いろんな人がメディアを賑わしている。
出たい人が出ている、出るように仕掛けている。
マスメディア、ソーシャルメディア含め、
そういった媒体がない時代、まさに人伝え、口伝え
だけで自らの使命を成し遂げた人たちは、本当に
凄い、その時代を生き、今日に名を遺す人たちこそ、
尊敬に値すると思う。
間違えてはいけないのは、現代社会において
有名だから偉いのではないということだ。
そんななか、
こんな人は現代社会で本当にえらいな!と思う。
たとえば、イチロー。
40歳を過ぎても、まだまだ現役だ。
あのブレナイ現役イズムは、多くの人々に勇気を
与えてくれる。
苦境に立っても、何があっても、
イチローはナニクソ精神で立っているのだ。
彼の背中を見ていると、涙が出そうになる。
イチローががんばっているのだから、自分も
がんばろう。
と、思えてくるのだ。
ということで、最近、メディアに出る男で
もっとも尊敬している男は、イチローだ。
メディアに出る男に学ぶ
ぐるぐる回り道して、わが道を創る
環境とは、自分が存在する前からあるものか、
もしくは、自分が環境をつくるのか。
この半年ほど、そのことをあれこれ、わが身で行動しながら
感じること、わかってきたことがある。
たとえば、自分は東京から名古屋へすまいを変えた。
当初、このこと自体の影響はあまり考えていなかった。
ネット社会でもあり、交通機関も昔と比べれば
格段と便利になって、どこにいこうか、どこに住もうが
関係ないと思っていた。
そして、今もそう思っている。
ただ、よく考えたら、私には名古屋での知り合いはいなかった。
ゼロ。それなのに、えいや!と即決したのだ。
実際、どこにいてもできる仕事であるという点がそうさせた
のだろうが、実際には、地元での活動をしようとすると
何もつながりがないところで生きるというのはなかなか
難しいものだ。
地元でも仕事がしたい、活動がしたい、できたら関西へも・・。
せっかくGO WESTしてきたのだから、新たな道を
創ろうとする。
いろいろもがいた。東京で暮らし続けていたら見ることが
なかった情報にも目を通した。
そして、これは違う、これも違うと、現実の環境と自分との
間のギャップを感じ、へこむこともあった。
一方、いろんな積み重ねで培ってきた人間関係から新たな
ご縁が生まれ、新たな取り組みがはじまった。
ひとつ動き出すと、他も動き出す。
そう、しばらく休んでいた観覧車が、新たな地で回り始めたような
感じだ。
余計なことをしたり、ぐるぐる歩いたり、紋々としたり・・
でも、これらの時間もすべて生かされ、動き出すときの
エネルギーになっている。
今、思うのは環境はあるものではなく、自分が飛び込んで、創って
いくもの。だから、環境というのは、実はそれぞれに違うはず。
私にとっての今の環境は、東京のそれとは違うのだから。
環境は与えられるだけでなく、自分でつくりだせるもの。
だから、まだまだいける。
無駄を惜しまず、へこみを恐れず、とにかく彷徨うことにしよう。
「人生は観覧車」を書く、一筆箋。
「人生は観覧車のように」をテーマにしたオリジナルの一筆箋を
つくった。グラン・ルー20周年の記念のしるしの品。
お世話になってきた方、お手紙書かれそうな、文具がお好きな
方などにお渡しし始めている。
長崎の知り合いの奥さまに、先日お渡しした。
旦那さんは、私が長崎好き人間になったきっかけのお一人でも
ある。
1週間ほどしてから、そこの旦那さんご本人から封書が届いた。
なんだか分厚い。何が入っているのか・・。
2か月ほど前に、喪中はがきが届いていた。お母様が亡くなったと
あり、気になっていたところでもあった。
ちょっとドキドキしながら封書を開けると、
先日プレゼントした観覧車柄の一筆箋に書いた手紙。
ほとんど1冊を使って書いていただいたようだ。
一筆箋とは、長くかかなくても、ちょっと書ける良さがあるが
ちょっとしか書けないので、その気になると、ついつい何枚も
書いてしまうのであろう。
それにしても、1冊書いてしまわれたのだ・・。
この思いがけぬ分厚い一筆箋のお手紙をページをめくりながら、
この送り主の今の状況がわかり、胸が熱くなった。
お母さまを昨年大晦日に失くされ、それまでの介護や
その後の対応などのお疲れや悲しみから、
ご自身の体調を崩され、辛い日々を送っておられたのだ。
手紙に記された、体のたまらない痛みとの戦い。
そしてお母さまとの別れと哀しみ。
元気なお母さんに会いたいと書いてあり・・・
手紙が泣いているように感じた。
でも、手紙の最後に、このたびお孫さんが生まれた、お母様の
生まれ変わりかも・・とあり、喜びが伝わって安堵した。
そして手紙の最後に
「人生はまさに観覧車ですね。私の場合は、母が軸となって
廻っているようです・・・。久しぶりに手紙のようなものを
書いてみました。」
と結んであり、思わずこの手紙をあつく握りしめた。
観覧車柄の一筆箋は、人生を観覧車のように思い出して
そのことを書き表して、人に伝えるためのツールかも
しれない。思いもしなかったが、そんな風に
使っていただいたようだ。
自分が贈った一筆箋に、人様がメッセージを入れて
私に戻してくださるとは・・。
この行動自体も、観覧車のようだ・・。
いろんな人生が私のなかを、周りをぐるぐる回っている。
この手紙の主人に、近々会いに行かねばと思っている。
そして、
元気なお母さまに会いたい・・・・と思っても会えない
この哀しみ、寂しさ・・。
いつか自分もそんな日が来る。覚悟をもち、後悔しないようにと
同時に思っている。
瞬間のうるおい、幸せを感じる。
引っ越して良かったと思うことはいろいろあるが
3つ挙げるとするならば・・・
その1 花を一輪買うのが楽しみになった。
できれば、あまり見たことのない種類、好きな系統の色の花を一輪。
写真の花はつい先日直場所でみつけた。名前は結局わからないまま。
その花の水を変えながら、日々の変化を楽しむ。
毎日花が開いていくのを見ながら、ドキドキする。
そんなに早く開かなくていい。ゆっくりゆっくりでいいと
話しかけるが、花は生きており、どんどん開く。
こんな花コミュニケーションは東京時代にはほとんど
なかったかもしれない。

その2 珈琲だけでなく、紅茶を楽しむようになった。
一杯のコーヒーは実に美味しく、朝に午後にとパソコンしている時間が
長いと必需品となるが、
最近は、紅茶にも楽しみをもつようになった。
味わいだけでなく、香りだ。
お湯を注ぐ前、茶葉の香りをいただき、リラックスする。
さらにお湯を注いで、湯気から立ち上る香りをほんのり楽しむ。
想像どおりの香りに出会うととてもうれしくなる。
もしかしたら、マッサージ以上の効用もあるかもしれない。
がぶがぶではなく、じっくりといただく。
まさにブレイクタイムを楽しむ。
これも引っ越したおかげで見えてきた時間かもしれない。
今、出会って嬉しいのは、アールグレイ インペリアル。
ネーミングも紅茶らしく高貴な感じがいい。
そう、名前ってとても大切だと紅茶からも学ぶ。
その3
雨音を楽しむ。
今の住まいは、ちょっと大きめの通りに面している。
平日の通行量は多い。
雨が降ると、下の方で車が濡れた道路を滑る音がする。
ああ、雨だ。
あ。小雨になった。
おや、大雨だ。
止んだかな。
雨の音を聴くと、ちょっとショパンにでも
なった気がする。
と、毎日小さなことを、日々の暮らしのなかで楽しむように
しようとしている。
どんなことがあっても、小さな楽しみがあれば、
やり抜ける気がする。
人間、健全で前向きな発想と行動には、
うるおいが大切なのだ。
そう、心が乾燥肌にならぬように・・・。
気を付けていきたいお年頃。
「デラシネ」という自覚をもって。
久しぶりに興味深く、五木寛之の作品を拝読する。
20代の頃から、時々ではあったが氏の小説に触れ、
その世界に入り込み、心の世界旅行を楽しんできた。
ここ10年ほどは、エッセイや生き方本を読むと
じんわり共感共鳴、大きく頷くことも多い。
この混迷の時代、一人一人が
どう生きるべきか・・・のヒントが多く、わかりやすく、
読む者に静かに力を与えてくれるような気がする。
そんななか、この連休は「デラシネの時代」と
「マサカの時代」を書店で見つけ、拝読した。
後者は想像しやすいが、前者の「デラシネ」・・という
言葉は耳新しい。これはフランス語で「根無し草」という
意味だそうで、五木氏は自ら異国で終戦、のち
半生を漂流者として生きてきた・・そんな生い立ちから
この言葉に自らの人生を重ねたそう。
85年生きてこられた人生を、世界をその視点で見て
こられたその集大成が本書なのだと理解する。
まさにこのタイミングなのだと、またまた首を縦に
大きく振る。
実は、50年程前には、この言葉がタイトルに
なった小説(「デラシネの旗」)も書かれているとのこと。
そして、今は今の時代を、この目線で描かれている。
難民が問題になっているこの世界で、皆多かれ少なかれ
難民のようなものだよ・・・と仰っている。
見え方は違っても、歴史の中で、個々人の事情のもと
漂流している人は多いのだ。
相変わらずの、五木さんの確かな目線、深い思想に
感銘をうける。
根無し草・・・。ふるさとを捨てた人、捨てざるを得なかった人、
漂流者、難民・・・。
理由はどうであれ、定住しない生を受けた人は
みな、デラシネだ。
とすれば、私自身も実はそうだ。
実は、どこにいても、いつも漂流しているような感じがしている。
人生はレンタルである・・と思っているところも、そういうことだ。
以前、ある人から、「風の人」と言われたことがあるが、
自覚もしている。
私は一つの場所にじっとしていられない、ふるさとにいられなかった、
動くことが人生であると、ジプシーのような生き方がいいと
その方がよく物事が見えると思ってきた。
今の時代、これしかない・・はない。
安定した地、安住の地もない。
侵入されない場所もない。
とすれば、常に、自分が向かうべきと思うところへ動く方が
幸せな人生を生きられるのかもしれない。
農耕民族としての日本人にはこの感覚は薄いかもしれないが、
変化する世界の中で生きていくには、この発想は
大切だ。
五木さんは、ご自身がデラシネとしての人生を生きて
こられたからこそ、今、作家として発信すべき
メッセージを多くお持ちなのだと納得する。
そうせざるを得なかった辛さが、生きる力となる。
さて、私自身は??
小さなデラシネとして、何ができるのか・・。
心の漂流者としての自覚をもち、自分ができること
似合うことをもっと突き詰めよう。
いい学びをまた、五木さんからいただいた。
いろんな人の朝を思う朝。
ブログを書き始めてからわが生活は朝型にシフトしたような気がするが
とくにこの1年は超朝型である。
早い日は2時台起き、3時台起き、4時起きは早くも何ともない感じ。
人というのは、いろいろ慣れることができる動物だ。
もちろん意識や小さな努力も必要であるが、これぐらいのことは
大したことはない。と、健康体であるからの日々に感謝だ。
あまりに朝早く、少しだけ時間に余裕があるときは、野菜を切ったり
果物をジャムにしながら、いろんな人のことを思い出し、その人の
朝を勝手に想像してみる。
これまで会ってきた人、最近お会いした人のこと、言葉足りずで
中途半端になってきている人のこと、入院している人のこと、
親のこと・・・。そして、もう会えない人たちのことも思い出す。
それぞれの朝を勝手に想像してみる。
「あの人はどんな朝だろうか・・。」
「あの人はどんな朝を迎えていただろうか・・。」
また、今日も目覚めてしまった、目覚めることができたことに
ついて何かをしながら、想いを巡らす。
そして、
「手紙書かなくちゃ」「やっぱ、会いに行かなくちゃ」
と思い立つ。
朝に、少しのゆとりの時間。1日の始まりに効く。
世界遺産になっても、静かに見守る


長崎の潜伏キリシタンに関する教会や集落がどうやら、念願の世界遺産に登録されるようだ。
2年前に教会群で登録する予定で長崎では関連市町村を挙げて、準備をしていたが、
イコモスの調査が入り、潜伏キリシタンに絞った再申請を求められ、
出直しとなった日が、今も記憶に新しい。
私にとっても、この長崎の世界遺産登録は、他人事ではなかった。
平戸でのザビエルコンサートは、この世界遺産登録の機運のなか、
まさに隠れキリシタン集落地区で実現可能となった。
また、旧上海銀行長崎支店でのコンサートも、大浦天主堂の坂の下にある建物で、
私にとってはあの場所、位置は
遠藤周作の著作から知った長崎の悲しい歴史の拠点であり、心に刻み続けたい場所のひとつ。
さらに、昨年コンサートを行った外海地区も、潜伏キリシタンの里だ。
五島の教会探訪もとても懐かしく、江戸時代にキリシタンのみなさん
外海から海を越えて、そんなところまで行きなさったと思い胸がいっぱいになる。
などなど・・・今から思えば、自分がこの数年で重ねてきた長崎の出会い、
経験は隠れキリシタンに関わる場所ばかりで、その偶然性に改めて驚く。
このたび、これらの場所が世界遺産に認定される。
観光地として多くの人々が訪れることになるのかと思うと、正直、内心複雑であるが、
日本人の鎖国的メンタリティを世界に示し、宗教と政治を考える良い教材であるという点では、
保存していくことは大変意味がある。
世界遺産の本来の意味をきちんと理解しつつ、この苦労と苦悩の歴史が忘れられないよう、
愛すべき長崎が変わらないよう、静かな祈りの場所をじっと見守りたい。
一過性の観光ブームで終わらず、人々が日本と世界の信仰の歴史に向き合い、今後に
生かす機会となるように、心から願っている。
「わしが送らなあかん。」
母とはふた回り違うので、もう78歳。9月になれば、70代最後の誕生日を迎えるだろう。
父との関係とは、微妙な感じだ。
夫婦とは長年連れ添うとこうなるのか?は、夫婦ごとに違うため、比較できないが
日々の口喧嘩は健康のためのレクリエーションだと思うようにしたいほどに、日々
言い合って、お互い疲れ合っている。
ま、時々は仲良く過ごしているようでもあるので、犬も食わぬ老人の痴話げんかとして
放置している。
そんな母は、最近、毎朝のメールや私といるときに
「まだ死ねへん。わしが送らな、みんなに迷惑かかる。」
と何度か言うようになった。
父親をあの世に送りだすまでは、しっかりしていないといけない。
という意味だ。
そして、言葉だけではなく、心底そう思って、気丈に生きているような気がする。
そう思うと、この夫婦は本当に一対なのかもしれないと思えてくる。
「あんたたちに、迷惑がかかる」
と、母が自分がいなくなったら・・・を想像していることも切ない。
「そうね、何でもいいから、元気で長生きしてね」
送らなあかんのは、私の仕事。そんな話をしたことがなかった子供時代が
ちょっとだけ懐かしくなる。
もうすぐ母の日。あと何回?まだまだ
自立して、自由に生き、創る・・・。
彼のことは、昨年晩秋、愛知県にある大きな直売所のイベントスペースで
知った。
寒さがじわりしみいる屋外で、パグパイプを演奏していた。直売所への来店客もまばらで
そんななか、アーチストがひとりがんばっていた。
その楽器の珍しさと、野菜の直売所にこんな変わったイベント?の珍しさと
惹き付けられる何かがあって、演奏終了後、撤収作業をしている彼に声をかけた。
「おつかれさまです。はじめまして」
と言うと笑顔で返してくれた。とても気さくで、やさしい感じのアーチスト。
「私も一応、演奏とかやるんですけど、変わっていますね。パグパイプって・・・」
名刺交換をしながら、しばし立ち話。彼も東京から愛知に移ってきたばかりだといい
そこでも縁を感じる。
また会いましょう。とその後、メールを少しやり取りし、半年以上経過したが
最近、突然再会することになった。
上野界隈で生まれ育った彼は、写真家の息子さんだそうで、子供心から何かを
創るとか自由に創造するという世界に慣れ親しんでいたようだ。
十代はドラマーであったが、あるきっかけで、パグパイプの魅力に取りつかれ、しかも
一般的にはバグパイクといえば、スコットランドやアイルランドと印象が
強いが、彼が挑戦したのは、スペインのバグパイプ。
どうせやるなら新しい挑戦ということで、現地に赴き、本場で学ぶ。
今、偶然か、私の周りでにわか注目度が高まる、スペイン巡礼地の最終目的地
サンティアゴ・デ・コンポステーラがその楽器の聖地でもあると知り、
改めての縁を感じる。
もちろん彼自身、その聖地をもとめて巡礼の道を歩いたことがあるとのこと。
さて、その彼は、東京時代も、今名古屋ででも、ポップアップアーチストとして活躍し
ながら、各地への巡業にも意欲的だ。
どこに住んでいても、仕事はどこででもできる。この感覚も同感で、いろんな
ことから話が弾む。
大変器用なアーチスト。パグパイクだけでなく、手回しオルガンや、それ以外にも
クラウドファンディングを活用し、フランスの珍しい楽器を今オーダーしている
とのこと。
世界の素敵な音を、いろんな楽器を伝えたい。
純粋な夢にこちらもつい、引き込まれていく。
少し違う道ではあるけれど、目指す先の世界が共通しているように感じた。
「ぜひ、何か一緒にやりましょう。」
握手をして、別れた。
気が付けば、2時間半も話していた。
握手した手は、とても柔らかく、いつもコラボ演奏につきあってもらっている
尺八の彼の手にも似ている。
フリーで生きる。フリーで挑戦する。
どこまでも自由に。
自立しながら自由な世界を描き続ける生き方、やっぱり、いい。
さあ。今後の展開が楽しみだ。
彼の名前はKOJIKOJIMOHEJI。名前もユニークでユーモアに
溢れる。
同じ東京で活動していたのに、
東京で出会わなかったが、今、この真ん中の町で出会えたことを大切にしたい。
「どの宗教でも同じ。『祈る』ということが大切」との言葉。
以前、この先生の名前は耳にしたことがあった。
秋月伸一郎先生。長崎出身の医学者で、自らも原爆の被爆者でありながら、医者として
地元の病院で多くの患者を救い、支え、そして、原爆の生き証人として様々な
メッセージを遺された先生である。
7年前の福島での原発事件後、体にいい食品を調べていた時、長崎の麦みその事を知り、
この秋月先生が、そのことを著作に書いておられることを知り・・・それぐらいの知識
しかなかったのが数年前。
このたび、久しぶりに先生のことをあるインタビューの再放送で見て、感銘を受ける。
秋月先生は、同じく長崎の医者で自ら被ばくされ、奥様を失くしたその悲しみの中でも
多くの人を救った、あの名曲「長崎の鐘」のモデルとなった永井隆博士のお弟子でもおられた
とのこと。
永井博士は敬虔なクリスチャンであった。
秋月先生は、若き日は恩師の影響を受け、浄土真宗であったが、被爆後、そして永井博士や
周囲の熱心なクリスチャンに囲まれて生きるうちに、改宗されたとのこと。
秋月先生からみると、マリアさんは観音さんであり、キリスト教と浄土真宗は自分にとって
まったく違うものというわけでもなく、置き換えることができたという。
結局は、どの宗教でもいいが、祈って赦す・・という行為が大切なのだという結論に
行きつき、長崎の地で生きるには・・・ということでクリスチャンになられたそうだ。
なんと正直な方だろうか。と静かに感動を覚えた。
そして、先生が言われた言葉で強く心に残ったのは、
「私は見た」
ということ。原爆の惨さを、その被害の悲惨さを、苦しみ死にゆく人を・・。
医者だから、いやおうなく見なければなかったという側面も大きいだろう。
とにかく、先生は、自分が見たということが何よりのメッセージ。
だから、自分は生きている限り、伝え続ける・・・。
ともおっしゃっていた。
私も大好きな長崎の町。
これは戦後の長崎だ。被爆後、復興された長崎だ。
その街を、先生は、
よその誰かが来て、作り変えてしまったような感じだ。
とおっしゃっていたのも印象的。
すでにお亡くなりになってしまった秋月先生のこと。
改めて、今からでもしっかり勉強し、
人として生きることについて、考えなおしたいと思った。
何の宗教も同じ。人間は祈るという存在である。