最後のギフトを噛み締めて。

賞味期限が切れそうな、おせんべいが箱に入って、ずっと見える場所に
おいてあった。

新潟の手作り、こだわりのもののようだ。
これまで見たことも買ったこともない会社のもの。
実は、4月の初めに送っていただいたもので、
きちんと包装されており、開けるのももったいない高級なお菓子。
その送り主が、その月の後半に、亡くなられた。
コロナの影響で、その報せも後で知ることとなった。

私には、その方が今年書いてくださった年賀状、
闘病中に何年間も続いたメールの履歴と、そのお菓子が遺された。
形見のようなお菓子になってしまった。
いつも美味しいものを送っていただき、その方がお好みのカステラをこちらから
送って喜んでいただいた。
そのせんべい。賞味期限が迫り、そして過ぎた・・・・。
これを食べてしまうと、その人が消えてしまいそうで
ギリギリまで、持っていようと思っていたが、さすがにもういただかないと
・・・。
心を鬼にして、
「みちこさん!いただきます」
そう言って、そのおせんべいを開封する。
あ、まだ大丈夫だった。あ、おいしい。めっちゃおいしい。歯ごたえも醤油のシミ方も、さすが米どころの地元の会社の御煎餅だ。

心のなかで、「みちこさん、おいしいです」と合掌。
彼女が最後に送ってくれたこのお菓子。なぜ、これを選んでくれたのかな?
「おいしいですよ、これ!いいでしょ?小千谷のですから」
と声が聞こえてきそうだ。

最後の贈りもの。
涙が出そうなおせんべい。
この味を一生忘れない。そして、このおせんべいを、今後自分が買えば
あの方にまた会える、そんな気がする。

そのおせんべい。まだある。大切にちょっとづついただいて、みちこさんとの
語らいの時間を思い出そう。

これから人に何か差し上げるとき、それが最後になってもいいように、
心して品を選ぶとしよう。

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ソーシャルとパーソナルの間

非接触コミュニケーションが求められる今日、欧米流挨拶は自粛が求められる。なぜ、欧州で感染症が拡大したかについては、ハグやキスといった肌の直接のふれあい習慣が関係あるとも言われ、最近ではその習慣をなくすように、意識されてきている。直接触れ合わない、ふれあい。
直接接触しない、日本のおじぎ文化は、今回の事態で世界でも評価されることになった。

その日本で、多くの場合は、おじぎの挨拶、手を振る別れ・・・それで良いが、
どうしても、のときもある。
もちろんハグはしない。が、親しい人、大切な人、もう会えないかもしれない人、と特別なときには・・・ということもある。

先日ある親しい方との別れ際、これまでどおり 
「じゃ!」と手を差し伸べられ、こちらも自然に手が出る。
「ま、いいか」
と、短い握手。やっぱりそれがいい。そう、そういう関係。
でも、そのあと、手を洗う、消毒するのがエチケット。
というのもなんだかではあるが、仕方ない。

親しい人とのコミュニケーションこそ、難しい。

ソーシャルディスタンス・・一律に2メートルとはいかないこともある。
ソーシャルとパーソナル。境界線は難しい。
ではあるが、とにかく、今はソーシャル優先で。パーソナルももちろん大切に。

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コロナで、目力アップ。アイ愛コミュニケーションの夏へ。

マスクをしていると、とくに遠くから見ていると、人の識別、判別がしづらいことも多い。口元が塞がれているということは、こんなにも不便とは・・・。
話しづらい、聴きづらいだけでなく、見分けづらいのだ。
しかし、マスク着用は今しばらく、やむを得ない。

そんな状況にいると、どうしても隠されていない目をよく見るようになる。
メガネも今となっては、以前以上に注目される、その人の個性をキャッチする
大切なコミュニケーションツールになる。アイメイクも同様だろう。
そして、
真剣に人の目を見ると、その人のことが見えてくるような気がする。
まさに、目が口ほどに、口以上にモノを語っていることに気づく。

目力が強い人。時々お見受けする。
世のなかをじっと見ている、見ようとしている。そんな意志の表れか、
目力は、その人の精神性を語っているようにも見える。
自分はここにいる。と、自分の自立性を物語る、目の力。

おそらく、マスクを着用しなければならなくなり、多くの人が以前より目力アップしていることと思う。

睨んでいるのではなく、真剣にみつめている。
そう思って、その心をしっかり受け止め、友好な交流につとめたい。
本当に自然に着用できる超薄型透明のマスクがあればいいけれど、
一長一短。

まさに、アイ愛コミュニケーションでいい関係育みたい。


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最後の株主総会に。

ある経営者。このたびの株主総会で、長らく担ってこられた代表取締役という役割から卒業された。
その前夜に
「これまで、本当にお疲れ様でした。」
と感謝のメッセージを送る。
すると、すぐに以下の返事がきた。きっと翌日のことを考えておられたのだろう。

「明日は本当に最後の株主総会となります。人生も仕事も常に決めて生きて来ました。人生の最後は『まぁ〜良かったかな?』と思れば良いと思っています。」

とのメッセージ。
そう、自分からやめる。と決められたのだ。

この経営者と出会って20年近くになる。
この方のおかげで、私自身、自分の価値を高めようと努力できるきっかけを
いただいたと思う。
またこの企業のすばらしさを、その人を通じて心から実感することができ、
理念に共感し、長きにわたり、応援、伴走することに喜びを感じることができた。

企業は永遠に存在しなければならない。だから人の交代はあり。
この世代交代を心から祝福し、感謝し、そしてこれからも自分ができることをしていこうと思う。

この経営者との関係は変わらない。
肩書きは、人を変えることはない。
素晴らしい人であれば、人はついていく。人が集まる。

長年大変お疲れ様でした。
総会での退任のあいさつを聞いたとき、
会場で鼻をすする音があちこちで聞こえた。
私もその一人であった・・・。





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プロの仕事。

仕事。どうせならば、プロと思っていただける仕事をしたい。

そのためには、その分野での能力があり、経験があり、
それが与えられた機会に発揮できなければならない。

プロとして仕事を請け負うには、さまざまな条件が伴うが、
その中で、どんな結果を出すことができるか。

お客様のご要望に沿えることが、まず大切だ。
できたら、期待以上を目指したい。
手を抜くのはプロとはいえない。
どうしたら満足していただけるかと誠心誠意考えて
工夫し続けるのも大切なこと。
プロでも人間だ。間違えたりすることもある。
そんなときには、責任を果たすよう努力する。
お客様に寄り添い、とことん対応する。
これもプロの仕事だ。

「やっぱり、プロですね」
「プロは違うわ」

お客様から笑顔で、この言葉をいただけるかどうか。

最近、まったくの異業種のプロたちと接する機会も多く、
時において、感動・感激・感謝がうまれることがある。

この人に頼んでよかった、この会社を選んでよかった。

自分が素直にそう思えるかどうか。

プロに出会い、その仕事ぶりに接しながら、自分の仕事はどうだろうか?と
見つめ直すいい機会をいただく。

改めて、プロフェッショナルの仕事をしよう。
ぶれずに、自分が決めた道で。

プロは、自分の仕事が好き。
実はここが一番重要かも。



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時間と費用と結果。

外注するとお金がかかる。
そういって、いわゆる素人がいろいろやってみる。
企業でもそうだ。
デザインでも、印刷でも少しでも安くあげようと努力する。
一見見た目の経費はその方が安い。
最近はネットの普及で、素人でもそれなりに、少し努力をすれば
一応のものはできるようになっている。
器用な人はその方法をとる。

素人とプロ。
最近は、写真でも情報発信でも、誰もが発信者になることができるため、
一見、区別がつきづらい。
でも、実際は全く違う。
趣味は自分のため、プロはお客様のための仕事をする。
お客様が喜ぶために、仕事をし、対価を得る。それがプロ。

節約という点では、努力すれば素人でも対応はできるか時間がかかったり
ミスも多く、また結果的にいい仕事になるかどうかは別。
お客様は実はそこを見ている。

今回、実家の片付けについて、プロに依頼した。
素人では無理な仕事量であり、あまり得意ではないし、そこに貴重な労力を
費やす余裕もない。

そしてプロの仕事を見たいとも思った。
幸いにして今回お願いした人は、その仕事が好き!というオーラが見えていた。
だから、安心してお願いすることにした。そしてその仕事ぶりに感動した。
自分が不得手なことは、お願いする。
餅は餅屋だ。

もどきの仕事はやめた方がいい。
できる風、趣味の延長が仕事になるかどうか。
時間と結果を考えて、必要な時は費用をかける。これはとても大切な選択だと思う。

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長より質。

量より質。これはもう多くの人が感じていることだろう。
食事にしても、着るものにしても、友人も・・・量よりも質。
いいものと暮らしたい。いい人とつきあいたい。
と、大変贅沢なことであるが、そっちの方が、心が豊かで幸せであると
年を重ねるごとに思うようになってきた。
何でも数字を追い求める時代は終わった。
高度成長とか未だにいっているが、数字の伸びばかり気にしていると
全体を見失い、バランスが崩れる。
数字よりも、むしろ中身。

そんな面から、長寿社会についても考えてみる。
最近、とても気になっている人生の価値。

テレビなどでは、お年寄りを見れば
「長生きしてくださいね~」
とかよく言う人が多いけれど、
本当かな。と日々思えてならない。

長いだけの人生は無駄。長いだけの人生は周囲に迷惑。
なこともある。
一概にそうとはいえないが、そういうこともある。あり得るということだ。

人は長生きしたいという欲求をもっている。不老長寿は永遠の願い。

でも、それは短命であった時代の憧れではないだろうか。

今は医療の進化により、人間は社会のシステムのなかで、長生きさせられるようにできてしまっている。長寿が可能になってしまう。
果たして、これは本当にいいことだろうか。

長生きよりも、長さよりも、今が充実していることがより幸せだと思う。

長生きしても、謙虚さや感謝もなく、いつまでも自分は自分は・・・と
生きる人生・・になってしまっては、孤独な終末を迎えることになる。

頑張ってきた人がゆっくり余生を暮らす。これが老後の時間。
自らの老後を覚悟して、長生きすることも想定して、出来る限り人に迷惑をかけない生き方をする。準備をする。これも含めて、人生なのだ。

長より質。最近、つくづく思う。
何を思い、何を行い、何を遺すのか。
今からなら、まだ間に合うか。
生きるとは、最後が大切。
いかに収束、終息させるのか・・・。

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必要とされる仕事。

実家で山のようになっているモノたち。それらを全て思い出として大切にしてきた昔の人。捨てられないのは、モノへの執着ではなく、物を通じて人生を振り返りたい、忘れたくない、あると安心という思いなのかもしれない。

一方、歳を重ねていくと、日々の暮らしに必要なものや付き合いたい人は、どんどん限られていくことに気付く。特にモノは自分から片付けないと整理できない。
そんなこんなで、両親がしばし不在となった実家の片付けをスタートすることに。さて、どうするか?到底自分たちだけではできない。そこで、その道のプロにお願いしようと調べはじめる。人生初の試みだ。

探せば、片付け、清掃の世界も広い。いろんな企業があることを初めて知る。
必要となってから探す。これまで知らなかった世界を知り、これも勉強だと実感。
さて、どこに依頼するか?やっぱりホームページでしっかり書いている会社は信頼できる。広告を多く出しているだけの企業ではなく、メディアでの露出、経験、女性スタッフ、作業手順、見積もり、ビフォアアフターなど、全て明瞭であることが選定のポイントとなる。

おかげでいい企業と出会うことができた。
世の中には、本当に困ったときに助けてくれる、自分が必要に思ったときに出会えるその道のプロがいる。
必要とされる仕事。目立たなくても世の中にはいっぱいそんな仕事を担う方たちがおられる。
必要とされる仕事。必要とする人がいて、助けていただいて、お互いハッピー。
自分にできないこと、やれないことがいかに多いか。そして必要なときに真剣に動き始めるといい人、企業に出会えるということも今回痛感している。

必要とされる仕事。どうせするなら、そんな仕事をしなければ!

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意外といける、オンライン相談会

オンラインという選択が広がり、移動することなく、仕事ができる。
もともと会社勤めをしているわけではないので、このコロナで
さほどテレワークの実感はなかったが、出張に行かずに会議や打ち合わせが
できることはとてもありがたく、その流れで、相談会もオンラインで!
ということになる。

講座、セミナーなど一方的に話すことが多い場面はオンラインでも
問題ないことは想像していたが、相談会は初めて会う相手と瞬時に溶け込み、キャッチボールをしながら、相談について解決策を出さねばならないので、
オンラインでうまくいくのかな?と少し心配。
一番気になったのは、ネットが途中でつながらなくなったらどうしようという
根本的な問題。
出張であれば、新幹線が止まって動けないという事態に匹敵する。
ずっとそのことだけが気になりながら、なんとか4組 4時間のプログラムを
終える。
少しだけ声の途切れや、音声のタイムラグが若干あったが、ほとんど普段どおり会話ができ、相談対応もでき、次回はお会いしましょうと笑顔であいさつ、企業さんもニコニコオンライン会議室を退出された。
慣れてしまえば、何ら問題がない。

マスクをしないで話せることが、ありがたかった。

お客様(企業さん)からも、「次回もオンラインでもいいですよ。その方が助かりますわ」との声も出た。


確かに1回やってみれば、これはこれで、あり。知らなかった、きっかけがなかったから、これからそうしなかっただけ。

次回、リアル相談会を行うが、さて、やっぱり生が良いということになるか?

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やっとのコンサート再開。

ウィーンフィルの話を書いたことが、まじないのように効き目があったのか、やっと岐阜新聞よりロビーコンサート再開の連絡が入った。
3月、5月の2回が持ち越しされてしまったため、4か月ぶりの再会だ。

テレビで、とあるオルガン奏者が、フェイスシールドを付けて演奏している姿を見て、これだけは避けたいと思っていた。しかも歌を歌うので、それがあっては演奏にならない。
では、どうやって感染予防をするのか?

どうやら、観客数を絞るようだ。20名限定。確かに、これだと密にならない。

20名となると、かなり制限される。しかも事前申し込み制。

新たな緊張も走る。でも、やっと元に戻れる感じもする。

久しぶりの演奏会。おいでいただける方たちと、心を密に交流したい。

音楽は生が一番。それを改めて実感、共有したい。

来たる7月13日。再開決定。
お客様とともに、生のふれあいを喜びあえるひとときにしたい。

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