脇を引き締め、いい関係づくり。

昨今、メディアのトップニュースを賑わせている話題に、
オトコとオンナの問題案件がある。
地位ある、社会的責任ある男性の恥ずべき謝罪や言い訳の
写真も文字も、その地位を目指してひたすら努力してきた
男性の話題であるから余計に悲惨で、情けない。

思えば、援助交際もハラスメントも、ひと昔前までは
こんな言葉もなかった。

世の中が変わった。
女性がモノ言える時代になった。
コミュニケーション環境の変化もあるだろう。

おかしいな、いやだな。と思っても言葉にすることが
行動することができなかった。
またカンタンに口に出す手段もなかった。

ふと四半世紀前の、自分の周囲のことを思い出してみる。
ハラスメントは、嫌がらせであり、自己中心な言葉の暴力。
そんなことは、あったぞ。確かにあった。
一方、ときの上司たちが、勘違いな発言をしてきても
笑って交わす・・・それは大人のコミュニケーションだと
思っていた。
おそらく、それは上司との人間関係ができていたからだろう。

今は人間関係を構築する前に、問題が先に起こってしまう。

コミュニケーションがちゃんとできていれば、
また自分がどう見られているか、相手がどう見ているかを
きちんと見る目があれば、
大問題にならずに済むこともあるだろう。

どうも、世のエリートといわれている人たちは、
基本的なコミュニケーション能力が足りないのかもしれない。
もしくは、自分が上り詰めることで必死に生きてきたため
相手のことを考えたり、みつめたりする余裕がないまま、
そんなことを学ぶ機会を得ないまま、生きてきてしまったのかも
しれない。
若いときに、男女の関わり含め経験豊かで、苦労もしていれば
人生のピークに失敗することもないかもしれないのに・・。

世間が見えないまま来た人の人生は哀れである。

若いときに大いに遊び?小さな失敗をたくさんした方がいい。

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「子どもなるもの」を持ち続ける生き方。

大人と子供は対峙するものではなく、
大人の中にも、「子どもなるもの」は内在すると思っている。

が、社会的な立場が、それを封印することが多い。
だから、笑いたいときに笑えなかったり、
好きなようにふるまえなかったり・・・する。
そう、人は大人になるにつれて、不自由になる。
大人とは我慢すること、大人とは周囲のことを慮ることができること。
それが当たり前だと教えられて育ってきたように思う。

もちろん、一人前の人間として、
常識を持って行動することは当たり前であり、大人気ない行動、
稚拙なる行動は大人である以上
慎むのは世間の常識である。

先日、渋谷の美術館で、チェコのチャベック兄弟の作品展を行っており、
予備知識なく鑑賞した。兄は画家、弟は執筆家。子どもを独自の目線で
観察・表現し、人間の自由について考えさせてくれるアーチストたち。
上の写真は、この兄弟の写真。こんな二人だったからこそ、他にない世界を
表現できたのだろう。「ロボット」という概念を考えたのも弟カレル
だったそうでそれをテーマにした演劇は日本でも「人造人間」として、
上演された。
二人は第二次世界大戦前に活躍し、
そしてナチスにより、活動だけでなく、生涯を閉じることに。

子どもの目線で描かれる、数々の作品には考えさせられることが多く・・。
単に子供を描くのではなく、そこから見えてくる子供なるもの・・・。
これらの探求は、実は哲学的で、深い。
人間の本来の生き方とはの探求につながってくるように感じる。

ふと、自分の中の「子どもなるもの」について考えてみた。
私(たち)の中にはそれがまだそのまま存在しているように思う。
時々、妄想をし、冒険がしたくなり、自由にふるまいたいと
思う。
そして、そのことをこれからも大切にしていこうと思う。
それがあらゆる創作、創造の源泉になると信じるから。

ある時は、
大人になりきれなくてもいい。そんなことを改めて思う
貴重な作品展であった。
チャベック兄弟のこと。もっと調べてみよう。

(写真は松涛美術館での展示室 撮影可能なブースより)

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「その人」を見る力。

初めて人に出会うとき、肩書きや学歴で判断されることもある。
しかし、立派な肩書や学歴を有していても、人として尊敬できない
例は無数にあるし、逆に
いい学校を出ていなくても、地道に働き、真面目に生き、子供を育てあげている人や
地域に役立つ活動をしている人も多くおられる。
こういう人に出会うことの方が、断然嬉しい。
出会えてよかったと思う。

どこを出た、どこに入った。
もう何十年も生きてきたら、これらは、あまり意味がない。
それが生かされているならば、別だけれど。
学歴も社歴も
これは人生のある瞬間の通った道であるということだけで、
その道をどのように、どちらに向かって歩いてきたのかの方が
意味がある。

そして、もっと大切なのは、
それらの経験を活かして、

どこへ向かおうと、しているかである。

人を見るときに 余計なメガネをかけ、事前情報に縛られると、
その人自身が良く見えなくなる。

もう50年も生きてきたのだから、
裸眼で、しっかり相手をみつめようと思う。

そして、自分がその人にとって、その人が自分にとってどうなのか?を良く考えたい。
自分がその人のお役に立てるなら、心をわってお付き合いすればよい。
自分にとって、共感・応援・尊敬できる人ならば、お付き合いすればよい。

裸眼で人を見る。見られる。
この力を身に付けるのは難しくもあるが、
情報に惑わされず、自分にとって真なるものをみつけようとすることが
裸眼力である。

見る目を養うには、とにかく、いろんな人に会うこと。

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カッコいい人の条件

最近、目立つ人たちの「かっこ悪さ」が気になる。
言い換えれば、「みっともない」ということでもある。

とくに政治の世界に棲む人たちが目に付く。
あまりに現実離れしすぎて、その感覚、言動は理解不能に
なりつつあるが、とにかく、権力にしがみついている。
言い訳をしまくっている。
目立つ人ほど、恰好悪いのだ。

一方、瞬間にして、自らの道を誤り、せっかく得た職を
失った人。
こちらもかっこ悪い。みっともない。恥さらしと言われているかも
しれない・・。
頭脳が良くても、バランスが?人として未成熟?
とある意味、同情するが、やっぱりそれこそ、アウト。
そんな例がスキャンダルまみれの日本自体が、かっこ悪い。
世界は日本をあざ笑っているのではないかとも推察する。

最近,かっこよさについて考える。

言葉少なくても、実行力がある人。
下世話な情報に流されず、むしろそれらと距離を置いている人。
静かな人。
人を大切にできる人。
目立たなくても、地道に世の中の役に立っている人。
大人な行動がとれる人。
正しい判断ができる人。
言動ともに軽くない人。

こんな人が増えてほしい。

もちろん 自分もカッコいい人を目指したい。
まだまだ磨きが足りないけれど・・。
いろんなお手本を見ながら、
かっこ悪い人にならないように律していかねば。

人の話は、すべて自分の教材である。
さあ、今日も背筋を伸ばしていこう。

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「ふるさと」は永遠なり。


ふるさとを離れて住む、ふるさとに住む親がなくなる・・・
ともすると、ふるさとで住まない人にとって、ふるさとのことは、
懐かしくもあるが、だんだん足が遠のいて、記憶の中で生きるのみの
存在になる。
それは、あまりにも寂しい。
だから、用事を作ってでも、年に一度は足を運ぶようにしたい。

この写真は、千葉県鴨川にある、棚田の風景だ。
いつしか、この風景を季節の移ろいとともに見るのが
恒例行事になっている。
とはいえ、四季ごとに毎回訪れることは叶わないが、
あるときは晩秋に、あるときは真冬に、そして今回は新緑の前。
カエルの合唱をききながら、これから行われる田植を待ちながら・・。

実は、ここは私のふるさとではなく、相方のふるさと。
だからこそ、大切にしたい。
両親も他界され、訪ねるたびに町がすたれていくのを見るのは
しのびないが、自然の姿は変わらず、ふるさとを巣立った人間を
あたたかく迎え入れる。

そんなこんなで、ふるさととの繋がりは、どんな関係でも良いから
消えないように、切れないように。
ひとつの風景が、結ぶ役割を果たしてくれることもある。

ここに来れば、彼のルーツがある。
ルーツはかけがえのない、この上なきありがたい存在。

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マイペースで「素〇」な人生を。

いわゆる現役のビジネスマンをリタイアされ、
約1年程経つ方と久しぶりに会う。
その方とはもう15年ほどのおつきあいになるかもしれない。
お会いしたときから現役時代は、上場企業の取締役をつとめておられた。
真面目で努力家。そして特に印象が強かったのは
人の名前を覚えるのが早いということ。

いろんな場面でお会いし、公私ともにおつきあいいただき、
定年になる前から、
「これからもずっとよろしくね」
と言ってくださった。

さて、久しぶりの再会。
いつもお会いする場所として選びのは池袋のデパ地下ではなく、
デパ上。13階のレストラン街にある、点心で有名なお店だ。
遅い会食は避け、17時に待ち合わせ。
さて、1年ぶりに目の前に現れたその紳士。

なんと、お鬚をはやされ、大変カジュアルないでたち。
一見、別人にも見える、変身ぶり。
「あらま~、ひげ、びっくりしました。でも、似合ってますね」
会った瞬間、ちょっとだけ恥ずかしそうであったが、すぐに普段通りの笑顔。
「そう~~。まあまあ、こんな感じですわ。」

スーツを脱ぎ、ネクタイを外し、重い肩書きの名刺を持たず、
まさに「素」の人生を歩き始めたその方は、本来の、ご自身が求める道を
歩き始めたようだった。

美味しい小籠包をつつき、締めにはサンラータン。
前にもご一緒した食事であるが、今回は、より、その方がリラックスして
おられる様子が伝わり、いい時間が流れた。

「いやー、実はある資格をとろうかと、勉強しはじめているんだ」
へえ?まったく違う道。
これは、ずっと何もしない1年を過ごし、何かせねばと思い始めたことと
これならこれからの自分に役立ちそうだという点からの選択だそうだ。
頭を使う時間が必要というのも、わかる気がする。

ほどよい刺激を交換したあと、硬く握手し、再会を誓い、別れる。
あとで届いたメール。
「昨日は楽しい、濃い時間をありがとう。私もマイペースで
がんばります。」

マイペースか。
組織の中に、組織の上にいると、そんなことは言ってられなかったのだろう。

そんな素顔の、素手の紳士に出会うことが多くなってきたが、
人の魅力は、気づきにより、その人次第で、どんどん磨かれていくのだろう。
と思う。

ずっとマイペースの私ではあるが、「素」を大切にしながら、
まさに「素敵な人生」に向かって生きていきたいと改めて思った次第。

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愛を分ける、注ぐ。

ある青年とは、東日本大震災後のチャリティイベントがきっかけで
知り合いになった。福島出身のアーチストのマネージャーをして
いた。
しかし、その彼は、その仕事はほとんどボランティアであり
東北を応援するつもりで取り組んでいた。

本業は別にある。その仕事にも意欲的で、会うたびに
進化している様がよくわかる。
ビジネスマンとしての才能が豊かで、ネット社会で不可欠な
マーケティングスキルも、クリエイティブな感性も持ち合わせ、
さらには音楽プロデュースやアーチストのマネージングなども
して、多方面で活躍。
本人は、器用貧乏というが、決してそうではない。相手に寄り添える
ので、お役に立ち、声がかかる。お客様が増えていくのだ。

さて、その彼はビジネス以外に、そのほかの社会活動にも取り組んでいる。
10年以上前から、捨て犬・猫を救済する活動も手掛けている。
人間の都合で殺処分される動物を増やしてはいけないと、
その声を行動に移してきた。企業やいろんな団体の支援を集めながら
捨て犬や猫たちを守ってきた。

さらに、驚いたのは、今は親に捨てられた「人の子」を
救う活動もしているとのこと。
「ぼく、今、人を育てているんですよ」
と彼はさりげなく話してくれる。
あるきっかけで出会った、不幸な若者に手をさしのべ、
生活ができるように支援し、教育しているとのこと。
あしながおじさんのような存在でもあり、実際、父親のようでもある。

捨て犬たちを見てきたから、人間も同じなのだという。
愛に飢えた人を、動物を救いたい。愛を与えたい・・・。
愛がないまま育ったらろくな人間にならない。
愛を注げば、ちゃんとした人間に育つことができる。
そう思って、たまたま出会った人に関わっているそうだ。

そんなことができる人、会ったことがない。
自分のことで精一杯の人が多すぎるこの世の中に・・。
なんと大物かと心から尊敬する。

見知らぬ人にも愛が注げるとは、すごいことだ。
まだまだ自分がいたらないと思えてくる。

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平和ぼけの日本の悲劇。

日報、公文書・・・。
毎日、どんどん「みつかった」という報道。
なんで、今さら?なんで、この時期?なんで続けて?
大疑問だけでなく、怒りと呆れ・・・が消えない。
「私の記憶の限りでは・・」のとぼけた発言。
記憶の限りでない、世界って何?

人を馬鹿にしているのか?
夢でも見てるのだろうか?
国民を何だと思っているのか?

そうこうしているうちに、今度は警官が上司を殺したりと、
あってはならない事件が次々と・・・。

おかしなことばかり起き続けていると、
人は世の中に無関心になってくる。
無関心ほど恐ろしいことはない。
もう勝手にしろ。と思えば、誰も何も言わなくなる。
自分の保身をいつまでも考えている者だけが
いつまでも、しがみつき、いつまでも、名前だけの
チカラを振りかざそうとする。

みっともない。
さっさと、
「お騒がせしました」
と退場すればいいのに。

とにかく、時間とお金の無駄がつづく。

どんな組織でも、誰がいなくなっても、まわっていく。
最高責任者はひとつの曇りがあった時点で
責任をとってやめる。
そういう姿を見せることが、勇気だろう。

こんなことばかりやっていると、
嘘をつく、人のせいにする、自分中心に生きる。
これが当たり前となってしまうのだ。
若者たちにすでに伝染している。

このままいくと、
人を国を信じず・・一体感のない社会に
なっていくのではと心から心配する。

満員電車の中で思う。
隣の人が混んでいて苦しそうであっても
それでも、スマホを握って自分の世界を
見ている人の塊。

この国に未来はあるか?
とても不安、とても心配。

そうこうしているうちに、世界では戦闘が・・。
世界情勢が目まぐるしく動いているなか、
日本はいったい、何をしているのだろう。

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サーバメンテナンスのお知らせ

いつも本ブログをお読みいただき、誠にありがとうございます。

4月15日から16日にかけ、サーバメンテナンスを行います。
本ブログも更新を続けますが、16日更新分の公開が遅れる可能性が
ありますので、予めお伝えさせていただきます。

引き続きご覧いただければ幸いです。

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こよなくマーケティングを愛する人たち

わがマーケティングの師は、水口健次さん。
会社員時代に上司たちにすすめられ、勉強会にもよく参加させていただき。
日本の素晴らしい企業のマーケッターと言われる人たちと多く交流させて
いただいた。
私のビジネスライフの基盤づくりは、ここからだった。

20代は大阪・京都を拠点に、そして30代から20年は、東京、台北へ・・。
マーケティングを求め、繋ぎ、結ぶ活動の場は広がった。
すべてこのマーケティングの勉強会「MCEI~Marketing 
Communication Exective 
Internationalの略」のおかげ。
世の中には、いろんな業界で、いろんなものを作り、伝え、、と
とにかく仕事をする人がいることも知り、グランルーの発想にも
影響を与えた。

水口先生は、関西人であった。
だから、先生が亡くなられて10年経つ今も、とくに関西の後輩、弟子たちは先生のことを
忘れず、先生の著作を勉強し直す会も続けている。

久しぶりにそのMCEI大阪での勉強会に顔を出す。
30年前に初めて受けた刺激、その感覚は今も変わらない。
実務家の勉強会であるから、説得力がある。
今回の講演は、北海道で展開するスーパーの社長さん。(北雄ラッキーの桐生社長)
経験にもとづくマーケティングの実例をご披露いただいた。素晴らしいプレゼンであった。
この会社にとっての、マーケティングとは「お客様に近づくこと」。
そうか。マーケティングとは、人により、解釈や表現は異なるが、確かにこれは正しいと
納得する。

30年経っても、マーケティングは古くなっていない。
そこに目指すお客さんがいる限り、その希求は終わらないのだ。

久しぶりにマーケティングを愛する人たちにお会いし、水口先生を思い出した。
モノを作る人も、売る人も、お客様に向かって行動をする。
人々に生活がある限り、なくなることはない。

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