしか・・。

今は、さまざまな過去の映画やドキュメンタリーのなかで、自分の想像をかきたてている。こういった素材が豊富にあることには、心から感謝である。

でも、
リアルがいいに決まっている。
リアルに生きたい、リアルに行きたい。
リアルに触れたい。リアルな感動を得たい。
今、我慢を重ねてきた
世界の人たちがうずうずしている。

とすると、無観客のオリンピックって???

1日も早く、愛しい町に足を再び、踏み入れたい。
そのときの感動を想像しながら、その日を楽しみに
今日を大切に生きよう。



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タフな黒子が企業を支える。

企業の社長さんとのやりとりが多いため、社長秘書、社長室、総務の方とのやりとりも多い。
とくに中小企業の場合は、総務がかなりの業務範囲を賄っており、企業を支えていると感じることが多い。もちろん営業、製造といった直接の利益を生み出す部門で働く人も大変重要であるが、経営の意向を踏まえ、そして従業員全員のことを考え、組織自体を安定したものとして機能させる総務の働きは、重要である。

私自身が、会社員であったときも、当時の総務部長に面接から退職まで、いかにお世話になったかと今、改めて思い出すと、感謝の念がわいてくる。
直属の上司だけではなく、入社してやめるまで、本当によくしていただいた。

また、違う例であるが、
もともと宣伝や社長秘書といった仕事をされていた方が、総務部長になられたことがあり、自らの経験を活かし、社内のさまざまな業務改革に奔走されていた。
「攻める総務」こそが、企業の存続には不可欠だとの意識をもたれていたことを今もくっきりと覚えている。

そう、総務は待ちの仕事ではなく、自らどんどん社内に入っていき、職場がいきいきするものになるように、働きかけていかねばならない。
地味な仕事にも見えるが、社員も社長も総務なしでは、立ち行かない。

タフな黒子が会社を支える。数字をつくる人ももちろん重要であるが、
リモート含め、環境が変化し続ける現在、総務の役割が、実は改めて重要である。
経営感覚、バランス感覚がこの仕事には求められる。
今、私の周囲には、頼もしい総務マンが増えてきている。

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ハイブリッドキドキ

コロナは多くのことを私たちに教え、与えてくれている。
こんな状況においても、それでもコロナに打ち勝つとか
できそうにないことをお題目に強行突破しようとしている
世界イベントが間近に、迫っているが、コロナはそんなに甘くない。

きっとまた愚かな人間に、多くの教訓を与えてくれることになって
しまうだろう。
欲まみれの人間と、コロナの戦い。
嘆かわしく、情けなく、そして心配は尽きない夏。

そのコロナのおかげで、仕事のやり方も変わってくる。
オンラインでのコミュニケーションが増えて、同じ場所にいなくても
あたかもそばにいるかのように交流できるようになったことは、
間違いなくコロナのおかげだ。
いつでも、どこででも、会いたい人と連絡ができる。
一応顔を見ながら
リアルタイムでコミュニケーションできる。
仕事もできる。
本当に便利な時代。と思う。

でも、まったくのデジタルだけでは、物事は完結しないことも
わかってきた。
複数でのリアルなコミュニケーションも必要だ。
たとえば、グループワークなど。
そんな場合、
全員がオンラインで参加ということもあるが、
一部オンラインで、そこにリアルな人のコミュニケーションも絡む
というケースもある。
とくに勉強会とか、研修などにおいては、パソコンの環境やプログラムによって
ハイブリッドコミュニケーションのスタイルとなることも多い。
デジタルとアナログの関係が同時に眼前に現れる。同時に処理することが
求められる。
これは、なかなか緊張を伴うひとときだ。

オンライン同士であれば、コミュニケーションの質が同じであるが、
オンラインとリアルが同時に展開されるのは、リアル側のその空気感やその様子をどのように、オンラインで参加している相手に伝えることができるか。
どこまで臨場感をつくれるか・・・はまだまだ課題だ。
今回は、リアルな現場の様子を伝えるために、オンラインで参加する側に、
チャットを使って、その状況を細かく、そこにいない相手に現場の様子を伝え続けたが、この役割が実は大事であることを、やりながら知った。
リアルな現場の様子が見えない人に、どのようにそのリアル感を伝えるかは知恵の見せどころかもしれない。

などなど、今、様々な経験の真っ最中だ。

それをしながら、思っているのは、やっぱりリアルなコミュニケーションが良いということだ。
人間は、オンラインだけでは、オンライン中心では生きてはいけない。
今は、やはりやむなき事情で、そうしているだけだ。
リアルに感じることが一番である。
と、ハイブリッドを経験するとより一層、強く思えてくる。

とにかく、ハイブリッドコミュニケーションは、ドキドキしまくり。
はあ、今回もなんとか終わった・・・。


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スマイル フィニッシュ

毎日、いろんなことが起きる。
思わず、眉間に縦皺が入るようなことも多い。
疑問が次々湧いて、どうしようもないこともある。

でも、1日の終わりは、笑って済ませたい。
自分を認め、褒めて、幸せな顔で終わりたい。と思う。

そのためには、一日と真剣に向かい合い、全力で駆け抜ける。
そして、1日を振り返り、自分に「お疲れさん」と声をかけ、肩の力を抜く。
そのときは、自分に向けた心のスマイル。

どんな1日であっても、締めくくりは笑顔で。
そして、いい顔で眠る。

スマイル フィニッシュ。
そして、また新たな1日をスマイルではじめよう。

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コロナ禍でも、元気にマルシェ。

子どもの頃、実家の近くに毎月〇日曜日に開催される「市」があり、そこに連れて行ってもらうのが楽しかった。
ある敷地に、普段は何もないところに、その日限定の市が立つ。
いろんなお店が軒を連ね、ちょっとした祭りのようであった。
そのハレの日感がたまらない感じ。

今も、世界各地にこの市は健在だ。
個人的には、フランスやドイツ、NYの公園などで開かれているマーケットは
本当に好きで、またぜひ出かけたいと思っている。
生産者が自らつくった製品を、会場にそのまま持ち込み、直接販売するのだ。
世界どこでも、このマーケットは、店の原点、売り場の基本。
マーケティングはここからはじまる。まさに売買が成立する、コミュニケーションが生まれる。自らの想いも伝え、顧客の声も聴け、新たな関係づくりができる場所。しかも常設でないところも、また魅力である。売り手にとっては高額な家賃の負担がない。買い手にとってはわくわく感。
もちろん常設店での安定感はないが。

さて、ちょっとした調べもののため、京都の手作り市を覗いてみる。もう30年以上毎月15日に開催されているイベントで、地元だけでなく近隣から女性客がやってくる。出展者も来店者も女性が多いのが特徴。
雑貨、小物から焼き菓子、パン、香辛料・・・・。
まさに手作りの品々が数多く、会場となっているお寺の構内に立ち並ぶ。
コロナの影響でこういった市も減っているため、出展者にとっては、出展する機会も減り、機会があってもお客も減って・・・なかなか厳しい状況のようであるが、それでも暑いなか、皆さん元気に積極的に接客されている。

そんななか、活気ある売り場をみつけた。さまざまな柑橘類のジャムを販売している。四国の出身で田舎から素材を送ってもらい、京都でジャムづくりをしている。町なかの売り場で見かけない、すべて手作り感満載のジャムたち。
その生産者と仲間が熱心に、通行客を呼び込み、試食をすすめ、そして販売。
見事な品ぞろえと接客だ。
「他のイベントにも出展していますか?」と聞いてみると
「いや、ここだけです。1か月に一度、この市に出てくるだけ。後の日は
 ジャムをせっせと作っています」
「他には出ないんですんか」
「出ないです。うちは、ずっとこの手作り市に30年近く出ていて、それ以外に
 出る意味はないと思っています。予約も入ってくるしね。ここでお客さんと会えるしね」
一か月に一度売る。そのために、他の日は製造に時間を費やす。
そういった商売もあるのだ。

大きな店を構えるのも、夢ある商いであるが、移動式、または限定の販売。
こういった売り方も大いにありだ。
もちろん多大な利益をもたらすとはいえないが、お客さんとの対話を楽しむ、
あるいは、まさにマーケティングリサーチとして、出てみる・・。
いろんな利用法がある。

コロナの影響で、イベントがまだまだ少ないなか、
青空の下の開催でもあるため、なんとか開催維持しているようだ。
今回、いろんな女性が自ら商品をつくり、お客さんとコミュニケーションを
している様を見て、時短や自粛を求められ続けているデパートなど大型、装置型の店舗との差を感じた。なんだか楽しそうだ。わくわく感が違う。

マーケット、マルシェ、そして市。
これは、これからも残る業態だと思う。
もちろん時代の変化とともにスタイルを変え・・・。

そういえば、今回のこの会場は、私が学生時代によく通った古本市でも
有名なお寺だ。
やっぱり、京都は市の町でもある。

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楽しく限界を超えて・・。

しばらく、睡眠時間を入れると1日24時間で収まらない日が続いている。
結局は睡眠時間で調整している。

人間はやはり平等だと思う。
誰しもが1日24時間、そして1年365日。いつゴールかわからない旅を続けていく。このことは、皆同じ。だからこそ、この大切な1日とどう向かうか、で
それぞれの人生に違い、差が出てくるのだと思う。

限られた1日。何を優先するかは人それぞれであるが、まずは目の前の課題に向かう。そんな生活が30年以上も続いてきている。
年を重ねるほどに、その傾向が強くなっているかもしれない。
気が付けば、三度の食事、睡眠・・を優先しての生活にはなってきていない。
それ以外のことが先だ。健康を気遣う人から見れば、大丈夫?と言われるかもしれないが、まさに「今でしょ!」今やらなきゃ、今会わなきゃ。の方が優先だ。
いいか悪いかは別であるが、やることが多いという日々が、現在の自分のモチベーションを維持している。

今日も限界まで働いた、よくがんばった。という思いで1日を終える日は気持ちいい。毎日、生まれて、そして終わる。1日が一生だ。
そんな毎日を過ごすことで、自分の限界枠が、少しづつ鍛えられた大きくなっていくような気がしている。

今日、ここまでできたなら、明日はもっと・・・。
今、アメリカで大活躍している大谷選手のように、努力すれば、無限の可能性が広がるのでは・・と年甲斐もなく思ったり・・。
限界を毎日超えていく。そんな気概で、目の前のことに、元気よく向かっていきたい。もしかしたら、自分という器は使えば使うほど、大きく、強くなるのかも。
そう、自分の器を最初から決めない、最後まであきらめず・・・が一生成長につながる。と信じ、新たな今日を楽しみたい。

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新曲はショパンとのコラボ

久しぶりに、新曲が湧いた。
母のことを思って・・の1曲。
ではあるが、
レクイエムのような曲は、悲しみを増幅させるだけなので、
そうではなく、大切な人のことを、こんな風に想い続けたい。
という願いを込め、あれこれと模索。
そんななか、
つい最近、20世紀を代表するアメリカ映画のひとつともいえる、
「愛情物語」に出会った。その作品中に、何度も何度も、
あのショパンのノクターン(夜想曲)2番が流れて、心に沁みた。
今の自分の心情にとてもフィットする。静かで優しく、そして
はかなさと何とも言えない余韻と・・・・。ああ、人生とは・・を
ふりかえるにいい曲だと改めて感動。
映画を観たあとも、ずっとそのメロディが頭を離れず、久しぶりに
ピアノで辿ってみた。
そうだ、これを歌えるようにしてみたら?
そう思い立ち、このノクターンに歌詞を付け、アレンジしたのが、
「夜想曲2021」。
歩きながら、歌いながら、実家に向かいながら、お墓の道中に、
歌詞を紡いだ。

クラシックに始まり、ジャズワルツっぽくなり、最後また
クラシックでゆったり終わる・・・。
こんな夜想曲があってもいいのでは。
ショパン様の名曲に、勝手に日本語の歌詞をつけさせてもらったが、
きっとピアノの詩人もゆるしてくれるだろう。

この曲を奏でることで、想う人が夢に出てくるか? は?
今のところ、出番はない。
まずは、このたびのライブで初演奏。新しいスタイルの曲を楽しんでいただけたらうれしい。
大切な人へ、こんな想い方もある・・・と学ばせてもらう一曲となった。
歌詞を以下に。
大切な人の安らかな眠り、そして生き続ける人の健康な眠りも。
いずれをも、願って・・・。大切な人へ捧げる。

 
  


 
  

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美しい花、あたたかい拍手で、スーパー ポジティブに!

おかげさまで、半年ぶりのコンサートを無事終了することができた。
岐阜新聞でのコンサートはもう4年になるが、毎回30分という短い時間とはいえ、凝縮したプログラムでランチを召し上がっていただくかのごとく、
私なりには、心地よい満腹感を目指し、いつも臨んでいる。

今回は、コロナの影響もあり、1月の開始以来、中止が続き、その間、母のこともあり、いろんな意味で、心揺れる半年。
そのさまざまな感情や出来事を乗り越えての演奏会。これまでとちょっと違う
気持で本番に向かった。

会場には、私の好きな紫ベースのアレンジメントが届いて、早速のサプライズ。
テンションも上がる。ああ、うれしい!入場制限がある会場も華やかになる。
会場はコロナ対策のため、会場の仕切りや、ソーシャルディスタンスでの入場制限などで、コロナ前とは違うが、それでも聴きたい!と言う方においでいただき、早々に定員を超えた予約。

母がいない、初めてのコンサート。
内心、途中で涙が出たりしたら・・と思ってもいたが、プロは泣かない。
と美空ひばりのことを思い出して、涙が出てもそのまま歌う、弾き続ける。
とにかく、明るく、ポジティブにいこう!と心に決め、
プログラムも考え、演奏もトークも普段通りに行うようつとめた。

不思議なものだ。
ステージに立つと、普段の自分になっている。
あ、いける。大丈夫だ。このままいこう!

そんな演奏をしていると、もう席にいないはずの母が座っているような
いつもと同じ感覚が蘇ってきた。

あ、これからもできそうだ!大丈夫だ!
コンサートが終わったあと、皆さん、いい笑顔で帰られ、戻ってからも
しみじみする言葉を多くいただいた。
そして、このお花は、父の施設に移動して、皆さんに楽しんでもらう
ことに・・・。

やっぱり表現する活動、仕事は止めてはいけない。
自分の創造力の、発信力の醸成のためにも、そして何よりも
喜んでいただける方のために・・・。

母はいない。のではない。
ずっと一緒にいるのだ。
演奏をすることで、よりその一体感が強まるのだと、今回実感できた。

哀しみや寂しさを乗り越えて、スーパー・ポジティブでいこう!
応援いただいた皆様、本当にありがとうございました!!!
また引き続き、継続して創作・演奏活動も行ってまいります!!!





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喜ばれることを続ける。

生きていくということは、誰かが喜んだり、幸せに思ってくれることと同義だと思う。そうありたいと思う。
相手が喜んでくれたり、幸せと感じてくれると、こちらまで同じ気持ちになれる。
自分だけが嬉しい、自分だけが喜ぶということでは、本当の意味で生きている
ということにならない・・・と思える。

だから、生きるということは誰かとともにある、生きるということだ。
人間、もともとは孤独な存在であるが、
その孤独な存在が、生き方や生き様で、いかようにも変化、成長できるのだと思う。

ということで、母が一番楽しみにしていた、私のふるさとでの演奏活動。
母がいなければ、できない。
母がいないから、終わり。
では意味がない。
母が喜ぶことを続けることが、私のこれからの人生には大変重要だ。
そして、何よりも「楽しみにしています!」と待ってくださっている方に
喜んでいただくことが、私にとって大切だ。

今日は岐阜新聞でのコンサート。
母が丸まった背中で、杖をつきながら、お友達とやってきて、見学した1月から半年。母がいないこの会場での演奏は、ほとんど記憶がない。
もう5年になろうか、この活動をとにかく続けてきた。
「これは続けてな。ずっと続けてな。」
と母が願っていると思い、いつもどおりにやる。

お客様が喜んでくだされば、母も喜ぶ。すると私もうれしい。
喜びの連鎖をつくること。
まさに、これも観覧車のように。

おいでいただけるお客様に喜んでもらう。
間の前にいるお客様に喜んでもらう。

どんな仕事をするときも、どんな活動をするときも。
毎日同じ意識、姿勢で。
それが、私の「今日も生きる。」ということ。

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